第5話 復讐者Ⅰ
§ 1 §
気が付けば、空が白み始めて夜が明ける直前だった。しかし、誰もが起床するには早く、既に働いているのは、パン屋くらいのものだろう。その証拠に、隣のベッドでは無礼にも惰眠を貪る、ニドの姿がある。
帰ってきたニドにおかしなことを口走ってしまった。いくら悪夢を見たとはいえ、あんなに取り乱した姿をニドに晒すなど、我ながらどうかしていたと思う。オーディンの息子“バルドル”にあるまじき恥さらしだ。
しかし、そんな自分を見て、無論ニドは慰めるわけもなく、適当に頭を撫でるとさっさと独りで眠ってしまったのだ。あれには流石に驚いたが、おかげで胸の中をかき乱していた重い不安感は、少しだけ軽くなった、気がする。
だが、かと言ってもう一度眠れるかといえば、それはまた別問題。もう一度あの悪夢を見たならば、次こそは本当はおかしくなってしまいそう、という不確実なことへの不安で、目蓋が重くなる気配は一向になかった。仕方なく、自分に与えられた安物のベッドに戻り、膝を抱えてカーテンの隙間から覗く、空を眺めて時間を潰した。
何の音もしない部屋の中で、少年は昨日、宿へ向かう途中のニドとの特に当たり障りのない会話を思い出していた。
『…なにやら、街中に飾りが施されているが、近々祭りでもあるのか?』
『あぁ? …そういえば、明日は王族の結婚150周年目の祭りだって、店のオヤジが言ってたなァ』
『150周年目? まさか、“父上”と“母上”のか?』
『あー…。確か、そうだったかもなァ』
『…120周年目のはずでは、』
『はぁ? そりゃ、30年前だろ。眠ってたから、記憶が止まってンじゃねェか?』
『そうか。そうだな。 そうに決まっている』
少年が覚えているのは、今から30年前までの記憶だけ。しかも、朧気で酷く曖昧だ。
しかし、いや、きっと、祭りに参加して父上、“オーディン”に会えれば、何か思い出すかもしれない。もしかしたら、父上が何か知っているかもしれない。
そうだ。父上に会えば、何かが変わるはずだ。そう、確信できる。
白んだ朝焼けの空を見つめ、少年は呟いた。
「結婚記念日の祭典、か」
熟睡していたニドが目覚めると、隣のベッドで眠らずに膝を抱えて座っている、少年の姿が目に映った。あの後どうやら眠れなかったようで、顔色は最悪な状態で、目の下には薄らと隈が浮かんでいる。昨夜は帰って早々、夢見が悪かったらしく幼子のようにぐずっていて、相手をするのも面倒だったので、放っておいて寝てしまったのだ。
流石に非情的過ぎたか、と少年を労わる言葉をかけようとした時。少年がニドの方へ振り向き、か細い声でニドに“命令”したのだ。
「ニド。今日の祭典に、連れていけ」
そう言った少年を連れて、ニドは祭りで賑わうシグトゥナの街の中心へと向かった。
自分達にとって、同じアースガルドの台地に住んでいても、雲の上の存在であり、姿すら見たことのない人物の記念日というのに、街はあちこちお祭り騒ぎで活気に溢れ、心なしかいつもより人通りが多い。
その中で人と人の間を縫って、ニドと少年は歩いている。少年の長い髪は目立つので適当に束ね、悪目立ちする顔は渡したマントのフードを目深に被らせ、見えないようにしている。寝不足気味のせいで足元は覚束ないが、重たい瞼をこすりながら必死にニドの後をついて来る。
そんな少年を背に、ニドはどんどん市場を進んでいき、立ち並ぶ屋台の中で、1人の串屋のオヤジがニドに声をかけた。
「おーい、ニド。一本どうだ?」
「おう。じゃあ、コイツの分も含めて、二本くれ」
ニドは後ろの少年を顎で指し、オヤジに小銭を渡した。毎度あり、と肉と野菜の刺さった串焼きを二本手渡され、一本は少年の前に差し出される。躊躇いながら、それを受け取り、遠慮がちに口をつけた。
そんな少年の姿を尻目に、屋台のオヤジとニドは世間話を始めた。
「景気の方はどうだ?」
「おうよ、絶好調だ。“王族”様様だな」
「そりゃいいな。ところで、オヤジ。祭りの中心に行きたいンだが、どこに行きゃいい?」
「“中心”? 主役の“王族”が見たいなら、中央広場に行けばいい。なんでも、門の上部が開いて、ガラス越しに“王族”が拝めるぜ」
屋台のオヤジが指しているのは、シグトゥナとイザヴェルを隔てる城壁、その中央の門の前の素朴な噴水を中心とした広場のことである。
今日の昼頃、そこから門の上を見上げれば、滅多に見ることのできない“王族”の顔が見れるという。
それを傍で聞いていた少年の肩が小さく跳ね、背後の遥か遠くにそびえる壁を見上げた。そんな些細な反応にも気づいたニドは、口に咥えた具の刺さっていない串を弄びながら、フード越しに少年の頭へ手を置いた。
「あんがとよ、オヤジ。それじゃあな」
ニドは屋台のオヤジに別れを告げると、人混みをかき分けて歩いていく。その背中を小走りで少年が追いかけていく。
今にも崩れ落ちてしまいそうに脆くなった少年の精神状態に、ニドはどこか根拠のない不安感を抱いていると同時に、これも仕事の一環か、と誰にも聞かれないほど小さなため息を漏らした。
§ 2 §
同時刻。
イザヴェル内 城壁内部 特別“王族”専用貴賓室
アースガルドの中央、イザヴェルの都市を取り囲む頑丈な城壁の内部には、門番兵たちの兵舎の他にも、“王族”たちを迎えるための特別な貴賓室が予め備えられている。
どの部屋よりも豪華な造りをしている
静寂とした室内で、御付きの侍女に爪の手入れをさせている金髪の美女、“フレア”はその手を差し出したまま、部屋の壁に飾られた時計を見やり、視線を辿って部屋の中を見回して、突然目尻が吊り上がった。
「“フォッラ”、 “ナンナ”がまだ来てないようだけど?」
すると、黙々と爪の手入れをしていた侍女、“フォッラ”は、主人の冷たい声にビクッと肩を派手に跳ねさせる。彼女の他にも、室内にいる全員が息を飲んだ。
彼女の名指しした“ナンナ”、それは息子バルドルの正妻であり、フレアにとって義理の娘である。そして、孫の“フォルセティ”の実母である。
「え、っと。バルドル様の奥方、“ナンナ様”は、本日は御二人のご子息の体調がよろしくないとのことで、両名とも欠席されると、伝え聞いております」
厳しい視線を向けるフレアに肩を震わせながら、フォッラが答えると、彼女が整えた爪の具合を見ながら、あらそう、と意外と穏やかに答えた。
「それは大変ね。なら、孫の“フォルセティ”には、後で優秀な医者に診てもらいましょう」
「はい、式典後に手配いたします」
「それと、オーディン様とバルドルさんは、まだかしら?」
フレアのその問いと同時に、部屋の扉が開き、人々の視線を釘付けにした。
扉が完全に開くと、カタカタ、と車輪を回して、1つの車椅子とそれを押す青年が現れた。車椅子に腰かけたその姿を見たフレアは、柄にもなく取り乱し、慌てて駆け寄った。
「あなた!」
車椅子に腰かけていたのは、長い白髪を流し、血色の悪い顔色で俯いている“オーディン”であり、その車椅子を押してきたのは、
「…… “バルドル”?」
震えた声でその名を呼べば、青年はフレアにニコリ、と微笑み返した。
「はい、母上。祭典にはなんとか、間に合いました」
「そ、そうね。よかったわ」
それより、とフレアは顔色の悪いオーディンの頬に触れ、一言も発さない彼を心配そうに、優しく声をかける。
「あなた。具合のほうは?」
「あぁ…。 大丈夫だよ。今日は大切な君との、結婚記念日だからね。それに、今日は大事な発表があるんだ」
“大事な発表”
その言葉に首を傾げたフレアの手に、青白く骨ばったオーディンの手が、そっと重ねられた。血色の悪い顔で微笑む姿に、フレアは途轍もない悲しみで、ただただ、胸が苦しくなった。
そんな2人の姿を横目に、スキョルド、トール、ヘルモッド の順番にその場から退室した。
3人は貴賓室を出ると、その部屋から離れた今は使われていない、
「ど、どうしよう!? やばい、ヤバいって!!」
大げさなほど狼狽するヘルモッドの姿に、冷静なるトールは、なんとも見苦しい姿に深いため息をもらした。
「落ち着け。兄者、思いの外バルドルは元気そうだったな」
「あぁ」
トールがスキョルドに目を向けると、彼らしからぬ余裕のない表情を浮かべて、その整えられた爪を噛み締めている姿に、少しの驚きを見せた。
「…回復したのは予想外だが、それより今一番重視すべきは、親父の言葉だな」
「“大事な発表” か」
「十中八九、後継者の話だ。この事を親父の口から話させる前に、何とかしたかったんだがな」
くそっ、と大層苛ついた様子で悪態をつきながら、今もなお狼狽えるヘルモッドに近付き、小刻み動く頭を鷲掴んで、無理矢理止めた。
「仕方ねぇ。少しやり方を変える」
「変える? 何を? どうやって!?」
頭を掴まれて身動きのとれないままのヘルモッドが、オロオロとしながら次々に質問され、少し苛つきを増したスキョルドは、“黙れ”の意味を込めて、ギュッと掴む握力を強めた。
痛みに悶える
「バルドルのあの回復の仕方は不自然すぎる。だが、それについて、親父はもちろんフレア殿は何も言わなかった。故に、あの2人はバルドルの回復について、“明確な理由”を知っている」
「前に話していた、2人が隠している“バルドルの秘密”か」
「これからは、それを重点的に探る。やってくれるな?」
スキョルドの頼み事に、トールは小さく頷き、痛みから解放されたヘルモッドも、その軽い頭を上下に揺らして、激しく頷いた。
やがて、3人を捜して叫ぶ声が部屋の外から響き、3人は何食わぬ顔で部屋を出た。
§ 3 §
ここまで、ニドにされるがままだったのは、単純に自分で歩いて進むのが怖かったからだ。これはただの直感で、本能のようなものであると思う。
目が覚めてから、何もかもが自分の記憶と食い違う。自分の中にあるものが、目の前のものとは違うことに、動揺が隠せない。
だから、“今”を知りたかった。でも、いざ知ろうとすると、足が竦む。頭の中で、本能の“自分”が、『探るな』と制止してくる。
知ってはいけない。知ってしまったら、“知らなかった自分”には戻れない。
「だめだ」「やめろ」「知るな」「見るな」「聞くな」「戻れ」
「もどれ」「モドれ」「もドレ」
頭の中で、もう1人の自分が叫ぶ。
しかし、突然頭上で湧き上がる歓声で、一瞬で現実に引き戻される。目の前の地面から視線が離れて、頭上を見上げた。自分の前には、ニドの大きな背中があって、彼は振り返ってぶっきらぼうに上を顎で指した。
「ほら。出てきたぞ」
心臓の鼓動が身体の中でうるさいくらい響いているのを無視して、ニドの向こうを見上げた。
イザヴェルとシグトゥナとを隔てる、白く清潔で神秘的な壁が、天空まで続いているかのように錯覚する巨大なその壁、その頂上の壁の一部が左右に開いている。その向こうはガラス張りになっていて、人々が並んで上品にこちらに向かって手を振っている。これが、“王族” わかる。見覚えのある顔触れだ。
右の端から、
『オーディンの7男(末子)』“ヴァーリ”
『オーディンの6男』“ヘルモッド”
『オーディンの5男』“ヴィダル”
『オーディンの4男』“ホヅル”
『オーディンの2男』“トール”
『オーディンの長男』“スキョルド”
の順に、オーディンの息子たちが並んでいる。
左の端から、
『オーディンの義弟』“ロキ”
『オーディンの弟(兄)』“ウィリ”
『オーディンの弟(弟)』“ヴェーイ”
『オーディンの正妻』“フレア”
の順に、オーディンの兄弟と正妻が並んでる。
そして、その中心には、“オーディン” と、
“オーディン” と ?
「っ!?」
言葉にならない。声にさえならない。そんな叫び声を思わず、両手で塞いだ。
どうしようもない色んな感情が混濁して、ぐちゃぐちゃになって、体中をドロリ、と犯していく。唇がどうしても震えて、うまく動かせないが、小さく誰にも聞こえないくらいの声が、言葉が、1つだけ零れた。
「どうして…?」
オーディンと並んで手を振っているのは、自分と同じ顔をした“バルドル”の姿だった。年齢は、自分より上のようだったが、髪の色、瞳の色、母似の顔立ち、すべてが自分と瓜二つである。
周りの人々の歓声が、耳を刺す。
「宗主様!」「オーディン様!」
「バルドル様!」「お元気そうでなによりです!」
観衆のみんながあの男を“バルドル”と呼んで、喜びの声を上げる。
その大きな歓声をオーディンは手振りであっという間に静めると、目の前に用意されたスタンドマイクに自分の言葉をのせる。
≪本日は、私たち夫婦の記念式典を無事に迎えられたことを、とても喜ばしく思っている。より良き我らの世界の為、私は今後もこの座に留まり続けたいと思う≫
しかし、とオーディンは続けながら、隣に立つ“バルドル”の肩を抱き寄せる。
≪私もそろそろ、後継者について考えねばと思い、今ここで紹介しよう。私の嫡男“バルドル”を、正式に後継者とすることをここに宣言する≫
オーディンが紹介した“バルドル”。あれが本物の“バルドル”。ならば、
一体、自分は誰なのか?
狼狽する少年と反して、ニドは至って冷静にオーディンたちの姿を見つめていた。故に、少年が動揺で足元が覚束無くなっていることに気づけなかった。
縺れた足で少年は背後の男性にぶつかりながら、その場に尻餅をついた。その瞬間、被っていたフードが外れてしまった。
「おい、いてーじゃねぇ、か?」
男は、フードの中に隠されていた少年の顔立ちに、言葉を失う。その様子を見ていた周りの人々の視線も、一点に少年に集中し、誰ともなく呟いた。
「バルドルさま…?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます