第4話 バイガールとヒステリックボーイ

 意を決して、目を閉じて。


 幸福の絶頂に上り詰めようとしていた俺は、その一歩手前で、地獄の産声を聞いた。


キイィン


 決して聞き逃してはならない音。何も見えない世界で、俺は呼吸が出来なくなった。


 ――そうだ。俺は、怪人に襲われたんだ。道行く誰かが怪人になって。だから『あの音』が聞こえた。だから今、息が出来ない。


 そう結論づけたのに、俺は目を開けることが出来なかった。有り得ないはずの最悪の事態が恐ろしかったからだ。怪人になるのは、体のプラスチック率が90%を超える人のはずだ。それほどのプラスチック率を誇るのは、生にしがみつく一部の富豪だけ。だから、早く逃げなくては。首を絞める手をどけなくては――。


「な、んで……」


 色づいた世界に戻った俺を出迎えたのは、光を失った2つの目。表情が抜け落ちた顔。花柄のワンピースから俺の首に伸びる白い手には、これっぽっちの温もりもなかった。


「……なんで、だよ」


 こんなことなら、目を開けなければ良かった。見たくない現実を、何で俺は見てしまったんだろうか。


 このまま窒息死するのも悪くないと思っていたが、本格的に意識が遠のき始めると、手を反射的に振り払ってしまった。咳ばらいを繰り返して、心の底から出た思いを叫ぶ。


「なんでカルナなんだよ!」

「イィイィイィン」


 『カルナだったもの』の肩から、半透明のウィップがいくつも伸びる。それはまたしても俺の首を狙っていた。


 俺はただそれを見つめるだけ。逃げる必要はなかった。頑丈だからではない。怪人になった人は元に戻らないからだ。抗って、生き延びた先に何がある?


「お、幸が薄いねぇ。少年」


 閉じようとした目が、その一言で見開いた。


「――待って!」


 俺とカルナの間に入り込んだ黒い刃がピタリと止まる。コマ切れにされたウィップがパラパラと落ちた。刀身はカルナの方に向いている。


「理由は」


 おじさん、いや、討伐部隊の柳楽隊長が、カルナを見据えて呟いた。


「俺の彼女なんだ!」

「有り得ない。コイツは俺がさっきまで追ってた獲物だ」

「――は?」


 どういうことだ? カルナはずっと俺と一緒にいたはずだ。トイレにすら1度も行っていない。それに、討伐隊が追っていたのは――。


「アロイクラスだ。人に化けることが出来る個体かもしれん」

「正解だよ。1割だけね」


 新しく入って来た声が聞こえると同時に、凄まじい衝撃音が鳴り響く。咄嗟に振り返った柳楽隊長が、剣を振り抜いたのだ。


「お前、分身出来たのか?」

「なっ……あ?」


 柳楽隊長の剣を素手で受けているのは――カルナだった。目はぱっちりと開いていて、顔には俺が愛した笑顔が張り付いている。服装も、髪型も、全てがカルナだ。


「私はカルナ。そこにいるのもカルナ。でも残念だね。私は君が愛したカルナじゃない。私はただの案内人だよ」

「違う。お前は俺の獲物だ」


 柳楽隊長の剣の刀身が一瞬で短くなる。ナイフ程の大きさになると、一歩踏み込んで距離を詰め、手首を使って連続攻撃を繰り出した。


「っ!」


 しかし、カルナの移動速度は尋常ではなかった。一瞬で距離を取ったかと思えば、次の瞬間には追撃態勢の彼の背後に回り込む。反応しきれず、後頭部に強烈な手刀をもらう。柳楽隊長はそのまま大通りに吹き飛ばされてしまった。


手を軽く払ったカルナは、俺達の方を向く。


「カルナ……カルナを助けてくれ!」


 何が起きているのかなんて分からない。それでも、これだけ変なことが起きてるんだったら、怪人になった彼女を戻す方法くらい、あってもいいんじゃないか?


 失意の中で叫んだ願いは、元通りになって欲しい人の声で、姿形で、笑われてしまった。


「あはっ! 本当に言ったよ! 流石は社長だね」


 直後、笑顔のカルナの体からどす黒い粘性のもやがあふれ出る。それは意志を持つように動き、大きな楕円のゲートを形作った。


「入りなよ」

「……なんで」

「君が求めるものがあるからだよ」

「……」

「君の願いを叶えられる人がいるよ」


 その一言を聞くやいなや、俺はゲートに飛び込んでいた。もちろん、ウィップを切られて動かなくなったカルナを抱えて。後先のことなんか考えていない。考えたくもなかった。


 ゲートの中は真っ暗で何も見えない。感じられるのは、冷えたカルナの腕と、水に濡れたプラスチックが地面を打ち続ける音だけ。それらすらも段々と遠のいていく。


 音が消える寸前で、切羽詰まった柳楽さんの叫び声が聞こえた気がした。

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