第3話 目覚めた知らない自分Ⅰ


 § 1 §



 その日、シグトゥナの裏道を歩いていたイルザに絡んできたのは、何人かの取り巻きを連れた、浅黒い肌の大男だった。少し前にニドにとある廃墟の情報を与えたばかりのイルザの一番会いたくない男の姿は、酩酊して誤魔化していた彼の心の“蟠り”のようなものを呼び起こしてきた。

 正直とても忌々しい存在であり目の前にいるだけで不快だったが、そんな感情を一ミリも出さずイルザが彼を見上げると、その大男は下卑た笑みを浮かべながら、自分よりひと回り小さいイルザを見下ろした。


「よォ、イルザ。景気はどーだ?」

「――ラウドさん、久しぶりですね」


 大男――ラウドのことは、この辺にいるゴロツキなら知らないはずがない程の、ある意味では『有名人』だった。

 ラウドは、シグトゥナの裏社会の悪党たちの元締め的存在である。ラウドもニドと同じ盗賊であるが、それ以上にも人殺しから人身売買にまで手を染める、最低最悪の悪党。常に取り巻きの小悪党たちを引き連れて、気に入らない奴は全員で袋叩き、というのがいつもの手口。

 この男の悪党っぷりはこれだけではないのだが、すべて挙げるとキリがない。それ程の男のことを恐れる者は多く、シグトゥナのゴロツキたちも、なるべく関わらないようにしている。できることなら、イルザもそうしたのは山々だった。

 しかし、それが許されないのが情報屋という仕事である。


「何か用でも?」

「いやなに。オメーに頼んだの方が、どうなったか聞きにきたんだよ」


 ラウドの言うという単語に、イルザはピクリと眉を動かす。あからさまに嫌悪する表情を見せれば、ラウドは満足そうにニンマリと下品な笑いを浮かべる。


「その様子だと、無事に“ニド”の野郎はくたばったか」

「…知らないよ。ただ、、あの屋敷の話はした。恐らく今丁度、屋敷にいるだろうね」

「そりゃいい。今頃は、他のマヌケ共と同様、干からびてるだろーよ」

「気が早いよ、ラウドさん。ま、アンタの目論見通り、ニドは2度とあの屋敷から出ることはない」


 愉快愉快といった様子で大口を開けて笑いながら、ラウドは上機嫌で手下たちを率いて、イルザの前から去って行った。その後ろ姿を睨みつけ、イルザも踵を返した。

 イルザは、ある目的地を目指して歩きながら、のことを思い出していた。


 あの屋敷のことは、知る人ぞ知る、所謂『絶対に盗みに入ってはいけない場所』である。外面は簡易な“人除けの結界”が施されているのみであるため、誰しもが最初は簡単に入り込めると思う。しかし、のこと。1度入ってしまえば、2度とそこから出ることができなくなる。何故なら、扉には内側から、どんな錠よりも頑丈な守り、“封印のルーン”が刻まれているからである。封印のルーンは強力な魔術師によって刻まれており、家主か術を刻んだ人物の『許可』がない限り、内側から扉を開けることはできない。今まで何人もの盗賊があの屋敷に入り込み、そして2度戻ってくることはなかった。


 イルザはこのすべてを理解し、理解した上でニドに話を持ち掛けた。

 すべては、ラウドからの多額の報酬のため。その報酬を“妹”の治療費に回すため。

 

 ―――


 そう自分に言い聞かせてきた。しかし、やはり古い付き合いであるニドを嵌めたことに対する罪悪感は、消えることはなかった。そんな感情を振り払うように頭を振ると、ニドと最期に話をした、馴染みの安酒場の戸を叩く。

 既に完全に日が落ちた時間帯であるため、店内は客が多く集まり、十分なほど賑わっていた。その店内を見回し、空席を探していた、その時。ある一点の光景が、目に飛び込んできた。


「おいおい、もっとゆっくり食えよ。オレは食わねェから」


 そこは2人掛けのテーブルだった。丸いテーブルの上には、ありったけの料理とジョッキの麦酒ビールが置かれ、それをひたすら食べているのは、細く小さな子供。問題は、その向かい側に座っている、金色の混じった黒髪の男。

 開いた口が塞がらず、ただ足だけは無意識に動き、その席へと進んだ。徐々に距離を縮め、震える足はテーブルの前で立ち止まる。

 背後に現れた気配に、ジョッキを持った男は振り返って、鋭い眼光を見せた。


「よォ、何か飲むか? イルザ」


 そして、震える声で、イルザは叫ぶ。


「な、なんでここにいるんだ、!!」



これは、ニドが屋敷を出た、3時間後の出来事である。



 § 2 §



 イルザとニドの再会より3時間前。ニドはまだ、『フリングホルニの屋敷』の中にいた。


 見上げた先には、立っているはずのない人影。その人影は、ゆっくりと階段を降り、あんぐりと口を開け、呆然と立ち尽くしたままのニドの目の前に立った。真っ直ぐに、その碧眼でニドを見上げる。


「屋敷を出たいなら出してやる。だが、その前に教えろ」


 ニドよりひと回り小さな子供は、見た目に反して随分と上から目線で話す。


「私は一体、どれくらい眠っていたのだ? それに、この屋敷の荒れようはなんだ。お前の他には、誰もいないのか?」


 目の前の子供は至って冷静に、現状の説明をニドに求めてきたが、この声はニドには届いておらず、むしろ驚きのあまり自身の声すら出せなかった。


 ニドは思い出していた。自分が開けた『冬眠装置コールドスリープ』だが、たとえフタを開けてそのままにしたとはいえ、そう簡単には目覚めたりはしない。少なくとも、人間にはできない。冬眠装置コールドスリープは、身体機能を極限まで低下させ、低温状態で人間の老化を防ぐ装置だ。そこから目覚めるには、少なくとも数日はかかるだろう。当然だ。長年低温状態だったのだから、起きてすぐに身体の筋肉が自由に動くはずがない。

 だというのに、目の前の子供は、起きて数十分というところを、平然と立ち上がりしゃべっている。ニドの目の前で。


 開きっぱなしの口の中が渇き、カラカラの喉と舌で言葉を紡ぐ。


「お、お前、一体何者だ!?」


 ニドが指さして聞けば、子供はムッとした表情に変わった。


「私を指さすなど、無礼であるぞ。まったく、私の名を知らぬとは、どんな田舎者だ」


 ひと息を置いて、子供は「よいか、よく聞け」と偉そうに自分のことを紹介した。


「私は、このアースガルドを治めし“王族”たちのおさであり、最強の魔術師であらせられる“オーディン”の三男にして跡取りである、“”だ!」


 誇らしげに自己紹介をした子供だったが、2人の間は数分間、静止した。


 真面目に緊張の中、子供の話を聞いていたニドは、違う意味で言葉を失った。

 その後、ようやく出たのは、


「は?」


 という一文字だけだった。


「“は?”ではない。私は、オーディンの子、バルドルだ。わかったら、頭を下げぬか」


 目の前の子供は偉そうにふんぞり返っているが、正直、ニドはまったく信じていなかった。

 ニドは市街の裏街道をうろつくゴロツキの1人。もちろん、雲の上の人物である“王族”やましてや、民衆が『宗主様』と崇め奉る“オーディン”の顔など、見たことがない。そのオーディンの秘蔵っ子である“バルドル”も、実際にみたことはないが、これだけはわかる。


と。


 そう考えてしまえば、後は簡単だ。このを言っている子供の口車にワザと乗ってやって、本当に出られるのなら、利用して脱出しよう、と。

 そうとなれば、ニドは今までの態度から一変、手のひらを返して薄っぺらい笑みを顔に張り付けて、腰を低く話した。


「それは失礼を。実はオレはこちらの屋敷に、あの高名なバルドル様がいらっしゃると聞き、一目お会いしたく参った次第でございます」


 名前を聞いて態度を改めたと思った少年“バルドル”は、ニドのその態度に満足し、緊張を解いたのか先程より、気軽な口調に変わった。


「そうだったのか。では其方、この屋敷の有様について、何か聞いておらぬか?」

「いいえ。この屋敷はオレが生まれる前から、既に誰も住んでいないと、聞いていましたので」


 ニドは別に間違ったことは言っていない。しかし、少年は随分と驚いていた。


「なんだと? 一体何十年くらい眠っていたのか。眠る前のことは、まったく思い出せんな。仕方ない、他の者にも聞いてみるか」


 自分の置かれた状況に驚き、困惑している姿は、とても嘘を付いてるようには見えず、ニドは少しずつ少年の言葉を信じかけてきていた。

 その時、ふと“ある事”を思い出した。“暖炉の事”だ。


「時にバルドル様。手がかりになるかわかりませんが、この屋敷の食堂にある暖炉。何かしらの“術式”が刻まれているようなのですが、お心当たりは?」

「暖炉? いや知らぬ。見てみるか」


 そう言って、2人は一階の食堂の暖炉の前に向かう。向かう途中も、見覚えのない屋敷の荒れ様に、少年は眉をひそめる。

 古ぼけた暖炉の前に膝を着くと、少年はその奥を見つめた。


「確かに“術式”だ。しかし、これは解除できない」


 「何故?」とニドが尋ねれば、少年は答える。


「この“術式”を解くには、“解除のルーン”と“音”が必要なんだ」

「“音”ですか?」

「そうだ。簡単に言えば、術者が設定した“合言葉”が必要なんだ」

「なるほど」


 少年曰く、魔力である“ルーン”を文字に変換して使う魔術“ルーン魔術”の中には、『刻む』という使い方以外にも、高度な『音』による使用方法も存在する。『言葉』に『音』を加えることで、それは『呪文』となり、これを別の方法で解くことは、基本的には不可能であるとのこと。


「残念だ。この“術式”の組み方を見る限り、刻んだのは恐らく“父上”であろう」


 彼の言う“父上”、すなわち“オーディン”のこと。オーディンの作った術式など、触れただけでも何が起こるかわからない。さっき触らなくてよかった、とニドはほっと胸を撫でおろす。

 少年はそんなことなど知らず、さてと、と立ち上がり、迷わず玄関に戻った。


「仕方あるまい。今は、この屋敷を出て、外で情報を得るとしよう」


 早々に諦めて、少年はニドを伴って玄関へとやって来た。固く閉ざされた扉の前に少年は立ち、ドアノブを両手で握る。

 深く深呼吸し呼吸を整えると、“術式の処理”を始める。


「≪N《ニイド》逆転術式。逆さの名はN《ナウシズ》。これを刻みし“バルドル”の名によって、解放を許可する≫」


 少年の言葉に反応し、カチャリと金属音が扉から鳴ると、扉はゆっくり押され、軋む音を立てながら開かれていく。少しずつ開かれていく扉の隙間からは、西へと沈みかけた夕日の眩しい光が差し込む。その眩しさにニドが目を眩ませていると、閉ざされた屋敷に、風が吹き抜けた。

 目を見開けば、その先には、夕日の光を背に受けた少年が立っている。


「さぁ、出るぞ。お腹がすいたから、もう少し付き合え」


 相変わらずの偉そうな口調と態度で、少年は言った。


 これが、3時間前の出来事のすべてである。



 § 3 §



 空腹を訴える少年“バルドル”をひとまず、常連である安酒場に連れてきた。少し悪目立ちする格好だが、少年はあまり気にしていなさそうだったため、ニドも気にせず黙って食事することにした。

 一応テーブルマナーを守って綺麗に食事する少年は、ここでやっとニドの素性について、興味を持ち始めた。


「そういえば、其方の名前をまだ聞いていなかったな」

「んァ? あぁ、オレの名は、ニドだよ」

「ニドか。…其方、いつの間にか敬語が抜けているな」


 不意に少年に痛い所を突かれ、ニドはぎくりと肩を震わせたが、意外にあっさりと、まぁ良い、と容認された。


「元々、そういう媚びへつらった態度は好きじゃない。楽にしていい。私もそうする」

「お、そうか。じゃあ遠慮なく」


 無礼講が許された途端、ニドは遠慮なく酒を飲みはじめる。そこへ次々に運ばれてくる大皿料理には、少年のみが手をつけていった。

 この少年が、どれくらいの間あの装置の中にいたのかは、ニドには想像もつかないが、かなりの時間眠っていた少年の身体は栄養を求めて、ただひたすら食べ続けていた。


「おいおい、もっとゆっくり食えよ。オレは食わねェから」


 慌てて食べ続ける少年の姿に苦笑しつつ、背後からゆっくりと近づいてくる気配に気づき、振り返らずに後ろに立つ人物に声をかけた。


「よォ、何か飲むか? イルザ」

「な、なんでここにいるんだ。ニド!」


 イルザからは予想していた返答の1つが返ってきたため、「やはりか」とニドは思った。考えていた最悪の方の予想が当たったのだ。


「ハッ。か。そりゃそうだよなァ。お前の思惑通りなら、オレは今でも“あの屋敷”の中だからなァ」


 図星、と言わんばかりに、イルザの肩が跳ねた。イルザの表情には、焦りと絶望が入り混じっている。この表情の意味が、わからないニドではない。

 しかし、イルザはすぐにいつも通りの様子に戻り、陽気な態度でニドの隣に図々しく座った。


「で? 噂の屋敷には、どんなお宝があったんだよ?」

「あ? …それが思ったよりなーんもなくてさァ。持ち出せたのは、値もそこそこの貴金属と懐中時計と、あとは…」


 ニドはテーブルに頬杖をつき、目線を右へと流し、未だ食べることに夢中の少年の方を向く。その視線の先に気づいたイルザはギョッとして、少年を注視したが、すぐに2つの視線に気づいた少年と目が合い、訝しげな眼差しになる。


「ん。なんだ、私の顔に何か付いているのか?」

「い、いやいや!」


 すぐさま視線を逸らせば、少年はそれ以上追及はしなかった。ホッとしたイルザは、次に隣のニドにこっそり耳打ちする。


「おい。このチビが本当にあの屋敷にいたのか!? 最近じゃあ、あそこに近づく奴は滅多にいねェって話だぜ」

「あぁ。理由はよくわからねェが、世にも珍しい“冬眠装置コールドスリープ”の中で眠ってたんだ」

「にわかには信じられない話だな」


 まったく信じられない話に、首を傾げるイルザの姿を鋭い眼光で見つめるニドは、ジョッキを煽ってひと息つくと、重々しい声でイルザに聴いた。


「なァ、イルザ。お前、ここ最近あの屋敷に近付く奴はいねェ、て言ったが、あの屋敷の話は、お前しか持ってないんじゃないのか?」


 一瞬で、ニドの纏う空気が冷えたことを感じ取ったイルザの顔から、見る見るうちに血の気が引いて、笑いが消えた。背中に冷や汗が伝う感触と、乾いた喉の引きつる痛みを脳の片隅で感じながら、自分を冷たく睨みつけるニドの瞳から視線を外せなかった。

 ニドの問いに答えられず言い淀んでいると、そのイルザの頭上から影が覆い被さり、ゴツゴツとした手が肩の上に置かれる。頭上から降ってきた声に、更にイルザの肝が冷えた。


「よぉ、ニド。テメーなんでここにいる?」

「よォ、ラウド。テメェこそ、の調子はいいのかァ?」


 わざとラウドに被せてきたニドの、更に相手を煽る言葉に、短気なラウドは我慢できるはずもなく、背筋を立てて声を荒げ始めた。


「元はといえば、テメーのせいだろうが!? テメーがオレ様たちの“仕事”の邪魔さえしなければ、オレ様は今頃遊んで暮らせていたんだ!」

「おいおい、逆恨みはよしてくれ。無駄に犠牲者出して、オレの立てた計画を最初に崩したのはテメェだろ。自業自得だ」


 怒りを露わにするラウドに対して、対するニドは飄々としており、まったく意に介していない。その態度が益々ラウドを怒らせていることに、イルザは恐怖で一言も話せなかった。


「ラウドよォ。テメェがどうしても貴族の屋敷に侵入はいり込みたいって言うから、態々わざわざオレが計画を立てて盗みに入ったっていうのに、テメェは何をした?」


 ニドは持っていたジョッキをいささか乱暴にテーブルに置く。


「あろうことかテメェは、たまたま目撃した女中メイドを暴行して殺そうとした。オレが騒ぎを大きくしないようにしたっていうのによォ」

「だからって、その場でオレ様の膝を撃ち抜くたぁ、どーいうことだ!? テメーのせいで暫く“仕事”はできねぇ!」


 ラウドは態々ニドに見せつけるように、左足をテーブルの上に乗せると、膝の銃創を露わにした。それをニドは冷めた目で、興味なさげに大あくびを一つ。

 その態度に激昂したラウドが、ニドに殴りかかろうとした。その時。


「その汚い足をどけろ。食事の邪魔だ」

「……あぁ?」


 どこからか聞こえた声に、殴りかかろうとしたラウドが動きを止め、ニドの向かいの左側の席に視線を移す。

 そこには、今までまったくといっていいほど、存在を認知していなかった、プラチナブロンドの少年が座っていた。椅子に腰かけた少年の髪は、床に着くほど長く、日に焼けていない肌はまるで女のようで、こちらを忌々し気に睨んでくる碧眼も、深く澄んでいる。

 それを目の当たりにしたラウドは振り上げた拳を下ろし、いつもの下卑た不愉快な笑みを浮かべて、少年の顎を鷲掴んだ。


「おい、ニド。こんな上物、どこで手に入れた? こりゃ、高値で売れそうだぁ」


 ラウドは値踏みするように少年を眺め、息がかかるほど顔を近づける。

 そんなラウドの邪心に気づいた少年が、スッと目を細め、冷たくラウドを睨みつける。


「手を離せ。でないと、その手首から先がなくなることになるぞ」

「ほォ。どーやってだぁ?」


 どうせできない、と高を括るラウドに、少年は余裕の笑みを浮かべると、ラウドの視界に入らない自分の背後で指を振って、空中に“文字”を描いた。

 視線の端でその行動を見ていたニドは、少年が指で描いたのが、攻撃系魔術の『T《ティール》』であることに気づき、「こりゃ、手首」と他人事。


 しかし、少年のなぞった文字は、一瞬空中に浮かんだと思えばすぐに消え、少年の周りに集まっていたルーンのエネルギーも勝手に霧散した。

 予想外の状況に、余裕の表情をしていた少年の顔が、焦りと驚愕で歪んだ。

 少年が何もしてこないことを確信したライドは、下品に口端を引き上げて笑うと、反対の左手で少年のほっそりとした白い手首を掴み上げ、椅子から引き上げた。


「ニド! コイツ、オレ様に譲れ。こりゃ、掘り出しモンだぁ!」

「っはなせ! 無礼者!」


 体格差のせいで、身体の持ち上げられた少年の両足は床から離れており、伸びたつま先が空中でジタバタと暴れている。いくら少年の体重が平均を遥かに下回っているとはいえ、掴まれた右腕だけで身体を支えることはできないため、徐々に右肩と強く掴まれた手首が、ギチギチと痛み始めた。

 それに気づかず、上機嫌なラウドの姿を黙って冷ややかな瞳で見据えるニドは、眉一つ動かさなかった。

 どんなニドの様子を勝手にと捉えたのか、ラウドは高笑いしながら、取り巻きたちに退散の合図を出した。


「予定外の“エモノ”が入った! 今すぐ人買いのジジィんとこ行くぞ!」


 声高らかに、売り飛ばされる宣言をされた少年の表情が、絶望の色に染め上がったのと、ほぼ同時。

 この空間に、乾いた発砲音が響き渡った。


パァン―――、


という音が空気を揺らせば、つい先程まで耳障りだったドンチャン騒ぎが一気に冷めて、シン、とした静寂の支配する空間が出来上がった。

 静かになった空間では、あらゆる音が普段より大きく聞こえるもので、ドサッと軽い少年の身体が床に着地する音と、もう一つ。見苦しい叫び声を上げて床を転げ回る、ラウドの“騒音”が、より一層その場にいる者たちの聴覚を支配した。


「イテェェェ!? オ、オレ様の膝がぁ!!」


 ラウドが押さえているのは、真新しい傷の残る左膝の方ではない。ドクドクと血を流しているのは、ほんの数秒前までは無傷だったをおさえて、床をのたうち回っている。丸く抉られたその傷を付けたのは、座った位置から一歩たりとも動かず、あろうことか空いた左手にはジョッキを持ったままの、小銃ライフルを構えたニドであった。

 手を離され自由になった少年は、ニドの行動に驚きながらも、強く掴まれて赤黒く手形の痣が残る右手首をさする。それをニドも横目で様子見していたが、少年は気づかない。


 自分の膝を撃ち抜いたのは、“ニド”であると認識したラウドは、真っ赤な顔をして、床を転げる自身を見下しているニドを睨みつけ、怒号を上げる。


「ニドぉ! テメェなにしやがる!?」

「オレ様にこんなことして、ただじゃおかねぇぞ!!」


 唾を飛ばしながら叫ぶラウドの姿に、一切動じることないニドは銃口を引き上げると、「文句があるのはこっちだ」と怒りで冷えた声を発した。


「オレは“イエス”と答えた覚えはねェ。勝手にオレの“戦利品”を持ち逃げしようとしたテメーを撃った。それだけだ」


 まったく悪びれずにジョッキを煽るニドの姿に、更に顔を真っ赤にしてラウドは殴りかかろうとする。

 しかし、ジョッキを煽りながら、ラウドの拳をすんなり避けて椅子から立ち上がったニドは、小銃ライフルを背中のホルダーにしまうと、空いた右腕で呆然としている少年を抱きかかえ、窓から外へと飛び出した。


「じゃあな! あばよ、ラウド」


 外へと逃げたニドたちを追って、足を引きずるラウドと、その取り巻きたちがゾロゾロと店の外へと走っていく。

 その様子を尻目に、1人カウンターに向かい、この騒ぎの中でも一切動じることのない白いひげが特徴の初老の店主に、イルザは“お代”を差し出す。


「ニドたちの食事代と、騒がしちゃったお詫びね」

「いやいや。儂も、ラウドたちには心底嫌気が差していてね。最近は、ニドのおかげでこの通りも平和で助かるよ」


 ラウドは裏通りの顔、とも言われているが、実際はその横暴な態度は目に余るところがあり、街の人間も困っていた。だが、ニドがラウドを懲らしめてくれたおかげで、ラウドたちの仕事が減り、裏では感謝されていたことを、ニド本人は知る由もなければ興味もない。イルザも決して言うことはない。

 イルザは薄く笑みを浮かべると、静かになった酒場から自らも退散した。



 やがて、店内は活気を取り戻した。

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