第8話 あの日生きていた君Ⅰ



 § 1 §



 あれから、どれだけの年月が経過したのだろうか。そして、“私”はあとどれほどの年月を、ここで過ごすのだろうか。

 考え始めれば、それらの思考をすべて掻き消すように、滴り落ちた“毒の雨”が私に降り注ぐ。もはや、その焼けるような痛みに藻掻き苦しむ声すら、枯れ果てている。左右に吊り上げられた両腕は、力なく垂れ下がり、“毒”によって蝕まれた身体は、肋骨が浮き出るほど瘦せ細っている。

 かつて、誰もが“私”の美貌を持て囃したが、今は見る影もない。


 だが、“私”が今思い出すのは、在りし日の栄光ではない。他人から見ればただの平凡な情景であり、なんの価値もないただの“ままごと”だろう。だが、それはかけがえのない、唯一の『宝物』。

 は、かつての“私”のすべてであり、今は欠片も残ってはいなもの。瞼の裏にしか、もう存在しないその情景の感触は、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。


 あの日の窓辺のぬくもりも。

 あの日のそよ風の心地よさも。

 あの日に指を滑らせた、小説の紙の感触も。

 あの日になぞった文字の羅列も。

 あの日、“私”の隣にあった、微笑みの暖かさも。


 すべてを、昨日の事のように憶えている。


 今の私の、“毒”と“復讐”に醜く歪んだ顔は、特注の銀の仮面の下に隠れ、仮面と共に、心の内を他人に晒すことはなくなった。


 仮面の下に、オーディンへの憎悪をひた隠し、かつての恋焦がれる日々を、瞼の裏で思い出していた…。



 § 2 §



「はじめまして、こんにちは、…だったかな? ごめんね。生憎、私は君のことを憶えていないんだ」


 言われるが儘、訪れた古びた屋敷で出会った美しい青年の、自分への第一声はあまりにも素っ気なく、申し訳ないという感情すら籠っていない、ひどく軽いものだった。

 想像以上の変わり者であったことに動揺し、俺は迂闊にもその場に立ち尽くして、二の句を告げるのを忘れてしまっていた。

 青年は、返事を返さなかった俺にあっさりと興味を失うと、手にしていた読みかけの本に視線を戻した。

 暫しの静寂ののち、俺はハッと意識を取り戻し、焦って自己紹介をした。


「突然訪ねてしまいすまない。お初にお目にかかる。オーディンの義弟おとうと“ロキ”と申します。義兄あにオーディンの頼みで、参りました」


 更に、捲し立てるように続ける。


「先程の問いに対しては、君の言った通りだ。俺と君は初対面で、こうして言葉を交わすのは、今日が初めてだ」


 俺が慌てて、彼の問いに対する全ての事に返答していると、目の前からクスクス、と小さな笑い声が聞こえてきて視線を辿れば、青年は本で顔を隠しながら、肩を小刻みに震わせて笑っていた。


「ふふっ。すまない。君があまりにも必死で。別に私への不敬で、父上に告げ口したりしないよ、安心して」


 図星だった。

 その言葉にあからさまな安堵の溜め息を漏らした俺に、青年はまた吹き出して笑い始めた。手にしていた本に栞を挟んで閉じると、正面を向いて座り直した。


「父上に無理矢理来させられたのだろう? すまないね。私はいいと言ったのだけど」


 心底、困った様子で青年は眉尻を下げる。


「別に話し相手が欲しいと頼んだわけではないんだ。だから、適当なところで帰ってもらって構わないよ」


 青年の言葉を要約すると、“用がないなら帰れ” ということだった。


 この青年の言う通り、俺は“父上”と呼ばれている、オーディンにお願いされて、ここにやって来た。



 あれは、前の日の夜のこと。


 オーディンの邸宅に呼ばれ、談話室で彼の用意した高級な酒を共に嗜んでいた。

 周りの者たちの噂話を小耳に挟んだ時には、オーディンの体調はあまり芳しくなく、自身の屋敷で養生していると聞いていたので、突然呼ばれた時には驚いたものだ。

 しかし、実際に会ってみたオーディンの様子は、健康そうで酒も自分より進んでいる。あの噂は、どうやらただの噂に過ぎなかったらしい。安堵と共に少しの落胆を酒と一緒に喉に流し込む。


「ロキ。アースガルドでの生活には、慣れたかい?」

「あ、はい。周りに身内がいないので、些か不安ではありますが、問題ないと思います」


 俺がでそう答えれば、オーディンは困ったように微笑む。


「いい加減、畏まった物言いは外せないのかい? 私とお前は、もう“義兄弟”なのだから」


 そう。彼の言う通り、俺とオーディンは、つい10年程前に“ある盟約”によって、義兄弟となった。


 俺の故郷は、アースガルドではない。本当の故郷は、アースガルドから遠く離れたミッドガルドの西方、“巨神族”と呼ばれる王族とはまた別の魔術を使う民族の住む土地の一番大きな王国『霜の王国ヨトゥンヘイム』である。

 その国の王家の分流に生まれたが、今やその家はなく、親兄弟は故郷にいない。単刀直入に言ってしまえば、殺されたのだ。この目の前の、オーディンのアースガルド軍の兵士たちに。


霜の王国ヨトゥンヘイムとの同盟の為の義兄弟だが、私はお前を本当の弟のように思っているよ、ロキ」


 目の前のオーディンに対して、憎悪がないわけではない。しかし、現在の自分の立場が、“霜の王国ヨトゥンヘイムの人質”である以上、ここで短慮を起こせば、確実に自分はおろか、故郷の人々まで皆殺しにされる。

 今はまだ、じっと息を潜めて両親と兄弟の復讐の機会を待っていた。


 しかし、10年間この男と接してみて思ったのは、周りが噂するほどの暴君ではないということ。どちらかといえば、慈悲深く穏やかな人柄であり、本当に彼の命令で家族は殺されたのか、と疑問に思うこともある。

 その時の俺は、彼をそう評価していた。


「…で、君に是非とも行ってもらいたいんだが、どうかな?」

「え?」

「だから、イザヴェルの外に住んでいる、息子のバルドルに会いに行ってほしいんだ」


 彼が自宅に誘った本当の理由は、これだったらしい。彼は常々イザヴェルの外で暮らす息子のことを心配しているようだが、残念ながら息子はそんなことお構いなしに両親の目の届かない場所で自由奔放に暮らしているという。そんな息子を想っての頼み事だった。そんなことを言われては断るわけにもいかず、ロキは渋々頷いた。

 こうして、オーディンの頼みで、イザヴェルの外である、シグトゥナの郊外のバルドルの屋敷にやって来たのだ。


 この出逢いによって、運命にただただ翻弄されるだけだった俺の人生が、大きく変わることを今はまだ、俺自身も知らなかった。



 § 3 §



 その男の第一印象は、若い青年。それだけだった。


 その日は、いつもと何ら変わらない朝を迎えた。自分以外誰も住んでいない、無駄に広い屋敷の管理、家事をするのは、自分を置いて他にいない。そう望んだのは自分なので、それを苦と思ったことはない。

 イザヴェルにも家族と暮らす屋敷があるが、使用人を含めて大勢に囲まれて暮らすのは、自分には息苦しかった。『オーディンの嫡男』という肩書きを生まれた時から背負い、幼い頃から周りの目を気にして生きてきた。


 “羨望” “嫉妬” “怨恨” “好奇” 


 あらゆる感情に色付けされた目は、思い出すだけで吐き気がする。

 政略結婚で妻となった“ナンナ”とも、心から愛し合うことはなく、この間めでたく生まれた『バルドルの嫡男』であるところの“フォルセティ”がいるため、夫婦の仲は冷めきっていた。


 両親も、妻子も、兄弟達も、私の生活の中には必要ない。ただ、独りでそっと暮らしたかった。大好きな本だけを読み、自分の分の洗濯をして、自分の分だけの食事を手ずから用意する。その生活が、不変に続くことを切に願っていた。


 しかし、そんな私を心配してか、それともか、父オーディンは、1人の青年を私のもとに寄越した。


「お初にお目にかかる。オーディンの義弟おとうと“ロキ”と申します」


 その名は、聞いたことがあった。

 つい数十年前に、我々『王族』と『巨神族』で同盟の話を進めていた際に、唯一同盟に反対し、オーディンへの暗殺疑惑で犯罪者として処刑された巨神族の一家がいたと。

 しかし、その一家で唯一オーディンに気に入られ、刑を免れた子がおり、その子は同盟の為という名目でアースガルドに移住し、のちにオーディンの義兄弟になった。その子こそが、目の前の青年であった。

 一見、礼儀正しくオーディンの命令に忠実に従っているように見えるが、その瞳の奥からは、復讐の炎がまだ消えていないことに、私はすぐ気づいた。

 この青年は面白い。だから、少しだけからかってやった。私は他人から見ると、かなり意地が悪いらしく、皮肉と嫌味を直に言って追い返せば、いくらオーディンの命令とはいえもうこの屋敷を訪れることはないだろう。


 そう。その時は思っていた。


 翌日の朝


「おはようございます、バルドル殿」


 日の出と共に鳴らされたチャイムに、予定より早く起こされ出てみれば、昨日追い返した青年——ロキがまたそこにいた。

 思わず面食らってしまい、今まで人にあまり晒したことのない間抜けな顔で、青年を見つめていると、彼は無邪気な笑顔を見せた。


「今日こそは、バルドル殿とお話したいので、こんな早朝から伺ってしまった。申し訳ない」

「はぁ。ま、いいけど。朝食はまだ? 適当なものしか作れないけど、一緒にどう?」


 そう告げれば、暫しの間があったため、失敗したかと思い「嫌ならいいけど」と付け加えようする前に、彼は食い気味に首を縦に振り、「是非!」と答えた。思いの外人懐っこい性格に、つい笑みがこぼれてしまう。

 しかし、距離感は守らなければ。自分は必要以上に干渉してはならない。全ては“大樹”の望むままに。


「バルドル殿は、給仕を雇わないのか? 1人で全部こなすのは大変だろう」


 食卓で目の前の席に座って、私の作ったオムレツを頬張るロキは、そう聞いてきた。黙々と食べていたが、気まぐれに答えてやる。


「別に。他人が四六時中家の中にいるより、1人で家の中を片付けているほうが、私は落ち着くんだよ」


 彼の素朴な疑問に私が素っ気なく答えれば、「ふーん。そういうものか」と、彼もこれ以上は深入りはしてこない。存外、空気も読めるらしい。


 それから、ロキはほぼ毎日のように屋敷を訪ねてきた。よくもまあ、飽きもせず毎日毎日。…暇なのだろうか?


 しかし、やって来た彼とは何をするでもなく、ただ2人静かに図書室で壁一面の膨大な書物を黙々と読み漁り、その後他愛のない話をしながら、同じテーブルにつき、日が落ちる頃に帰る。その繰り返しだった。

 他人がこんなに長く屋敷にいることが今まであまりなく、私自身もその状況を避けてきたが、長い時間が経つにつれ、次第に彼の存在に慣れてしまっている自分がいた。


 そんなある日、“彼女”が珍しく、私のもとを訪ねてきた。


「お久しぶりですね、

「…元気そうだね、“ナンナ”」


 青みがかった黒髪がフワフワとして、愛らしい唇が特徴の童顔の女性が、玄関先に立っている。相変わらず、一児の母には見えないほど、彼女は若々しかった。この女性が、私の書面上の妻、“ナンナ”である。

 そして、彼女はいつも通り、私と


「何か用でも?」

「別に。最近、アナタのもとに“ロキ”が入り浸ってると聞いたので、様子を見に」


 “ロキ” その名を口にした時のナンナの表情は、不愉快に歪み、口にして呼ぶことすら嫌っているようだった。

 近しい者をあからさまに嫌悪されるのは、私としても気分が悪い。だから、いつもと違って少しだけナンナの“弱点”を指摘して、意趣返ししてやることにする。


「そういえば、“フォルセティ”は元気?」

「え…」

「生まれてからあまり会っていないから、さぞ成長したのだろう。“”とは、仲良くやれているのか?」


 私はナンナに近付き耳元に唇を寄せ、彼女の耳元で“ホヅル”とその名前を囁いてやれば、彼女の藍色の瞳が見開かれ、私の身体を咄嗟に撥ね退ける。そして、距離をとったナンナの瞳は、怯えとも嫌悪ともとれる色をして私を睨みつけていた。

 そんな彼女の反応に満足したので、この話題はここで切り上げた。


「ま、別にどうでもいいよ。用はそれだけ? なら、もういいでしょ」

「っ…。 えぇ、さようなら」


 私が冷たく突き放せば、ナンナも身を翻してその場から立ち去った。結局、玄関から一歩も屋敷に入ることはなかった。

 不機嫌な態度を隠そうともせず、留めていた馬車に向かうナンナと入れ違いに、ロキが徒歩でやって来る。ナンナはすれ違い様にロキを睨みつけると、挨拶もせずに去って行った。

 玄関先でナンナを見送る私の表情もいつになく険しかったためか、ロキが心配そうに声をかけてきた。


「どうかしたのか?」

「…いや、なんでもない」


 私の歯切れの悪い言い方と態度に、いまいち納得のいかない顔をするロキだったが、屋敷に迎え入れられて素直に後ろをついて来る。

 そんなロキの姿に、先程までのどうしようもない苛立ちはどこかへ消え、どうでもいいこととして、すぐに消化することができた。


 そこで気づいた。

 ロキはもう既に、私にとって“どうでもいい他人”ではなくなっていたことに。ならば、この関係に名前を付けよう、と。


「ロキ。前から思っていたのだけど、私のことを“バルドル殿”なんて、他人行儀な呼び方をしないでくれ。気軽に、“バルドル”と呼んでくれてかまわない」

「え。しかし、」

「だって君は、私の“友人”だろ?」


 今まで誰に対しても口にしてこなかった、“友人”という単語を面と向かって彼に告げれば、ロキの顔がパッと明るい笑顔に変わった。


「あぁ! そうだな、バルドル」


 この日初めて、私に“友人”ができた。それは存外、悪いものではなかった、と今でも思う。





 いずれ、彼を

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