第7話 復讐者Ⅲ


 § 1 §



 どこからか、子供の笑い声が聞こえてきた。それは過去にどこかで聞いた子供の声にも聞こえてくる。もう会う事はないけれど、あの子は今も元気だろうか…?

 …いや、僕があの子のことを心配するのはか。



 その声に意識は現実に呼び戻され、少年の重い瞼が持ち上がる。目の前に広がるのは、木目の天井。見覚えのない天井だ。

 ここがどこかを知るために起き上がろうとするも、覚醒した意識は全身の傷の痛みを拾い上げ、身体が動くことを拒んだ。鉛のように重い身体は重力に従ってベッドに沈み込むと、それを覗き込む人影が現れる。


「お。ようやく目が覚めたようだね」


 天井から吊るされた豆電球ライトの逆光で顔は黒く塗り潰されているが、声は女性のものである。目は覚めているが、声を出そうとするとカラカラに喉が涸れていて、何も言えなかった。それにすぐさま気づき、女性は少年から離れると、キッチンから水の入ったコップを持ってくる。

 コップを持ったその女性は、頭に三角巾を巻いた主婦の装いで、顔の右半分には大きな火傷の跡があった。それに一瞬驚いたが、少年は女性に手伝ってもらってやっとのこと上半身だけ起き上がると、コップを受け取りひと口飲んだ。そのひと口だけでも、喉が少し潤いを取り戻したのを感じる。

 喉が回復し、少年はようやく言葉を発することができた。


「…あなたが、助けてくれたんですか?」

「手当して、ベッドを貸しただけよ。あなたを連れてきたのは、ニドよ」


 ニド。その名前は聞き覚えがある。ぼんやりと頭の中に浮かび上がった男の顔が、彼女の背後のドアの向こうから現れ、目が覚めた少年の姿に、驚きの表情を見せるといつもの軽口を披露する。


「よォ。ようやくお目覚めかよ、


 相変わらずの軽口に、微かに少年の表情が綻んだ。しかし、すぐにいつもの無表情に戻り、今の状況について質問する。


「ニド。ここはどこだ?」

「ここは、ユグドラシルの最深部。ミッドガルドのある地上の更に地下、ユグドラシルの太い根によって守られた、地下都市だ。要は、貧民街スラムだ」


 ユグドラシルの地下。少年は、ミッドガルドの更に下に土地があることは知っていた。しかし、それは根っこの密集した場所の外周にある。魔術を使って物を造る技術者の一族の住む『ニダヴェリール』と『スヴァルト・アールヴァヘイム』の2つの里が存在する。

 しかし、まさか深く入り乱れた根の中に街があるとは、恐らく“王族”ですら知らない。少年も初耳である。


「僕とお前は、あの崖を落ちたのか。ホヅルたちは?」

「さァ? なんせ、負傷したお前を連れて逃げるので、精一杯だったからなァ」


 まるで自分がお荷物だったような嫌味ったらしいニドの言い方に少し腹が立ったが、無視して話を続ける。


「さっきお前は、“ようやく起きた”と言っていたが、僕はどれくらい眠っていた?」


 少年のその質問には、隣に立っている先程の女性が答えた。


「ニドがあんたを担ぎ込んできてから、丸4日は眠っていたよ」

「あなたは…」

「アタシは、“シフカ”。この街に住んでいる者さ。ニドとは長い付き合いでね、ウチの一室を貸してやってるんだ。よろしくね、坊や」


 女性“シフカ”は、ニドの知り合いとはいえ、素性の知れない少年を快く受け入れ、丁重に看病してくれたようで、少年は今腕を動かせないため、「ありがとう」と感謝だけを伝えた。

 「別に大したことない」と笑うシフカに、ニドは軽く肩に手を置くと、席を外すように目で語り掛ける。


「…じゃ、何かあったら言ってね」

「あァ。悪ィな」


 シフカが家を出ていくのを窓から眺め、ニドはその窓のカーテンを閉めると、椅子を一つ、ベッドの傍らに置き、椅子の背に顎を乗せ、少年と目を合わせる。


「なァ、そろそろ教えてくれンだろ? お前のこと」


 ニドのその問いかけに、少年は弱った指先でシーツを握り込んだ。少年はニドを巻き込んだ。事故とはいえ、巻き込んだからには説明する義務がある。

 中々心が決まらない少年に、ニドは更に追い打ちをかけるように問い詰める。


「お前の傷とは見た。魔術で受けた傷が1でほぼ完治するのは、流石におかしい」


 しかし少年は黙ったまま。


「それに、お前のその身体。まるで、“人形マネキン”みてーじゃねェの」


 そう揶揄された少年の指先はシーツを離れ、包帯の巻かれた胸元に触れてつるりとした自身の身体を思い出す。

 誰しもが、この世に生まれ落ちてくる時に必ず与えられる“性”の証。それが、少年には何一つ備わっていなかった。故に、“少年”と呼ぶのも今では疑わしい。

 そこまで知られたのならば、もう口を閉ざしてはいられない。覚悟を決め、目の前の人物は口を開いた。


「“僕”は、オーディンによって生まれ、オーディンによってこの世から排された、“バルドル”の遺伝子を基に造られた。“バルドル”の複製体コピーの1体だ」


 想像もしていなかった言葉に、ニドは開いた口が塞がらなかった。

 少年は、それでも尚続ける。


「この世の終末を呼ぶ“無性の子”と予言されて生まれたバルドルは、世界を守るため、オーディンが永遠に君臨する世のために、30年前にホヅルの手によって殺された」

「じゃあ、あの式典でオーディンの隣にいたヤツは、誰なンだよ?」


 少年はオーディンの隣に堂々と立っていたバルドルに似た姿を思い出し、忌々しそうに顔を歪めた。


「あれも、複製体コピーだ。たった1体の代用品だけで、終末は回避できるとは思えないからな」


 そして、少年は痛む身体に鞭打って、起き上がるとベッドヘッドに背中を預けて座る。


「知りたいのだろ、真実を。なら語ってやろう。しかし、心して聞け。これから話す内容は、“王族”の中でもオーディンとそれに実際に関わった少数しか知らない、世界の闇だ。知れば、後戻りはできない。それでもいいか?」


 それは最後通告であり、正直今すぐ扉を開け放って飛び出して行きたい衝動を抑え込み、ニドはゴクリと唾を飲んでゆっくりと頷いた。

 ニドの決意を確認し、少年はそうか、と納得してその唇は語り始めた。


「ならば語ろう。30年前、バルドルに何が起こったのか。そして、バルドルが生涯唯一人、“親友”と呼んだ、“ロキ”のことを」



 § 2 §



 アースガルド イザヴェル領内

 オーディンの館『ヴァーラス・キャルヴ』


 イザヴェルの中心部に建てられた都の象徴的存在である、オーディンの住む館は広く、部屋数も両手の指でも足りないほど。正面の扉を開き、豪奢なシャンデリアの飾られた広間の階段を一段一段昇り、3階に上がる。右の廊下を進み、突き当たりを道なりに左へ曲がる。そこには、他の部屋とは明らかに離された部屋がある。

 その扉に近付き、1人のメイドがノックして扉を開けた。


「失礼いたします、ロキ様」


 メイドの入った部屋の灯りはすべて消え、ベッドの傍らにある小さなランプだけが、部屋を薄暗く照らしている。その明かりの中で、ぼんやりと人影が浮かび上がっていて、窓から差し込んだ月明かりが、その人物の顔を照らした。

 月光に照らされて黒々と輝く髪に、火傷のように爛れた顔の左半分から覗く、深く濃い緑色の瞳。すらり、としたシルエットで椅子に腰かけたその人物は、メイドの存在に気づき、テーブルの上に置いてある、銀で出来た半月型の仮面を顔の爛れた部分に装着し、用件を伺った。


「何の用だ、ヴォル」


 血色の悪いメイド――ヴォルは、用件を淡々と伝えた。


「式典時に乱入した“暴徒”2名は生死不明。この2名の捕縛に失敗した“ホヅル様”の容態ですが、エプレ細胞の専門医の“イズナ様”によると、身体の方には問題ないとのことですが…」

「…何だ?」

「戦闘時に相手の血を浴びた左目は、何らかの細胞のにより回復せず、盲目から治らないそうです」


 ヴォルの報告に、そんなことが、とロキは驚いた様子で目を見張る。

 本来、傷であれば、万能であるエプレ細胞に治せないものはない。しかし、今回のような原因不明のエラーを起こして、回復が機能しないことなど、前代未聞であった。


「ホヅル様は、イズナ様の研究所ラボで療養中です。オーディン様、並びにフレア様は共に体調を崩され、もう既にお休みになられております」

「そうか。明日、ホヅルには見舞いにでも行ってやるか。…いや、あやつは嫌がりそうだな」


 ロキはホヅルの嫌そうな顔を想像し、意地悪くほくそ笑んだ。

 「以上です」と淡々と業務を終えたヴォルが一礼すると、ロキは彼女を部屋から追い払った。


 1人になった部屋で窓の外を見つめながら、昼間の逃亡者の顔を思い出していた。

 バルドルに似たその顔。しかし、今のバルドルより幾分か幼く、ロキのバルドルとも違った。幼く、困惑と疑念に満ちた表情。のバルドルが決してしなかった表情。

 思い返せば、ロキの思い出せるバルドルの表情はほぼ変化がなく、いつも哀愁の漂う表情で、どこか遠くを見つめていた。


 瞼を閉じれば、未だ“健在”のバルドルの生き生きとした姿が焼き付いて、ロキに語りかけてくる。


『やぁ、久しぶりだね。ロキ』


 開いた瞼に解放された瞳にはありえないことに、ロキの向かいのからの椅子、そこに座り頬杖をついてこちらを見つめる、バルドルの姿があった。


『私のいなくなった世界はどう? ちゃんと父上たちの望む理想郷になってる?』


 目の前の彼は、あの頃のように意地悪い顔で、いつものように答えづらい質問をわざと投げかけてくる。


『でも言ったでしょ? この世界に私は必要ないって。だって私は、この世界が大っ嫌いだからね』


「…あぁ、知ってるよ。バルドル」


 ロキがついにバルドルの言葉に答えた。すると、夢から覚めたロキの目の前には、誰も座っていない椅子が一つ、あるだけだった。

 すべては過去のこと。ロキの知っている“バルドル”は、もうこの世にはいない。


 死んだ。


 殺されたのだ。


 …




 それは、今から30年前のこと…。










 彼は…、今もそこで笑っている。

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