凍えるほどにあなたをください
蜜柑桜
第1話
凍えるほどにあなたをください
神話が完全に過去のものとはならず、不思議な力がまだ生きていた時代。
世界は神の手の内にあり、混沌の中から少しずつ秩序が生まれ始めていたとき。
季節は星々の気まぐれによって巡り、春から秋、冬から夏へと流転した。
海の潮は満ち引きの時を星に知らされ、生き物を運び、浜に届ける。大海の恵みは人間の営みを助け、人々もそれに感謝した。
半島の先端に位置するユークレースも、海神に慈しまれて育った王国である。その南の海に面するのが王都リア。白壁の王城と白浜が美しいこの港町に、次期王位継承者たる姫君が生まれたのはもう十七年も前のこと。
これはその王女と、彼女に忠義を尽くす従者に、とある季節の悪戯がもたらした夜のお話。
***
今朝の日の出間近、昨日までうだるような熱波に見舞われたユークレースに、突然すさまじい北風が通り過ぎた。予想よりも遅く顔を出した太陽が地を照らしても気温は上がらず、海上では鴎が一斉に港を離れて遠くへ飛び去る——星が転換し、季節が冬へ変わったのだ。
夕方過ぎから次第に空を鈍色の雲が多い、張り詰めた空気をわずかに和らげていた太陽の光も隠れた。陽射しの代わりに空から舞い降りるは綿毛のような白い雪片はたちまちのうちに城下の石畳をうっすらと白く覆い、道ゆく人々は手を擦り合わせながら家路に着く。
雲の向こうで太陽が沈むのもまた早く、夕暮れも見えぬままに都は宵闇に包まれ、彼方へ、こちらへと民家の中で灯火が点く。海に接する高台に建つリアの王城もまた同じ。白亜の壁にはまる窓から橙の光が一つ、また一つと漏れ始める。
白の最上層に位置する窓にも、早々と明かりが灯された。ユークレース国王女ラピスの居室である。部屋が明るくなってからしばらくして、海を望んで大きく作られた出窓に黒髪の青年の姿が現れ、淡い水色の窓覆いが下げられた。
「あぁっ! クエルクス、だめ、閉めちゃ雪が見えなくなっちゃう」
「何言ってるんですか。この雪で開けておいたら部屋の中まであっという間に冷えてしまいます」
クエルクスと呼ばれた青年は一瞬だけ手を止めたが、黒鳶色の眼を半眼にして主人を咎め、すぐに残る窓の覆いも下ろしていく。
「だからじゃない。こんなにきれ……ふあ…は……はくちょっ」
抗議したのはこの部屋の主であるラピス。ユークレース国王女という貴人であるはずの彼女だが、いまは情けなくも寝台の上で淑女とは思えぬ格好のつかないくしゃみをする。
「まったくもう、暖かくしないともっと熱上がりますよ。ほらちゃんと毛布もかけて」
「うぅー……」
ラピスは半身を起こして従者を睨んでみるものの、風邪の身体である。軽く両肩を押されてしまっては抵抗もできず、しぶしぶながらされるがままに寝かせられ、布団を上から被せられる。それでもまだとろんとした目を瞑ろうとしない。
「もったいないわ。この時間ならまだ色々と仕事もできるのに」
「自業自得でしょう。明日にしましょう。今日はもうさっさと寝てしまって。明日はちゃんといつもの時間に迎えに参りますよ」
「うぅ、はぁい」
不承不承といったふうではあるが返事が聞こえたので、クエルクスは消灯して退室しようとランプの方へ身体を向けた。すると敏感な耳が遠慮がちな囁きを捉えた。
「ねぇクエル……寝るまで、いてくれる?」
熱で潤んだ目でそう見上げられてしまっては、他に何ができるというのか。クエルクスは仕方なく寝台横の椅子に腰掛けた。するとラピスが安堵したように微笑みながら目を閉じる。
昔からのラピスの癖を考えれば、少し話でもしていれば疲れて眠るだろう。そう踏んで、クエルクスはあまり咎め口調にならないように切り出した。
「どうしたんですか。何か気になるものでも、浜にありました?」
「んん、あのねぇ、すごい暑さの夏からいきなり冬に変わったでしょう。しかも、雪よ。だから見られるかもって、探してたの」
「それで探してたって、あぁ、だから海岸に」
小さく頷くと、乱れがちな息で途切れ途切れにラピスは続けた。
「そう、
雪星草は季節が安定しないこの世界において、どの四季にも属さず、夏と冬の間に咲く花である。植物種として確認されてはいるし、雑草のように種子自体は至る所にあるという。ただし発生は極めて稀で、季節がたまたま夏から冬に変わる時にしか芽を出さない。芽が出れば他の植物よりもずっと速く、瞬く間にその季節に順応して数時間のうちに成長するものの、蕾をつけるのは極めて高温に見舞われた直後に極寒になった場合のみである。
このように蕾ができ、花が咲くための条件は未だ解明されていない。おそらく大気のうちにある熱と突如訪れた冷気が瞬間的にぶつかりあった時に、空気中の気圧の急変と湿度、温度の全てがごくごく狭い範囲内の値に入れば良いのだろうと言われているが、正確な要因は研究の途中である。
ただ実際、非常に珍しいことではあっても、雪星草は咲くのだ。特に季節が今日のような変わり方をしたときには。そして湿度と空気中の塩分も関係するのか生息地は主に海に近い地域である。それらを考え合わせれば、大海に面したユークレースの首都リアは最高の土地だった。
御伽噺や伝説が大好きなラピスのことだ。奇跡の花と言われる雪星草に憧れるのも無理はない。絶好の機会と思って寒い中、海岸沿いを長いことうろついていたのだろうと、クエルクスには合点がいった。
「残念。クエルクスに見つかっちゃうなんてね」
「当たり前です。どれだけ心配したと思ってますか」
ラピスは朝から市街の方へ視察に出ていた。突然の寒気に続けて雪が降り始め、城中が対応に大慌ての中でラピスが帰っていないという。クエルクスは別用で城に残っていたのだが、ラピスに連れ立った者に聞けば、昼前に視察が終わると海岸に寄ってから帰ると告げて供の者を先に帰城させたというので大急ぎで海沿いへ駆けつけたのだった。
「でも簡単には見つからなかったし、やっぱり難しいのかしら」
諦めたように言うと、仰向けになっていたラピスは首だけを少し傾け、布団から出した手でクエルクスの袖に触れる。瞼はいつもよりやや閉じ気味だが、それでも瑠璃の瞳に興奮した色を湛えて話し出した。
「ね、雪星草って、シリウスの色なんですって。青く強く輝くのだって。花びらは雪みたいに冷たくて、でも寒さの中でも強くて。すごく貴重な花なのと、その光の強さとで、どんな花言葉を持ってるか知ってる?」
「えっと。確か、運命の出会いと切れない絆を、でしたっけ」
「そう、それ。もし見られたら、とっても強いお守りになりそうじゃない」
天井の方へ顔の向きを戻して瞼を閉じると、ラピスは吐息する。
「次に夏から冬になるのは、いつかな」
「きっとまた来ますよ。まずはよく寝てください」
「そう、ね……来週には、会談もあるし……」
次第にラピスが言葉を続けるのがゆっくりになり、クエルクスの手元に置かれた手から力が抜けていく。
「いま、見たかった……な……」
そう呟きがしたら、そのあとは吐息しか聞こえなくなった。完全に眠りに落ちたらしい。これだけすんなり寝入るとは、先ほど飲んだ薬が効いている証拠である。
軽率に雪の中を歩き回っていたのは見過ごせないが、クエルクスにはラピスがそこまで雪星草にこだわる理由もわかる気がした。来週には諸外国と王女隣席の会談が控えており、ラピス自身もそこで重要な役を担うことになっている。そのせいでここしばらくの間、ずっと緊張し、しばしば心ここに在らずという状態にさえなっていたのだ。
確かに自然が好きなラピスなら珍しく美しい花を見れば暗い気分もいくらか飛ぶだろうし、会談を控えた今は雪星草の花言葉にもあやかりたかったのだろう。
「夏と冬の間の花、か」
窓の外では闇夜の中を白い雪片が絶え間なく舞い落ちている。もうしばらくすれば、海岸沿いでも海から少し離れたところは一面、雪に覆われてしまうだろう。
ラピスを見れば、いまはもう規則的な吐息を繰り返している。クエルクスは熱を帯びたラピスの額にそっと触れ、そのまま頭を優しく撫でると、椅子から立ち上がった。
——続
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