第4話 目覚めた知らない自分Ⅱ


 § 1 §



 シグトゥナの夜の街は、大通りから離れれば離れるほど街灯が少なく薄暗くなる。減った街灯の代わりに頼りになるのは、賑やかな酒場や華やかな娼館の灯り。そして、月明かりだけ。身を隠すにはもってこいの場所をニドは知り尽くしていた。もはやここは彼の庭だ。

 ドタバタと表通りを血の気の多い輩たちが駆けていくのを、物陰から伺っているニドが振り返れば、小さな身体を震わせ、縮こまっている少年の姿が目に映る。なんとも情けないその姿に、ニドは深く溜息をついた。


「ったく。これだからガキは嫌いなんだ。何がなんでも、宿までは歩いてもらうぜ、お坊ちゃん」


 ニドは容赦のない言葉を吐き捨てる。その言葉に乗せられ、カッとなった少年は、震える足で立ち上がり、ニドを睨みつける。


「言われなくても、1人で歩ける。馬鹿にするな!」


 惨めな今の自分に、悔しそうに唇を噛み締める少年を横目に、ニドが歩き出すと建物の陰から陽気な様子で、イルザが顔を出した。


「やぁ、ニド。災難だったな。ラウドのヤローのあの顔見たかよ? ここまで胸がスッとしたのは久々だぜ。最高だ!」


 陽気にスラスラと言葉を並べるイルザに対し、向かい合うニドは相槌一つ打つことなく、ただ黙って無感情な眼差しで真っ直ぐに、イルザを見つめている。

 そのニドの様子に、イルザはもちろん、少年ですら違和感を抱かずにはいられなかった。イルザの声に焦りが滲み出し、心なしか口の滑りが早くなっていく。


「い、いやぁ。今回はホントにヤバかった。俺もラウドに脅されて、仕方なく、お前を嵌めたんだ。俺はこの辺じゃあ、一番の情報屋だが、1人じゃ非力だからな。、」


「“だから”“だから” って、うるせェよ。そんな必死こいて言い訳すンじゃねェよ。みっともねェ」


 ペラペラとよく動くイルザの舌を、冷えた声でニドがピタリ、と止めた。その場は、ニドの吐いた言葉によって、一瞬にして凍り付いた。


「ニ、ニド?」


 震えた声でニドを呼ぶイルザに、ニドはいつも通りの底意地の悪い笑みを浮かべる。

 笑っている。しかし、その瞳は、決して笑ってはいなかった。


「謝る必要なンかねェよ。オレたちはそれぞれの“仕事”をしたまでだ。オレとお前は、仕事仲間じゃねェか。親友でもなんでもねェ。そうだろ?」


 ニドの無感情なその言葉に、イルザは呼吸を一瞬止めた。この会話に無関係である、少年ですら、冷気すら感じるその言葉に凍りついた。


 ざり、ざり、


薄汚れた石畳の地面をわざとブーツの底を擦るようにして一歩ずつ確実にイルザに近付き、ニドの鼻先はイルザの目の前までやってきた。視線を外すことのできない距離感のニドの射貫くような瞳に、イルザの身体全体が強張る。


「なァ、イルザ。ラウドの野郎からいくらもらった? その金で、ようやく妹の手術でもすンのか?」

「っ… よく知ってるな。あぁ、そうだよ。これでアイツの本格的な手術ができるんだ」


 ニドは知っていた。イルザの年の離れた妹が、生まれつき心臓を患っており、手術しない限りは、余命幾許いくばくもないと。そしてその手術代というのが、莫大が金額であることも。

 それを知っていて揺さぶり、ついに吐き出したイルザの本音に、ニドはしたり顔を浮かべる。


「そう。お前は“金”と“知人の命”、それを天秤にかけて、金の方を選んだ。それがお前の本音だ。結局、オレたちの関係はその程度だった、てことだ」


 ニドの言っていることは正しい。正しすぎて、どうしようもないイルザは、ついにこの場から逃げるために、怒りに身を任せて叫んだ。


「っあぁ! そーかよ。俺だって、俺だって今回のことはお前にすまないって、申し訳なく思ってたさ! “相棒”だと思っていたからな!」


 でも、とイルザの声が震える。


「どうやら、そう思っていたのは、俺だけだったみたいだな!?」


 目の前のニドを力一杯突き飛ばすと、イルザはきびすを返し、路地の闇に消えていった。それを黙って見送ると、ニドは反対の方向へと歩き出した。

 その背中をひたすら追いかけ、少年は居ても立っても居られず、ニドに問いかけた。


「…いいのか? あの男は、お前の友人ではないのか?」


 少年の問いかけに、ニドは鼻で笑った。


「友人? 言ったよな。アイツとオレは、仕事仲間だ。ただ、それだけだ」


 そう言ったニドの背中は、どこか孤独で、その言葉はまるでようであった。

 少年はそんなニドの背後で足を止め、彼の姿に謎の“既視感”を覚えた。


 かつて、少年は誰かを“友人”と呼び、その“友人”は、少年を友として認めた。

 その友人は、“とある二択”を迫られた時、どちらを選んだのか。


 少年は、思い出せなかった。その大切な友人の名前すらも。



 § 2 §



「さてと。そろそろ行くか」


 室内の灯りはすべて消され、暗闇の中、1人分の人影がむくり、とベッドから起き上がり、髪をぐしゃっとかき回す。

 隣のベッドに視線を移せば、枕の上に金糸のようなプラチナブロンドを散りばめて、目蓋を完全に閉じた少年が眠っている。小さな寝息を立てる姿に、完全な睡眠状態であることを確信すると、両足をそっと床に降ろし、ゆっくりと立ち上がる。手荷物だけを持つと、扉を開いてニドは部屋を出た。


 街中に置かれた時計の針は、既に深夜の1時を指しており、道中は人通りも少なく、建物の灯りも少ない。その中でも、ひときわ派手にライトアップされ、深夜にこそ賑わいを見せる場所がある。それが、『娼館通り』である。

 店の前では、娼館の女たちが妖艶に手招きして、通行人を対象に客引きをし、値踏みして歩く客たちも酔っ払いばかりで、誰もが千鳥足であった。

 その中を悠々と歩く長身のシルエットは、女たちの目を特に惹き、誰もが甲高い声を上げた。


「あら、ニド! 久しぶりね」

「ニド! 今日はウチに寄ってってよぉ」

「ダメよ。今夜こそ、ウチに来るんだからぁん」


 媚びるような甘い声の娼婦たちの誘いに、ニドは愛想よくヒラヒラと手を振り返すが、決して足を止めることはなかった。


「よォ。オメーら、元気そうだな。だが、わりぃな。今夜は“先約”があるンだわ」


 そう言って向かった先は、一件の娼館。その正面の扉の前には、派手なスパンコールが眩しい紫色のドレスに、大きな身体を詰め込んで仁王立ちしている、化粧の濃い初老の女性であった。決して機嫌の良さそうではないその女性の姿に、思わずニドの笑みが引き攣る。


「よ、よォ、“ママ” 久しぶりだなァ」

「約2週間ぶりさね、ニドの坊や。はちゃんと用意してきたんだろうね?」

「わかってるよ。ほら、」


 女に凄まれて、ニドは懐から分厚く膨らんだ茶封筒を取り出し、女の前に差し出した。女はそれを奪い取るように受け取ると、中身にぎっしりと詰め込まれた“札束”を慣れた手付きで数え始める。


「きっちり、28万。耳を揃えて返したぜ」

「ったく。いくらウチが“ツケ”を許してるとはいえ、こんな額を滞納するのは、アンタくらいさ。まぁ、しっかり受け取ったよ。毎度あり」


 数え終わった茶封筒をしっかり閉じると、口元に添えられた紙巻きたばこを吹かしながら、背後を顎で指す。


「今夜はウチに寄ってくんだろ? 好きな子選びな」

「やりィ。じゃあ、“オルニイちゃん”で」

「わかったよ。いつもの部屋でお待ちよ」


 サンキュー、とひらりと手を振って、娼館の中へと去って行く。

 その後、彼が娼館から出てくるのは、約3時間後のことである。


 2時間後。


「ねぇ。そういえば、今夜はは一緒じゃないのね?」


 自堕落に、安物のベッドのシーツの海に沈んだ金髪の娼婦が、頬杖をしながら問いかけてくる。纏ったシーツの端から覗く四肢は生白く、その身体は生まれたままの姿で寝転がっているのがわかる。

 その女の隣に、同じく裸体を転がすニドの姿もあり、女の問いかけに咥えたタバコを唇から離して、彼女の方に首を傾ける。


「“オトモダチ”? あぁ、イルザのことか。アイツは“オトモダチ”じゃなくて、“仕事仲間”だ」


 ニドは脳内に蘇った、イルザの絶望した顔に、気まずい笑みを浮かべる。


「アイツとは、暫く仕事はしねェから、一緒に来ることもないからな」

「なーんだ。彼も結構、好みだったのになぁ」


 正直、大して興味もなさそうに、女は足をバタつかせて残念そうにため息をついた。

 隣にいるたれ目が愛らしいこの女について、ニドはなんとなしにその生い立ちのことを思い出しながら、紫煙を味わうことにした。


 女の名前は、“オルニイ” 

 娼館通りの古株である、通称“ママ”の営む娼館で働く一娼婦である。母親も同じく娼婦だったらしく、母の客だった父親の、確か“ゲイテル”とかいう名前の男に引き取られ、育ったと聞く。その後の母親の消息は未だ不明だが、恐らく亡くなっているのだろう。

 父親は、案外まともな人間だったようで、少女時代は普通に学校に通い、勉学に勤しんでいたという。

 しかし、父親は流行り病で呆気なく死に、他に身寄りのなかった彼女は、必然的に母親と面識のあった“ママ”に引き取られた。

 『娼館で生まれた女は、みんな娼婦になる』という言葉通り、彼女も花の盛りである十代のうちから、ここで働いている。


 ニドは彼女を他の娼婦たちよりも、割と好意的に思っていた。娼婦というものは、その殆どが借金を背負い売られてきたり、人買いに攫われて娼館に売りつけられてきた者たちばかり。その中で、オルニイは事情が少し異なる。幼少時に父親から愛情を受けている彼女は、愛嬌があって何より瞳が濁っていないのだ。

 娼婦になる道を選んだのも、彼女自身。故に、この仕事にどこかプライドを持っている節がある。

 そんな彼女に好意的であるからこそ、ニドは借金ツケをしてまでも、“ママ”のところに通っているのだ。


 そんな彼女のシーツに散らばる金髪を見つめ、ふ、と宿に置いてきた少年の姿を思い出した。ラウドたちが宿を突き止めて襲撃することはないだろうが、何やら胸騒ぎがして、ベッドから起き上がって床に散らかった服を拾い集める。

 その様子をオルニイが不思議そうに眺めていた。


「あら、もう帰るの? 今日は朝までゆっくりしていかないのね。珍しい」


 オルニイの言う通り、ニドはいつも明け方まで娼館で眠り、日が昇り始めた頃にようやく帰路につく。そんなニドが、今日だけは珍しく日の昇らないうちから帰ろうとしているのを、オルニイは物珍しく見つめていた。

 そんな彼女に振り返って、ニドはニヤリ、と笑みを浮かべ、意地悪く言った。


「我が儘なが、待ってンのさ」


 オルニイは細い首をコテン、と傾げた。



 § 3 §



 少年が目を覚ました場所は、酷く寒いところであった。冷えた棺の中で、身を縮めて眠っていた。そこで眠る前のことはまったく思い出せない。

 凍りついて固くなった目蓋をゆっくりと開き、冷え切った指先をピクリ、と動かす。身体は完全に冷えてしまっているが、誰かが外気を与えてくれたおかげで、もう少し経てば動かせそうだ。

 血色が戻ってきた唇は細かく震えて、渇いた喉で微かに言葉を発しようとする。


『誰か』 と。


 そう言うつもりで口を開いたが、零れた言葉は思いがけないものだった。


「… “ロキ” 」


 その言葉を口にした瞬間、眠っていた意識の奥から、見覚えのない“記憶たち”が一気に流れ込んできた。



『一緒に逃げよう、バルドル』

 と、誰かが、手を差し伸べている。


『“父上”の為に死ね、バルドル』

 と、誰かが、矢を向けて叫んでいる。


『この世界にお前は必要ない、バルドル』

 ……やめろ。


『すまない。やっぱり、この世界を愛することができなかった』


 そう呟いたのは、紛れもない、 “” であった。

 目の前に立つ、“もう一人”のバルドル。その胸を、見覚えのある矢が、刺し貫いていた。



「やめろ!!」


 傷ついた“バルドル”に向かって必死に手を伸ばし、身体を起き上がらせた。


 しかし、次にいた場所は、真っ暗な室内であった。壁は傷だらけで安っぽく、室内全体が埃っぽい。眠っていたベッドもマットレスがへたり、スプリングが酷く軋む。

 ここが、先程の場所ではないことは明らか。そして同時に、それが夢だったことを悟った。


「…今のは一体。いや、そうか。ここは、宿か」


 日付は既に変わっているが、まだ日は昇らず、空は真っ暗であった。

 隣のベッドには確か、一緒にきたニドが寝ていたはず。今の大声で起こしてしまったのではないか、と危惧して、隣に視線を向ける。


 しかし、映った光景に、呼吸が詰まった。


「ニド……?」


 空っぽのベッドに向かって、いないはずの人物を呼んだ。

 それは、ニドが帰ってくる2時間前の出来事。



 2時間後、ニドは部屋の扉を開いた。

 思った通り、明かりの点いていない暗い室内を見つめ、そして部屋の中から、微かに荒くなった呼吸がニドの耳に届いた。


「…ニド、か?」


 か細い声を頼りに暗い室内を見回すと、部屋の隅にシーツを頭から被り丸まって座り込む、小さな人の形があった。その塊がのっそり、と立ち上がり、恐ろしく思えるほどゆっくりとした足取りで、ニドに近付いてくる。


「…どこへ行っていた? この私を置いて」


 小さな見た目に似合わない低い声が、ニドへと這いずってくる。


 ずる… ずる…


 這うように近づいてくる少年の気配に、ニドは何故か恐怖を感じた。渇いた喉を引き攣らせて、ようやくニドは言葉を発した。


「…ちょっと散歩に出てただけだ。なんだよ、独り寝は寂しいってか? 生憎、男と添い寝する趣味はねェぞ」


 いつも通りの調子を取り繕って、ペラペラとニドの舌が回る。2人の間の雰囲気を明るくするために、ニドが決して口を閉ざさずにいたが、少年の気配は変わらなかった。

 よく動く口と反して、一歩も動けずにいるニドの目の前まで、少年はついにやって来た。未だシーツをすっぽり被り、俯いている少年の表情は読み取れなかったが、シーツの中で微かに震えているのに気付いた。


「お、おい…」


 小刻みに震えた肩に触れようと、手を伸ばした。

 しかし、その手は少年に横から掴まれ、阻止された。と同時に上を向いた顔には、不安と恐怖が滲み出ていた。


「…ニド。君には、私が“なに”に見える?」

「はァ?」

「私は初めて出会ったとき、“バルドル”と名乗った。しかし、私には自分が“バルドル”であるという、確証がない。何も、何も覚えていないのだ」


 掴まれた手の力が強くなる。


「私が、“私”として目覚める前のことを、何一つ憶えていない。私がどうして眠っていたのか。誰があの棺に入れたのか。私には、


 なぁ、ニド。


 ニドの手を離し、少年の弱々しい両手が、ニドの服を掴む。


「私はほんとうに、なのか?」



 § 4 §



 アースガルドの中央の地、首都『イザヴェル』の中心に建てられた宗主の館『ヴァーラス・キャルヴ』と並んで建っている、宗主とその配偶者が公務を行うための建物『フリズス・キャルヴ』に、宗主“オーディン”が玉座に座している。

 雪のように真っ白な白髪を流し、灰色の瞳は玉座の位置より遥か下、そこに立つ彼の息子の1人“スキョルド”を見据える。

 何も映していないように、冷たい瞳に悪寒が走り、スキョルドは下げた顔を上げられなかった。しかし、彼に召喚されたが故にここに参上し、彼からの下知を待っていた。

 長らくの沈黙の後、オーディンはその口を開き、スキョルドに命じた。


「我が息子、スキョルド。明日あすの“祭り”の準備は順調か?」

「はい。イザヴェルだけでなく、シグトゥナの方の警備も万全です」

「そうか。明日は私やフレア、そして我が子、“バルドル”も出席する。そのことを肝に命じ心せよ、と兵たちに伝えよ」

「承知いたしました」


 オーディンが手を払い、退出を許可すると、「失礼します」と一礼し、スキョルドは玉座の前から下がった。スキョルドがいなくなり、オーディンは玉座を立ち上がると、身の丈よりも大きな窓へ近づき、外の景色に目を向けた。

 窓の外、『ヴァーラス・キャルヴ』とこの『フリズス・キャルヴ』の館の裏には、この台地を支える神の化身と称される大樹『ユグドラシル』が堂々とそびえている。その姿を見据え、オーディンの瞳は野望に燃えていた。


「ユグドラシル。お前の望む“世界の終わり”、それはやってこない。この、がいる限り」


 返事はない。

 しかし、この言葉に反論するように、大樹はざわざわ、と青葉を揺らした。


 それは、、静かな夜の事。

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