第2話
雪の静寂の中にいて、何かこの世界とは違う小さな音がする。夜闇に包まれているはずなのに、向こうがぼんやり明るい。
——ああ、夢だわ。これ。
夢とはえてしてそうであるように、ラピスは微睡の中でそう認識し、瞼をゆっくり開いた。寝入った時と同じように部屋の灯りがついている。しかし寝台横に座っていたはずのクエルクスがいない。どこに行ってしまったのだろうと寝返りをうつと、さらに毛布が一枚かけられているのに気がついた。
「あ、目が覚めましたか」
室内のどこかから耳が探していた声がした。途端に安堵して、ラピスは布団の向こうにクエルクスの姿を見つける。
「クエル? 私どのくらい寝てたの」
まだ重たく感じる頭をどうにか上げると、嗅いだことのない甘い香りが鼻を掠めた。不思議に思い部屋の中を見回せば、クエルクスのそばの卓上で、何かが燭台の火とは違う明るい色の半円球を作り出している。
その中心にあるものに、ラピスの目が惹きつけられた。
夜空に輝く一等星のように煌々と青白い光を纏っているのは、いくつもの花びらだ。いや、花びらそのものが光源になっていて、その回りまでもが同じ色で照らされているのだ。
ラピスが身体を起こし、その視線が自分の手元に釘付けになっているのに気がついて、クエルクスはいくつもの花の束から数本を取り上げた。
「見つかりました。これ」
クエルクスの手の先で花びらが揺れ、光が舞った。粒のように溢れる、そんな言葉を思わせる輝き——研究書にある雪星草の描写そのものだった。
「クエルクス、まさか一人で海岸に?」
「ああ。朝になったら見つからなくなってしまうから」
雪星草は夜にしか花を開かず、太陽の光を強く浴びると花びらが開花前と同じ状態に閉じてしまうという。そうなると他の草との区別がつかなくなってなかなか見つけられない。雪星草の名前の由来は、季節だけではなく、星と同じように夜にしか見られないという特性にも由来があった。
「でも探すのは丹頂が手伝ってくれましたし、そんなにかからず済みましたよ」
恐らく早々に南のユークレースへやってきた丹頂たちにクエルクスが頼んだのだろう。魔法使いの一族の末裔として、クエルクスには動物と意思疎通ができるという能力があった。
クエルクスは寝台まで近づいて腰を落とし、寝台の上に正座したラピスの方へ雪星草を傾ける。幾重にも重なる小さな花びらが細かく揺れて、ラピスはつい、手のひらを丸めて落ちてくる光を受け止めようとしてしまった。雫のような強い光の粒子が花弁の中から溢れる。
「うわぁ本当にシリウスみたいに光るのね……きれい……」
そう呟くラピスの顔も星と同じ輝きに照らされる。まだ瑠璃色の瞳はいつもの風邪のときと同じくとろんとしてはいるが、驚きと感嘆のために、確かに眼の奥が輝いている。外出前のひどくだるそうだったときにはなかった笑顔を目にして、クエルクスの方も気が和らいだ。
「花びらも柔らかいし、ちょっと持ってみて。残りを花瓶に生けちゃうので」
自分の持っていた茎の一本をラピスに手渡そうと差し出し、手と手が触れた。するとラピスは「冷たっ」と叫んで花を膝の上に落としてしまった。
「いやだクエルクス、手がすごく冷たいわよ」
「あ、すみません。外から帰ってきたばかりだから」
「あぁんもう、雪のせい? クエルクスが凍えちゃうじゃない。髪の毛も濡れちゃってるのじゃないの?」
言われてみれば、頭に降ってきた雪が溶けてクエルクスの漆黒の髪は若干、水分を含んでいた。だが別に大したことでもないし、手で雑に髪を払って苦笑する。
「寒さくらい平気だから。僕はラピスが元気になればいいですから、早くに寝て治して。雪星草も一部、香るように枕元にでも置こうか」
そう言って花束と花瓶が置きっぱなしの卓の方へ戻ろうとすると、ラピスが正座のまま手招きをする。自分がいま握っている残りの花もくれという意味かと、クエルクスは寝台から離れかけた足を戻した。
すると、いきなり強い力で引っ張られた。
「えっちょっとラピス」
ぱさりと音を立て、手にした雪星草が寝台のうえに落ちる。斜めになる身体が支えを求め空になった手が自然と前に伸びた。そして片手は布団に着地点を見つけるが、もう片方は掴むところを見つけられずに——条件反射的にラピスの背中に回していた。
正しく言えば、クエルクスの腕を掴んだラピスが抱きついてきたために、そうでもしなければ自分の体重で押し倒してしまうところだったのだ。
「ほぅらぁ、もうクエル、すっかり全身冷えちゃってるじゃないー」
耳の後ろでそんな呑気な声が聞こえるが、それどころではない。そして逆にラピスの身体の方は異常に熱い。
「ちょっ……だめです、ラピスが凍えてしまうからっ。まだぜんっぜん熱下がってないじゃ」
「ふふ、だから、ね。凍えるくらいでちょうどいいでしょう。クエルは寒くなくなるし私は熱が下がるのー」
「なにふざけたことを」
というか、この姿勢に冗談ではないと言いたい。どうにか引き剥がそうとするも、身体が衰弱しているはずのラピスの力が異様に強い。確かに病人は時に病人とは思えぬ頑固一徹な力を発揮するとはいえ、ラピスの腕はクエルクスの首にがっちりと回されて動こうともしない。
「クエル、冷たくて、気持ちいい……」
本当に気持ち良さそうに恍惚として囁くと、ラピスは吐息した。合点がいった。どうやらラピスは完全に熱にうかされているのだ。頭の方も首をまっすぐにしてるのが辛いほど重いのだろう。こてんとクエルクスの肩に頭をもたせかけ、動かない。肌の出た首筋にラピスの細い髪の毛が触り、クエルクスの鼓動がどくりと鳴るのと同時に髪が触った場所から鳥肌が広がるような感覚を覚える。
——まずい。
誰かが来ようものなら結果が目に見えている。
それより何よりその前に、この状態が耐え難い。
「雪星草、見られるなんて、ねぇー……すごい、お守りに、なるのぉ」
こっちの心境もお構いなしに、夢見るような調子でラピスの口から言葉が溢れる。実際、半分もう夢の中なのかもしれないが。
そして普段ならほぼ発さない、安心と慈しみと、甘えが混じった声で言うのだ。
「ありがとう、クエル——大好きよ」
熱の籠った息が首の後ろにかかり、一瞬、クエルクスの方は息が止まった。
「っ……!」
もうラピスが熱いのか自分が熱いのか区別もつかず、とにもかくにも全身全霊をかけてラピスを引き剥がそうと試みる。
「ラピスっ、熱まだ酷いから、もう横になって」
「いやぁ、もうすこし、あと、ちょっと」
「嫌じゃなくてほら、言ってることもなんか変ですよ……あ。」
ようやくラピスの腕を首から外し、布団に横たわらせるために抱き上げようとした時、寝台横の小卓に置いておいた薬湯の碗が目に入る。
「ラピス」
記憶が正しければ、あの薬には滋養のために酒が入っている。そしてラピスは。
「酔ってますね?」
酒に滅法弱い。
確実にまだ酒が抜けていないらしく、「酔ってるわけないじゃない」「クエル冷やっこくてちょうどいいのー」と滑舌悪くのんべんだらりと言い続けるラピスをなんとか宥めながら寝かせ、もう一度布団を掛けると、クエルクスはラピスから見える位置へ小卓を動かして雪星草の花瓶を置いた。
甘い香りで近くにきたのが分かったのか、ラピスは一度閉じた目を細く開けて花を眺めて微笑む。
「きれい」
「灯りはつけておくから、しっかり寝てくださいね」
「クエル、行っちゃうの? 雪星草、きれいなのに?」
「僕は探しながら十分見ました。ほらおやすみなさい。明日朝一番で来ますから」
途端に心細そうに眉を下げるので、まだ少し小さい頃にラピスが風邪をひいた時そうしてやったのと同じく、額をゆっくり撫でてやる。するとラピスは熱で潤んだ眼でクエルクスを見上げ、本当に子供のように控えめな甘え声を出した。
「寂しいから、クエルも
クエルクスの身体と思考が固まった。
じっと見つめる瞳の金縛りに抗い、集中力を総動員してラピスの額から手を離す。
「や、やっぱり熱まだ高いですね! そんな馬鹿なこと言って」
「だってこの部屋広いんだもの」
「いつも普通に寝てるくせに」
「雪星草ひとりで見てるのもったいないし」
「だから僕はもう十分ですから! はい、もう行きます」
てきぱきと落ちた葉や生けるときに使った小刀を片づけ、クエルクスは一刻も早く部屋を出ようと決意を固めた。しかし、ふとこちらを見上げるラピスの微笑む顔が見えてしまった。
「ね、じゃ、寝るまで手、繋いで」
その顔と声には弱い。
***
音を立てないよう扉を閉めると、背中をそれに預け、クエルクスは脱力した。閉じた目を額もろともに手で覆い、長い溜息を吐く。
「もう……限界……」
散々の押し問答の末、結局ラピスは寝付くまでクエルクスの手を両手で包んで離さなかった。実に平和な寝顔を見ているこっちの身にもなって欲しい。しかもまだ半分起きている時に椅子から立とうとすると握り直し、自分の顔に擦り寄せるという始末の悪さだった。
柔らかで熱を帯びたラピスの頬の感触が手にまだ残っている。
——次から絶対、ラピスの看病はしない……
雪の中で冷えた身体が完全に熱くなっているのが嫌でも自覚される。失われなかった自分の理性を自分で褒めながら、クエルクスは決意新たに扉を離れ、廊下へ足を踏み出した。
*
ところで雪星草にはもう一つ花言葉がある。
空気の冷たい夜、ほんの短い間だけひっそりと咲くがゆえに生まれたその言葉は、気高く光る花のまた別の一面。孤独の中で自分を見つけてくれるものを待つ、可憐な姿を表すもの。
『どうか、あなたをください』
ちなみに翌日、黒髪の若い従者がリアの城で高熱を出した理由は、誰が聞いても答えてもらえなかった。
——完
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