第10話 そして、君が消えた日Ⅰ
§ 1 §
その日、アースガルドの天気は大荒れとなっていた。朝から景色も霞むほどの土砂降りで、こんな空模様では、常に活気のあるイザヴェルの街中も、今日ばかりは閑散としていることだろう。
どんよりとした空を見つめて、ロキは1人、物思いに耽っていた。その苦悶の表情が、雨粒の絶えず流れる窓ガラスに、ぼんやりと浮かび上がっていた。自分のこと表情を見るのは一体何十年ぶりだろう。きっとそれは父の―――。
「あなた。どうかなさいましたか?」
ロキの映る窓ガラスに、もう1人女性の姿が映り込み、しっとりとした穏やかな声で彼の名前を呼んだ。
その声に振り返れば、そこには亜麻色の髪をした美しい彼の妻“グルト”が立っていた。いついかなる時もロキを支えてくれる、優しくしっかりした彼女は、苦しみに歪むロキの頬を包み込み、指先で薄らとできた隈を優しく撫でた。
「随分と、無理をなさっておいでのようですね。御顔の色が優れませんわ」
「あぁ。あまり眠れなくてね。すまない、起こしてしまったか?」
「いいえ。わたしでしたら、大丈夫です」
柔らかく微笑み、グルトはロキの手をやんわりと引き、ソファーへと誘導すると、自身は左隅に座って膝を叩いて、ロキを手招いた。さぁ、と言うグルトに導かれるまま、ロキは彼女の膝に頭を乗せ、ソファーに身を沈ませた。
膝の上に広がるロキの金糸の髪を優しく右手で梳かし、空いた左手はロキの腹部の辺りで彼の右手をしっかりと指を絡ませて繋いでいる。ギュッと握るロキの右手は、微かに震えて酷く冷たくなっている。
ロキのこれほどまで弱った姿を見たのは、かなり久し振りのことであった。近頃は、オーディンの息子である、バルドルの屋敷をよく訪ね、自由な時間を過ごして穏やかな様子で帰ってくることが多く、グルトは夫の友人になってくれたバルドルに大いに感謝していた。
しかし、ついこの間の、オーディン夫妻の“結婚120周年目”の式典以降、こうして物思いに耽ることが多くなった。
きっと、何かあったに違いない、とグルトは直感していた。しかし、どう切り出して良いものか。
そうしている内に、先にロキから話を切り出してきた。
「グルト。一つ聞いてもいいか?」
「えぇ。どうぞ」
ロキは首だけ動かし、グルトを下から見上げた。
「もし、俺が友人を救うために、お前たち家族を捨てたら、そんな俺をお前は恨むか?」
これはたとえ話ではない。それは、ロキの
「そのご友人は、あなたでなければ救えないのですね?」
「あぁ、恐らく」
「ならば、そうなさってください。わたしも、娘達も、決してあなたを責めたりは致しません」
想像していなかった彼女の言葉に、ロキの目が見開かれ、信じられないといった表情をした。
大人であるグルトはともかく、ロキとの間に生まれた双子の娘達はまだ幼い。父親が自分達を捨てたと知れば、きっと心の底から恨むのは目に見えている。
しかし、グルトはロキの背中を強く押す言葉を紡ぐ。
「もし、あなたがそのご友人を見捨ててわたしたちを選べば、娘達は、特に“エインミュリア”はとても怒るでしょう」
2人の双子の娘達の姉の“エインミュリア”の、その気の強い姿をロキは思い浮かべる。自分の血を分けた娘ながら、気が強く正義感の強い、自慢の娘。
「“為しうる者が為すべきことを為す” それが、あの
娘達の想いに自らの意思も乗せ、ロキを説得しながら、グルトはロキの右手をより強く握り返した。そこから、自分の気持ちを流し込むように、指に力を入れる。
「どうか、あなたの“為すべきこと”をしてください。大丈夫、わたし達は家族です。どんなに離れていても、いつでも心の中で繋がっています」
「グルト…。 すまない」
ロキは、自分の背中を押してくれたグルトの泣き出しそうな顔を引き寄せ、別れを惜しむように、そっと唇を重ねた。
§ 2 §
一つの冬を越え、また次の年の冬のはじめ。アースガルドは1年で一番の賑わいを見せる。盛りの過ぎた木々の枯れ葉がハラハラ、と舞い散り、時折肌を撫でる冷たい風に、冬の訪れを告げられる中、アースガルドの首都イザヴェルは、“祭り”の準備に日中追われることになる。
毎年訪れる初冬のこの時期には、宗主オーディンとフレア夫妻の結婚記念日の祝いが行われる。今回で120周年目を迎え、人々は更なる
そして、主役であるオーディンとフレアは、記念日当日にアースガルドのパーティー会場の為に使われる館“ギムレー”で開かれる
この
普段、この手のパーティーに出席することのない“バルドル”も、珍しく顔を見せているため、人々は彼の顔に物珍しそうに注目していた。そんな大勢の視線を煩わしく思い、なるべく目立たないよう隅で“壁の華”に徹し、やり過ごしていた。
実は、先程までは友人であるロキが傍で話し相手をしていてくれたが、やがて父オーディンが彼を呼びつけ、周りの貴族たちに紹介するためにオーディンのもとに留められてしまった。
そういう
「どうしてこんなところにいるの? バルドル」
「別に。ここでただ、皆さんのことを眺めていただけですよ。楽しそうな人々の顔を見ているだけで、私も楽しいから」
本当はそんなこと微塵も思っていないが、バルドルはフレアの望んでいる“慈愛に満ちた言葉”を告げてみせる。しかし、受け取ったグラスは、ゆらゆらと中身を揺らめかせながら見つめるばかりで、一切口にはしない。
偽りの言葉を吐き、まったく楽しそうではないバルドルの表情に、フレアは眉を顰める。そして、バルドルがグラスに口を付けないことに、思惑が外れて内心焦っていた。
フレアは、そのグラスの中身にある細工をしていた。オーディンに指定された期限は間近である。もしバルドルに、“世界を愛する意思”がない場合、フレアは自らの決断でバルドルをこの世から葬らないといけない。自ら腹を痛めて産んだ息子を殺すことは、冷徹なフレアでも簡単にできることではない。
故に、フレアがグラスの中身に仕込んだのは、フレアが得意とする『
しかし、バルドルは瞬時にそれを見破り、決して口をつけなかった。
やがて、バルドルは持っていた手付かずのグラスをフレアに返し、困惑に揺れるフレアの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「母上。私は母上のただの人形になるつもりはありません」
「――っ!?」
「私には、“私の選択”をさせていただきます。母上も、私の“母”ならば、我が子を信じてください。たとえそれが、どんな結末だったとしても」
自身の胸の内の決意を伝え、一礼したバルドルはフレアのもとから去った。
バルドルの背中を黙って見送り、フレアは2人分のグラスを持って広間から退出すると、誰一人としていない無人の小部屋に入り込んだ。扉をきっちりと閉め、背中を預けると、持っていたバルドルの突き返したグラスを睨みつけ、力の限り床に叩きつけた。高級な絨毯に広がる液体から、黒い煙が噴き出して立ち上ると、空中に散った。
片方の手に残ったグラスも、力を失った指先から滑り落ちる。徐々に脱力する身体は、まず最初に崩れた膝が床に屈した。床との距離が縮まり、丁寧に梳かれた金髪が足元に無造作に広がる。肩が情けなく震え、髪の隙間から光る涙が零れ落ちるのを、今のフレアには止めることができなかった。
そして、嗚咽して震える声で、姿なき息子に懺悔する。
「…ごめんなさい。ごめんね、バルドル。
120年目の記念日のその夜。フレアは自らの下した“決断”に、咽び泣いた。
§ 3 §
「ロキ、命令だ。バルドルを殺せ」
ギムレーでの
その言葉に、ロキは自身の耳を疑った。
「は…?」
「お前も知っていると思うが、バルドルは存在自体が、ユグドラシルの仕組んだ“世界終末の因子”だ。アレの選択一つで、世界の命運が決まる。しかし、恐らくバルドルは世界の破滅を望むだろう」
「そ、そんなことは…!」
「“ない” とは言えない」
必死に弁明しようとするロキだが、オーディンの放つ理性的な正論に、言葉が詰まる。しかし、ロキの中に浮かんだバルドルの顔は決して、世界を滅ぼそうとしているものではなかった。だが、これがただの私情的で感情的な直感であり、それを材料にオーディンを説得するのは難しい。
それでも、友人として、ロキはバルドルに対して、絶対的信頼があった。
「…しかし、バルドルから直接、選ばない、という選択を聞きました。彼が何もしなければ、世界の平穏は保たれる。なにも、殺す必要は…」
ロキはどうにかして、目の前のオーディンを説得しようと試みるが、オーディンの意思は固く、ロキの言葉に眉一つ動かさなかった。
次に説得材料として、ロキはこの場にいないフレアの存在を挙げた。
「それに、御母上のフレア様がお許しになりますでしょうか?」
自分の息子を見殺しにはしないだろうと予想し、オーディンの意見を唯一曲げることのできるフレアの名前を挙げるが、オーディンは逆に余裕の笑みを浮かべた。
「それについては問題ない。この件に関して、フレアも了承済みだ」
ロキは理解した。
オーディンは、いやバルドルの“両親”は、本気で我が子を殺そうとしている。完全に理解してしまった。
彼らは天秤にかけたのだ。“1人の子の命” と “世界の命” を。そして、選んだ。1人を犠牲に、世界を守ることを。
しかし、ロキの中でその犠牲にされる“1人”も、等しくこの世界の一部であることを忘れてはいない。彼の存在は今や、“ロキの世界”の一部であり、それを損なうことは、彼にとって決して容認できることではない。
だが、オーディンにはロキに命令を遂行させることのできる、“切り札”を持っていた。
「ロキ。君の立場は、私の“義弟”だが、同時に“人質”であることを忘れてないか?」
「それは…っ」
ロキは、アースガルド唯一の脅威である“巨神族”の抑止力であり、彼らの安全を保障するための“人質”である。この身柄がオーディンの手のひらの中にある限り、ロキに自由はない。行動の自由だけでなく、意思の自由すらも。
「よく考えることだ。君の行動1つで、故郷が更地になるかもしないということだ」
今まで耐えてきたことを、ここで途絶えさせる勇気が、今のロキにはなかった。
オーディンはロキにこれ以上有無を言わせることを許さなかった。
「いいか。頼んだぞ」
その一言に、ロキは返事することはなかった。それを無言の了解と受け取ったオーディンは、ロキを下がらせた。部屋を出ていくロキの瞳は、最後に冷たくオーディンを睨みつけた。
彼がいなくなった部屋で、オーディンは深い溜め息をついた。ロキがこの決断に納得していないことは、勿論感じていた。
故に、オーディンは窓際のカーテンの陰に隠れて、一部始終を盗み聞きしていた人物に合図を送る。
「…もし、ロキが約束を違えることがあれば、お前が手を下せ。わかったな、“ホヅル”」
カーテンの陰から現れたのは、この世で最もバルドルを殺すことを躊躇しない男であった。男――ホヅルは従順にオーディンの命令を受け取った。
「はい、父上。お任せを」
バルドルの運命の歯車が軋み出し、“その時”は確かに2人の背後に迫っていた。
しかし、この事を、ロキは知らなかった。
§ 4 §
“その日”の前日、ロキは愛する妻と幼い双子の娘達と、別れの挨拶を交わしてきた。姉の方は今にも泣き出しそうな顔で、いってらっしゃいませ、と送り出してくれて、妹の方は生まれつき見ることのできない瞳が溶け出してしまいそうなほど、泣きじゃくっていた。
その姿が、今も瞼の奥に焼き付いているが、その後悔を振り払うように頭を振り、目の前の友人の姿を見つめた。
「…さっきから1人で百面相して、どうかしたのか?」
目の前の友、バルドルはいつもの定位置である窓辺に腰かけ、読書に集中していると思っていたが、どうやら横目でロキのことを観察していたらしい。
一旦本を閉じ、怪訝そうな顔でこちらの様子を伺う。ロキは、バルドルが賢く察しが良いことをよく知っている。故に、下手な誤魔化しが通用しないことをロキはわかっていたため、覚悟を決めて単刀直入に聞いた。
「なぁ、バルドル。もし今、どこか遠くに行けるとしたら、どこへ行きたい?」
「行きたいところ?」
ロキの質問に、突然だなぁ、と笑いながらもバルドルは真剣に考え始めた。
やがて数分後、バルドルは窓の外の雪が降り出しそうな曇り空を見つめながら、ようやく答えを導き出した。
「海。海が見たいな」
見たことがあるか? というバルドルの質問に、ロキはない、と答えた。
するとバルドルは、足元の床に乱雑に積み上げられた本の中から一冊抜き取り、既に憶えている内容の中から、海について書かれたページを開いた。
「私も文字でしか知らない。きっと本物はとても美しいのだろう。本当の海を、私は見たい」
ページの文字をなぞり、窓の外を眺めていたバルドルがそう言って振り返ると、目の前にロキが立っていた。本を持つバルドルの右手を掴み、自分の方に引いた。そんなロキの行動に、バルドルは眉を顰めた。
「…ロキ?」
「行こう、バルドル。誰も君のことを知らない遠くへ。海の見える場所へ」
そして、バルドルはロキに手を引かれるがまま、鳥かごのような屋敷を飛び出した。
それを見ていた弓兵が1人いた。
バルドルは、最初からわかっていた。
やって来た時のロキの表情から、大体の事情は把握できた。
思うに、等々父上が決断したのだろう。そして、その処理を今の私に一番近しい者に命じた。それが、ロキだった。
きっと、父上の考えの方が正しいのだろう。“私”という不安分子を世界から排除すれば、きっと皆が幸せになれるとは思う。しかし、ロキは世界よりも、“友”を選んだ、選んでくれた。彼は、私を海へと連れて行ってくれると言った。
だがきっと、それは叶わない。
だから私は、屋敷に
もう私の帰ってくることのない屋敷に、置いていくのは忍びないが、たとえ誰にも使われず、いずれ寿命を迎えて動かなくなったとしても、私は
私がいなくなった、後の世界でも…。
バルドルは、この時計を棚の引き出しの奥に隠して、ロキと共に屋敷を出た。
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