魔女会議、始めます。―魔女がたりの少女は今日も欺く―

古賀文香

第1話すべての始まり

―事の始まりは、とある女性の祈りからであった。脅威であった敵国や亜人達の度重なる襲撃により、祖国の土地は枯れ果てていった。そして、飢えや疫病に苦しまされていた。だが祈りが通じたのか、女性の前に現れたのはこの世の者とは思えないほどの美しい青年であった。懸命なる祈りに心を打たれたのか、青年は女性に万物の力を与えることにした。

 麗しい青年は彼女に救済の旅に出よと告げる。旅の道中で彼女は同志達と出会う。彼らも平和願っており、力を授かったという。

 御力によって祖国を救済していった。自国に平和をもたらした中心人物の女性は、後に救済の魔女と。そう讃えられることになる。

「と、そのような偉大なる功績を残された魔女の血を引くのが、我々です。この力はわが国における誇りそのものなのですから」

「……はい」

「ですが、その魔女の最期は凄惨なるものでした。―信じていた仲間による裏切り。その裏切りにより、命が絶たれてしまったのですから。……わかりますね、あなたが今罪に問われているのは」

 問われた人物は息を呑む。豪奢な部屋の中央にて、いたって平凡な少女が今まさに糾弾されていた。少女と同じ頃の若者が、少女を取り囲む形で席に着いていた。ただ一人立たされ、そして多数の刺すような視線に少女は怯む。それでも。

「この国における大罪の一つ、それをあなたが行っているのだとしたら。我々はそれを看過できません」

「……私は」

「それでもあなたは―かたり続けるのですか」

 それでも、だ。彼女は退くわけにはいかなかった。

―自分の事の始まりは何だったのであろうか。この緊迫した状況ながらも少女は思いを巡らせる。少女は視線の先を糾弾する側の人物の一人に向ける。そう、事の始まりは。


 時は遡る。


『―くん、みつけた!やっぱりいた』

 川原の横を犬の散歩をする老人や、帰宅途中の学生達とすれ違う。暮れなずむ川沿いを幼い少女は駆けていく。目当ての幼馴染の少年を発見したからだ。

 大勢で遊ぶ約束をしていたのに、気分が乗らないの一言で一蹴されてしまった。少女はもしかしたら、と約束の場所に訪れていたのだ。前を歩く相手に追いついた少女は嬉しそうに笑う。

『げ……』

 上質な服を身に着けた利発そうな少年は、秀麗な顔にまゆを寄せる。げんなりされるのも、面倒くさそうにされるのも少女にとっては慣れたものであった。だが、いつもとはどこか様子が違っていた。

『だいじょうぶ?ぐあいでもわるいの?』

『べつに……』

『そう?でもほんとうに元気なさそう』

 無理強いさせたのではないか、と少女は相手の顔を覗き込む。

『……近い。うっとおしい』

 そしていつものように片手で遠ざけられてしまった。

『……気のせいか』

 少年は周囲を見渡すとため息をつく。それから少女の手を掴んだ。

『仕方ない、日が沈むまでならいいけど』

『うん!』

 川の土手に並んだ二人は、それとない話を続ける。主に話しかけるのは少女の方で、少年の方は話半分で聞き続けていた。

『でね、きのう帰るときにね、お母さんが石をなげるの見せてくれたんだ!すごいんだよ、ピョンピョンってなって!あんたもこんどやってみなさい、って』

 立ち上がった少女は、足元にあった石をそのまま川に投げつけた。そのまま単純に石は沈んでいった。母が言ったようにはならなかった。

『はねてないし』

『あれ?もういっかい!』

 もう一度母のフォームを思い出し、石を横投げする。何度も投げてはそのまま沈んでいく。このままだとまだかかりそうだった。少年はこっそりと川に向けてをかざした。投げた石は水面を2回跳ねていった。少女は小さくガッツポーズする。

『やった!やった……んー?』

 隣の少年はこれみよがしに視線を背けていた。そういうときは決まってバツが悪い時である。

『わかった。またマホー使ったの?』

 少女はこっそり耳打ちした。前に大きい声でそういったら怒られたからだ。彼はどうやらこの事を隠したがっているようだった。少年は別に、と答える。不思議な力、少女曰く、魔法を使ったことには違いなかった。

『すごいのにね』

『……べつに。ばれたらうるさいし。めんどくさい、そういうの』

『そうだね。サンポしているおじいちゃんが転びそうになったのを、こっそりたすけたり、あとは―』

『……うるさい』

『えへへ』

 誰かを傷つけることに使わないのも彼の人柄からわかっていた。

『もう、おうちにかえらなくちゃ。でも、みてて!こんどはもっとうまくなっているから』

『あきらめの悪いやつ……』

 日はじきに落ちる。名残惜しそうに少女は空を見上げていた。だが、今日はここまでと背後の彼を振り返ろうとした時。

『うわっ』

『危ない!』

 突風が彼女を襲う。少年に引っ張られてなげれば、そのまま川に落ちていたかもしれない。お礼を言おうと彼の顔を見るが、青ざめていた。

『……聞いて。今すぐこの場から離れて。オレのことはいいから』

『よくないよ……なんかヘンだよ』

 辺り一面は暗くなっていく。日が沈んだからではなく、黒く淀んだ空気が周辺を包み始めたからだ。尋常ではない事態を少女も感じ取り始める。

『なんかへんだよ……。ねえ、かえろ』

『カヤ!……お願いだから』

『!』 

 自身の名を強く言われ、少女はたじろぐ。そのまま掴まれた手は離される。懇願される目を向けられ、少女は詰め寄ることができなくなってしまう。

『お前を巻き込みたくない。……狙いはきっと』

―オレだから。

 彼がそう言い放ったの同時に、閃光が走った。あまりの眩しさに二人は目をつむる。

『カヤ!』

『……と、くん』

 意識が途切れていく。薄目を開けた少女の目に映ったのは遠ざかる幼馴染の姿であった。彼は目が眩んだままなのか、顔を左手で覆ったままであった。それでも今にも消え入りそうな少女にもう一方の手を伸ばそうとする。

 だが届くことはなかった。二人は分かたれてしまった。


 少女は声にならない叫びを上げ続ける。自身の体にまとわりつく黒い靄に縛り上げられ、苦痛に顔を歪める。かれこれどれくらい続いているのだろうか。視界を覆う暗闇にも絶望する。苦しみ続けた彼女は、早く解放されたかった。このまま意識を手放せば、自分は楽になれると。

『……だめ』

 帰りを待っている母親もいる。学校の友達も。何より、顔に出さずとも心配しているであろう幼馴染の存在。

『帰るんだ……!』

 あきらめないと、少女はもがき始める。今にも呑まれそうになっても、全身で抵抗する。

 一縷の光が差し始めた。少女はその光に必死に手を伸ばす。その度に引き戻されそうになってもだ。

『!』

 またしても光に包まれた。だがこの光は安心できるものだった。少女はゆっくりと瞳を閉じ、その光に身を委ねた。


 ゆっくりと目を覚まし、体を起こす。月明りを頼りに周囲を見渡す。近所の森とは違った、鬱屈とした深い森であった。だがあの暗闇よりはましである。無事脱することが出来たことに少女はひとまず安堵した。

『ここ、どこ……?』

 だが頼るものがない少女は不安になる。瞳に涙を浮かべるが、首を振った。

『ううん、しっかりしないと。こわがってちゃだめ。こわくない、こわくない』

 あきらめないと心に決め、こうしてあの謎の空間から脱出できたのだ。まずは人にここの場所のことを尋ねることにしたようだ。

『こわくない、こわくな……』

 地面に落ちていた木の枝を誰かが踏んだようだ。少女は振り返ると同時に悲鳴をあげた。そしてそのまま後ずさる。

 見たこともない異形の姿だった。よれた腰巻を着用し二息歩行のようだが、緑色の乾いた肌をもち、そして異常に長い耳と鼻をもつ。何か話しかけているようだが、少女は頑なに距離をとろうとする。穏やかな声であろうとも、それを彼女が認識することは難しかった。

 相手は手にしたランタンを少女に近づける。よりお互いの姿が鮮明になった。

『うう……』

 色々なことが起こり過ぎて、少女の涙が止まることがなかった。にじりにじりと近づいてくる相手から逃げようとも、もう体も動かない。ついには眼前まで来ていた。少女は目を瞑る。

『……?』

 少女の目元に皺のある指が添えられ、涙が拭われた。大きく瞳を開くか、間近に迫ったその顔に慄いてしまう。だが目の前の存在はどこか悲しそうにしているだけだった。少女ははっとし、そっと相手の手に触れた。

『ごめんなさい』

 見慣れない姿に一方的に怖がり、傷つけてしまったと。その思いも込めてだった。皺がれた手に頭を撫でられた少女は、もう逃げることはなかった。

 異形の者は後方に向かって、何か言葉を発しているようだ。一呼吸を置いて茂みから何者かが姿を現す。

『―』

 現れたのは同じ年頃の幼い人間だった。褐色肌に簡素な服を身にもとっていても、それでも美しさに遜色はない。肩くらいまでの黒い髪、そして中性的な容姿であることから性別の判別は難しそうだ。

 相手が色々と話しかけてくるが、少女は聞きなれない言語に困惑していた。一方的に話しかけられても、理解することはできなかった。

『……じゃあ、これか?これならわかるか?』

『あ……』

 ようやく馴染みの言葉を耳にした。少女は何度も頷く。やっと通じたか、とお互い肩を下した。傍らにいた異形の者と一言二言交わしたあと、まっすぐに見据える。

『……俺はラムルだ。こいつはトビー』

 俺、という響きにひとまず男であると認識した。

『トビー、さん。それと……。あ、わたしは……』

 落ち着いてきたものの、まだ声の震えは止まらない。それでも声を絞り出して、自分の名前を告げようとする。

『わたしは……つる……やの』

『は?』

 威圧的な目の前の少年ラムルの態度に、びくついてしまった。ますます萎縮してしまう。

『そ、その、つる……か……』

『……ツルカ?』

 温もりのある声で呼んでくれたのは、異形の者であるトビーであった。ある意味救いであったこともあり、少女はつい頷いてしまった。確認を込めてトビーはもう一度彼女の名を呼ぶ。不思議と馴染んだ。もう一度少女は頷く。

『はい。わたしはツルカ、です』

 トビーは安心するように、と肩を軽くたたいてくれた。こちらの方は言葉が通じないようだが、それでも悪い人ではないと少女は思えたのだ。

 きっと、この恐そうな少年も悪い人ではないはずだ。だから改めてきちんと挨拶することにした。

『あやしいものではありません!トビーさん、それにラムル!できればここがどこか教えてください!』

 今度は元気よく挨拶できた、と鼻をならす。だがラムルの表情は険しくなる。

『うるせぇ』

『え』

『それにいきなり呼び捨てとかなんなんだ、お前。。いいか、俺はラムル様だ!とんだ無礼者だな、まったく』

『え』

 どこぞの幼馴染も、初対面の時呼び捨てにしたら嫌な顔をされた。そのことを少女は思い出す。

『ごめんなさい、ラムルくん!』

『ラムル様だ!わかったか、鼻水女』

『は、はなみず……?』

 呆然としつつも、少女は持っていたハンカチで鼻を拭う。彼女は気がつく。ずっと自身が鼻水を垂らし続けていたことに。顔を真っ赤にしながら顔を背けた。

『んで、鼻水女。みたところ迷子か。いや……』

 言いかけたところでラムルは口を噤む。そして黙ったまま、森の奥深くへと歩いていった。

『とりあえず休んでいけば?少し歩くけど』

『え……』

 ゆったりとした所作でラムルが振り返った。彼のこのような穏やかな表情は初めて目にするものであった。少女は戸惑う。

『色々あって疲れただろうし。もう安心しろよ……こわくないから』

『……はい』

『わかったならいい。まあ、ほんと心配しなくていいからな。このラムル様のもとなら、な!』

『……うん?』

『このラムル様の元ならな!だから敬えよ、鼻水女!』

『は、はなみずおんなじゃない。……ツルカだよ!』

『そうかそうか。鼻水垂らしのツルカだな。覚えておく』

『もー!』

 地団太を踏みかねない少女ツルカを尻目に、高笑いをしながらもラムルはさっさと歩いていった。そのやりとりを見守っていたトビーはくすりと笑ったようだ。

『おせわになります!』

 やけくそながらにそう言いながらも、ツルカは続いた。

 そして歩き続けていくと、明かりが見えてきた。中央に焚火があり、それを囲むように木造の家たちが並んでいた。その場しのぎで作られたような粗雑なものであった。ここで暮らしているのだろう。夜が深まった分、他の住民たちは寝静まったようだ。

『う……ん』

 まだ幼いツルカも例外ではなかった。疲労もあって眠たそうに目元をこする。トビーが背負うとしてくれたので、素直に甘えることにした。

『まあ、トビーんとこに世話になれよ。こいつが第一発見者なんだからな……なんだよ、その目は』

 トビーが何か述べるとラムルは慌ててる。そして否定しているようだ。

『違うし!俺じゃない、こいつだ!こいつが発見して、助けたんだ!……だ、誰が必死だったとか……おい、トビー!』

 そこからの会話はツルカは覚えてない。眠気と聞きなれない言語の相乗効果で、ツルカはそのまま眠りこけてしまった。


 ツルカがこの集落の世話になってから、月日が流れた。集落の一員として、雑務に追われる日々を送っていた。トビー達の言葉は難解であるが、意思の疎通はとれるようになってきた。こうして忙しい毎日をツルカは送っている。今はこの場所で懸命に頑張るしかないのだ。

『よう、ツルカ。相変わらずあくせく働いているようだな。ご苦労ご苦労』

『ラ、ラムルさま』

 薪を集めている彼女の元に、のこのことラムルがやってきた。あくせく働く彼女を見にきては、上から目線の言葉を吐いて去っていく。そしてそのまま自身の居宅へと戻っていくようだ。ベランダにあたる場所で椅子にもたれかかり、そのままぼうっとする。彼が気が向いた時に何か手作業をしているようである。それが彼の日常であった。

 この生活を続けて彼女はわかったことがある。ラムルは彼らの中心人物であった。トビーと似た容姿の亜人達と暮らしているようだ。そして、この集落で過ごすのは彼らだけではなかった。

『ツルカー、そっち集まった?』

『リアナちゃん。うん。でももっとあつめられるよ』

『ううん、いいよ。上出来上出来』

 リアナ。ツルカより多少は年長の金髪少女もそうだ。彼女の言葉も最初は理解できなかったが、それでも聞き取りやすいようだった。完全とは言えないが、支障が出ない範囲で会話を交わすことができた。

 この集落では子供達が保護されているのだ。あの時言い淀んでいたラムルは、当人の前では言えなかったのだろう。この森ではたまに子供が迷い込むという。いや、迷い込むというよりは捨てられたというべきなのかもしれない。目についた子供を片っ端から連れてきているのはおそらくあの尊大な態度の少年だろう。

『ラムル様、わたしたちを助けてくれたのは感謝してる。でも、いいのかなって』

 リアナの視線につられてツルカもラムルを見る。そのラムルが近くにいた亜人に声をかけ、椅子から立ち上がる。一瞬みせた険しい顔にツルカは息を呑む。この表情の時はいつだって胸がざわつく。しばらくして何事もなかったかのように帰ってきても、不安なままだった。

 彼らは理由があって森の奥深くに隠れ住んでいるようだ。だからこそ、とリアナは告げる。

『隠れて暮らしているのに……わたし達のことを疑いもしないんだなって。わたし達トラオム人のこと』

『リアナちゃん……?』

 トラオムとは彼女も含め、ラムルが保護した子供達の出身の国だ。ツルカの国のことを言っても彼らはピンとこなかったようだ。

 淡々と告げるリアナの表情はどこか生気のない表情をしていた。ツルカがそっと彼女に触れると笑顔に戻ったようである。

『とにかく!ラムル様ありがとうってこと!さあ、もうひと踏ん張り!』

『わっ』

 そのまま背中を押されたツルカは薪を落としそうになる。リアナは軽く笑って謝った。

『……』

 集落を発とうとしていたラムルが目が合う。かといって何を言うこともなく、そのまま去っていった。ツルカにとっては不可解なことであった。

 一日の労働を終え、ツルカはトビー達の家に帰る。トビーには妻がおり、今日も温かい料理を作ってくれていた。そのあとにトビーも帰宅をし、食卓につく。彼らは意図的にゆっくりと喋ってくれる。

『―今日も多大なる恵と、ラムル様に感謝を』

 いただきます、と手を合わせてから食事が始まる。他愛もない会話をしつつも、食事はすすむ。ラムルの話題になると彼らは一層顔を綻ばせる。その事でどれだけ彼らがラムルを敬愛しているか、そして親愛の感情があるかが見て取れた。

 今日も穏やかに一日が終わろうとしていた。寝室にて寝息を立てる夫婦の顔をみて、ツルカも眠りに就こうとする。ふと、窓の外を見上げる。夜空に月が浮かんでいた。見慣れたいつもの月よりは巨大に見える。

『ほんとうにここは……どこなの?』

 静まった今だからこそ、ツルカはこっそり体を震わせた。この集落の人達はよくしてくれる。忙しさが悩む時間を奪ってくれる。だが、彼女の中の恐怖が消えたわけではなかったのだ。ここがトラオム、という国のどこかの森なのかはわかる。だが、それ以上は頑なに教えてはくれなかった。

『……くん。お母さん』

 声に出したところで、彼らに会うことはできない。母親は心配している。幼馴染も無事だろうか。考えあぐねいたまま、そのまま毛布にくるまろうとする。

 それでもいてもたってもいられなくなったツルカは、そのまま体を起こす。不安に駆られた彼女はそっと家をあとにした。


 せせらぎの音を頼りに、ツルカは川べりまでやってきた。そのまま空を見上げると、体を伸ばした。そしてゆっくりと腰を下ろす。ただ水の流れを眺めていた。

『……もう、戻らなきゃ』

 夜風に体がぶるっと震えた。話し声が聞こえてきた。ツルカは咄嗟に草むらに隠れた。

『……やっぱりそうなのか』

 ラムルの声がしたからだ。彼がこの時間に川にくるのは珍しい。それに誰かを伴っているようだ。

『自分ち、帰りたいか?』

『うん、かえりたい……だって、だって』

『ま、そんなに言うんだったら好きにしろ、だけどな』

 話し相手は、おそらくツルカより年下の保護された少年であろう。意図もせず盗み聞きの形になってしまったが、どうやらこの少年は脱走を試みたようだ。が、ラムルに見つかったらしく、こうして川べりで話し込んでいるようだった。

『お前がそれを本当に望んでるんだったらな』

『ぼくは……。ぼく、ほんとはここにいたい。でも、ぼくなにもできないから』

『……そんなこと言うやつも思うやつもいないだろ。ここには』

『……うん』 

『なら、いればいい。もう家族みたいなもんだろ、俺たち』

 家族。その言葉がささったのは少年もそうだが、ツルカもそうだった。ラムルの優しい声色にすっかり少年も落ち着いたようだ。そのまま少年をなだめ、二人は川べりから去ったようである。

『家族……』

 ここにいていいのか、という思いは子供達誰しもが抱いていたことだった。ツルカは思わず胸元を握りしめる。

『お前、盗み聞きなんてシュミあったのか。この、鼻水女』

『また、はなみず女っていった!』

 いつの間にラムルが背後に立って見下ろしていた。わざわざ戻ってきたのだろうか。。

『本当のことだろっと』

 そして何事もなかったかのように隣に座った。ラムルはあくまでツルカを見ることもなく話しかける。

『お前、親とは仲いいのか』

『お父さん……はよくわからない。でも、お母さんはだいすき』

『そっか』

 それだけだった。父親とはツルカが生まれたばかりの頃に分かれたようで、よく知らない存在であった。彼女はこれまで母親と慎ましく暮らしてきたのだ。喧嘩をすることもあるが大好きな存在であった。

『……それなら親のところに戻してやりたいけど。だけどニホン、だったか?どこかさっぱりわからなくて。……悪い』

 ツルカは首を振った。ラムルが何一つとして悪いことなどない。それがわかっていたからだ。

『ううん、いいの。ラムルさまやみんなのおかげでこうして生きてるから』

『……』

『あ、生きてます!』

 気がつけば砕けた口調になってしまっていたようだ。ラムルは何も言わず、気まずい沈黙が流れる。沈黙を破ったのはラムルだ。

『……俺はともかく、トビー達はお前のこと大切に思っている。まあ、俺はお前のことなんかどうでもいいけどな!』

『えー……』

『だから、別にいればいいだろ。まあ、お前ムダに力あり余っているし、せいぜいここの、そしてこの俺のために働くことだな!』

『ええー……』

 ラムル節にツルカは気が抜けてしまった。けれど彼なりに励ましてくれていることは伝わってきた。

『だから、せめてあいつらには甘えてやれ。こっそりこうして泣かれるほうがツライだろうし。お前だってそうだろ』

『……はい』

 すとんと胸がすく思いだった。自分だってあずかり知らないところで悲しまれるよりは、力になりたい。せめて分かち合いたい。不安は消えたわけではなくても、ツルカの心は幾分か軽くなった。

『ありがとうございます……ラムルさま』

 だからこそ、くしゃくしゃな顔ながらも精いっぱい笑ってみせた。少しでも平気だと思ってもらうためにだった。

『……』

『……?』

 ぎこちない笑顔に対し、ラムルははっきりと言った。

『変な顔』

『えええー……』

 あまりにも直球過ぎた。

『なにがえー、だ。こっちが言いたいくらいだ。その微妙な顔を見せられたんだ、こっちは』

『くっ……』

 手厳しい反応はさておき、体が冷えてきた。このままだと風邪でもひきそうである。

『寒くなってきたし、もどりませんか?』

『勝手に戻れ。俺はまだここにいる』

『そんな……ラムル様もカゼひいちゃうんじゃ』

『そんなのかかったこともない。そもそも俺に命令すんな』

『……』

 ラムルはそうは言うが、彼が体を震わせたのをツルカは見逃さなかった。何をそう意地をはることがあるのか。

『もーどーりーましょー!』

『なっ!』

 かなりの馬鹿力でラムルを引っ張っていく。そのまま無理にでも家に連れ帰ることにした。

『な、生意気な!俺を誰だと思っている』

『みんなのたいせつなラムルさま。でもね、カゼだってひくかもしれないフツーのひと!』

『この俺が普通だと……』

『ずけずけいうし、はっきりいいすぎだし』

『おい、似たようなこと2回言ったぞ。いや、この俺のことをなんだと……』

 ラムルとて負けじとその場で踏ん張る。これこそ意地だ。意地の張り合いでもあった。

『でもね、やさしいひと』

『……!』

『わっ』

 ツルカの自然体の笑顔をみて、つい手を緩めてしまった。そのまま勢いあまって二人は地面に倒れこんでしまう。下敷きになったツルカを見てラムルは血の気が引いてしまう。

『お、おい……』

『びっくりした……ラムルさまはだいじょうぶ?』

『バカかよ……、どう考えてもお前の方が』

『わたしはぜんぜんへいき!よく、おまえはがんじょうだねって言われるんだ。とっしんされても、ぎゃくにふっとばしそうだって』

『ほめてないだろ、それ……』

『ほんとだ、ほめてないね!あはは』

『……はは、だな』

 ツルカにつられてなのか、微かにラムルは笑う。

『……』

 見慣れない表情にツルカは目を奪われるが、慌てて目をそらす。幸いラムルには気づかれていないようだ。

『油断したな、お先だ!』

『あ、ずるい!』

 先に立ち上がったラムルに起こされたまではよかったが、彼は即走り出す。お礼をいうタイミングもう失ってしまった。

『勝負にずるいもなにもあるか!はははっ!』

 ラムルは悪どい笑顔をみせる。これにはさすがにツルカは目を奪われることはなかった。

『ずるはよくないんだよー!』

『ふはは、負け犬の遠吠えだな!』

『よくわからないけど、ぜったいバカにされた!』

 追い抜いては抜かされの、二人は負けたくないと言わんばかりに全力で走る。そこに在るのは年相応の彼らであった。


 季節は巡る。本日のツルカは植物の、主に茸の採取に出かけていた。

『おう、ツルカ。今日もせくせく働いているな』

『おはよう、ラムル様。みて、このキノコ。すごい大きいでしょー』

 満面の笑みでツルカが見せてきた茸。確かに大きい。大きいが。

『お、お前、よくそんなの手にする気になったな……』

 わざとらしいまでに真っ赤なそれを、自慢げに掲げる。ラムルはため息をついたあと、そっと奪った。

『まあ、トビー達が選別するんだろうけど……毒キノコだからな』

 毒キノコとて彼らには使い途がある。物騒な話ではあるが。

『うわああああ』

『今さらか!いや、今気づいたんだっけ』

 ため息をついたあと、ツルカの手にしている籠をみる。

『……それだけ集めればいいんだな』

『う、うん。とりあえずとってきてくれればいいって。でもあぶないのもあるからぜったい食べるなって』

『食べるなよ』

『食べないよ』

『絶対、食べるなよ』

『食べないよ!』

 これだけ強く回答してもラムルは不信そうだった。

『とりあえずだ。俺が食べられそうなの教えてやる』

『ラムル様……いいの?』

 思わぬ申し出にツルカは戸惑う。もともと碌に採取できてないようだった。とうにラムルはそのつもりだった。

『おっと勘違いするなよ。俺はあくまで指示だけだ。体を動かすのはお前担当だからな』

『うん!手伝ってくれるなら嬉しい。ありがとう』

 素直に礼を言ってのけたツルカにラムルは怯む。しまいには相手は上機嫌に鼻歌を歌う。

『……ま、まあ。脳筋は脳筋らしく働けばいいんだ』

『またバカにされた気がする。まあ、いいや。いこいこ!』

 張り切ったツルカに振り回されながらも、彼らは森の中を歩きまわった。鐘の音が鳴る。労働時間終了のお知らせであった。ラムルは息を切らしながらも、ツルカに文句をつける。

『この……俺をここまで振り回しやがって』

『あはは……つい』

『つい、だと……』

 呑気な解答にラムルは不満を募らせるが。

『楽しかった!ラムル様と一緒にお仕事出来て。こうしてずっと一緒ってそうそうないから』

『……』

『だから、嬉しくて。つい』

 心から嬉しそうにしている彼女をみて、ラムルは毒気を抜かれてしまった。そして照れをごまかすように先に歩きだす。それはツルカも同様だった。ここでも二人は競歩で張り合う。

『はあはあ……今日こそは勝てると思ったのに』

『ははは、お前にはまだ早い』

『くう……あれ?』

 ラムルいつも両耳に黄色の宝石のイヤリングをしていた。だが、片方がなくなっていたようだ。ツルカは真っ青になった。かなり無理な細道も通った。その時に落としてしまったのろうか。ツルカは道を引き返そうとする。ラムルは慌てて彼女を呼び止めた。闇雲に探し回らせるにいかないと。

『いいから、じっとしてろ』

 手を宙にかざすと、迷いもなく彼は歩きだした。ツルカも小走りでついていく。案の定細道の木の枝にひっかかっていた。ツルカはほっとする。率先して細道を強行突破し、そして取り戻したそれをラムルに手渡そうとする。

 宝石に森の木漏れ日が透ける。きらきらとしているそれをツルカはわざと揺らす。黄色い影が地面に投影された。きらめいたそれはツルカの乙女心をくすぐらせた。

『……ほしいのか、それ』

『はっ!ううん、大丈夫!』

 物欲しそうにみていると思われたのだろうか。欲しいといえば、ツルカ的には欲しいものであるが、彼女は首を振る。

『ま……まあ、べつに?くれてやっても』

『ううん、いいの。ほら、ラムルの方が似合うし』

『……なんだよ、それ』

 そのイヤリングをもとの持ち主に返した。それが一番と、ツルカは満足げに頷いた。どこか不満げなラムルに気がつくことはなかった。

 少しずつ。少しずつではあったが、二人の距離が近づきつつあった。そんな二人を集落の人々は温かく見守る。ただ一人リアナだけは複雑そうな顔をしていた。

 季節は巡る。そう、ツルカがこの地に迷い着いてから、じきに二年が経とうとしていた。


 いつもの質素な集落も、この数日は違ってみえた。至るところに花の装飾がなされていた。独特な仮面も壁に飾られる。尖った三角の耳からみるに、猫を模しているようだ。

『お、おお……』

 ここだけの話、深夜に初めてそれらを目撃したツルカは腰を抜かした。未だにそれらにトラウマをもっているようだ。

 年始を祝う、トビーらの祖国の風習であるそれが近日控えていた。誰もが浮足立っていたようだ。

『トラオムだとね、ポムの花を大切な人に贈るの』

『憧れだよねー』

 少女達は少女達で話に花を咲かせる。丸みを帯びたその花はこの森にも群生しているのだという。毎年この時期に咲き、見つけた者勝ちの争奪戦となっていた。なんだかんだで彼らはたくましい。

『ポムの花かぁ……』

 ツルカとて乙女の端くれである。憧れずにはいられなかった。だが、いつもながら唐突に現われるラムルが鼻で笑った。

『悪い、ツルカ。それ食用じゃないからな』

『食べないよ……』

 ロマンがわからないのだろうか。失望しているツルカはさておき、ラムルは少女達一人一人に視線を向ける。

『今夜、大切な話がある。全員広場に集まるように。全員残らずだ、ははは』

 これはまた珍しくラムルが上機嫌だった。手を振りながら、彼女達から去っていく。

『ね、ツルカ。ツルカってば』

 リアナがこっそり顔を近づけてきた。

『最近さ、ラムル様と仲良いよね』

『な、仲いいとか、そんな』

『あやしー』

 そんなことない、とツルカはひたすら首を振る。自分でもどうしてこうも過剰に反応するのかがわからなかった。

『……本当にあやしいよね。ツルカ、秘密にするからさ、本当のこと言ってほしいの』

 リアナは真剣な面持ちでツルカに問いかける。

『夜にこっそり出かけて……ラムル様とあってるでしょ。川の近くで。ねえ、そうでしょ?』

 低く抑えた声はツルカの不安を煽る。リアナの表情も冷めたままであった。

『そ、それは……』

 ツルカは言葉に詰まる。彼女の指摘はまさしく事実であった。お互いに特に約束したわけでもないが、川の近くで会うことがある。そのまま何となく会話して、そしてそのまま帰る。とりとめもないもののはずである。

 それでもツルカにとっては、多大な秘密を暴かれた気がしてならなかった。そもそもある程度見過ごしてくれているとはいえ、この集落の中心人物に慣れ慣れしくし過ぎたのだろうか。

『えっと、ごめんね?責めてるわけじゃないの。でもずるいなぁって。わたしだってラムル様ともっとお話をしてみたいなって。だから、今度わたしも加えてほしいなって』

『リアナちゃん……あの』

 そのまま快諾すれば良いはずなのに、ツルカにはそれが出来なかった。誰しもがその場所を知っていて、ラムルはツルカ以外にもあの場所で相談にも乗っているようだ。リアナ一人が加わったところで、ラムルも気にはしないだろう。

『その、ちゃんと約束しているとかじゃないの。時間もあっという間だし……』

『はいはい。困らせちゃってごめんねー』

 しどろもどろなツルカに対し、悪びれもなくリアナは謝った。ひとしきりツルカをからかったあと、少女達の会話の輪に戻る。ただ一人ツルカだけが翻弄されていた。

『わたしは……』

 もやもやした思いのまま、今日もツルカは仕事に精を出す。ラムルはラムルで忙しそうにしており、そのまま会話を交わすこともなかった。

 集落の広場にて全員が集まる。その中心で声高に話すのはラムルだ。

『―というわけで、迎えがくることになった。年始の日に来る手筈になっている』

 最初は事態が呑み込めなくて静まっていた彼らも、次第にざわつき始める。ただただ惑うばかりの彼らであったが。

『長い間、待たせて悪かった。お前達もようやく母国フルムに帰れるんだ。お前達は耐え続け、頑張り続けてきた。当然の権利だ』

 心から労うようにトビー達にそう語りかける。やっと実感できた彼らは一斉にラムルにひざまずいた。よせ、とラムルは顔をしかめるが、彼らはやめようとしない。

『貴方様のおかげでございます……!ラムル様が私達などの為に単身乗り込んできてくださったからこそ。亜人などの為に……いえ』

 トビー達はおそらくこのようなことを言っている、ツルカは大分理解出来ていた。トビー達亜人はこの国に捕らわれ、周囲の反対を振り切ったラムルが単独で助けに来たという。ツルカは感嘆せずにはいられなかった。単純に仲間を助ける行為がすごい、と思えたからであった。

 ラムルのバツの悪そうな顔は、すぐに故郷に彼らを帰せなかったことを思ってだろう。それでも、全員無事なことを考えると留まって機を伺うしかなかったのだろう。

『トビー達の答えは決まってな。あとはお前達だ。―一緒にフルムに来るか』

 保護された子供達は青ざめる。その反応をみたラムルは、だよな、と一人納得していた。

『安心しろ。保護施設行きの話は前にしていただろ。確かにこんなへんぴな森でもトラオムはトラオムだ。けど、国を離れるってなると話は違うよな』

 長い沈黙が続く。けど子供の一人が手を勢いよくあげた。

『お、おれはラムル様についていく』

『あたしも!あたしも、みんなのほうが好きだから』

 子供達も次々とそれに続く。ラムルやトビー達はただ静かに頷いた。

『……ごめんなさい、ラムルさま。みんな。ぼくはいけない』

 いつぞやのラムルが励ましていた少年だった。彼はトラオムの保護施設に入ることにしたようだ。誰一人として少年を否定することはなかった。

『わかった。でも俺らのこと誰にも言うなよ。忘れろ』

 謝罪の言葉を連呼していた少年は止まる。そして否定する。

『ごめんなさい、ラムル様……でもね忘れない。ぼく、みんなにあえてよかった』

『……ん』

 今日のところはお開きになったようだ。一同が家に戻っていく。涙が止まらない妻をなだめるトビーは、ツルカを手招きする。急な話に頭がついていけなかった彼女だったが、一呼吸した。そう、自分はどうするのか。

『ツルカ』

 ラムルに呼び止められ、ツルカは恐る恐る振り返る。

『全員だからな。お前も考えろ』

『わたしも?』

『説明してやる。お前はトラオムの奴じゃない。でもフルムの民でもない。だから外国籍でも最悪なことをしなければ、多少は人権はあるはずだ。何が何でも保護してくれる場所に送り届ける』

『最悪なこと……?』

『いや、今それはいい……。それにトラオムならもっとお前の国のことがわかるかもしれない。帰れる可能性はよっぽど高いはずだ』

『わたし、帰れるの……?』

『よその国との交流も盛んだからな、きっと』

 帰れる。ツルカは何度も反芻していた。大切な人達にまた会える可能性が高いとしたら、それは願ってもないことだ。だが、ツルカはトビー達、そして目の前のラムルのことが頭によぎる。

『それか、俺達と一緒にフルムに来るか』

『……!』

 ラムルが手を差し伸べる。だが、それは一瞬のことですぐさま手をさげた。

『ただ……。お前はもう二度と故郷に戻れないと思ったほうがいい』

『そんな……』

 そのあとラムルが鎖国国家だから、敵対している国だから、と説明するが、ツルカの頭が追いついてないことを察する。それ以上の説明は取りやめた。

『年始の日までには答えを出しておけよ』

 あとはツルカの判断にゆだねる、と目を合わせることもなく背を向けていった。トビーに声を掛けられるまで、ツルカはその場に立ち尽くしたままであった。いつまでもこうしてはいられない。彼女は重い足取りで歩いていく。


 帰郷準備を進めている集落の人々をよそに、少女達はこっそりと抜け出していた。ある少女が提案したのだ。徹底的に今日はポムの花を探そうと。堂々巡りのツルカを連れ出したのはリアナだった。気を遣わせてしまったことにツルカは気づき、それからは元気よく振る舞うことにした。

 代り映えしない森の風景に少女達は不満げであった。それでもせっせと探す。ツルカもそうだ。せっかくなので手に入れて帰りたかった。

 探し続けて周辺をさまよっていると、ふと濃厚な甘い香りがし始める。誘われるようにツルカは歩いていく。歩き続けていたのだが、皆とかなりはぐれそうな所まできていた。慌てて戻ろうとしたが、香りの元に辿り着く。足元にあったのは黄色く丸い花。もしかしてこれがポムの花だろうか。

『いーなー、もう発見している』

『!?』

 いつの間に背後にリアナがいた。ツルカ以外ここには誰もいないと思っていたのにだ。いやに緊張したツルカは取り繕うとする。

『見つけちゃった。でも見つけて満足したし、だれか欲しい子にあげようかな』

『えー、それはダメだよ。見つけた人に権利があるんだから。それにしてもついてるねー。相当見つからないんだから』

 陽気に笑うリアナをみて、ツルカはほっとする。さっきのは多分気のせいだったのだ、と言い聞かせる。

『だからツルカがあげたい人にあげないと』

『あげたい人……』

 ふと、彼女の脳裏に浮かんだのは―。

『誰かなー?』

『そ、それは!ほら、戻ろうよ。けっこう遠くまできちゃったし』

『はーい。……ふふ』

 気持ち足早にし、他の少女達と合流する。帰宅した彼女達が怒られたのは当然だった。それとなくラムルを視線で探す。彼は見知らぬ人達と話し込んでいた。通りかかったトビーが教えてくれた。

『彼らはフルムの兵だよ。それも王の側近ともいえる……まあ、強い人たちだね。今日は先行で少数で来ていただいたんだ』

『そうなんだ……』

『ああ。こうしていると実感するよ。私達は故郷に戻れるのだって……』

 トビーはそう言って涙ぐんだ。彼らにとっては長らく帰れなかった故郷である。感慨深いのだろう。黙り込むツルカの背中にそっと手を添える。

『私達は君の望みに従うまでだ。けどね、私達にとってツルカは娘同然なんだよ。だからどちらを選んだとしても。ツルカは私達の家族だ』

『お、お父ちゃん!』

 感極まったツルカはトビーに抱き着く。そして初めて彼を父と呼んだ。トビーも愛し気に娘の背中を撫でる。そのまま息を荒げたツルカはポムの花をポケットから出す。

『お、おと、お父ちゃん!これ一個だからお母ちゃんと半分こして!ね、これもらってほし』

『お、落ち着こうかツルカ!しまいなさい、それを今すぐ……しまいなさい』

『はーい……』

 トビーだけが気づいていた。一瞬ではあったが横目で見られたことを。しぶしぶポケットにしまったツルカは全く気付いてないようだが。


 ついに年始の日がやってきた。帰郷の日と重なったことにより、各々が自宅で待機することになった。そんな中ツルカはラムルに呼び出されていた。いつもの川べりに二人で並んで座る。ついにこの日がやってきたのだ。

 あの日リアナに言われた事をツルカは思い出す。ポムの花をあげたい相手に誰を思い浮かべたか。大切な人達ならいる。けれど真っ先に浮かんだのが。

『……』

 今隣りにいる少年だった。もちろん、トビー達にあげたいのも本心ではあったようだが。

『とりあえず、俺考えたんだ』

『うん……』

 そのままツルカと向き合う。そして。

『つか、決めた。お前をフルムに連れてく』

『えっ!?』

『そっから考えればいいだろ。帰る手段だってなんとか見つけてやる。つか、気が向いたときだけど。いや、暇でしょうがない時かもな』

『ええー……』

 さらっと言いのけた。彼にとっては大したこともないようだ。だがツルカは安心してしまう。と同時に迷う自分を恥じる。

『それでいいの……?わたし、結局決められなかった。あっちにも帰りたい、でもみんなとも離れたくなかった』

『まあ、無茶ぶりだったもんな。急に帰れないけどどうする?とか』

『でも、他のみんなはすぐ決めてたから。すごいなって』

『―それは、お前が平和に幸せに暮らせてたからだ。少なくともあいつらよりは。あいつらにとってはマシだと思った方を選択したに過ぎない』

 ツルカははっとする。ラムルはあくまで事実を述べただけだった。確かに彼女は恵まれてきたのかもしれない。それでも、とツルカは続ける。

『マシ、とかはないと思うよ。みんな、ラムル様達といられて幸せだったと思うから。ずっと一緒にいたいんだよ』

『……どうだか』

『そうだよ!絶対そうだよ、私だってそ……う』

 勢いで身を乗り出したツルカに、ラムルは驚いて固まっている。

『私だってそうだから』

 引くに引けなくなったツルカは強くうなずく。

『……』

『……』

 二人して黙りこくる。いつまでも沈黙が続きそうだった。ツルカとしては、いつものように呆れた反応を返してほしいところだった。

 ツルカは気まずさのあまり、視線をさまよわせる。だが、ふと目をぱちくりとさせた。多くの光が宙をまとっていた。何気なく手にとろうとするが、すっと避けられてしまう。

『ホタルみたい……』

『ほた、る?』

『えっとね、虫。光る虫なんだ』

『お、おう、光るのか』

『きれいなだねぇ』

 この景色をラムルと一緒に見られて彼女は心底嬉しかった。だからこそ一層瞳を輝かせた。

『ツルカ』

『え……』

 ツルカの髪をかぎあげ、そっと耳にかける。そこに差し込まれたのはポムの花だった。

『あ、悪い。勝手に髪触った。でもいいか、お前だし。つか、たまたま拾ったやつだし。自分につける趣味ないし。なんか顔近づけてくるやつがいるから、そいつでいいやって思っただけだし』

 やたらと早口でまくしたてながら、微妙に視線をそらしていた。どことなく頬が紅潮しているかのようにも思えた。ツルカを見ることはない、だが今の彼女にとってそのことが有難かった。

『なんか言えよ』

『か、顔上げちゃダメ』

『は?』

 顔が真っ赤に染まりきっている表情を見られたくなかったのだ。そのツルカの表情をラムルは思わず目撃してしまう。一時黙る。けれどいつものように大声を出す。

『ば、馬鹿なんじゃないか?こんなの適当だし!くそ、没収だ!お前にはまだ早い!』

『せ、せっかくくれたのに!』

『なら、トビー夫婦にでも渡しとけ!ちょうど2個になるだろ!』

『それもそっか!2個になった!……あれ?』

『納得すんのかよ!あ、いや納得しとけ。……ったく』

 すっかりいつもの雰囲気に戻ってしまった。お互い一呼吸し、落ち着くことにした。

『はー、疲れた』

『こっちのセリフだ』

『えへへ、でも楽しい』

『能天気なやつ』

 ああ言えばこう言う。それでも幸せなことだった。しばらくそれが続くのだから。ツルカはポムの花もまだつけていることにした。せめてこの森を離れるまでは。

『よろしくお願いします、ラムル様。わたしもみんなと一緒に行きたい』

『わかった。……それと、それはもういい』

『それ?』

『もう様づけはいい。今さらだけど』

 ツルカはきょとんとした。だが、つけなくていいならそれはそれで支障はない。

『わかった、ラムル!』

『順応早すぎかよ……まあいい。いいか、お前だけじゃないからな。道中目立つからだから、仕方なくだからな』

『うん……みんなの故郷か』

 これからのことはわからない。けれどツルカは新天地に思いを馳せる。そしてラムル達もいる。だから大丈夫だ、と確信もなく思っていた。

 複数の足音がした。迎えがきたのか、そしてもう刻限なのだろうか。ツルカは名残惜しい気持ちを抑え、何てことないと笑ってみせる。もう気持ちを切り替えていかなくてはならない。彼女は立ち上がろうとする。

『……絶対俺の側から離れるな』 

『うん……』

 彼も瞬時に立ち上がり、ツルカを自身の後方にやる。ラムルがこうも険しい顔をしているとなると非常事態であるのだろう。ツルカは小さく返事した。

 彼らが警戒したと同時に、多くの兵が現れる。だがおそらく同郷の兵ではないだろう。トラオムの国章が施された黒い軍服の彼らは、一斉に武器を構える。その中の隊長格であろう男が前に出る。

『この森は包囲した。お前達はもはや逃げられまい』

『!』

 ツルカ達だけではない。今この場にいない集落の民達もどうなってしまったのか。彼らのそばにはラムルもいない。

『悪しきフルムの神の子よ。早々に降伏せよ。お前の首一つで同族の命は助けてやろう』

 神の子。仰々しい名で呼ばれたのはラムルだろう。隊長の男は片手で指示を出す。前方に規律正しく並ぶのは両手杖を掲げたローブを纏った者達だ。彼らもまたトラオムの国章が刻まれていた。

『いくら甚大な魔力を備えていようと、我が国きっての魔法精鋭部隊には屈することだろう』

 魔法。この国では当たり前なのだろうか。

 それにしてもラムルだ。彼はこれだけの敵意を向けられていても平然としていた。それが殊更相手を苛立たせているようだ。

『放て!』

『ひっ……』

 ツルカは目を疑った。精鋭部隊なるものが両手杖で文字を綴る。すると火柱が生じた。そのまま炎に取り囲まれてしまう。そちらに気をとられていると、別の部隊からは切っ先を向けられる。彼らはその勢いに乗じようとしていた。

―一瞬のことだった。

 突如現れた水の竜巻によって、それらが打ち消された。兵達は呆気にとられるも、気を引き締めなおす。その後も攻撃を仕掛けるも、それをラムルは事もなくいなしていく。 

『つか、いちいち書いてんのかよ……』

 ラムルがつまらなさそうに、そうつぶやいた。そして唐突に木の上を見上げた。

『で。お前の仕業か―リアナ』

『!』

 ツルカも木の上を見上げた。短剣を懐にしまい込んでいたリアナが今にも襲いかかろうとしていた。朗らかだったリアナはもうそこにはいない。悪鬼のような少女がそこにいた。

『はは……ははは!残念だけど、わたしは元々トラオムの兵なの!フルム人の巣窟にはうんざりしてたけど、あんたの首を狙えるから耐えた!……まあ、あんたわかってただろうけどね。別にあんただけでいい。他は脅威すらないもの。今思えば、人質に使えばよかったかな』

 彼らが当然のような会話を交わす中、ツルカはショックを受けていた。彼女からしてみれば仲間同然の存在であった。あれだけ慕われており、ツルカにもよくしてくれていた。そんな彼女がラムルの命を虎視眈々と狙い続けていたのだから。害意を隠し続けていたのだから。

『やっと話が通って……もう今日しかないんだ!』

 フルムまで戻られると今より手出しが出来なくなる。リアナは何度も応援を要請していたが、話すら聞いてもらえなかった。ようやく彼女の話が通ったのだろう。悲しそうにしているツルカをみてリアナは小馬鹿にした表情をする。

『ははっ、保護していい気分だったかもしれないけど?残念だったね』

『まあ残念だな。けどお前は勘違いしている』

『ぐっ!』

 リアナに木の枝が絡まり、そのまま彼女を拘束する。

『誰が相手だろうと俺は油断なんてしない。油断は命取りだって身をもって知っているからな。残念だったな』

 悔しそうにしているリアナをよそに、兵達は攻撃を再開した。有益な情報を得られなかったこともあってた。

 次第に消耗してきたのは兵達である。そんな彼らのもとに駆け込んできたのは伝令兵であった。息を整えつつも兵は告げる。

『遅ればせながらも申し上げます……!フルムの残党を捕らえることができず……もぬけの殻でありました』

 あれだけの包囲網をどうやって抜けたのだろうか。それより報告にあがっていた時間より幾分早いのではないか、と。だが、ラムルが不可解な顔をしている相手に種明かしすることはない。そのような義理などないのだ。

『その、悪かったな』

 彼は意図的に自身を囮にした。だがそれにツルカも巻き込む形になった。ツルカは今は手短に首を振って答えた。

 みんな、とツルカは声に出さずにつぶやく。どうにか逃げ出せたのだろうか。こっそりと祈る。そんなツルカをよそにラムルは声を張り上げる。

『どうせお前も来てるんだろ、頼みたいことがある』

『はっ』

 どよめく中、突風をまとって現われたのは黒装束の少女だった。服の間からのぞかせるのは褐色の肌。彼女もフルム人のようだ。

『こっちはこっちでどうにかする。お前はあいつらについていって欲しい』

『……仰せのままに』

 少女の返答に間があったものの、ラムルの指示通りにするようだ。黒装束の少女はリアナの方に目をやる。

『あやつは』

『ああ、いい。放っておけ』

 歯牙にもかけていないようだった。リアナは悔しそうに顔を歪める。御意、少女はそう頷いて、そしてそのまま闇へと姿を消していった。

『俺達もずらかるぞ』

『えっ』

 そう言ったと同時にツルカを抱えたまま、川へと飛び込んでいった。そのまま水面下を猛スピードで駆けていく。呼吸が出来るのも、服が濡れてないのもラムルの仕業だろうか。だが水圧にツルカの顔が歪む。その速さに彼女の体がついていけてないようだ。

『そうか……悪かった』

『う、ううん。私が足で』

『それ以上は聞かないからな』

 水面から引き上げ、風で勢いつけて木の上を飛び乗っていった。彼なりに負担をかけない手段をとったのだろう。

 ツルカの耳に飾られていたポムの花はもうない。水面に浮かんでいた。だが取りに戻るなどできるわけがない。

 もう引き返すことができないところまで来てしまった。

 残された兵達が二人の捜索に当たるなか、隊長格の男はリアナに話しかける。

『すまなかった。君の報告を真摯に受け止めるべきだった』

『……もったいなきお言葉です。こちらこそ不覚をとってしまいまして』

『なに、構わない。彼は慢心はしていないようだが、じきに思い知るだろう』

 いくら生まれ持った資質が優れていようと、自身の出来ることに限界がある。そのことを思い知るだろう。自嘲な思いを込めつつもつぶやいた男のそれは、予言めいたものとも思えた。


 森を抜けた二人は市街地へとやってきた。栄えた港町でありながらも、敵国フルムと闇取引をしている商会があるという。その商船に紛れ込んでフルムに向かうという算段だった。ツルカはふと考える。彼一人だったらさっさと帰れるのではないか。だがラムルはきっとこう返すだろう。そもそも巻き込んだのは自分のほうだと。今はただツルカは言われるがままにした。

 こうしてトラオムの街に訪れたのは初めてであった。石が敷き詰められ舗装された道、そしてレンガ造りの色とりどりな街並み。漁や畑でとれた作物がずらりと並ぶ市場。

 行き交う人々はやはり、リアナ達のような白人種がほとんどであった。ちらほらとフルム出身らしき人々は見かける。

 ツルカとラムルも目立たないよう、トラオムの服を着用する。顔を隠すようフードを深くかぶった。

 トラオムの人達はフルムの人間を憎悪している。にこやかに商品を売っている商人も。カフェのテラスにて会話に花を咲かせる婦人達もそうだ。ツルカはより縮こまった。

『いくら腹減ってるからって、ドカ食いすんなよ』

『食べ……あ』

 いつものやりとりだった。いたずらっぽく笑うラムルに、ツルカは軽く笑った。これから長い船旅も控えている。ツルカは少し肩の力を抜くことにした。

『もたないからつまみはするけど。まあ、まずは換金だな』

 辺りを見回したラムルは、ツルカを手招きする。薄暗い裏路地に入り込んでいき、着いたのは古物商の店だった。胡散臭い男が二人を品定めしている。形だけの挨拶をしたあと、店主である男は新聞を読み始めた。トラオムの文字も多少習ったものの、ツルカには断片的にしか読み取れなかった。だが、どこか悪寒が走るようだ。見出しで大々的に取り上げられていたこと。それが今日、この港街で行われるという。

『それ……今日ここでやる……んですか?』

 このような状況でなければツルカは素直に驚いていただろう。あのラムルが敬語を使っていたのだ。彼なりに目立たないようにする考えた故か。

『なんだい坊主。売らんのか?冷やかしだったら帰ってくれよ』

『いや……これをお願いします』

 ラムルが差し出したのは、宝飾品数点であった。ラムルは暇つぶしなのか、手作業をこなしていた。その時に作っていたもののようだった。

 これは、と店主は目を見張る。手元で手繰り寄せたモノクルでじっくりと観察した。どこぞの本職が作り上げるものと遜色がない出来栄えであった。

『ちゃんと宝石は本物だ。盗品でもない』

『フルムの鉱山のものか。それくらいはわかるさ。いいさ、買い取ってやる。ラーデン商会にも売りつけとくか。なんでも~かいとる~ラーデンしょうかーいっとぉ』

 まいど、と金貨銀貨が入った麻袋を手渡す。ツルカは頭を軽く下げたあと、さっさと店を出るラムルに続いた。急ぐぞ、とつぶやいたラムルはツルカの腕をとると足早に歩いていく。

『あのね、この街で何か行われるって書いてあったよね。なんかよくないことが』

『いいから急ぐぞ』

『う、うん』

 一刻も早くこの港町を出ることにしたようだ。ラムルは早歩きながらも、ツルカに話を振る。少し金を積んだら真っ当な場所にありつける。さっきのラーデン商会というのはフルムはもちろん、色々な国と取引している。そこの主人とも知り合いだ。と彼にしては珍しく饒舌であった。どうしてもある話に彼女の意識がいかないようにしたいようだった。だが。

―いやぁね。この街出身だったなんてね。とんだ恥さらしだわ。

―せっかく名家に嫁いで……まあ子供がいないのが幸いかしら。

―よくもまあ今までのうのうとしてきたものだ!面の皮が厚いこった!

 どうしても街の人々の雑言に意識がいってしまう。

『耳貸すな。気分がいい話じゃない……でもな』

『?』

『お前も知っておいた方がいいかもな。向こうに着いたらちゃんと説明する』

 それはトラオムにおいては知っていて当然のことである。何ならば生まれた時から言い聞かされることもでもある。ラムルは内心舌打ちした。思えばいくらでも機会はあったはずだ。ツルカにきちんと話しておくべきだったことがあった。

 だが、今は話がし難い状況であった。誰かが耳にしたら少なくとも注目はされるだろう。ちらほらとトラオムの兵士達の姿を見かけ始める。どうやらラムルを追ってきたわけではなく、もともと派遣されてきたようだ。街の中心部に戻るにつれ、兵の数は増していく。さらに二人は急ぐことにした。

 港の商船にラムルが話をつけようとした時だった。割って入ってきたのはトラオムの兵だった。商船から船乗り達が続々と降りていく。そのまま港が封鎖されていっている。ツルカが動揺を隠せないなか、ラムルは努めて冷静に尋ねる。

『船、乗れないんですか』

『ああ、悪いね。大変だねぇ、故郷に逃げ帰りたかっただろうにねぇ。居づらいだろうにねぇ。低俗な国には我が国は敷居が高かったようだ』

 下卑た笑みを浮かべる男は、完全に下に見ていた。ツルカは内心頭にきた。背中にいる彼女からはラムルの表情はうかがえない

 ラムルは依然黙り続けたままだ。慣れない敬語もそうだが、馬鹿にされても耐えていた。相手が何もしてこない限りは、彼も魔法を使わない。彼なりの矜持なのかもしれない。

『……』

 本来ならば言われることがないことだ。彼がこうも我慢しているのは、うぬぼれでもなく自分と無事にフルムに戻るため。ツルカはそのことが申し訳なく思えてならなかった。彼ならそう、いつでも一人で気を遣うこともなく帰れるのだ。ラムルは決して言わせなかったが、いわばツルカは足でまといであった。

『ほらほら早く持ち場にでも帰りなさい。ただでさえ、フルムの亜人共が脱走して大変なんだ。醜悪なのは見た目だけじゃ―』

 さすがに今のは頭にきたのだろうか、ラムルが握っていた拳の力が強まる。いけない、とツルカがそっとつかんだ。そして言いかけたラムルを遮る。

『おじっ……お兄さん!わたしたち、観光でやってきました!世界を回っているんです。ごうゆうってやつです!』

『今、おじって』

『空耳です。この子、すごい職人なんですよ。ほら』

 たじろぐラムルの首元の装飾品を見せつける。すごいでしょ、と鼻を鳴らす。

『ト、トラオムはとてもいい所ですね!わたし、気に入りました!』

『お前……』

 声が震えている。おまけにわざとらしい。ツルカのこれは本心ではない。いわば嘘だ。母親には本当に大事な時にしか嘘をつくなと教わっていた。だからつきなれてないのだろう。

 ツルカにはこれしかできなかった。それでも少しでもラムルの気持ちを軽くさせることが出来たのなら、彼女は嘘などいくらでもつける。

『フ、フルムとか別に行きたくなかったし?ラッキー?トラオムにもう少しいたかったし?お兄さん、教えてくれてありがとうございました!』

 勢いよく頭を下げ、強引にラムルを連れ出そうとする。幸い彼は呆気にとられている。簡単に引っ張り出すことができた。

 そう、あれは嘘だ。ラムルもそうだろうが、なによりツルカ自身がこの場にいたくなかった。

『ま、待ちなさい』

 思いもよらず引き留められた。ひきつった笑顔でツルカは振り返る。兵は何やらぶつぶつといっている。

『この娘……見た目は平凡だが宝石職人をお抱えに豪遊している……異邦人のようだが……それなりの身分のようだ。いや、人は本当に見た目によらない』

『あの?』 

『いやいや失礼しました!どうぞごゆるりとお楽しみくださいな!おすすめを教えましょうか?』

『あ、ありがとうございます?あの、わたしたちもう行きたいので』

 態度が急変したようだが、この男とこれ以上つきあう気は二人は全くなかった。

『それはそれは失礼を。あとは……そうですな、この国のことを深くお知りになりたいなら丁度いいかもしれませんな』

『ちょうどいい……?』

『―じきに広間にて執り行われる罪人の処刑。大罪を犯したものは身をもって知らしめる。戒めの意味も込め、我が国では重要な儀式であるといえましょう』

『しょ、しょけい?』

『ええ』

 新聞から不穏な匂いがしたわけであった。この港町にて大罪人の処刑が執り行われる。ふと中心にある広間の方をみると、人が続々と集まっていた。

『ひ、人が死ぬのに?悪い人かもしれないけど……』

『はて?』

『……いい、行くぞ』

 兵に不審がられる前に、今度はラムルがツルカの手を引く。男もごますり足りなかったようだが、渋々と持ち場に戻っていった。


 最後に封鎖されるのは街の入り口だった。下手に魔法を使えないラムルは、ツルカの手をとりながら人込みをすり抜けていく。それにしても押し寄せてくる人が邪魔をする。彼にとっては煩わしくてならなかった。いっそこの邪魔者達を吹き飛ばせたら。

『……だ、大丈夫?』

 ツルカに顔を覗き込まれ、ラムルははっとした。彼は今の考えを押し込む。自分はいら立っていただけだ。生まれ持ったこの魔力はそんなことのために使うべきではない、と。そう自分の中で再確認をした。意識して普段通りに振る舞う。

『俺は大丈夫だ。お前の嘘の下手くそっぷりの方が心配だ』

『……下手じゃない』

『ほら、下手だろ。普段からつきなれてないの、バレバレなんだよ』

『じゃ、ほんとのこと言う。……嘘つくの苦手』

『わかってる。ありがとな』

『!』

 優しい声は予想だにしていなかった。ラムルももちろん自分の為についた嘘ということはわかった。だが、優しい声は一転して脅すような声色になる。

『けどもう嘘はつくな。今はこれしか言えない。頼むから嘘だけはやめろ』

 ツルカにはよくわからなかった。けれどラムルが真剣なのはわかった。ラムルとしてもこれが今最低限伝えられることだった。いやに監視されている気がしてならない、それはきっとラムルの気のせいではないようだ。

『……わかった』

 きっと深い理由があるのだろう。だからツルカは頷いた。よし、と軽くツルカの肩をはたく。ラムルも安心したのか、表情が多少は和らいだようだ。

 入口まであと少しなのだ。それなのに一向に進まない。人は続々と押し寄せていく。何かの狂気にとりつかれたかのようだ。もがけばもがくほど入口から遠ざかっていく。そう思えてならないほどに。

『あ……』

 入口でトラオムの兵達が整列をする。そして敬礼をした。

『善良なる民の皆様!多大なるご迷惑をおかけし、申し訳ございません。処刑執行の為、封鎖させていただきます。ご理解のほど―』

 彼らは次々と告げる。だが、今入口に向かっているのはこの二人くらいなものだ。悪目立ちしてしまうかもしれない。ここにてもどうしようもないと、横道にそれようとするが。

 仕方なく広場の方を振り返る。そこで目にした事にツルカは絶句する。

 聴衆達が騒ぎたてる。その暴徒とも思えた彼らを抑えるのは兵達だ。今にも押し寄せようとしていたのは。

―中央にあるは処刑台。今にもうら若き女性がギロチンにかけられる寸前であった。何かを宣告しているようだが、この騒ぎの中ではよく聞き取れない。処刑人は今か今かと手ぐすねを引いている。

『どういうこと……?』

『見るな』

 そう言ったあと、ツルカの視界を手で覆う。そのまま背を向けようとする。

『罪深き者よ、貴女の罪は消えることはありません。けれど、貴女にも想いがあったことでしょう。せめて最期に言い残したいことはないかしら?』

 あれだけの興奮をみせていた広場が静まり返る。

 群衆の怒りをかっている大罪人の傍らによったのは、凛とした出で立ちの女性であった。黒いレースで顔を覆い、上質の素材の礼装を纏った婦人が悲しそうにしている。

『貴女にも大切な方が在ったことでしょう。そして貴女も生きてきた。せめて貴女が言葉で遺せたらと……ささやかではありますが、それがせめてものわたくしからの餞です』

 大罪人に寄り添うこと。そして大罪人の生に少しでも猶予を与えること。本来ならトラオムの民から大顰蹙をかっててもおかしいものではなかった。だがこの広場にいるトラオム人達は誰しもが聞き入れている。誰も異を唱えることはない。

『……王族か』

 ラムルも見知った人物であった。クラーニビ殿下、トラオム現王の娘にあたる人物である。慈善事業に精を出す、この国きっての人格者であると言われている。あくまで噂程度ではある。

 だが、気に留めている場合ではない。彼としては一刻もその場から離れたかった。だが、ふと足を止める。

『あ……』

 ツルカが尋常もなく顔を蒼白させていた。彼女は体を震わせながらも、多くの冷や汗が止めることができずにいた。早くこの場から離れたいのに、体が言うことを聞いてくれないのだ。ツルカ自身にもなぜかはわからない。

『お前……』

 ふらつくツルカに肩を貸す。本調子ではない彼女の為にゆっくりと歩くことにした。幸い、今注目されているのは広場の中心だ。すっかり落ち着いた人並みをすり抜けていくことにした。

『どうぞ、お嬢さん方。そこで休ませてあげるといいよ』

 周囲にも声をかけ、ツルカ達に道を譲ってくれたのは柔和な青年であった。どこか胡散臭い笑顔ではあるが、そこは素直にラムルはお礼を言う。青年も手を振って二人を見送った。

『ごめん……。早くここから離れたいのに……ごめんね』

『いいから』

 ツルカ以上にラムルは焦っていた。早くこの場から離れたい。彼はこれから起こる事を理解していた、だからこそだ。それにトラオムの事だ、彼には知ったことではないのだ。そう、知ったこっちゃない。

『……私は、大罪人です。魔女をカタった事、深くお詫び申し上げます』

 大罪人は今にも処刑されるさなか、声を絞り出す。傍らのクラーニビは膝をつき、相手に目線を合わせる。

『本当にそれでいいのかしら……心残りはない?』

『私は……私!』

 瞳からこぼれる涙をクラーニビがそっと拭う。そして穏やかにに語りかけた。

『わかります。……大切な方を失う思いは』

『もったいなきお言葉です、クラーニビ様……。―愛してました、私の大切な人達。本当にごめんなさい』

 そのまま泣き崩れる相手の頬にそっとクラーニビは手を添える。人々は慈悲深いと彼女を讃えた。

 ラムルは腑に落ちないでいた。何がわかるだ。何が大切な奴を失うだ。それを平然とやってのけるのはこの国の人間ではないか、と。だが彼はその考えを打ち消そうとする。そう知ったことではないのだ。

 ツルカはぽつりとつぶやく。

『あの人……そんなに悪いことしたの?』

 ラムルが体をびくつかせる。素朴な疑問でも、その反応からしてまずい質問だったようだ。ツルカは口をつむぐ。

 だがちらりと見られることはあれど、それ以上関心をもたれることはなかった。そこでラムルはようやく気がつく。二人の時はツルカの母国語で行われていた。そう、これだった。ラムルにとって盲点であった。だから、彼女にようやく告げることができた。

『嘘つくなっていったな。あとは魔女をカタるな。この二点を守ってくれればいい』

『魔女を語っちゃだめ……うん、わかった』

『いくぞ』

『誰かを傷つけたわけじゃないのにね……優しそうな人なのに』

 だが幼いながらもツルカはわかっていた。どうにもできないこともあるのだ。嫌だという感情もこれ以上はいけない。隠さなくてはならないことも。

 ラムルは足を止める。そうトラオムの人間など知ったことではない。ないはずなだ。

『……お前、大人しくしてろよ』

 ラムルはあくまでそのまま佇んでいるだけだ。彼には仰々しい所作も詠唱もいらない。近くにいたツルカは内心ざわつき、そして確信する。

 彼は人知れず魔法を使う気だ。

 まずはあの処刑台を破壊させる。処刑人とクラーニビ、そして隠れて魔力を持つ人を待機させているようだが、そちらへの被害も最小限に。彼には造作のないことだ。狙った一点を破壊させるくらいは。

 意識を集中させる時間はほんのわずかでいい。そのまま風の魔力をぶつける。

『……?』

 だがおかしい、手ごたえがない。それどころか、身を潜めていた男がこっそりと処刑人に告げる。

 ラムルは今になって気がつく。自分の魔法はそもそも効いていなかったのだ。隠れていた男は魔力を無効化することができるのだろう。誰も介入することが出来ないように。

 そして処刑人はクラーニビにも伝える。彼女はただただ悲しそうに首を振った。

『ただいまをもって処刑とす。大罪人よ、長い旅路に出よ。贖罪への旅路へ―』

 呆然としていたラムルは、はっとする。もう処刑は止められない。だからせめてツルカか目にしないようにと、再び視界をふさごうとする。

―愛してる、貴方。そして。

 群衆の発狂によってかき消される。彼女の遺した言葉は誰が聞き取れただろうか。

 たった今。トラオムの忌まわしき大罪人は。断頭台の露へと消えていった。

『あ……』

『くそ……』

 その姿がツルカの目に焼き付いて離れない。しかと、見届けてしまったのだ。ラムルも気まずそうに伸ばした腕をおろした。

 熱狂する広場にぽつりと雨が降り始める。次第にそれは勢いを増し、雷を伴うようになっていた。故人を偲ぶ雨なのか。だが大罪人相手とはなんと無粋か、と人々が口にしたところだった。

『おい、あれを見ろ!』

 高い建物の上で立っていたのはマントの男だった。異質な人物に彼らは騒然とする。男は飛び降りつつも、詠唱をしたあと群衆に向かって水泡をぶつけていく。どこか怒りに駆られた男は建物を破壊して回る。逃げまどう群衆の保護と賊の征伐に兵達も乱入する。パニックとなっていた。

『うわぁぁぁ!』

 倒壊した建物の瓦礫が今にも落ちそうとしていた。直撃したらただではすまないだろう。一瞬ラムルは目を背けようとする、だがそれを彼の心が許さなかった。瓦礫は中で爆散され、細々とした破片が宙を舞う。次々とそれを繰り返していく。

『……が助けるんだ、力ある人間なら当然なんだ』

 暗い表情をしながら、一心不乱で彼は魔力を連続発動させる。気づいたツルカがラムルの腕を掴むが、そのことにも気がつかない。

 落ち着きを取り戻してきた民達は疑問に思い始める。誰がこうも莫大な魔力を発揮しているのか。英雄ではあるが、同時に不気味な存在でもあった。ショックが続くなか、ラムルを止めようとするツルカ。彼が人を救っているのはわかる。だが、様子が明らかにおかしい。困り果てていたその時であった。

『……我ら学徒に休みなどないってね。さあ行こうか。―我が学院の誇りにかけて』

 漆黒の黒いガウンに赤いバラの刺繍が映える。先ほどツルカ達に道を譲ってくれた青年が颯爽と姿を現した。事態を受け入れられなかった彼らだったが、次々と安心し始める。彼が何者なのか理解し、納得できたからだ。

『さあ、皆様。私が出来ることにも限りがあります。これから私はクラーニビ様の守護にあたります。ですが、魔力をお持ちの同志の皆様にお願いがあります。何卒ご助力を』

 生まれ持ったカリスマ性なのか、あっという間に人々を安心させ、そして魔力を持つ者達を集結させた。この場はあの青年に任せておけば大丈夫だろう。

『ねえ、あのお兄さんにおまかせしようよ』

 結局あの青年の手柄になったようだが、それはそれでよかった。下手に目立つのはまずい。ラムルも少しは冷静になってくれるかと思ったのだが。

『そうか、あいつがやったことになったのか』

『そうだね……でもね。ちゃんと手助けしたこと、わたし』

『ちょうどいい。ならやりたい放題ってことか!』

 かえって好都合だ、とまた魔力を使おうとしていた。ツルカは必死に彼の腕をつかんだ。そのことにラムルは睨みつけるが、それでもツルカは退かない。だが本調子ではない彼女の力は弱まっていく。ただでさえショッキングな光景も目にしてしまったのだ。それでもここで彼を止めなければ、彼は心のままに魔力を暴走させるだろう。

『わたし、魔女を語らない。言うこと聞くから。だからお願い。今だけでいい。わたしの言うこと聞いて』

『……』

 改めてツルカを見る。彼女は震えていた。彼女を怖がらせていた一因でもあると、ラムルはようやく気がついた。ラムルは一息ついた。そしてそのまま深呼吸する。

『……言うじゃないか。まあ、確かに不公平だな』

『うん……』 

 歓声が一段と増す。賊が辿り着いたのは処刑台だった。そして亡骸の近くでひざまずく。無防備な背中を数多の魔力や武力が貫く。だた、彼はもう逃げることなどなく、その場に留まっていた。

『遅れてすまなかった。私も君……を』

 賊、いや妻を愛していた夫はその場でこと切れた。そこに救いなどない。

『……』

 もうここにいる意味がない。騒ぎが続いている内に、二人はようやく離れることができた。

 去り際に見たのは、祈りを捧げるクラーニビの姿。彼女から湧き出る白い光が広場を包み込み、そして癒していく。その光景にツルカは目を奪われてならなかった。


『悪かった……お前、調子悪かったのにな』

 未だ雨は降り続ける。封鎖が解けるまでまだ港町に留まる必要があった。事態は収束しつつあり、クラーニビを始めとした上流階級の人から続々と発ちつつあった。

 軒並みに雨宿りをした二人は、並んで座っている。ただ振り続ける雨を眺めていた。

『ううん。私、全然平気だから、オッケーになったらすぐ出ようね』

 心を乱したのはラムルだけではない。ツルカもそうだ。ショックを受けたのも処刑台の事だけではない。ラムルのことだ。

 ラムルがあれだけ崇められていたのも、今までは彼女にはぴんと来ないものであった。だが今日の出来事を振り返ればどうだろう。あれだけの強大な力をいとも簡単に使いこなしていた。

 そう初めて彼女は実感したのだ。この少年は脅威である。そう深く実感してしまった。目を合わせたとき、ツルカはそっとそらしてしまう。

『……だよな』

 彼女の心が遠のいたのだろう、とラムルはうつむく。だが、ツルカはそっと彼の腕に触れた。

『確かにおれ様なところもあるけど、でもね』 

『優しい、とかいうんだろ。……そんなんじゃない』

『優しいよ』

『!』

 ゆっくりと真摯にそう伝える。彼女の心からの言葉を。

『どんな人だって助けようとする。そんな人だからラムルは優しい』

『……』

 そうか、とだけつぶやいてラムルは地面に視線を向けた。ツルカは雨を見上げながら何となく口にした。

『あーあ、わたしも魔法が使えたらよかっ』

 そうしたら彼の力になれる。少なくても足手まといにならなくてすむ。子供心で純粋にそう願った。

『……やめろ』

 ツルカの方を見ることもなく、強く彼女の腕を掴む。掴まれたツルカの方は怯む。これもまずいことだったのだろうか。

『ごめん、気をつける』

『……いや』

『これはこれは先ほどの子たちじゃないか。そちらのお嬢さんの調子はいかがかな?』

 第三者の突然の登場に二人は身を固まらせる。黒いガウンが特徴的な青年だった。動揺を押し隠して二人は応対する。大丈夫、今までの会話は理解できてないはず、だとふんでいた。

『異国の方々かな?トラオムへはるばるようこそ』

 やはり胡散臭い笑顔だ。相手にすることはない、と会釈してラムルはツルカを立たせる。そんな彼らを和やかに呼び止めた。

『おや、トラオム語は通じないのかな?君はフルム人だろう?就業証明証はないのかな?労働以外で来ているのかな?それじゃあ滞在許可証でもいい』

 そう和やかな口ぶりで詰問した。そして続ける。

『不法滞在なら、私は模範的に兵を呼ばなくてはいけない。ねえ……このままじゃ取引すらままならないよ』

 少なくとも話し合う余地はあるのだろうか。それならと、二人はトラオム語で応じようとしたのだが。

『……そういえば、聞かされたってこんな感じだったかな』

 そう言いいのけた青年は、ラムルを品定めしていた。艶やかな黒い髪、そしてフルム人の特徴である褐色肌。男とも女とも捉えられる中性的な容姿。

『フルムの神の子なら、これくらいのこと造作もないことではあるね』

 そして見せつけられたのは彼が手にした球体による映像だ。群衆の声はすれど、ただツルカとラムルが映しだされているだけだ。それだけでは決めてにならないと思っていた。ラムルはいちいち魔法を使います、と主張することはない。あくまでスマートに。そして自然体に発動することができた。だからまだシラを切ることができるはずだと。

『ああ、然るべき機関に提出すればわかるものだよ?誰が発動したか、ね』

『言いがかりだろ、そんなの』

 まだいけると彼は考えた。自分の姿をとられたのは痛いが、その球体を奪いこの男をまけばいい、と。

『うーん、どうしたら素直になってくれるかな。ああ、そうか。彼女が痛い目に遭えば考えてくれるかな』

 懐から取り出したのは、ピンスティックだった。それをツルカに向ける。激昂しかけるラムルは、それでも冷静であろうとする。これは単なる挑発のはずだ。

『痛い目思いさせたくはないんだ。ねえ、異国のお嬢さん?その男の子が何者か教えてくれないかな?』

 ツルカは唾を飲み込む。馬鹿正直に言えるわけがない。かといって嘘をつく。これもやってはいけない。

 嘘はつかない。これもラムルと約束したことだ。

『……』

『沈黙は肯定派なんだ、私は』

『こ、答えない!』

 青年は小さく噴き出した。下手なとんちだと。

『そうかぁ、お嬢さんは教えてくれないみたいだ。フルム人の君、これは取引だよ。君が正直に言ってくれれば、そこの彼女は見逃してあげる』

『……何言ってる』

『そのお嬢さん、協力してくれないんだ。これって共謀罪になってもおかしくない。そうは思わないかな?』

 ラムルに緊張が走る。せめてツルカだけでも今は無事であればいい。自分はどうとでもなると彼は思っていた。だが、頭によぎったのは魔力を無効化されたこと。そうされた時、彼女を守り切ることも、そして自身も無事でいられるのだろうか。

 今は青年の気配だけだ。それならばだ。目の前の男が行動を起こす前に、どうにかするしかない。それも口封じを込めて一瞬で片をつけられるように。下手に加減をしたらしたら、取りこぼしてしまったら。

―それなら最悪の手段を取るしかない。

『……!』

 隣にいるツルカは気づく。彼はまた魔力を暴走させる気だと。それも今度は自棄も含んでいるからこそ、シャレにならないことになるだろう。今は余裕のある態度である彼も無事では済まない。あの時側にいたツルカだからこそ、ラムルの脅威を感じ取っていた。事態はさらに深刻だ。

 どうしたらいい。どうしたら止められるのか。ツルカは考える。もう時間はない。

『……うそ』

 嘘をつくなと言われた。そして魔女をカタるなとも言われた。そう強く言われただが。ツルカはちらりとラムルを見る。今度ばかりは彼を止めることはできまい。ならば、と強く頷く。

 ツルカの母親は言っていた。ここぞという時の嘘ならば良い。今でなければいつだというのか。

 魔女の話などしない。けれど。ツルカは叫ぶ。

『その子じゃない……です。わたし、です。わたしがやりました!』

 約束を破ってしまった。彼女は嘘をついたのだ。ラムルではなく、自分が魔法を使ったのだと。それが彼女なりに考えた最善手であった。

『ばっ……』

 その発言を聞き逃さなかったラムルは、馬鹿といいかけるが慌てて止める。彼女を止めること、その発言を否定するのは悪手であるからだ。

 しばらく沈黙したあと、青年は腹を抱えてひとしきりに笑った。

『え、え?お嬢さんどうしたの?君が魔法使ったの?あれだけ大立ち回りを君が?』

『……はい』

 ツルカは肯定した。何が何でも貫き通す。

『そう……そうなんだ。君はさながら魔女なんだね』

『……』

 それはさすがに魔女の話になるのではないか、とツルカは黙ってしまった。だが、先ほど青年は言った。沈黙は肯定ととらえると。ツルカは困窮していた。

『……いかれているよ、お嬢さんは。そんなにその少年が大切かな?』

『はい』 

 それは本当なのでツルカはしっかりとうなずいた。その言葉がラムルは嬉しくないわけがない。だが、今はまずい。

『……まるでさっきの夫婦みたいだね』

 青年の目は笑っていない。その冷ややかさにツルカは背筋を凍らせる。それほどなのか。それほどまでなのか、と。

『―フルム人の存在が罪人なら、魔女の血を引いていると騙るのは大罪人』

 それでも魔女を騙ろうとする。この国においては狂人でもあった。

 語る語ると何を言っているのだろうか。ツルカは把握ができてなかった。ラムルは手短にツルカの母国語で説明する。

『騙るって言ったのが間違ってた。要は自分は魔法使えます、魔女です、と嘘つくなってことだ。……この国の先祖の女が、知らん男から魔力を授かった。その女以外にも授かったやつがいた。同じ志だと思ってた。けど、祖先の女は裏切りにあって命を落とした。その裏切り者がしでかしたことだ』

―平和を願う心清き者にのみ授けられた魔法の力。けれど、信じていた仲間の中に実は魔法の力が備わっていない人物がいた。その人物は同じ志などではなかった。同志であると偽っていた。自身にも魔法の力が備わっていると思わせることにより。

『偉大なる先祖を死に至らせた。それがこの国としてはどうしても許せないらしい』

―魔女詐称罪。トラオムにおける最大の罪である。刑罰は死罪。それのみであった。

『説明でもしてたのかな?お嬢さん、知らなかったではすまされないんだ』

 青年は律儀に待っていたようだ。何やら鳩と戯れている。唐突であった。

『……こいつが勝手に言っただけだ。こんな害のなさそうな奴が出来るわけないだろ』

 この場だけでも乗り切ればいい。もうこの男を殺めるしかない、とラムルは考えていた。

『わたしは……』

『いいから。どうとでもなる』

 事前に言い聞かせていなかった自分にも原因はある。ラムルは彼女を少しでも安心させる為に手を握った。

 突如、鋭い電圧がツルカに走った。彼女自身はピリっとした程度だが、ラムルは手を弾かれてしまう。彼は自身の手をさする。

『だ、大丈夫!?』

『ふふ、君達がおしゃべりしている間に手続きをさせてもらったよ。ああ、今のは特に気にしなくていいよ。ただ完了した合図だからね』

『どういうことだよ』

 ツルカの身体は無事のようだ。だが、彼女の左手が赤く発光した。その光の中で彼女の左指に薔薇と蔦の刻印が施される。

『これで彼女も栄誉ある我がローゼ学院の学徒だ。いわばそれは学生証にあたるものだよ。これだけの魔力をもっているのなら、ぜひ我が学院で学んでいただきたくてね』

『な、なにこれ。……とれない』

 ツルカは左指をみる。爪でこすっても剥がれることはない。しっかりと刻まれていた。呆然とするツルカの横でラムルは体を震わせる。今にも男に掴みかかりたいくらいだ。

『だからどういうつもりだってんだよ!何考えてんだ!』

 この男はツルカに魔力があるわけがないと思っている。実際その通りだ。それをだ。

 ローゼ魔法学院。トラオムきっての名門校であり、魔力の素養が特段優れている若者達が通う。そのような所にツルカを通わせようとするのだ。通用するわけがあるだろうか。

『……実に退屈だったんだ。そこにこの面白いお嬢さんと出くわした。魔女と言い張るのならどこまでやれるかなって興味が沸いてきてね。それにわくわくするなぁ、私もこれで共謀罪か……はあ、ぞくぞくする』

『こいつ……!』

 要は青年の退屈しのぎだった。ラムルは怒り心頭だった。

『おっと、落ち着きなさい。私をどうこうしても彼女の入学はすでに取り消せない。それに国外に逃亡しても意味がないよ。優秀な人材の流出を恐れてね、国外に赴くことを禁じているんだ。もちろん不真面目な生徒も歓迎しない。学院から逃げ出すような子はね』

『そんな……!』

『ああ、そんな不安な顔しないで。卒業したらその刻印も解かれる。―無事卒業できたその時、君は自由だ』

 彼は嘘を言ってはいないようだ。だが、それまでは絶対に外れることはない。逃げることなどできないのだ。悪手がさらなる悪手を招いてしまったのか。青年はふとラムルを方を見る。

『ああ、もう君はいいよ。見逃してあげる。ラーデン商会の船もじきに再開するみたいだし、故郷に帰りなさい』

『は……?』

『神の子の力にも興味があったけどね。魔女騙りの子の方がより狂ってなあって』

 そのままツルカの肩を抱いた。重くそれが彼女にのしかかった。魔法の力などあるわけがない。もはや死刑宣告同然であった。

『今からでも首都に向かおうか。特別に君にも乗船許可を出そう。造りがしっかりしているからね、揺れも少ない』

『……はい』

 ラムルの方は振り向かない。彼は無事で済む。それは確かなことだった。

『待てよ』

 ぶしつけに呼び止められ、青年は嫌そうにラムルに振り向く。興味を失った相手に時間をとられたくなかったようだ。だが、次の瞬間青年は目を見張ることになる。

『……俺もつれてってください』

『ほう……』

 ツルカもつられて見る。そして言葉を失う。彼が頭を下げていた。それも気にくわない相手にだ。だがいつまでも呆けていられないと、ラムルの元へと駆け寄る。

『わたしは大丈夫だから!ほら、みんなが待っているよ。だからちゃんと帰った方がいいよ』

『何が大丈夫だ、この世間知らず』

『え』

 ラムルはすぐさま頭をあげ、居直る。

『あくまでトラオムの首都までだ!首都の方なら陸続きだ。やりやすい』

 ラムルは続ける。

『それにだ。この世間知らずは俺が拾ったも同然だ。せめて船にいる間でも、こいつに常識を教えてやらないとな』

『ふふ、別れがたいのかな。まあ、おいそれと逢えなくなるからね』

 反対はしないようだ。微笑ましそうに笑う青年をよそに、ラムルはツルカに話しかける。

『行くぞ』

『うん……』

 思ってもみないことにラムルが同行するようになった。だがそれも残りわずかな時間であろう。ツルカはまともにラムルを見られずにいた。


 豪雨の中、船は出港した。大型船は荒波にも耐え、尊き方々を首都まで安全に運ぶ。着飾る人々の中でツルカとラムルの二人は浮いていた。名門校の学徒と一緒だからなおさら悪目立ちしていた。船内のカフェで彼がしきに食べものを勧めるが、これからのことを考えると食欲など湧いてこなかった。ラムルが切り出す。

『あのさ、こいつと話してくるから』

『ここでいいじゃないか』

『いや、どっかいく』

 先ほどからちらほらと視線が送られていた。一心に受けているのは名門校の青年た。彼と同じ年頃の娘達が熱烈な視線を送っていた。

『すげぇいづらい、俺達』

『いいよ、行っておいで。今は不問にしておいてあげる』

 次はもっとスマートに彼女を連れ出しなさい、とほざいていたがラムルは無視した。

『いってらっしゃい、お嬢さん。ああ、そういえば』

『いってきます……?』

 考え込む青年が気がかりだったが、ラムルに促される。そのまま二人は吹き荒れるデッキまで出ることにした。そのような物好きは彼らくらいだろうと。

 二人っきりになった。入口のところで並んでよりかかる。落ち着いたこともあり、より現実がみえてきてしまった。この船がトラオムの首都につけば、二人はもう離れ離れだ。

『ツルカ』

 そう呼ばれ、ツルカは恐る恐るラムルを見る。

『あのね、ラムル。本当にごめんなさい……。約束破ったからこんなことになって。わたしのこと心配してくれたのに』

『……まあ、否定はしない。危なっかしいからなお前は。とんでもない嘘もつくし』

『でもわたしにとっては大事なうそだった。わたしだって……ラムルを守りたかった』

 必死に涙をこらえる。いくら自分が情けなかろうとここで泣きたくはなかったのだ。ラムルもあえて彼女の泣き顔には触れずにいた。

『……覚悟してたんだな』

『うん、覚悟してた』

『後悔は?』

『!』

 ラムルはツルカの返答を待つ。ゆっくりでいい。真剣に考えてくれれば彼はそれでよかった。ツルカなりに彼女の言葉で語る。それでもラムルは耳を傾けていた。

『後悔は……うん、してる。まちがってばかりで、うまくできなくて。でもね、思うんだ。きっと知っててもわたしはうそをついてた。きっとそうだ』

『……』

『こんなことになっちゃったけど』

『……わかった』

 ゆっくりとツルカに近づき、彼女の左の耳元にイヤリングを飾る。半透明の黄色の花の形をしており、暖かな光を灯す。そっと触れようとする彼女をラムルは止める。

『おっと、まだうかつに触るな。しかもそれとっておきのやつだからな』

 ツルカは頭に疑問符を浮かべるが、触るなと言われたのでそのままだ。ラムルは説明を続ける。

『その石は魔力を蓄えることができる、フルムの秘石だ。そいつの存在がばれないように隠す方法も考える。それと毎回行けるわけではないけど、出来る限り俺の魔力を注入するようにする。いいか、よく考えて使えよ』

『ラムル……?』

『どうせなら嘘をつき通せってことだよ。お前が卒業するまででいい。学院のやつらをだまし続けろ』

『!』

 ラムルは強気の笑顔をみせた。彼にとっても一か八かの賭けであった。それでも彼女が不安を覚えないように虚勢を張る。ラムルはいつもそうだ、とツルカは思った。彼にだってきっと恐怖はある。それでもこうして強く在ろうとする。

 嵐の勢いが増す。耳元のイヤリングが強く揺れた。

 答えは決まった。

『ありがとうラムル。わたし、魔女になる』

 そしてお互い頷いた。覚悟は決まった。


 夜更けに首都に着いた彼らは、そのまま馬車に乗ってローゼ魔法学院に向かう。ぎりぎり見送りたいと述べたラムルだったが、またしても反対されることはなかった。車中、青年が何気なく尋ねる。それは今更な質問であった。

『そうそう、お嬢さんの名前を伺っておかないとね』

『わたしですか。わたしはツルカ……』

 ツルカはふと考える。自分の本名は鶴村佳弥乃だ。そのままツルムラ姓を名乗るべきなのか彼女は迷った。

『ラーデンだ。ツルカ・ラーデン』

 トラオムではありふれた姓だった。従来なら、ラーデンが本人を身内を認めた者にのみ与えらる姓だった。だがいつしかそれにあやかりたい、と自称ラーデンと名乗るものも増えてきた。一応ラーデンには金を積んでおくことにする。

『色々とご存知のようで。まあいいよ。ああ、ほら。着いたよ、長旅ご苦労様』

 重厚な門の先が開かれる。学園の象徴でもある薔薇の庭園の中央にて、大きな帽子を被った巻髪の女性の像がある。偉大なる先祖を模した像だ。レンガ造りのモダンな建物は洗練されていた。幾重にも蔦が巻かれ、古い歴史も感じ取れた。

『ようこそ。由緒正しき我が学院へ。これから君は卒業まで』

 この美しい牢獄に囚われることになる。門が閉ざされ、ラムルと隔たれた。手を伸ばせる距離にもいない。

 それでも彼女は前を見据える。もう心に決めたのだ。


 時は現代へ。卒業まで残り2年までとなっていた。


 ツルカ・ラーデンの朝は早い。小鳥のさえずりで目を覚まし、ゆったりと身支度を整える。レースのカーテンが風に揺れる。爽やかな新緑の季節である。そよ風の中、椅子に腰かけて読書をたしなむ。そろそろ朝食の時間だ。今日の気分はクランベリー入りのパウンドケーキだ。専用バリスタの特製コーヒーと共に友人と談笑したあと、本校舎に向かう準備を始める。予習復習も問題ない。さあ、今日も学び舎で勉学に勤しむとしよう。

 嘘である。いや、一概に嘘とはいえない。ローゼ魔法学院に通う生徒なら、本来はこうあるべきなのである。だがツルカはどうだろうか。実際はこうであった。


「むにゃ……マンドラゴラが一体、二体。おまけに三体でコンボ……うう」

 机に書物を並べたまま突っ伏して寝ていた。彼女は悪夢にうなされていた。昨日の授業のトラウマに苛まれていたのだ。

「はっ!」

 嫌なところで目を覚ました。寝ぼけた状態で周囲を見渡す。一般の学院生に与えられた簡素な一人部屋だ。トイレとバスルームが備え付けられているものの、あとはベッド、テーブル、クローゼット、鏡、そして簡易キッチンと冷蔵にあたるもの。暮らしに困らない程度はあった。部屋の壁紙も前の学生が変えたものからいじっていない。窓辺にある植物が彩を添えるかと思いきや、それは食用である。

「あー……また寝ちゃった」

 寝間着に着替えるまでは記憶にあったが、それから課題を片付けている間にいつの間におちていたようだ。眠気覚ましに窓を開ける。強風にさらされ、髪がさらに乱れた。打ちひしがれながらも、ツルカは身支度を始める。

「……ふわぁ」

 歯磨きをしながら、寝ぼけた自分の顔をみる。

 肩くらいで切り揃えられた、色素の薄い茶色の髪は生まれつきだった。今は寝ぼけ眼だが母親譲りの瞳も大きく、顔の造形自体は悪くはない。笑えば愛くるしくなくもない。だがいかんせん垢抜けない。小柄なのもあり、よく人に埋もれていた。同じ小柄な女生徒でもモテる子はもちろんいるが、その事実に彼女は目を背け続けている。

 ツルカは軽く朝風呂に入る。ようやく目が覚めたようだ。

 思ったより時間が押していた。彼女は慌てて寮の食堂に向かう。寮の廊下を行き交う生徒の姿はまばらだ。大半の生徒が準備を終え、朝の各々の活動に精を出しているころだ。だが空いているならそれはそれでよかった。

 数少ない友人達にはすでに置いていかれていた。めげずにツルカは隅の方に着席する。余っていた人気のないパンを口にする。そして特製コーヒーをミルクと砂糖たっぷりでいただく。ほっと一息をつく。この至福のひと時だけが彼女に現実を忘れさせてくれた。

 自室に一旦戻り、課題の論文を忘れずに鞄にしまう。寝落ちしてしまったため、未完成の代物だ。別の授業の合間を縫って完成させることにした。本末転倒であった。

 指定のシャツとスカートをはく。そして黒地のローブを羽織る。一般生に与えられるそれは胸元に薔薇の刺繍がワンポイントとしてあった。

 部屋を出る前にもう一度ツルカは鏡をのぞく。そしていつものように自身の左耳にそっと触れる。姿は見えない、けれどそれは確かに存在しているのだ。だからこそ彼女は頑張れる。そして気合を入れて笑顔を作る。

「よし。いってきます」

 さあ、今日が始まる。


 本校舎の赤絨毯の上を歩き、そして階段を昇る。挨拶を交わつつも、ツルカは自分の教室にたどりついた。下級6回生の教室だ。同じ一般生でも階級が分かれており、ツルカは下級の方にしがみついていた。穏健派な生徒も多い分、過ごしやすくもあった。

「あ、おはようツルカちゃん。先行ってごめんね。一応ね、起こしたんだけど……」

 か弱そうな少女が話しかけてきた。クラスで一番ツルカと仲が良い女子である。そういえば遠くでドアをノックの音が気がした。相当爆睡していたようだ。

「いいよいいよ。起こしにきてくれてありがとね」

「ううん」

 ひとしきり朝の挨拶を交わしたあと、彼らは準備を始める。実技の授業の為、屋外へと出向く。

 今日は物質の破壊の指南だがらいいものの、その前の模擬試合は散々だった。生徒同士で決められた範囲内で魔力をぶつけあう。そこで攻撃はもちろん、防御の術を学ぶのだ。だが、ツルカは開始早々場外へと吹き飛ばされてしまった。うまく地面にはまってしまい、対戦相手に苦笑しながら助けてもらった。

 次の授業でようやく昼休憩を迎える。ツルカの内職作業も辛うじて終えることができた。6回生全員が収容できる講堂へと向かう。上級クラスのエリート達との合同授業ということもあるが、講師も特別であった。

「ごきげんよう、皆さん。本日もよろしくお願いしますね」

 クラーニビだった。彼女は客員の教師として、各学校にて教鞭をとっていた。現王の姉君、王族相手となるといやに緊張してしまう。その中でもツルカは顕著である。

 クラーニビはあの魔女を騙った大罪人が処刑された日にいた要人だ。こうして改めてみると相当の美貌の持ち主であった。目元の泣きボクロが印象的である。

 よろしくお願いします、と生徒達は一斉に声を揃える。講堂の前を陣取っているのはやはりエリート達だ。ツルカ達は後方で大人しくしている。

「それでは始めましょうか。はい、治療魔法学はこわくない。復唱してくださいな」

「ち、ちりょうまほうがくはこわくない!」

 誰しもが嘘だと思った。彼女の授業を受けたものなら知っている。

「はい、映像をご覧くださいね。昨今では死体蘇生の研究が進んでますのは、皆さん周知だと思いますが」

「!」

 ツルカは内心きた、と構える。隣の生徒は手で球を形づくると、そのまま宙へと放り投げた。そしてそこに映像が映し出されていく。指で操作してメモを残しているようだ。他の教師はノートをとることを重視するが、クラーニビはこのやり方を重視していた。実際楽である、と生徒達からは好評だった。そう、一部除いて。

「ツルカちゃん?説明始まってるよ?」

「う、うん。オッケーオッケー」

 ツルカも同様の動きをし、水の球体を浮かべた。が。

「ひっ……」

 ミイラの映像がでかでかと映し出されたのみて、落としそうになった。慌てて取り繕う。この授業では随時この球体が出しっぱなしとなる。ずっと魔力を消費する必要があるので、なおさら神経を消耗することになる。説明は休む間もなく続く。ツルカも必死にメモをとる。だが、これはノートに手書きであった。省エネの為である。いつも不思議そうにしている周囲には対しては、実際書かないと覚えないといってごまかしていた。

「はい。そしてこれがイリアの花です。フルムで主に採取できるこの花の薬効性は、とっても有用であると認められています」

 フルムの話が平然と出てきた。生徒達も気に留めることもない。

「……」

 時代は変わりつつあった。老いた先代の王にかわり、現王は穏健な政策をとるようになった。まずはフルムとの国交との回復である。尽力の甲斐あって実を結びつつある。

「フルムにも素晴らしい文化はたくさんあります。お互い認め合い、協力し合っていきましょうね」

 こうして自身の授業を締めくくった。礼を言った生徒達に手を振って応えながら講堂をあとにした。この気さくさも人気の秘訣の一つだった。

 別件があった友人と離れ。一人教室に戻る。その間どうしても会話が耳に入る。特に上級であるクラスの生徒の会話は意識が高く、また恵まれっぷりも思い知らされるものであった。

「さすがはクラーニビ様。見識が広くおられる」

「まあ、フルム人も多少は話が通じるらしいな。クラーニビ様にフルムの神殿をみせていただいたことがあるが、中々の造形美であった」

「そうそう見てこれ!新作買っちゃった」

「あら可愛らしいのね。さしずめ、お気に入りのフルム人の殿方の……ってとこ?」

「さーあ、どうかな?」

 あまりのリアルの充実っぷりにツルカは圧されてしまう。彼らの周辺だけ輝いてみえるようだ。学業は極めて優秀で、私生活も楽しんでいる。まさにカーストトップのようだが、さらにその上を行く存在はいる。

「きゃあ!皆様勢ぞろいよ!」

 フルム人の話はそっちのけで、彼らは窓辺にがぶりつく。ツルカの友人もミーハー心を抑えられないようでそれに続いた。ツルカも後ずさりたい気持ちを抑えて窓辺に駆け寄る。ここで騒がない方がおかしいのだ。

 眼下にはひときわ華のある生徒が連れ立って歩いていた。共に昼食でもとるのだろう、別校舎の食堂に向かっていた。

 どこぞの誰かを彷彿させる漆黒のガウンを纏うのは選ばれた生徒の証だ。彼らは模範生と呼ばれる生徒達であった。あらゆる特権が得られ、学院の自治も任される。学院の生徒達の中心である。

 その資格を得るには自身の力を誇示する必要があった。現模範生に勝負を挑み、勝つことが出来ればその立場を奪うこと出来る。様々な制約があるが、下克上の絶好の機会でもあり、学院の生徒ならばぜひとも勝ち取りたいものであった。

「ああ……マルグリット先輩。今日も麗しいんですけどぉ」

 7回生のマルグリット・トラバント。

 先頭に立つのはトップオブトップ。この学院の生徒の頂点に立ち、生徒達を束ねる中心人物でもある。長い黒髪を頭の上で結わえ、制服もきちんと着用している。折り目正しい人物であり、魔力の素養も高い。特筆すべきなのは、極希少である魔力を無効化術を生まれつき備わっているという。

「ほら、カタリーナ様よ!本当お二人は仲睦まじいのね」

 同じく7回生のカタリーナ・クローネ・トラオム。

 賢君名高い現王の娘で、第一王位継承者である。人形さながらのくっきりとした顔立ちで、巻いた髪を指に遊ばせつつも、マルグリットと話し込んでいた。王宮家庭教師には頼らず、民に混じって学ぶことを選んだらしい。

「うわ、またマルグリット先輩の指導入った。でもまあ、ウォード先輩いるし」

 8回生のウォード・ギリス。現在の模範生の中で最年長であった。

 かなりの長身で整った顔立ちは、女子生徒からダントツの人気があった。男子生徒からも頼もしさから信頼を得ている。安定した魔法の使い手である。そして模範生の一人の発言に怒ったマルグリットをなだめ、発言の主をたしなめているようだ。そして和やかな雰囲気に戻っていった。

 そのあとも3人の選ばれし生徒達が続いていく。現6人で構成された模範生達は学院の羨望の的でもあった。彼らは歴代の中でも高く評価されていた。最高の世代とも言われている。故に彼らに挑む生徒は専ら途絶えつつあった。第一模範生、トップであるマルグリットに挑む生徒はここ数年みられないという。

 遠い世界の住人である彼らを、例にももれずツルカも憧れていた。あくまで遠巻きに見ていた。自身には縁のない世界なのだと。

 ツルカは目立つわけにはいかない。大人しく地味でいるしかないのだ。下手に注目されたら、彼女の秘密が露見しやすくなる。

「やあ、皆。楽しそうだね」

 女学生達が色めきだつ。前髪をかきあげ、大人の色香を振りまく男性は、この学院の長であった。

「こんにちは、学院長」

 作り笑いでツルカも挨拶する。その男はかつてはこの学院の模範生。そしてツルカを招き寄せた大元の元凶でもある。彼は卒業したあと学院長に就いたのだ。

 彼はあくまで学院長として彼女を見守っていた。そう、見守るだけで何もしない。

 その場にいた生徒達と軽く談笑したあと、時計をみて彼は会話を切り上げた。名残惜しそうな生徒達に別れを告げる。

「ああ、君。今週の休日もお願いするよ。いつも助かるよ」

「あ、はい」

 去り際にこっそりと学院長は言い残す。ツルカに拒否権はなく、心の内は憂鬱であった。怪しまれないように、せめて笑顔だけでも取り繕う。

「……仕方ない、仕方ない。どうとでもなる!」

 気持ちを切り替えて、彼女は早歩きを続ける。いつもの定食で午後の英気を養うことにした。


 休日では近場に限っての外出と外泊許可が出ていた。ただし外出には門限があり、それを破った生徒は生徒指導が入る。模範生達による根性焼きという噂もある為、それを破ろうとする生徒はほぼいないようだ。外泊届は休日に親元に戻る時か、模範生に許されているものだ。ツルカの選択肢にはなかった。

 ツルカも早めに寮を出て、街へと足を運ぶことにした。休日を楽しむ若者達の姿を目にする。実に笑顔に溢れ、楽しげであった。ツルカにとって眩しくて仕方がなかったが、今は目を背ける。

 盛んである中央通りを抜けて、うらぶれた通りへと入り込んでいく。通いなれたいつもの道だ。その通りは日中関係なく薄暗く、ウォールランプが灯されている。ツルカは見慣れた店の前で足を止めた。

「おはようございます。本日もお願いしますっ!」

 気合を込めながらドアを開いた。毒々しい店内に、テーブルと椅子が立ち並ぶ。ホルマリン漬けの何かに、鉢に植えられた何か。なぜか癖になる美味しさと評判の料理と、そして何かを販売している店であった。ローゼのような名門校には見向きもされないが、怖いもの知らずの学生達に密かに人気である。ツルカの休日限定の勤め先であった。

「あらぁ、ツウちゃんおはよー。今日もがんばりましょうねぇ」

「はい、マスター!」

 カウンターの席で気怠げに座っている妖艶な女性。この店の主だ。彼女は学院長の知り合いであり、人手に困っていたということでまだ幼かったツルカをあてがった。以来、長い付き合いでもあった。彼女は月日が経過しても全く姿が変わらない。その謎は未だ解明できずにいた。

 料理人もやってきて、開店準備も整う。ツルカは接客と皿洗いを主に担当していた。

「いらっしゃいませ!」

 ドアが開いたので元気よく挨拶する。だが客ではなく配達員が立っていた。彼は台車にたくさんの麻袋を積んでいた。ツルカが代理でサインをし、配達員を見送ろうとする。そこを呼び止めたのは店主だ。

「ああ、それねぇ。一緒に頼んだ分なのよぉ。ツウちゃん、下すだけ下ろしちゃいましょ」

「えっと、はい」

 店主が奥の方から店用の台車を引っ張りだして、麻袋の半分を積み始める。ツルカは嫌な予感がしつつも手伝った。

「うん、これでよし。ツウちゃん、配達お願い。ラーデンさんの本店まで」

 ツルカは頷くしかなかった。彼女は配達員に帰ってもらっていた。追加料金をとられたくない為である。ツルカは諦めて台車を引いていくことにした。遅くともお昼時までには戻ってこなくてはならない。ただ保険はかけておく。

「その、お昼まで戻って来られないかも。そうなったらすみません」

「あら?前に頼んだ時早かったじゃない。魔法でビュンって行ってくれたんでしょ?」

 ツルカは一瞬体をびくつかせる。だがばれてない、と自身を落ち着かせる。

「そ、そりゃもう!一瞬ですわ、はい!」

 それでは、と台車を引きながら全速力で走っていく。魔法は使わないのかという店主の言葉はあえて聞かないことにした。ツルカとて風の魔力で勢いをつけていきたかった。それができないのは魔力が尽きかけていたからだ。クラーニビの授業に加えて、大量の課題にかなり使ってしまったからだ。だから彼女はこの手段を取るしかなかった。

「わったったっ!」

 ようやく中央通りまでやってきたが、ラーデン商会の本店までは急な坂を下る必要がある。変に勢いついてしまった彼女はもう止まることができなかった。このままでは店に直撃しかねない。魔法が使える残数は1回使えるかどうかだ。勢いは止まらない。このままではぶつかる―目をつぶったままだった。

「止まりなさい、ツルカ・ラーデン」

 凛とした声がする。と、同時に台車ごとツルカの体が浮いた。そしてふんわりと着地させられた。

「何事かと思いました。無事で何よりではありますが、我が学院の生徒としての相応の振る舞いを心掛けてください」

「は、はい……あの」

 ツルカは目を見開く。第一模範生であるマルグリットが目の前に立っていた。お礼を言おうとするも、憧れの人物を前に緊張をしないわけがなく、言葉を詰まらせていた。 

「……ほんと、驚いたわ。あなた、こちらをめがけて突進してくるんですもの」

 さらにそこには同じ模範生であり、かつ王女のカタリーナが腕を組んでたっていた。

「ごめんなさい……。マルグリット先輩も助けていただいてありがとうございました」

 こうして無事ではあったが、だれかを怪我させるところであった。相手はましてやカタリーナ姫、王族である。冷や汗が止まらない。

「あなた危ないじゃないの」

「そうよ、お二人になにかあったらどうするのよ」

「そうよそうよ」

 続けざまに不平を言うのは、カタリーナの熱狂的な取り巻きの少女達だった。だがマルグリットは諫める。

「過ぎたことです。カタリーナ、このままでは予約の時間に遅れそうです。急ぎましょう」

「はいはい、急ぎましょう。みんな、行くわよ」

 カタリーナのファン、親衛隊とも呼ばれている彼女達も続いていく。カタリーナの鮮やかな花柄のワンピースも、マルグリットのかちっとしたジャケット姿も私服なのだろう。彼女達の行きつけの店で優雅にこれからの予定を立てるのだ。

「……あら、あなたやっぱり」

 カタリーナがツルカの元まで戻ってきた。そしてその場でしゃがみ込み、彼女の頬に手を添える。

「失礼するわ」

 淡い光を手に灯すと、そのままツルカの頬をなでおろす。ツルカは今になって気がつく。自身が頬にすり傷をつくっていたことを。どこかでかすめたのかもしれない。

「ありがとうございます」

「当然のことをしたまでよ。せっかくの休日なんだから、一層可愛くいなくちゃもったいないでしょう?素敵な出逢いがあるかもしれないんだから」

「!」

 極上の笑顔にツルカは目を奪われる。

「はあ……カタリーナ。出逢いも何もないでしょう。彼女は今勤労中なのでは?」

「あら、関係ないわよ。見初められることもあるじゃない。ま、いいわ。お仕事の邪魔をしてはいけないわね」

「それでは、失礼します」

 二人が去る前、もう一度ツルカはお礼を言った。マルグリットは会釈をする。大げさね、とカタリーナは笑って返した。

「はああ……素敵すぎる」

 こうして直に模範生と接するのはツルカは初めてであった。憧れる思いは増々募るばかりだ。だがいつまでも惚けていられない。ラーデン商会の倉庫番に荷物を託し、建物から出ていった。これで配達は完了だ。

「きれいだなぁ……」

 本店のショーウィンドウに並んでいたのは、精巧な宝飾品達だった。そして店内をさりげなく覗く。いつもながら客で賑わっていた。

「戻ろ」  

 台車は軽くなったが、げんなりするような坂道を越えなくてはならない。なんのその、と走っていった。

 多少遅れたてしまったが、汗だくな彼女をみた店主は怒ることはなかった。身支度を整えたあと、厨房に入る。客席側と行ったりきたりなツルカは店内をかけずり回っていた。いつもより店内は忙しなく、休憩時間は食事の時間しか与えられなかった。

 集中して皿洗いをしていた頃、窓に何かがもたれかかる。いつもこの時間に現れる茶色の縞模様のトラ猫だ。長いしっぽを窓にうちつける。ツルカは首を振った。猫はそのまま去っていった。

「そっか……今日は」

 ツルカはもうひと踏ん張りすることにした。黙々と皿洗いを続ける。

 寮の門限が迫る頃、ようやく本日の仕事が終了した。

「ツウちゃん、お疲れ様。ちょっとおまけしておいたからねぇ」

「わあ、ありがとうございます」

「……魔法使うのも楽じゃないのねぇ。ちょっとは控えることにしておくわ」

「あはは……正直助かります」

 ツルカは笑ってごまかした。挨拶をし、給金を受け取る。そして店をあとにした。体は疲れ切っているが、ツルカは伸びをしたあとそのまま寮へと向かっていく。夜空を見上げながら、息を吐いた。

 寮の自室に戻ったあと、ベッドにもたれかかる。そして窓の方を見た。月明かりが差し込んでいる。

 学業に魔法を使うこと。そして休日もなく、働き続けること。そして騙り続けること。休まることのない日々をツルカは過ごしてきた。弱音も吐きたくなる。くじけそうになることもある。

 それでも彼女はまだ頑張れる。

 そろそろだ。ツルカは立ち上がって窓を開けた。優しい風が頬を撫でる。飛び込んできたのは包みを背負ったトラ猫である。

「よう。邪魔する」

 低く落ち着いた声だった。随分と大人びたものになった。

「こんばんは、ラムル。いらっしゃい」

 こうして彼とまた逢えるのだから。

 

 魔女を騙ると決め、ツルカが学院に入ったあの日から。ラムルはこっそり魔力を注入しに訪れていた。本当は毎日でも魔力を注ぐことが理想であった。だがそうは甘くない。どうしても人目を避けなくてはならなかった。

 一日目の休日は生徒が実家に帰っていたりと、人目につかなくて済む。学院が一番守りたい学生が少ない分、警備も手薄となる。ラムルが忍び込む日は大体この日となった。そしてあまりにも二人が接触し過ぎると、かぎつけられてしまう。

 学院外で仕事をしている時に魔力を注入するのが大半であった。だが人目があったり、ツルカがどうしても抜け出せない時は寮に忍び込む必要があった。

「これ、預かってきたやつ」

「わあ……」

 猫耳の帽子には手紙と写真が同封されていた。トビーや集落で生活を共にした皆からであった。彼らは無事フルムに着くことができた。たまにこうして手紙を寄越してくれるのだ。 

 猫の姿になるのはフルムの秘術だ。ずいぶん昔にラムルがいつの間にか習得していたようだ。それからは猫での姿しか彼を見ていない。

 だがそれでもツルカはよかった。彼女にとってラムルはラムルだ。大切な人なのは昔から変わっていないのである。

「しっかし相変わらず地味な部屋だな。つか、この草。腹持ちだけが取り柄の草じゃねぇか。どんだけ食い足りないんだ、お前は」

「くっ……」

「ほら、どうした。食べないよって言ってみろよ」

「くっ、食べます。夜に小腹が空いた時に思いっきり食べます……!」

「ほらみろ」

 愛らしい肉球を持った手で、植物の鉢を小突いている。そう、この姿でもラムルはラムルだった。憎まれ口は健在であった。

「ま、さっさと済まそうぜ」

 ラムルはツルカに椅子に座るように促す。ラムルはツルカの左耳に猫の手を添えた。イヤリングが発現する。そして温かい光を灯し、揺れた。ツルカはこの時が好きだった。いつもは隠されたイヤリングを見ること出来るのも。そして、この満たされるこの感覚も。そのまま全てを委ねたくなるくらいだ。ふさふさの猫の手に彼女は優しく触れる。

「いつもありがとう、ラムル」

「……ま、まあこれくらいどうということはないからな。ほら、もういいだろう」

 軽く振り払ったあと、ラムルは窓辺に立つ。そのまま彼は帰ろうとしていた。

「待ってラムル。たまにはお茶でも飲んでいかない?飲み物結構色々あるんだ。茶葉分けてもらえたり、ほら牛乳とかもあるから。ホットミルクは……猫舌があったか」

「ツルカお前……」

 ツルカは牛乳を数本もってきた。遠慮せずに飲んでほしいと、ツルカはぐいぐい迫る。これだけ備えているということは、いつも飲んでいるのだろう。その目的をラムルは感づいた。

「ツルカ。もうお前の成長期は終わったんだ。諦めろ」

「終わってないよ?まだまだ伸びるはず。私は諦めない。諦めるわけにはいかない」

「表情が伴ってないぞ」

 真顔でつぶやく彼女自身もどこか気づいていた。だが認めない。そこで認めたら終わってしまうからだ。

「気持ちだけもらっておく。俺も明日早いから」

「そう、だね」

 ラムルはラムルでトラオムの民に混じって生活している。いくらラムルでも疲れてないということもないだろう。

「……お前、きついか」

 月の光がツルカの顔を照らし出される。溌剌とした表情は変わらない。けれど目の下にクマは出来たままだ。ろくに休みもとれてないのだ。寝不足が堪えてないわけがない。

「あのおっさん、いい加減シバ」

「しばかなくていいから!気持ちは嬉しいし!でも、お金も必要だから。マスター達もクセは強いけどいい人達だし」

 荒ぶる猫をそのままツルカは抱きかかえた。不本意なラムルはすり抜けた。

「私は全然平気。だって卒業さえ出来れば、解放されるんだし!あの学院長も見返してやれる」

「ああ……」

「あと2年頑張れば。そうしたらさ、また一緒にいられるよね」

 猫ラムルの前足にツルカは手を伸ばす。彼の身がたじろいだのは、勢いで強く掴んでしまったからだろうか。

「みんなにも逢えるし。だったら頑張るしかないって」

「……」

「それにしてもフルムかー。砂漠の国って教えてもらったけど、きっといいところだよね」

 ラムルが黙り込んでいる。興奮し過ぎて息が荒くなっていたのに引いているのだろうか。それならそれで彼がいじってくるはずだ。こうも静かだとツルカは戸惑ってしまう。

「それじゃ、今日はこのへん……で」

 抱かれたのは少年の細腕ではなく、青年のしっかりした腕だ。その流れで優しくそのままベッドに押し倒された。ツルカはゆっくりと見上げる。

 覚えのある褐色肌に長い睫毛。だが記憶の中の彼とは大きく違っていた。肩まであった髪は耳元の辺りで切り揃えられており、俯いたときに落ちた髪をかき上げる。中性的だった容姿ではもはやない。そこに在るのは。

「猫の姿だったからしてやれなかったこと。……今ならやっと出来る」

「ラムル……」

 熱を含んだ瞳をみたらどうしても意識せずにはいられない。一人の男だった。ツルカはまともに彼をみることができずにいた。注がれる視線に耐え切れなくなり、ついには目をぎゅっと瞑る。

「……」

「……よし、それでいい。いいからそのまま寝ろ。寝こけちまえ」

「え」

 意味がわからなかったツルカは目を開けようとするが、そのまま大きな手で視界を覆われる。

「だから寝てろって。ほら、いい子だー。さっさと寝ろ寝ろ」

 ツルカの心境はまさにこうだ。穴の中に入ってそのまま埋まったままでいたい、であった。ラムルはあくまで寝かしつけたいだけだったのだろうか。もうこのまま狸寝入りをしてしまうとツルカは考えていた。

「フルムの話、してやる。どんな国か。他にどんな奴がいるかとか。お前が訪れた時、もっと好きになってもらえるように」

 頭をそっと撫でたあと、背中を軽くたたく。まさにあやしていた。穏やかな語り口にツルカはだんだんいたたまれなくなってきた。

「ラ、ラムル!」

「お、おう。なんだよ急にでかい声だして」

「ちゃ、ちゃんと寝るから。だから、もう大丈夫なので」

「お前はいつもそう言うけど」

「ほら、明日早いんでしょ?」

「おい……」

 ぐいぐいとラムルを窓の外に押し出す。観念したラムルは猫の姿に戻った。ツルカは一息つく。ラムルに悪気はなかったのはわかる。けれどこれ以上は勝手ながらツルカが耐えられなかったのだ。

「まあいい。その、あれだ。フルムにはちゃんと連れていってやる」

「うん」

 それじゃ、と猫のラムルは窓から木の枝へ枝へ飛び乗っていった。このまま世話になっているラーデンの所へ戻るのだろう。

「うん……寝よう。あ」

 お風呂、とツルカはつぶやく。今日はいつもより汗をかいた。体をさっぱりさせてから眠りにつくことにした。だが彼女は失敗した。熱いお湯によりかえって目が冴えてしまったのだ。体が疲れているのに、眠ることができない。ようやく眠ることが出来たのは夜明け前であった。


ある日の放課後。ツルカは学院の図書館にきていた。2階建ての木造建築でかなり歴史が古いが、景観の良さもあって取り壊されずにきたようだ。彼女は時間をみつけては多くの書物を読みあさっていた。この国の知識も常識も知らないことが多すぎた。おかげで様々な事に役立てることが出来そうであった。

 そして、諸外国に関する書物だ。かなり古い文献ではあるが、日本に書かれている書物があった。彼が実際に訪れた旅行記だ。かなり難解な言葉で書かれているので、解読はまだまだかかりそうだった。だが、かなりの手がかりといえた。

「もしかしたらお母さんや、あの子にも―」

「あら、またあなたなの?放課後なのに真面目ねぇ」

 その通る声にツルカは過剰に反応してしまう。そして本を慌てて閉じた。 

「まるでマルグリットのようね」

「私のようかはともかく。良いことではありませんか」

 またしてもマルグリットとカタリーナだ。二人もこの図書館を訪れていた。仲が良いというのは本当のようだ。ツルカは無難な挨拶をした。

「たまに貴方のことは見かけておりました。勉学や勤労に勤しむその姿勢は、とても素晴らしいものだと思えますから」

 優雅にほほ笑むマルグリットに同性ながらもときめいてしまった。心臓に悪い。

「一理なくはないけれど。やはりそれだけじゃ物足りなくないかしら」

「よくないですね、カタリーナ。彼女の姿勢は中々素晴らしいものですよ」

「その、ありがとうございます」

 ツルカはふと思った。どうしてマルグリットは自身の名まで知っていたのだろうか。今は聞かずに大人しくしておきか。察したカタリーナがツルカに教える。

「マルグリットったたら、全学院生徒の名前や実態を把握しているのよ」

 ツルカは感動した。マルグリットからしてみれば全学院の生徒を把握するのは当然と思っているかもしれない。

「もう、学院のことばかりでなく、他のことにも目を向けたら?それこそ恋とか」

「こ、恋ですか!?」

「こ、恋ですか……」

 マルグリットと声がそろってしまった。お互い気まずそうにする。

「来週末、ちょうどおあつらえ向きのものがあるじゃない。あの日ばかりは門限がないもの」

 彼女が指すのは魔女の生誕祭のことであった。偉大なる祖が生まれた日を国中で祝う。数多の催しが開催されて、誰しもが楽しみにしている。遅くまで開催されているので、門限もこの日は設けられていない。

「学院の外に意中の殿方がいるのなら、誘ってみたら?」

「い、いちゅう!?」

 いつの間にかカタリーナの中で話が進んでいた。恋をしていると決定づけらているのもそうだが、どうして学院外となっているのか。

「だって。あなたの浮いた話をあたくし耳にしたことないわ。学院の乙女の情報網をもってしてもよ?」

「んっぐ!」

 カタリーナが悪気がないのはわかる。だが、ツルカの心は大ダメージを受けた。それと同時に恐怖した。いかにも恋の話を好みそうなカタリーナからしたら、学院の恋愛事情を把握するのは当然と思っているかもしれない。

「あまり私のこと言えた義理ではないでしょうに」

 その言葉にカタリーナはむくれているが、ツルカもこっそり頷いた。

「カタリーナ。そろそろお暇しましょうか。会議の時間です」

「あら、もうそんな時間?それではごきげんよう」

「は、はい。ごきげんようでございます」

「なあに、それ」

 気さくに笑って、急ぐマルグリットに続く。歩くのが早いと抗議しているようだ。そうしたくだけたやり取りからも二人の仲の良さは本物のようだった。図書館にいる生徒たちからも憧れの目を向けられていた。

 やはり雲の上のような存在だった。


 休日になり、ツルカはいつもの如く勤労少女になっていた。一心不乱に皿洗いをしている。店内でも生誕祭の話題でもちきりだった。

「意中の相手か……ひゃ」

 手を休めないながらも考え事をしていると、窓ガラスをたたく音にツルカは驚く。それも連続でたたかれていた。窓の外で猫のラムルが機嫌悪そうにしていた。長い間ツルカは彼の存在に気付いていなかったようだ。

 今日は休憩時間がたっぷりとれる。けれどそれは夜、ツルカの自室で会うことはないということを意味する。

 ふとあの夜を思い出す。あの彼の姿はとても心臓が悪いものだった。成長した姿もそうだが、その振る舞いが一層気まずさを助長させている。猫の姿の時はそのようなそぶりはみせなかった。彼女が知らない姿だった。

 どちらにしろ、学院で逢うよりは学院外のほうが安心である。ツルカは自身を納得させて、ラムルに休憩までの時間を口の動きだけで伝えた。ラムルはいつもなら店の裏口にさっさと行くのに、なぜかそこにとどまっていた。ツルカが不思議そうにみると、何でもないと今度こそ窓のフチから飛び降りていった。ツルカは作業速度をさらに上げていった。

 裏口に座って、手作りのサンドイッチをほおばる。ラムルにもおすそ分けするが、ツルカはいつもながらひやひやしていた。サーモンとマリネのサンドイッチを好んで食しているが、玉ねぎは大丈夫なのかと。だが何てことなく食べている彼をみて思う。彼は猫ではないのではないか。この姿で猫でないのなら、彼は何なのか。

「い、いやいやそもそもラムルだし」

 ここでいつもならラムルが一言なにかいう。唐突に何を言い出すか、といったことを。

「……来週の休み、晴れだってな」

「そうなんだ」

「お前はそんな中、汗水鼻水垂らして働くわけだ。ご苦労だな」

「そうだ……いや、鼻水は垂らさないけどね」

「まあ、今のは言葉の綾だ。お前、勉強と労働ばかりだろう。まあ、それはわかる。けどたまには息抜きをと思った」

「やっぱそうだよね。ここ最近学院の人にもいわれた。生誕祭に私は行くべきだって」

「はあ!?」

 猫ラムルの体が思いっきり跳ねた。落ちかけたサンドイッチはツルカがうまく手で受け止めた。彼はしっぽを逆立てる。

「おい、断れよそれ。お前はこっちが誘うんだからいいんだよ!」

「誘ってくれるの……?」

「ああ、そうだよ。気分転換にでもって。……まあ、お前がそいつと約束したんなら、まあ、早い者勝ちだ。でも門限は守れよ」

 それから彼は沈黙する。勢いで告げてしまったようだが、もう言ってしまったものだと開き直った。

「はい、わかりました」

「返事いいな、おい。……まあ、せいぜい楽しんでこいよ」

「あのね、ラムル。それなんだけど……」

 項垂れる猫の背中をツルカは撫でた。変な声が出てしまった彼は、猫の声で抗議する。

「学院の女性の先輩に言われただけだよ。あなたから誘ってみたらって。とりあえず学院の誰からも誘われてないよ」

 ツルカの言い方がまずかったかもしれない。ラムルに誤解されていたようだ。

「……それはそれで悲しいな」

「言わないでよ……。でもいいんだ、うん、気にしてない」

 こういうのは勢いが大事だ。だから彼に伝える。

「一緒に生誕祭に行こう!そう、気分転換ってことでさ」

「お、お前。いいか、お前からじゃない。俺が誘ったんだからな。気分転換にと提案したのも俺だからな。こっちからエスコートするんだ。いいか?」

「そっか!そうだね、よろしくね」

「こ、こいつ」

 男の矜持でもあるのだろうか。ツルカは特に反論することはなかった。ラムルは得も知れぬ敗北感を密かに味わっていた。

「楽しみだなぁ。そうだ、ラムル。猫ちゃん用のお召かしグッズもあるんだって。どんなのあるか前もって調べておくね」

 人の目もあるので、彼は猫の姿でくるのだろう。それでツルカは十分幸せであった。彼と二人で出かけるなどそうそうないことなのだ。楽しい思い出をどうしても作りたかった。だが、笑顔のツルカとは対照的にラムルは顔を引きつらせる。

「お前……、猫の姿で行くと思ってるのか」

「うん。人混みすごいと思うし、抱きかかえようかなって」

 当然のように言うツルカにラムルはため息をついた。

「もう一度言う。俺が猫の姿で行くと思ってんのか。行かないからな。絶対な!」

「行かないの?絶対目立つし、ほら、とてつもなく注目されるに決まってるよ」

「まあ、確かに俺なら目立つよな」

 いくらフルム人もよく見かけるようになったとはいえ、物珍しいことには変わりない。それに彼の容姿は特段と優れている。目立たないわけがない。そうなのだが、さらっと自分で認めたことにツルカは脱力した。

「だって、よくなくない?やっぱ目立つのはまずいんじゃ」

「どうとでもなる」

 ラムルの伝家の宝刀が出た。ツルカは腹を括ることにした。

「……わかった。ラムルを信じる。なんかいい感じのお面探しておく。顔が全体的に隠れるような」

 どこも腹を括っていなかった。

「こいつ……。なにが信じるだ。まあいい、約束忘れんなよ」

「うん」

 一緒に出掛けることには変わりないので、ツルカは結局のところ嬉しかった。それにラムル自体も普段とそう変わりはない。いつも通りでいられるだろう、と思い込むことにした。

 ラムルは残りのサンドイッチも平らげ、ごちそうさまと告げたあと姿を消していった。身支度を整え、持ち場に戻ろうとする。カウンタの近くの席で店主が足を伸ばしていた。この時間では珍しく客足が引いている為、だらけている。

「ねえ、ツウちゃん。男の子と話していた?ああ、大丈夫よぉ。盗み聞きになっちゃうなって、ちゃんと離れたもの」

「そ、そうなんですか」

「生誕祭、いいわねぇ。楽しんできてちょうだいな」

 かなりピンポイントなところが聞かれていた。それにめげずツルカはダメ元で交渉する。労働時間を早めに切り上げることはできないか、と。店主があっさりと快諾したことにツルカの気が抜けた。いつも働き通しのことを店主なりに案じていた。こういうときこそ楽しんでほしいと計らった。ツルカはお礼を言い、その後の仕事も上機嫌で乗り切った。だが。

「帰り際にラーデンさんのところ寄っていってってくれない?はい、これ」

「ふおっ」

 強制的に大袋を押し付けられた。ツルカは断ることはできなかった。時間をかけてラーデンの本店へと向かうことにした。

 大荷物を抱えながらもツルカは慎重に坂を下っていく。ぜいぜい息を切らしながら、ようやく本店に到着した。何やら店の前で話し声がする。ツルカは抱えなおして、様子を伺う。

 身に着けているものからして位が高そうなのがわかるフルム人の集団だった。母国語で会話をしている。客かは知れないが面立って関わるのはよくないと判断し、ツルカは挨拶と会釈をして、そのまま去ろうとする。

「こんな遅くまでお疲れ様ですね、ご婦人」

 流暢なトラオム語で話しかけられ、中心にいた優雅な青年はツルカの大袋を抱える。お客様にそんなことはさせられない、と返してもらおうとする。護衛であろう側近の兵が耳打ちしているようだ。すると青年はじっくりとツルカを見定める。

「……貴女がそうなのですね。ラムル様のご友人で、親しくされていると」

 青年は自身がフルムの親善大使であると告げた。現王との食事会に備えて、トラオムにやってきたという。

 その密告した護衛もそうだが、他のメンツにも心当たりがあった。集落を脱するときにトビー達がお世話になったフルムの兵なのではないか。

 フルムの言葉で青年は話しかけてきた。ラムルとよく一緒にいた、集落で保護されていた少女だと、確信を得られているようだ。ツルカはどう答えたらよいかわからなかった。

「ラムル様が未だ戻られないのは、おそらく貴女の為でしょう」

「私は……」

 ラムルがこうしてトラオムに留まっているのは、彼がいないとツルカは生きていけないからだ。見捨てないのは、責任の一端を感じているのもあるが、彼の慈悲の心にもよるものだ、とツルカは思っていた。結果、彼らからラムルを奪ってしまっている。

「申し訳ありません、ラムル……ラムル様がここにずっといなくちゃいけないのは、私のせいなんです!」

 罵られても仕方ないと思っていた。そして、最悪彼と分かたれることも覚悟しなくてはならないことも。相手はくすりと笑う。思わずツルカは下げた頭をあげた。

「まあ。貴女のせい、でしょうね。私達の再三の願いを聞き入れてくださらないのも」

 ねえ、と護衛達に話しかけると、全員が頷いた。

「ああ、誤解しないでくださいね。私達はそれでよいと思っております」

「そうなんですか……?」

 青年は遠くを見つめている。話を続けた。

「ええ。私達はあの方の幸せを願っております。あの集落の方々からも聞いてました。あの方が実に楽しそうであったこと。そして幸せそうであったことも。それは……貴女のおかげであると信じてます」

「私、そんなんじゃなくて。それにラムル様は皆さんにとって必要なんじゃないですか?」

「おや。お名前はツルカさん、でしたか。必要というには語弊があります。私達はあの方が大切なのです」

「!」

「……っと、お仕事の途中でしたね。私達もしばらくは滞在しております。今度はラムル様とご一緒にお会いできたら、と」

 会釈したあと親善大使は護衛を連れて去ろうとしていた。ツルカはどうにか大袋を返してもらい、倉庫へともっていこうとする。横目で店内をのぞく。

「いないか……」

「おや、一足遅かったですね。ラムル様はご不在ですよ?これから何でも商会の主に連れまわされているとか」

「ラムル様も大変なんですね……」

「ええ。ラムル様の敬語、初めて耳にしました。苛立っておられましたが、どこか楽しそうでありました」

 ラムルが幸せならばそれでいい。それが彼らの本心なのだろう。一同優しい笑みをみせる。温かい人達だ、そうツルカは心から思った。


 生徒達に混じってツルカも浮かれる生誕祭。一日一日と近づいていく。

 そしてようやくその日を迎えた。店主の好意で2階の物置で彼女は着替える。おそらくラムルは先に待っていてくれているだろう。ツルカも急いで待ち合わせの場所へと向かうことにした。なぜか苦笑いをしながら。

 中央通りに向かう道中で学院の生徒とすれ違う。友人同士で連れ立つ者もいれば、腕を組む恋人同士もいる。ツルカの友人もすでに彼氏と歩いているのだろうか。

 木組みの建物が並び、地面には飾りタイルが敷き詰められていた。夜空にはランタンが飛ばされていた。楽しげな音楽が聞こえてくるのは、移動遊園地がある方からだろう。いつかはツルカが行ってみたかった場所だった。

 仮装をした人々で街はあふれかえっている。小柄な彼女は謝りつつも、人混みをすり抜けていった。あちこちぶつかりながらも、たどり着いたのは偉大なる祖を模した像だった。学院のものとは多少の意匠の違いはあれど、優し気な表情は共通していた。この大広場の象徴なだけあり、待ち合わせの人々の多さでツルカは完全に埋もれてしまっていた。肝心のラムルの姿が見当たらなかった。彼の姿を見つける自信がツルカにはあったのだが、それでも見つからないことに焦り始める。

 突如、何かが彼女の頭に落ちてきた。正直、少し痛かった。

「……人混み、うぜぇ。ようやく来たか」

「ラムル……?」

 ツルカの頭上でふてくされているのは紛れもなくラムルだ。ただし猫の姿である。そしてつまらなさそうに言う。

「……猫の姿のがいいんだろ」

「いや、そういうわけじゃないよ!じゃないけど……」

 ただ、彼の青年姿に慣れないからではあった。だがラムルに気を遣わせてしまったのだろうか。ただツルカが慣れないだけなのに。ぼけっとしている間に、またツルカは人とぶつかってしまった。

「大丈夫、もう避けるコツ掴めたから。ラムル、おいで。だいじょーぶ、ちゃんと守るから」

 と言ったはいいが、抱えた猫ごと人々につぶされるのは明白であった。

「はあ……逆だっつの」

 ツルカが瞬きした一瞬のことだった。ツルカは思いっきり見上げた。

 目の前で姿を現したのは青年の方のラムルだった。シンプルな服装でも様になっているのは彼の美しさ故だろう。黒いマントを身につけ、アイマスク状の仮面で上半分を覆っていた。確かにその場にふさわしい変装をしていた。よく馴染む風貌だ。

「……」

 ツルカとしてはまずかった。あまりにも様になり過ぎているため、言葉が出ない。そのまま肩を抱かれたので、そのまま硬直してしまう。鼓動が早くなる。これではまるで恋人のような振る舞いではないか、とツルカは意識せざるを得なかった。

「ほら。守るのはこっちの方だ」

「ラムル……」

 ますます頬を紅潮させてしまう。だが。

「お前が小さいのが悪いんじゃない。あまりにも人が多すぎるからだ。いくらお前が頑丈でも数の暴力には勝てないからな」

「え」

「人波に流されて探すこっちの身にもなれよ。つか、埋もれるってなんだよ」

「ええ……」

「それといい加減つっこませろ。お前のその恰好はなんだ」

 普段と全くもって変わらない口ぶりに、ツルカのときめきが消失しつつあった。ひとまず自身の恰好について弁明することにした。これは致し方ないことなのだ。

「昨日、マルグリット先輩。ああ、ローゼの頂点ともいえる先輩なんだけど。あの方がね……」

 ツルカは黒いローブ、つまりローゼの制服姿だった。

 学徒らしくあれと生徒達に告げた。生誕祭でも制服の着用を命じたのだ。そして、ローゼの学徒とふさわしく品位ある行動を、ともだ。この制服を着ているのならそうそう悪さや羽目を外すこともできないだろう、とふんだのだ。一生徒であるツルカが逆らえるわけがなかった。

「でもさ、ある程度の装飾はいいって。だから私もせっかくだからつけようかなって。ほら、あそこ」

 ラムルはフルム人ということと別の意味で視線が集まっている。だからこそ、隣に立てるようにとツルカは着飾ることにした。彼の腕をつかんで屋台へと連れていく。そこには仮装道具が売られていた。ツルカが品定めしている間にラムルが隣からいなくなっていた。

「やる」

 いつの間に戻ってきたラムルはツルカに何かを被せた。黒い三角帽子だった。いましがた買ったもののようだ。飾り気はないが、計算されたデザインだった。不思議とツルカに似合っているものだった。

「ありがとう!私もなにか贈りたい」

「気持ちだけでいい。俺は俺のセンスしか信じない」

「お、おう、そうだね。ラムルはそうだね」

 瞳を輝かせたツルカを一刀両断した。いっそ清々しかった。気を取り直してツルカは試着用の鏡を覗き込む。やはり彼のセンスはさすがのものだった。

「うん、素敵だね」

「な。魔女様だな」

 どきりとしたが、ここはラムルの戯言に付き合うことにした。

「そうだよ、魔女だもん」

「ああ、お前は魔女だ」

 不敵に笑うラムルにつれて、ツルカも笑顔をみせた。

 人目をひく青年の姿だろうと。愛くるしい猫の姿だろうと。

 ラムルはラムルだった。


 こうしたお祭りは歩いているだけも楽しいものだ。食べ物をつまみながらやってきたのは移動遊園地だった。間近でみる観覧車はかなりの高さだった。ここまで本格的だとはツルカは思っていなかった。実に侮れない。

「こういうの好きそうだな。なんか乗っていくか」

「いいの?じゃあ―」

 何やら見慣れた制服の人だかりが出来ていた。その合間から確認できたのは、模範生達6人の姿だった。勢ぞろいで生誕祭に参加していたようだった。言い出しっぺのマルグリットは当然として、他の生徒達も規定の制服を着ていた。いや、着させられたのだろう。彼らを取り囲んであっという間に人だかりが出来ていた。

「あいつらか、模範生っていうのは」

「そうそう。さっきのマルグリット先輩もあの中にいるね」

「ああ、あのポニテの女か」

 彼は即座にマルグリットを言い当てた。正解、とツルカは頷く。魔力の素養がずば抜けていると、ラムルは何てことなく解説した。

 マルグリットは魔力を無効化できる魔法も使える。本人が隣にいるのに思い出すのは気がひけるが、それでもツルカの脳内から去ってくれない。幼かったあの頃、魔女詐称罪の女性を助けようとしたが、彼の魔法は無効化されてしまった。おそらくマルグリット相手でもそうなるかもしれない。だが、祭りの夜に考えることではない。今はそのことは頭の隅に置いておくことにした。

 模範生の群れの中から、カタリーナがあら、と口に手をあてる。どうやらツルカを遠目で発見したようだ。ツルカと隣のフルム人を交互にみている。考え込んでいるが、そのあとはしきりに頷いていた。そしてそれきり二人をみることはなかった。

「おい、今のがまさか王女か」

「うん、カタリーナ様。そうなんだけど……今のはなんだ」

「ほんと何なんだ……」

 二人にとっては不可解極まりなかった。

「まあ、あいつらは関わらなくていいんだろ?」

「そうだね……雲の上のような人達だから、そう関わることはないと思うんだけど」

 街中で助けてもらった時と、図書館の時がイレギュラーなようなものだ。本来ならそう関わるような存在ではないのだ。

「関わったら悪目立ちってことか。じゃ、さっさと離れておこうぜ」

「そうだね」

 話しかけられてツルカは舞い上がっていたが、あの模範生達は殊更多くの生徒達から憧れられている。やはり最強世代と讃えられれうこともあって、熱狂的なファンが多い。カタリーナの親衛隊がまさしくそうといえた。下手に目をつけられるわけにはいかない。

「じゃあ、あれがいいか。あのぐるぐる回っているやつ。なんか高いし」

「……観覧車ときたか」

 よりにもよって密室で二人になる乗り物を選択されてしまった。ラムルは深く考えずに選んだのだろう、きっと高くて恰好がよさそうだから選んだのだ、とツルカはそう結論づけた。

「かんらんしゃ」

 だがラムルは何かを思案している。深い考えがあったのなら、申し訳ない話だ。

「じゃあ、あれはなんだ。なんか馬が上下に揺れてるやつ。あれか、急に飛び出したりするのか」

 唐突にラムルは指をさす。

「メリーゴーランドかな。飛び出さないから大丈夫だよ」

「……お前のいたところにあるやつなのか」

「そうだよ?……ラムル?」 

 一瞬喧噪が遠のいた気がした。実際に乗ったのは遠い昔のことなので、ツルカの記憶にはなかった。フルムにはないのか、と軽く考えてはいけない気がした。現にラムルの表情が曇りつつあるからだ。

「ほら、観覧車に行こうよ。景色綺麗だよ」

「ああ……」

 観覧車からの祭りの風景は壮観だろう。それでラムルが少しでも浮上してくれればよいのだが。ツルカが心配そうにみると、ラムルはいつもの表情に戻った。

「気にすんな。乗るぞ、あれ、揺らしていいのか?」

「やめよう?」

 ツルカの反応ミスだった。ラムルが興味をもったようだ。そして慌てて止めようとするツルカと、面白そうにしているラムル。言い合いしながらも観覧車に向かおうとする。足を止めたのはラムルだった。

 観覧車越しに目にしたのは淀んだ空の色だった。満天な星空はそこにはない。

「……掴まってろ」

「わっ」

 ラムルに腰に手を回され、そのまま片手で抱きかかえられる。そして一番高い建物へと降り立った。そして彼らは目撃する。

 空から出現したのは黒く禍々しい巨大な手の一部。面重なって移動遊園地ごと掴み上げようとしていた。あちらこちらで悲鳴があがり、その場から逃げようとする。巡回していた警備兵も応援を要請している。自分達だけでは手に負えないと伝えているようだった。

「―皆様、落ち着いてください」

 一人の少女の声が響き渡った。その声に人々は足を止めた。

「ご安心ください。我々がついてます。総力をあげてあれに当たります。皆様は避難誘導に従ってください」

 そして先頭に立ち、出現した黒い手に杖を向けた。それを皮切りにローゼの生徒達も民の保護や応戦と立ち回っていく。

「ウォード先輩、私は民の皆様の避難に注力させていただきます。カタリーナ……カタリーナ姫をお守りください」

 マルグリットがこの場の指揮官をかって出た。トラオムの兵がくるまで持ちこたえなくてはならない。

「マルグリット!」

 自分とて動けると、カタリーナは訴える。だが、マルグリットは受け付けない。

「ああ、わかった。カタリーナ様。俺達が必ずお守りします」

 第2模範生のウォードは意思を継いだ。他の模範生も頷く。そして王女カタリーナの警護にあたった。名指しで頼まれただけはあり、ウォードが他の模範生への指揮や、黒い手の撃退を率先してこなしていた。撃破しては分裂を繰り返すので、彼は風の魔力で封縛する。

「あのデカ男も気づいたか。狙わているのは」

「今はお下がりください、カタリーナ様!」

 ウォードが相手に懇願する。狙われているのはカタリーナであった。

 封じても封じても空から次々と黒い手は出現してくる。防戦一方の彼らは消耗する一方であった。

「お前は大人しくしてろ。今から大元をたたく」

 ラムルはそのまま淀んだ空を見上げた。あれだけの量が出現しているのだ。ご丁寧にも亀裂が生じ始めていた。彼は周囲に蜃気楼を発生させ、ツルカと自身を視認させなくした。そして意識を集中させる。

「ラムル……」

 昔、魔法を発動している姿をみられてしまった。ラムルの中では許せなかったのだろう。あれから彼は特訓をかさねてきたのだ。しかもほぼラグがなしで魔法の発動を成功させている。

「……あれは」

 カタリーナの背後がガラ空きだった。黒い手はそこに狙いをつける。カタリーナ当人は気付き、そして杖を構えようとするが。

 焦った拍子にカタリーナはよろけてしまう。常に守られていた彼女は反応するのに遅れてしまった。ラムルは舌打ちしつつ、攻撃対象を切り替えようとする。

「―大丈夫。こっちは任せて」

 携帯用のスティックの先をカタリーナの背後に向ける。手短に詠唱を済ませ、スティックを振り上げた。

 カタリーナに襲いかかる寸前で、突風が黒い手を鋭く切り裂く。ばらばらになった断片が再び結合しようとするが、今度はカタリーナ自身が封じ込めた。

「ふう、良かった」

 夜風が彼女のローブをたなびかせる。ツルカはまっすぐに見据えている。そして盲点の場所に狙いを定めていく。そう、今の自分なら助けられる。もちろん慢心することはしていない。自分の力には限度がある。だからこそ、ツルカは見極めていく。

「お前……」

 そんな彼女の別人のように思えた。年月があったとはいえ、彼女はここまで―

「いや……」

 今はそれどころじゃない。ラムルはさっさとケリをつけることにした。無詠唱で亀裂に強い衝撃を風で与える。封じ込めるなんて、ラムルには単なる二度手間だ。再生や結合を上回る速度で大元を切り刻んでいく。トドメと炎上させ焦がし尽くした。憎いことに封じ込めている断片までは消失していなかった。

「広場ごと燃やせばてっとり早いけどな」

「ラムル……それはちょっと」

「……言ってみただけだ。さすがにトラオム人でも巻き込むのは気がひける」

 彼なりの冗談だ、それもタチの悪い。ツルカはそう思うことにした。口が悪いが根は優しいラムルがするはずがないのだと。

 それにしても、あまりにも圧倒的だった。畏怖してしまうほどだ。

「あとは投げだ、あいつらに」

 投げやりにそう言ったあと、ラムルはツルカを担ぎあげた。そしてずらかることにしたようだ。

 ツルカは見下ろす。そして胸をなでおろす。トラオムの兵の増援が駆けつけてきた。敬礼をし、彼らも任務にあたり始める。指揮をとったマルグリットと、カタリーナを守りきった模範生達が軍の隊長直々に礼を述べられていた。その場にいた誰もが讃える。さすがは国内随一の名門校の学徒だと、口々にした。

「やっぱりすごいなぁ、みなさんは」

「つか、舌かむぞ」

「う、うん」

 もちろん歴代最強といわれる模範生達は尊敬に値する。だが、そんな彼らを上回るのがラムルだ。

「ラムル」

「どうした?」

「えへへ、呼んでみただけ」

 人目を避けているときになんだこいつは、とラムルからすごい顔をされた。ツルカはすぐさま謝った。こうしているといつもの彼だ。だが、ツルカは痛感してしまう。

 ラムルが神の子と呼ばれるのは当然のことなのだと。本当にすごい人物なのだと。ただ彼が遠く感じた。


 街に流れる運河に星空が映し出される。ラムルは欄干によりかかり、ツルカは腰かけて足をぶらつかせていた。生誕祭を続行するようにと伝えたのカタリーナだった。だが彼女は城に帰ることになった。安全に安全を重ねた末だそうだ。マルグリットも付き添う。他の模範生達は見回りも兼ねて残ることにしたようだ。

 祭りの中心ではフィナーレに向けて盛大に盛り上がる。花火があがり、運河からも眺めることが出来た。

 ラムルはもういいだろう、と仮面をとった。今は人目を気にしなくていい。

「ったく、なんだったんだよ。かんらんしゃに乗り損ねたし」

「まあまあ。無事だったんだし。ありがとね、ラムル。お疲れ様」

 人知れず元凶をたたいた彼に賛辞をおくられることがなかった。けれど自分だけでも労ってあげたかったのだ。そして彼に買ってきたコーヒーを手渡す。ツルカはツルカで砂糖とミルクをたくさん投入している。それを見てげんなりしつつも、ラムルはつぶやいた。

「……お前もな。よくやったもんだ」

 存外素直であった。ラムルは思う。あくまで与えたの魔力だけだった。たしかに風や火、そして水など。それらを難なく発現させることは元々できる。だがああも使いこなすことはできたのは、おそらく。

「いやぁ、さすがに心臓に悪かったけどね。でも任せてっていった手前、ここは決めないとってね」

 照れくさそうに笑う彼女が、甘んじずに頑張ってきたからだろう。だからこそラムルは本音を告げる。いつものように余計な事は加えずに。

「お前なら卒業できるかもな」

「え……えええ?いやいや、結構ぎりぎりだし。どうしたの、ラム……」

 両手を振ってツルカは全力で否定しようとするが、言葉が詰まる。ラムルは真剣だ。だから、ツルカも静かに頷いた。

「うん、卒業したい。あと2年、ひと踏ん張りだね」

「―お前は、卒業したら来るんだよな」

「うん、いいんだよね?」

 ツルカはその話をずっと信じ続けたのだ。だから頑張れた。

「フルムに着いてからはどうするんだ」

 それからはどうするのか、ツルカに尋ねた。彼女はまだ迷っているのかもしれない。ラムルはそれでもよかった。卒業さえすれば時間はいくらでもある。彼女とて家族にも会いたいとは思うので、手助けだって厭わない。

「あの、ラムル。私、フルムに行く前に一度、あっちに戻ってみようと思って」

「……」

 思ったより、日本に関する文献はありそうだ。ローゼ出身ということも手伝っていくらかはやりやすいかもしれない。

「たくさん心配かけちゃってると思うし。ちゃんとお母さんと話しして、そりゃもうたくさん話があるし。それから」

 それから、フルムに行きたい。お父ちゃんやお母ちゃん達、そしてラムルと。

「みんなとずっと一緒にいられるなら、私はフルムで生きていきたい」

 体の向きを変え、ツルカは地面に着地した。

「……本当にそれでいいんだな。お前、ずいぶん平和なとこで暮らしてきたんだろ」

「それは本当にそうだと思う」

「本当にいいのか」

「ラムル……」

 ツルカはふと考えた。ずっと一緒にとはいったが、もうその意味が重い年頃になってきた。一緒にとはいっても、一番隣りにいられるとは限らない。彼がいつか誰かに心を奪われたら、そうなったら隣に立つのは自分ではない、とツルカは考える。

「うん。それがいい」

「……」

 それでもだ。離れることだけは彼女は嫌だったのだ。

 ラムルは押し黙る。沈黙が流れるままだったので、ツルカは努めて明るく振る舞う。

「ほら、いつも入りびたるわけじゃないよ?あっちにもたまには顔出したいし。母親離れはまだまだ先だろうし」

「そんなに親が大事なのに。本当にいいんだな」

 どうしてそうも確認をとるというのか。ツルカが口を開く前に、ラムルが先に言う。

「まあ、好きにすればいいんじゃないか。俺もお前の親には会って、話をするべきだろうし」

「うん。お母さんに会ってほしい」

 異国の人間に母親も最初は驚くかもしれないが、それでもラムルのことを知ってもらえれば、好きになってくれるはずだ。彼女はそう思った。

「お前の気が済むまでは待ってやる。つっても限度はあるけどな。心残りはないに越したことはないからな」

「心残り?そんな、もう二度と逢えないみたいに……」

「帰さないからな」

 はっきりとそう告げたラムルはツルカの腕を掴む。

 弾みで手にしていたコーヒーカップを落としてしまう。音を立てて、地面に転がる。

「まだ迷ってくれてもいい。けど。お前がフルムで生きていくって。本当に覚悟したんだったら。お前をもうどこにも行かせない」

 腕を掴む力にツルカは顔を歪めせる。強く見つめられて、ツルカは何もいえなくなる。

「俺もだ。ずっと一緒に生きていきたい。それは昔から変わってない。俺はお前が―」

 突風が吹いた。運河の水面が波立つ。白く淡い光が二人を包む。この光には覚えがあった。幼い頃に川べりでラムルと語った時に、飛び交っていたものだ。確かツルカがホタルのようだと言っていた。

 だが今は。それよりツルカはラムルの方に目がいってしまう。そのまま時が止まったかのようにさえ思えた。

「いや、今はやめとく。お前が卒業しないことにはだな」

 痛くして悪いといったあと、そっと手を離した。そして仮面をつけなおす。もう生誕祭は終わりを告げた。もうこの時間も終わりなのだろう。

「う、うん……」

 気まずさを紛らわせるのも込めて、ツルカはこぼしたコーヒーカップを拾いあげた。もったいないと思いつつも、コーヒーの中味を浮かせてそのままカップに戻す。寮に戻って捨てることにした。

「お前……飲むのか」

「飲まないよ……さすがに。いや、本当に飲まないからね」

「まあいい……っとこれも忘れずにな」

 休日の恒例だった。そのままイヤリングに魔力が注入された。ツルカがお礼をいつものように伝える。そして彼女はまゆ尻を下げた。この夜が終わる。だからおやすみを告げようとしていた。

「……お前さ、この前あいつらにあったんだってな」

 急な話題転換にツルカは頭を巡らせるが、思いついた。彼が指しているのは、フルムからやってきた親善大使達のことだろう。

「余計なこといってないだろうな。お前もだけど、あいつらも」

「言ってないって。皆さんせっかくラムルのこと大切だっていってくれたのに」

「……余計だっての」

 ラムルはそっぽ向いた。どこか照れているようだった。ツルカが微笑ましく見守っているのが尚更彼に意地を張らせる。

「そんな余計なことばかりな奴らが、お前を滞在先に招待したいんだと。休みで今日が一番都合つくから、今日って伝えておいた。これから連れてくって話ついてるから、まあ仕方なくつれてくけど。お前、あいつらのいうことまともに聞くなよ」

「わあ嬉しい。って待って待って。いつの間にそんな話になっていたの?それに門限が」

「今日は門限ないんだろ」

「門限は守れってラムルが」

「い、いやお前それは……」

 確かにラムルはそういった。だがラムルは可愛くねぇと顔をしかめた。理不尽だった。

 それはさておき、喜んでツルカは招待をうけることにした。疑惑のコーヒーは凍らせ、そのまま鞄にしまった。

 親善大使の館にて、夜更けのお茶会が行われた。フルムのお菓子やお茶が振る舞われる。猫型のものが多数ある。フルムでは猫を崇拝しているようだ。それあって猫尽くしのようであった。談笑は続く。

 ツルカは話していくなかで感じ取った。ラムルは愛されている。本当に大切にされている存在なのだということを思い知った。

 猫の姿でラムルはツルカを寮まで送った。それだけではない。寮の自室へとついていった。

 もう刻限だ。明日は仕事、そして平日には学業に励む毎日になる。だがツルカは張り切る。充電はたくさん出来たのだ。

「……お前にいっておく。そりゃ卒業できるのが一番いい。けどな、いざとなったらどうとでもなる。無理はしすぎるなよ」

「大丈夫、大丈夫。もう少しなんだ、気合いれていくよ!」

「……限界きたら言えよ。じゃあ、俺は行く」

「いやいや待って、そこのニャンちゃん!」

「ああ!?」

「ガラ悪!ごめん、ふざけすぎた!でも、ラムル聞いて」

 猫ラムルに合わせてツルカはしゃがむ。ラムルは不本意そうに大人しく猫耳を傾ける。

「私まだまだ頑張れるよ。ほら、ラムルがついているし。魔女ってお墨付きがあるんだし」

「……いつか、お前言ったよな。この俺のことを普通の奴だって」

「……言ったね。中々勇気あったよね、昔の私」

「ほんと無謀だな。まあそれはいい。魔女以前にお前だって……普通の女なんだよ。普通に遊んで、笑って。それが当たり前なんだ。お前だって本当はそうしたいんだなって」

 今日の生誕祭の彼女ははしゃいで、それこそ年頃の少女そのままだった。ラムルがいつも思っていたこと。彼女は少なくとも幸せではないだろうと。そして自分がいつも考えていた、本当に自分がするべきこと。ラムルは語ろうとする。

「うん、普通だよ。そりゃ地味な学生生活は否定できないけど、普通に笑って、楽しいって思える。ね、ラムル」

 猫の姿ながらも彼が顔を強張らせている、そのことにツルカは気がつく。そして頭を撫でる。

「ラムルがいてくれるから、私、普通の子でいられる。だから大丈夫」

「……」

 しっぽで手を振り払われたので、しぶしぶツルカは頭から手を離した。

「……まあいい。せいぜい勤労と学業に勤しむことだな」

 それからは彼女の方を見ることもなく、窓から飛び降りていった。ツルカが気がついた頃には、彼の姿は見えなくなっていた。ツルカは窓辺にもたれかかって息をつく。

「本当なんだけどなぁ。とにかく、明日に備えなくちゃ」

 トラブルはあったものの、こんなにラムルと一緒にいられる日はそうそうなかった。ツルカの顔が綻ぶ。こんなにも満ち足りた気持ちなのだ、良い夢でもみられると彼女は思った。


―眼前に広がるのは熱狂した群衆だった。

 殺せ、殺せ、とシュプレヒコールが続く。耳を塞ぎたくても塞げない。そう、ツルカの両手は拘束されていた。辛うじて動く頭で上方を確認する。言葉を失う。刃を光らせたギロチンが今にも迫りそうだったからだ。

 瞳を左右に動かす。ある一帯にはローゼの生徒達の姿もあった。とりわけ目につく模範生達が侮蔑の眼差しを向けている。それより彼だ。彼が、ラムルの姿がどこにもない。喉が鳴る。いやな汗が頬を伝う。

 その汗が優しく拭われる。その女性はクラーニビだった。悲しそうにほほ笑み、ツルカに問う。

 何か言い残すことはないのか、と。

 そう、まさにツルカは今処刑されようとしていた。罪の理由など決まっている。魔女詐称罪だ。ついに、ばれてしまったのか。ここまでだったのか。

 あの女性のように、自分の本当の気持ちを言うべきなのか。惑うツルカにもクラーニビは優しくあった。ツルカは伝えたいことを述べようと―


「はっ!」

 大量の寝汗をかきながらも、ツルカはベッドから飛び起きた。思わず首元に手をあててしまった。ちゃんとあることに安心する。とんでもない悪夢であった。

 夜空に月がある。まだ起きる時間ではないようだ。窓辺には白い光達が舞っていた。あれだけ綺麗だと思えたものが、今やうすら寒くて仕方なかった。カーテンを閉め、枕元のイヤリングを手にとった。そしてそれを手にしたまま、もう一度ツルカは眠りにつく。

「大丈夫だから、あれは単なる夢なんだ。だって私は……」

 自分は魔女だ。そう暗示を込めて言い聞かせて、ツルカは瞳を閉じた。


 今日の放課後も図書館に向かっていた。古参の教師の手伝いをして遅れたうえ、課題が大量に出されている。課題の一つである治療魔法学にはいつも頭を悩まされてしまう。ぐろい画像をどうしても脳が拒否するのだ。

「近年では蘇生術の研究が進められている。だが代償は大きく、それで」

「人の命を使用するのが一番確実なんですってね。。やり方はここに図解が乗っているから参照なさい。必要な材料はこのページね。対象となる人間は近しいほど望ましい……って」

 カタリーナが背後から書物を覗き込ませていた。続きを言おうとしたカタリーナだったが、言いかけてやめる。ツルカが青ざめているからだ。

「あなた、具合でも悪いの?」

「いえ、大丈夫です……お気遣いありがとうございます」

「それは別に構わないのだけれど」

「ズルはいけませんよ、カタリーナ。彼女自身がやらなくては意味がないではありませんか」

 いつの間にマルグリットまでやってきていた。ツルカが挨拶すると、彼女もそれに応えた。律儀にツルカはいつもしてくるので、彼女は感心しているようだ。

「はいはい。誰かの命であてがうなんて、あたくし悪趣味だと思うわ。おまけに大量の魔力を要する。燃費も悪い。これ、評論で使っていいわよ」

「カタリーナ。治療魔法学は立派な学問です。まあ、私もその点は同意しますが。ともかく、あまり邪魔などしないように。あなたを慕う方達が探してましたよ。もうじき来られるとは―」

「カタリーナ様、そちらにおいででしたのね」

 カタリーナの親衛隊達だった。館内なので静かに早歩きで近寄る。カタリーナは思い出す。彼女達と学院内のテラスでお茶をする約束をしていたのだ。城と学院を往復する暮らしを送っている彼女の癒しのひと時であった。

「私は図書館に待機しております。帰りの際にはご連絡ください」

「あなたもくればいいのに」

「おかまいなく」

 マルグリットは近くの席に座り、本を読み始めた。手元にあるのは貝のようなものだ。それは模範生達専用の電話のようなものだ。これで彼らは魔力を使用して連絡を取り合っている。カタリーナは肩を落として諦めようとしていたが。

「そうそう、そちらのあなたは?」

「私、ですか?」

 誘われたツルカ以上に親衛隊達が過剰に反応する。声に出せない分、表情で言いたいことを語っていた。末恐ろしいものだった。それに構うことなく、ツルカの耳元で話しかける。

「あなた、やるじゃない。フルム人の殿方と一緒だったでしょ」

「!」

「そうよね、新しい風が吹いているもの。お父様もそうお考えですし」

 ツルカが平静を装いつつも内心取り乱しているなか、カタリーナは色めきたつ。だが、ふと思案した。

「それにあなた。もしかしてあの時―」

 マルグリットの近くにあった電話が鳴った。マルグリットはワンコールで出る。一瞬驚きの表情をみせたが、いつもの真顔に戻る。一通り話を聞き、会話を切り上げた。

「所用が出来ました。カタリーナ。あなたも模範生としてご同行願います」

「模範生……ええ、わかったわ。皆、ごめんなさいね。お茶会はまたの機会にしてくださる?」

「私達のことはお気になさらず!カタリーナ様、お手伝いできることがあったら、何でもお申しつけくださいね?」

「あら、ありがと」

 親衛隊達の声にもならない悲鳴があがる。そして彼女達は模範生の二人を見送っていった。ツルカも一声かけようとしたが。

「そうそう、そこのあんた。カタリーナ様がお優しいからってあまり調子に乗らないでよね」

 そうよ、そうよ。他の女子も続く。そして鼻を鳴らしてぞろぞろと去っていった。ツルカは呆気にとられていた。そしてその態度の一変ぶりを末恐ろしく思っていた。

 なにかよほどの事態なのだろうか。気になってツルカは課題が手につかなかった。だが、館内の噂話によると危険なことではないようだ。それなら、と再び取りかかろうとするが。

「今、玄関のところで報道部が取材しているらしいぜ」

「人集まってるらしいし、早いとこいっておくか」

 続々と館内の生徒達が出ていく。かなり気にはなる。だが、ツルカは硬派な学徒だ。真面目に課題に取り組もうとする。するのだが。

「だめだ、気になる」

 結局気になるままだった。課題を一箇所にまとめ、中断する。そしてツルカもヤジ馬達に続くことにした。


 近道をする為に、鬱蒼とした林を抜けることにした。生徒達からは圧倒的不人気スポットである。気の向くまま全力疾走をしていたが、人影がみえたので慌てて足にブレーキをかける。木にもたれかかっていた人物は茫然自失の状態であった。

「こ、こんにちは。その、大丈夫で……」

 思わずツルカは二度見してしまった。この項垂れている人物はウォードだった。あれだけ頼もしく力強い存在だった彼が、今や別人のようだった。ツルカに気付いたようで、力なく笑う。

「はは、大丈夫だよ……。何てことないんだ。もう、行かないとな」

 そして木から離れようとするが、どこかふらついていた。肩を貸そうとしたが、そのまま共倒れなのは明白だった。だから人を呼ぶか、それこそ魔法で相手を宙に浮かすことにした。一応、相手に断りをいれる。

「ちょっと揺れるとは思いますけど、救護室お連れしますね。失礼します」

 ツルカは懐からスティックを出す。そしてウォードに向けるが。

「やめてくれ!思い出したくないんだ!」

「!」

 ウォードは声を張り上げる。目が見開いており、全身で拒絶した。びくっとしてツルカはスティックを落としてしまった。

「すまない。驚かせてしまったね。はい、大事に持っているといい」

「す、すみません。余計なことしてしまって……」

 それなのに、彼はわざわざ拾ってツルカに手渡してくれた。その手は震えていた。そしてウォードは背中を見せた。大柄なはずなのに、どこか頼りなくそして小さくみえた。

「……やっぱり、生まれ持ったものには敵わないな」

 その言葉を残していくウォードに、ツルカはどう声をかけたらよいのかわからなかった。


 ツルカは振り払うような気持ちでさらに速く疾走する。ウォードの言葉が頭から離れてくれないようだ。玄関へと続く通路の脇に踊りでる。目撃した生徒がぎょっとするが、ツルカは笑ってごまかした。

 人だかりが確かにすごかった。空は夕闇n染まりつつある。帰寮の時間が間近ながらも生徒で溢れ返っていた。ツルカはその場で軽くジャンプしようとするが、目立ちかねないのでやめた。ここは大人しく近くの女生徒に聞くことにした。

「あの、すみません。これ、何の騒ぎなんですか?」

「ん?今きたばっかの子?いいよ、教えたげる。いやもうすごいよ。やばいし。本当無理、すごすぎ!」

 興奮しながら、ツルカの肩をたたいてきた。華やかな女子は距離感が近かった。そしてそのまま両肩をつかんで、玄関の方を向かせる。

「あの男子だよ。あれはやばいね。くるね。つかもうさ、きてるよね!」

 人混みの中、ツルカは背伸びをする。え、と小さくつぶやいた。

「なんで……?」

「いやあ、それにしても転校初日でやってのけましたねぇ!」

 テンションが高い報道部の女子がインタビューをしている。

「正確には転校前日ですけどね。まあ、早いに越したことはないかなって。許可も下りたし」

 やけに耳に残る甘い声だ。心地よく耳を撫でるような声だった。イケボ無理、と隣の女生徒がつぶやいている。

 人の合間でようやく姿を確認できた。ローゼの制服の黒いローブを既に着用していた。

 こげ茶色の髪は前髪あたりで整えられているが、どこかヌケ感があり、うまく遊ばせている。耳元にも複数のピアスがある。顔立ちも目鼻立ちがはっきりと整っているが、優しげな目元がきつい印象を相手に与えさせない。加えてかなりの長身だった。その見た目に主に女子が騒ぎ始める。そして何より。

「いやーすごいっスよ、ほんと!転校初日、違った、前日に第2模範生の席を勝ち取るとか!」

「!」

 先程のウォードの姿が浮かぶ。打ちひしがれていた彼は、この少年に敗北したのだ。そしてそのまま明け渡すことになってしまった。それにしては尋常ではない落ち込みであったが、何かあるのだろうか。

「いや、運がよかっただけですよ。……まあ、前の学院でも同じ第2だったので、試しにどうかなーって思っただけだし」

 謙虚だと周囲の好感度が上がっていくが、ツルカには軽い言葉としか思えなかった。あれだけ苦悩したウォードを見てしまったからには無理もない話か。

「ただ、申し訳なく思ってます。偉大な先輩だとは伺ってましたし、色々とご教授願いたかったんですけどね」

「あー……そのまま去ってしまわれたですもんね。でも、気持ちはわかりますけど。あれはね」

「はは、手厳しい」

 隣の女生徒が肩をたたく。差し出したのは映像を映し出す球体だ。みてみて、と促した。お言葉に甘えてツルカは映像をみようとする。

「有難いんですけど、人様のって操作したことなくて。その、お願いしていいですか?」

 身についた魔力の節約癖が出てしまった。幸い女生徒は深く考えることなく、快諾してくれた。お礼をいって、映像をみる。

 そこに勝負などなかった。火、地、風、水の魔力。すべての力をもってしてウォードを完全に叩きのめしていた。這いつくばるウォードは対象的に、彼は余裕なのか棒立ちだった。

「これは……」

 いくら実力差があるとはいえ、これは試合のはずだ。こうも礼儀を欠いていいものだろうか。ついツルカの目つきは険しくなってしまう。

 ふと、視線を感じた。あろうことにも渦中の相手からである。

 お互い目が合うと、どうしたことだろうか。相手は愛しそうに微笑んだ。平時ならばツルカもどきっとしたかもしれない。それだけ蕩けるような笑顔であったからだ。だが、今はただ心証が悪い相手だ。笑顔を作ろうにも顔が引きつってしまった。

「もう無理。目が合った。今の私でしょ!」

 隣の女生徒周辺が騒ぎ立てる。自惚れであったと、気まずそうにツルカは目を背けた。報道部員の質問攻めはまだまだ続いていた。

「僕なんてまだまだですけど、それでも第2模範生として励んでいきますので。皆さんもできるだけ温かく見守っていただけると嬉しいです」

 さわやかな笑顔を振りまく。あくまで男子達は冷めたままだったが。

「ま、せっかくなのでこの立場も積極的に使っていこうかな、と。ほら、ローゼってきっちりし過ぎな印象強くて。それはそれでいいんですけど、やっぱ息抜きって大事じゃないですか。だから、皆さんが過ごしやすくなるよう、働きかけていきますから。部活動の活性化とか、食堂の充実とか。……他校との積極的な交流とか」

 男子生徒達が反応する。

「前の学院でも話題になっていたんですよね。ほら、皆さん憧れられてるじゃないですか。いい機会があればお話してみたいって」

 男子生徒達はまんざらでもないようだ。見事なものだ、と報道部員は感心した。

「使えるカードは使っていけ、っすね。いやぁ、ともかく前日からすごい人気ですねー。みんなの歓迎っぷりのすごい事すごい事」

「いやいや、そんなことないですよ」

「またまた謙遜しちゃって」

 報道部員にマイクをこすりつけられ、和やかに彼は笑っている。だが次に発した言葉は一段と低い声によるものだった。

「皆さんではないと思いますよ。……ほら、そこの彼女とか。軽いって思われちゃったのかな」

「え」

 一斉にツルカに視線が集まる。冷ややかな目が大半だった。ツルカは狼狽する。

「いやいや、へこたれないんで気にしないでください。僕が頑張ったら、そういう偏見もなくなると思うので」

「その、そんなんじゃなくて」

 ツルカは黙る。この空気ではどの発言も失言につながる気がした。隣の女生徒はおろおろとしていた。いい人らしい。

「皆さん、この騒ぎはいただけません。ご静粛に」

 いうまでもなく誰もが黙った。空気に緊張が走る。マルグリットが単独でやってきた。手にしているのは黒い上質のガウンだ。模範生の証である。

「ありがとうございます、マルグリット先輩。お噂はかねがね。ああ、僕は」

「ひとまず、会議室にて皆控えてます。挨拶やこれからの方針はそちらで」

「はーい。いやぁ、実際こうして見るとお綺麗だな。その美しさってきっと内面からきているんでしょうね」

「社交辞令は結構です。お急ぎを」

 相手に極上の笑顔をみせられても、マルグリットは表情何一つ変えることはなかった。少年は肩を落としつつも、黒いローブを放り投げた。あげる、と微笑む。受け取った女子は歓声をあげる。

「うん、やっぱこれだ」

 模範生の姿が悔しいくらいに様になっていた。そして軽く手を振ったあと、先行くマルグリットを追いかけていく。当人がいなくなったこともあり、その場はお開きとなった。通りがかる人にじろじろと見られ、ツルカはいたたまれなくなった。隣の女生徒も気まずそうに去っていった。

 考え事をしながらもツルカは帰路についていく。講堂前までやってきた。壁面には数枚新聞が貼られていた。

―ハルト・エーアイデ。ローゼと肩を並べる名門校からの転校生。6回生である。

「……はると君」

 確かに面影があった。だがどうして彼がこちらに来ているのか。そもそも本当に同一人物なのか。ツルカの、いや佳弥乃の中の彼は軽薄な人間ではなかったはずだ。そもそも向こうは佳弥乃だとわかっているだろうか。ツルカは混乱する。

 ツルカの上に大きめの影が覆う。驚いた彼女が振り返るも、さらに驚愕する。

「こんなとこで何してんの」

 壁に手をついたはると、いやハルトに囲われている状態になっていた。おまけに顔の距離も近い。ただ心臓に悪い状態だった。

「お前さ、なんなの」

「なんなの、とは」

 さきほど目をそらしたことだろうか。ひとまずツルカは相手の出方をみる。もし、幼馴染のはるとだったら、無事なことを喜ぶ。だが、その彼はツルカが魔法を使えるわけがないことを知っている。軽薄、は確かに偏見かもしれない。だが、どこか苦手な青年に成長したことをみると、不安になってしまう。

 それとも。

「なんかオレのこと知ってるみたいに見てたけど、知り合いだっけ?会ったことある?」

「え……」

 赤の他人だとしたら。この様子からすると本当にツルカのことがわからないようだ。

「多分気のせいじゃないかな。転校生って珍しいから、じろじろ見ちゃったかも。ごめんね」

 その方が今は好都合だった。それにだ。はるとだとしたら、彼は彼女のことを忘れていることになる。それどころか、良い感情ももってないかもしれない。複雑な思いをしながらも、ツルカはあくまで普通に接しようとする。

「それにマルグリット先輩に呼ばれてたんじゃ?」

「……いや、忘れ物って言って抜けてきた。きたんだけど……」

 まじまじとツルカをみる。そして長い溜息をついた。

「なんで追っかけようと思ったんだろ。別に美女じゃないのに」

「!」

 自分ではそうだと思っていても、人から指摘されるとさらに傷つくことがある。ツルカは開いた口がふさがらなかった。

「まあ、いっか。ローゼもレベル高い子多いし。可愛いし、綺麗だし、お姫様がたくさん。つか、本物のお姫様いるし。そう思わない?」

「それは思うけど……」

「お前もなれたらいいね」

「……そうだね?」

「無理だろうけど」

 要はそうでないと否定されたいうことか。これ以上関わりたくない、それがツルカの本心だった。

「……それじゃ、私はこのへんで」

「ん。じゃあね」

 ツルカは逃亡をはかることにした。これ以上彼と関わるのは精神的にくるものがあるようだ。ハルトもさっさと女の子の元にいきたいかもしれない。

 実際、ツルカは落胆していた。人の心をつかむ彼は、人望を得ることになるだろう。それでも彼を模範生として認めることは難しかった。

 今や一般の生徒なってしまったウォードは、自身が卒業するまで静かに耐えながら暮らしていくのだろう。それこそ身を潜めるように。

「尊敬できる先輩だったのに……」

 そうごちたあと、ツルカは自分の両頬を軽く叩いた。言動はどうであれ、彼は真っ当に戦ってその席を勝ち取ったのだ。彼がローゼの第2模範生、そのことは紛れもない事実なのである。

 直に日が落ちる。波乱を呼ぶ転校生がやってきた。ツルカは深くため息をついた。


 ハルトはすっかりこの学院に受け入れられていた。模範生達とも打ち解けているようだ。彼の生徒寄りの改革も、良い方向に向かっていた。素行の悪さに主にマルグリットが手を焼いているようだが、結果を出している分、彼女も妥協しているところもあるようである。

 それからツルカがハルトと会話することは、たまにくらいであった。気まぐれに彼女に声をかけることはあって、道を歩く美女を見かけるとそちらへ行く。だがそのくらいの交流で済ん良かったのかもしれない。

 穏やかな学院の日々が送られていると思われた。だが、ある急報により学院が騒がしくなることになる。

 

「カタリーナ様が襲撃を受けたですって!」

「うん、びっくりした!でもハルト君が……」

 学院内の至るところでその話題が取りなされていた。ツルカと友人が教室を移動している最中、廊下にてもちきりである。

 生誕祭でみせたあの黒い手がカタリーナを襲ったという。図書館に向かう途中で、マルグリットが急を要する電話で話していた、ほんの数分で出現したそうだ。

 だが、それを退けカタリーナを守ったのは転入生のハルトだった。彼一人で撃退したこともあり、本来なら美談であるはずなのだが。

「かっこいいよね……?」

「うん、かっこいんだけど……ねえ?」

 図書館の外れはかなり人目がつかない。そこで学院の高嶺の花の女生徒と密会中だったといわれている。彼のおめがねにかなった美女と一緒にのこのこと現れたそうだ。やった事はすごいことなのに、女子達は微妙と思うしかなかった。雑談はまだ続くと思えたが、そろった足音が聞こえてくる。ぴたっと騒ぎがやんだ。

「あなた達、授業が始まるわよ!まったく、こんな時に」

 青筋を立てながら廊下を闊歩するのはカタリーナの親衛隊達だ。親愛なるカタリーナが危ない目にあったことをうけ、彼女達の気が立っていた。

「こんな時だからこそ、もっと私達が目を光らせなくちゃ。……皆さんにお願いがあります。トラオム城には及ばないけれど、この学院も厳重だったはずよ。それなのに!あんな賊の侵入を許すなんて……おかしいと思わない?」

 その場にいた生徒達の誰もが固唾を飲んだ。彼女の言わんとしていることはわかる。

「情報提供をお願いしたいの。どんな些細なことでも構わないわ。きっといるはずよ、不届き者が!許せないわ、私達のカタリーナ様を危ない目にあわせるなんて!」

「!」

 そして、誰もが同調する。カタリーナを危険にさらし、学院まで手引きをした人間がいる、そんな事は許されるはずがないと。

「……」

 ツルカにもその思いはあり、あの黒い手の事は許せそうにない。手引きしている人間がいるのなら、さっさと捕まればいいと思う。けれど自分本位な所があったと、ツルカは我ながら思った。生徒達の目が厳しくなる。それだけ自分の嘘が露見してしまうのではないかと。

「情報提供かぁ……私達もお力になれたらいいね。ってツルカちゃん?」

「そうだね!うん、その通り」

 青ざめているツルカをみて心配そうにしている友人。ツルカは笑顔を作って何でもないと態度で示す。

 今更嘘が明るみになってたまるものか。ツルカは気を引き締めなおした。


 人気のないあの林にツルカは一人やってきた。そして、ここでお弁当を開く。最近彼女は一人で昼食をとることにしていた。学院は犯人騒ぎに躍起になっている。カタリーナはしばらく城で待機することになった。その分、親衛隊達が過激になってきている。そう、学院の空気は最悪であった。

「……疲れた」

 ぽろりと母国語がこぼれてしまった。慌てて周囲を見るが、人の気配はないようだ。トラオムの人間が彼女の母国語を訳すことは難しいとは思うが、口にする内容には気をつけた方がよい、ツルカはそう考えた。それこそその母国語ですらも怪しまれるかもしれない、とつけ加える。

 がんじがらめだった。言動全て全てが監視されているのではないか、と。ただただ息苦しい。胸元をたぐりよせて、ツルカは俯いた。もう食欲が失せてしまった。いつまでこんな生活が続くのか、とくじけそうになるが。

「……」

 そっと左耳に手を当てた。こうするとツルカは安心した。彼の存在が感じられる。彼と約束したのだ。卒業すると断言したのだから、ここでめげてはいられない、とツルカは再確認する。彼に恥ずかしくない存在でありたかったのだ。そう、彼にとって。

「……探したぞ。お前ぼっちで飯食っていたのか。こんな人気のないとこで」

「べ、別に恥ずかしくも虚しくもないし……って」

 ツルカは木の上を二度見をした。おかしい、と目を疑う。今は昼間だ。それも学院内だ。それなのにどういうことか。

「……まあ、お前がぼっち飯なのはどうでもいい。こんな人のいないところで何やってんだよ。……襲撃されたんだろ。ここらで噂になってる」

「い、いや……」 

 猫のラムルがしっぽを揺らしながら、木の枝に座っていた。驚愕していたツルカであったが、彼の本意はわかっていた。心配だったのだろう。だからこそこうして彼女の様子を見に来た。その事はとてもツルカにとって嬉しいことだった。と同時に困った事でもあった。

「ありがとね。でもね、見ての通り元気だよ。今度は食堂で食べることにするから。というか、今から行くようにするし」

「お、おう。やたらと急かすな。まあ、俺はもう行く」

「気をつけてね」

「気をつけるのはお前だ。狙われるのはカタリーナ姫に限らないんだからな」

「はい」

「返事はいいよな、お前……っと」

 木の上から着地したラムルは地面をたたいた。しゃがむように促していた。言われた通りにすると、左耳の秘匿されたイヤリングに触れた。ついでに魔力を補充しているようだ。ツルカはいつものように礼を、と思っていた。だが、まだラムルはツルカの左耳あたりをみていた。一瞬、彼女の左耳が黄色く発光した。ツルカは何事か、と思った。

「綻びがあったから直しておいた。ああ、つまりだな。お前のそれが―」

「だ、大丈夫。説明は今度ゆっくりきくから。今は、本当にいいから!」

 そう何がきっかけかはわからない。ちょっとした会話でもそうだ。ラムルもさすがに不自然だと思う。

「……本当に大丈夫か」

「うん、大丈夫」

 しっかりとラムルの目をみて告げた。ラムルはしばらく黙したあと、彼女に背を向けた。

「……今はその言葉、鵜呑みにしといてやる。じゃあな」

 猫の足で駆けていく彼に小さく手を振って見送る。彼の姿は見えなくなった。

「……」

 ツルカは考えを巡らせた。ラムルが指す綻びとは、おそらくイヤリングにかけている魔法の効力。それが弱まっていたのだ。今までそのような事はなかったはずだ。

「ううん」

 改めて左耳に触れた。大丈夫、と改めて自分に言い聞かせる。不安になる気持ちを抑え込むためにも、ゆっくりと口にする。

「大丈夫、まだまだ頑張れる」

「何が頑張れるの?」

 珍しく一人のハルトだった。彼は純粋に不思議そうにしている。

 いつの間に近くにいたのか。ツルカは油断していたことを後悔するが、取り繕うことにする。慌ててトラオムの言語に戻した。

「その、実技の結果が散々で。一人反省してたんだ」

「あー、うん。そんな感じ。お前、やり方が単調そうだし」

「あはは、そうだね……」

「ふう……」

 ハルトが向かいの木に腰かけた。そしてそのまま長い足を放り出す。どうしてこの場に訪れたかはわからないが、彼はそれきり黙ったままだ。ツルカはお暇することにした。どちらにせよ、食堂に向かう予定だったからだ。

「それじゃ、私はこのへんで」

「ああそう」

 一瞬だけツルカをみるが、そのまま瞳を閉じた。

「疲れてる?」

「……?」

 ハルトはゆっくりと瞳を開いて見上げた。ツルカはそっと視線をそらした。

「ううん、気にしないで。ほら、模範生って大変そうだなって」

 ツルカは誤魔化す。つい、はるとと重ねてしまった。友人達と遊んでいても、彼はふと一人になることがあった。彼とて友人が嫌いなわけではない。だが人に慣れてないところがあった。

「別に模範生のことはこなせるし。……オレが一人でいちゃいけないわけ?いつでも人に囲まれてなきゃなんないの?」

 かなり低い声だった。それから不機嫌なままである。

「ううん、そんなことないと思う」

 彼がそういうのなら、そういう気分の時もあるのだろう。ツルカは納得し、そそくさと彼から離れていった。そのまま俯いて歩いていると、女生徒数人と出くわしてしまった。噂の美女もその中にいた。彼女達はハルトを追ってきたのだろう。

「ねえ、君。ハルト見なかった?なんか買い物するっていって、それきりでさ」

「こっちの方で見かけたってきいたんだけど」

 上級生なのだろう。自分の容姿に絶対の自信をもつ、かなりカーストの高そうな女学生達だった。ハルトがいかにも好みそうな美女だった。無難にやり過ごす為にもハルトの場所を教えればいいとツルカは告げようとする。

 ふと、ついさっきのハルトの姿が浮かぶ。どこかうんざりしている風でもあった。だが彼はハルトなのだ。なら回答は決まり切っているはずである。

「……すみません、見てないです。こっちには誰もいないと思いますよ」

 一気に空気が冷えた。愛想笑いをするツルカに対して、彼女達はひとまずお礼を言った。だが、そのままツルカの横を歩いていく。そして聞こえてきてしまう。

「……絶対、嘘じゃんね」

「ね、必死すぎ」

 そしてしばらくして甲高い声が聞こえてきた。ハルトを発見したようだ。当のハルトも明るい声で答える。

「ごめんね先輩達。迷っちゃってさ」

「なにそれー」

「ほんとほんと。オレこっち来たばっかですよ?ちゃんと捕まえてくれないと、困るんですけど」

「いやいや、自分で行くって言ってたじゃん」

 楽しげな笑い声が聞こえてきた。それこそ余計な事をしてしまった、とツルカは悲しくなった。惨めな気持ちになりつつも、力なく食堂に向かうことにした。

「つか、さっきの子なんなの。嘘つくとか……ハルト?」

「……」


 ハルトははるとではない。いい加減ふんぎりをつけようとツルカは思っていた。今は合同授業、しかも久々のクラーニビの治療魔法学だ。一切気が抜けない授業である。

「へえ、真面目だね」

 なぜ模範生でかつ、エリートクラスのハルトが後方の、それもツルカの隣の席にいるだろうか。それもかなり近い距離である。ツルカの友人も相変わらず心配そうに見ていた。いつも彼女には心配かけている気がする。

 ハルトは自身で球体を作り出すことをせず、ツルカのを覗き込んでいた。

「わざわざ紙に書いてんの?お前は変なところで本当に真面目だね」

 いっそハルトが球体を出してくれないかとツルカは思う。けどそれを言うメリットがなかった。軽くありがとうといって授業に集中することにした。誉めてないけどと聞こえてきたが、スルーする。大分遅れをとってしまったようだ、筆記の速度を速めることにした。が、ふと手を止める。

「……」

「私達の根幹にあるのは祖に対する敬愛です。その祖を裏切り、辱める行為。それが魔女詐称罪。こうして首を落とされるわけですが、その亡骸は有効活用されているの」

 球体に映し出されたのは大罪人をギロチンにかける瞬間。ツルカはあの時の風景がフラッシュバックしかけてしまう。人が尊い命を落とした瞬間だ。本当なら目をそらしたい、けれどそうしてはいけない。トラオム人達は平然としている。ならば、ツルカもそうでなくてはならないのだ。

「……えっぐ」

 おそらく隣にいたツルカにしか聞き取れない声。ハルトは映像からそれとなく目をそらしていた。ツルカは戸惑った。トラオムの人間だというのなら、こうはならないはずだ。

「もちろん、治療魔法学にもね。私達の研究に役立っている相手には敬意を示したいの。首をまずきちんと接合します」

 ハルトはそのままそらしたままだ。こうも堂々としていいものか。一方、講堂内はざわつきつつあった。なぜ大罪人に敬意など示せというのか、と。クラーニビは優しく説明した。

「確かに彼らは罪を犯したのでしょう。けれど、命を落としたことにより償いはされたのです」

「お言葉ですが、クラーニビ様。奴らは死したあとも、長い旅路は続くといわれてます。死をもってしても、償われることはないかと」

 最前列に陣取った生徒がクラーニビの許可を得て発言する。

「いいえ、死んだらそこまでです」

 彼女ははっきりそう告げた。一瞬静まり返るが、やはり騒然としているようだ。頬杖をついたクラーニビは生徒達を見渡す。

「そうね、そこの模範生の貴方。授業ちゃんと聞いていたかしら?」

「もちろんですよ、クラーニビ様」

 やはりばれていたようだ。白々しくハルトは球体を見せつける。ツルカのだが。

「いつも私から話してばかりですもの。たまには皆さんの意見も訊いてみましょうか。どうかしら、大罪人である魔女詐称罪の人達に尊厳はあると思う?」

 彼女の心の内がわからない。あくまで優雅にほほ笑むだけだ。ハルトもさすがに答えることにしたようだ。席を立ち、クラーニビと向き合う。

「まあ、その国の価値観ってあると思いますし。大罪人は大罪人とは思います」

「……」

 そう、その通りだ。その国がそれに重きを置いているのなら、その通りだ。

「でも、僕自身は慣れないものですね」

「!」

 ツルカは思わずハルトを見上げた。ざわつきは増す。彼は続ける。

「ってすみません。僕最近までトラオム以外の所で暮らしていたんです。それで理解が追いついてないです。けれど、その国のしきたりって事ですし、これからは僕もトラオムの民として理解していきたいと思います」

 フォローなのかどうかはわからないが、多少はざわつきが収まったようだ。クラーニビは笑顔で礼を言った。

「それも貴重な意見よ。ぜひトラオムの民として励んでくださいね。そうね、あとは」

 まずい。クラーニビとツルカが目が合ってしまう。相手は口元だけで笑う。いやに緊張が走ってしまう。

「いつもちゃんと授業をきいてくれてありがとう。便利さに忘れそうになるけれど、直接書くってとても大事よね」

「い、いえ、そんなことないです」

 ちらちらと他の生徒達がツルカを見ている。ツルカとしては注目などされたくないのに。

「貴方も異国で暮らしていたと学院長から伺っていますわ。けれど、長いこと学院で暮らしているでしょう?最初は驚かれたかもしれない―」

「はい!でも、ちゃんと理解してます!魔女を騙ったものは死が……死があるのみだってちゃんとわかってるんで!」

 勢いつけて立ち上がって。ツルカは言ってしまった。その言葉重くのしかかる。トラオムの民として当然の発言をしたか彼女に送られた視線は、とても冷ややかなものだった。クラーニビ様のお話を遮るのか、その態度は如何なものか。非難めいたものだった。

「……はい、結構です。これからもトラオムの民として理解を深めていってくださいね」

 そしてクラーニビは授業を再開する。それに必死にくらいつく生徒達。ツルカも没頭することにした。少しでも刺すような視線から逃れるためにも。いつもより授業が長く思えてならなかった。

「……」

 ようやく授業が終わった。ツルカは机の上のノートを見つめていた。ギロチン台の知識も自分の手で書いたものだ。口元を引き結ぶ。これは一体何なのかと。

「……次の授業、行かなくちゃ」

 友人は先に行ってもらうことにした。彼女まで好奇の目にさらすわけにはいかなかった。そしてずっと球体を出していたことに気がつく。慌てて消失させた。左耳に触れて、気を取り直す。そして立ち上がろうとした時だった。

「もう次の授業始まってない?」

「え」

 まだハルトが隣の席で座っていた。片肘ついてツルカを眺めているようだ。だがツルカには驚く元気もなかった。

「いいんじゃない?このままさぼれば。オレはここで寝てるから、放課後になったら起こして」

「いやいや、放課後はさすがにないでしょ……。授業は真面目に受けないとダメだよ、ハルト君」

「……お前」

 ハルトは机に伏せるのをやめ、ツルカを見る。何か言いたげだった。ツルカはしまったと表情に出しかけるが、それは抑える。さすがにくだけすぎたかもしれない。

「いやいや、寝たいなら寝てもいいと思うよ。ハルト君ならそれが許される、うん」

「ウソ」

 ツルカの体がびくついてしまう。何を、何を嘘だと彼は言うのかと。

「さっきの方がしっくりきた。なんだろ、ハルト君ってのもそう」

「それは……」

「疲れない?」

 意趣返しのようだった。いつぞやの林でハルトにそう声かけたのだ。ツルカはその通りだと思った。けれど。

「そりゃ、色々とね。でも」

「頑張らないとね、だっけ。まあ、どうでもいいか。お前の事だし」

 それならそれで、と今度こそツルカは席を立つ。だがハルトは呼び止めた。

「いや、どうでもよくなかったわ。寝る前に気になること聞いていい?それ、クセなの?」

「癖って……?」

「左耳に触ってる。まあ、たまにだけど」

「!」

 人目は気にしていたつもりだった。だから無意識のことまで制御はできなかったかもしれない。

「……」

 ハルトはツルカの左耳を注視したままである。そのまま彼は続ける。

「でもさ、なんか締まりのない顔してるから。教えてあげた方がいいかなって」

「あ、あはは。そうだね、間抜けな顔してたよねー。あはは……」

「うん。じゃあ、おやすみ」

 ハルトはそうは言うがまだ左耳を見続けているはずである。これ以上ボロを出してしまう前にと、今度こそツルカは彼から離れることにした。もう興味でもなくなったのか、今度こそハルトは寝に入ったようだ。

「大丈夫だ、大丈夫……って」

 廊下の奥まったところで、ツルカは息を吐きだす。不安な気持ちが止まない。少しでも心を落ち着かせようと左耳に触れようとした。

「……これはダメなんだ」

 そう、今のだ。逆にハルトが指摘してくれて良かったと考える。そして自分の教室に向かうことにした。また注目されるだろうことを憂鬱に思いながら。


 今日も憂鬱な一日が始まる。未だに学院内での警戒は続いたままだった。ツルカは重たい気分でベッドから起き上がった。そして枕元のイヤリングを左耳に装着する。最近はすぐにでも身につけるようになった。まだ休日までには日にちがあるが、いつも通りやれば魔力はもつはずだ。いつまでもこうしていられない。彼女は今日も登校する。


 実技の時間だ。ここでこそ気を抜くことができない。屋外の修練所まで重い足取りで向かっていく。近頃はツルカ一人で行動することが増えた。

「あ。地面に埋まった人、発見」

 案の定ハルトだった。今は男女の友人連れのようだった。今日の実技は合同であった。上級クラスは各々のレベルに適した相手を選び、下級クラスはその動きを参考にする。それが大抵の流れだった。

「……その声はハルト君か。何のことやら」

「ふーん、とぼけてもいいけど。まあ、ちゃんと学院の管理映像で記憶されてるし」

「うそだ。……あとで消しにいかなくちゃ」

「いいけど、処罰ものだよ」

「わかってるよ、言ってみただけだよ」

「はは、かわいそう」

 笑顔で言われた。それにしても彼がやってくる前のエピソードを知られているとは気分がよくない。ツルカは実に気分が悪かった。

「ごめんごめん。もう地面に埋まりたくないよね」

 去り際に軽く左肩を叩く。その時もやはりだ。ハルトは左耳を観察しているようである。

 そうこうしている内に、修練所までやってきた。中央で話し込んでいたのは、カタリーナの親衛隊達だった。ツルカの視線に気がつくと、集団で睨みつけてきた。ツルカは萎縮しつつも、自分のクラスの集団へ入っていく。

「はい、全員そろったかな。それじゃ授業始めようか。今日の一番手はあなたにお願いしようかな」

「かしこまりました、教官」

 ずい、と親衛隊のリーダー格の少女が前に出る。周りは相手がハルトがいいと囃し立てる。ハルトはハルトで女の子相手は気が乗らない、それでもご指名ならば受けようとしていた。だがその姿勢に親衛隊達にガンつけた。

「振られたってことか。それじゃ、教官。せめてこっちで競技の場作っていいですか?」

「ほうほう。模範生のお手並み拝見かな」

 教官は承諾し、ハルトに委ねることにした。

「まあ、大したものじゃないですけど」

 模範生に挑む時もそうだが、模擬試合の時は専用のフィールドが教官によって生成される。試合終了後には、治療薬が頭上に降らされる。その治療薬の用意は教官にお願いするもも、ハルトは片手で杖を構え、そしてそのまま地面を叩いた。

 早業だった。円形に白亜の石で形成された舞台、その周りには水面が浮かぶ。周囲がその出来栄えと手際の良さに圧倒される。ツルカもそうだったが、そんな彼女にハルトは目配せする。これで地面に埋もれなくて済むね、と笑った。ツルカの顔はひきつった。その顔はさらにハルトを喜ばせた。

「ハルト君とも相まみえてみかったけど、それは今後お願いするわ。私の今日の相手は決まってるの。ツルカ・ラーデン。あなたを指名する」

「!」

 少女に杖を向けられた。ツルカは後ずさる。

「……別に彼女でなくてもいいんじゃない?埋まらないにしろ、溺れない?」

 それとなくハルトが提案する。そもそも周りを水で埋め尽くしたのはハルトである。

「だからさ、別にこいつじゃなくても」

「礼には欠かないわ。カタリーナ様に笑われるもの。きちんと救済はする」

 救済。敗北者が自身で立ち直るのが困難な時、相手がその手助けをすることだ。それはローゼの精神に基づいたものであった。お互いの善戦を讃える。

「私もそうだけど、皆あなたの力を知りたがっているの」

「そんな、私の実力なんて全然だよ」

「そうね、そんな人がよくローゼに名を連ねたものね。魔女の血を引く者がその程度なんて笑わせないで」

「!」

 相手は真剣だ。ここでいつものように早々と負けてしまったら、どうなのだろうか。相手は格上だ。本気で喰らいつかないと失礼であるし、疑惑をもたれ対象に絞られるだろう。いつものようにはいかない。

「……」

 横目で自身の左耳をみる。ツルカには限りがある。彼らとて魔力の限界があるだろうが、贅沢は言える立場ではないが量では劣ってしまう。だから彼女の選択はこれしかない。

 残量ぎりぎりまで粘って、そして負けるしかない。格下が格上に勝つのはよほど目立つことだ。必要以上に注目されるわけにはいかないのだ。

「構えなさいよ」

「……よろしくお願いします」

「ふん、よろしくお願いします」

 教官の合図を皮切りに、二人は杖を相手に向けた。少女は杖で宙に線を描き、そのまま水流をぶつけようとする。ツルカはツルカで風圧で振り払う。水は蛇の形を形成し、そのままツルカを追撃する。魔法は無闇に使えない彼女は、身体能力でかわしていく。相手の猛追はまだ続く。

 長い攻勢が続く。思わぬ健闘に他の生徒達も大人しく見守る。

 魔力の残量が半分を切った。ここらが潮時だとツルカは判断した。タイミングを見計らって、彼女の攻撃をくらうことにする。いざというと時の為に防御できるよう、あらかじめ風の魔力発現の準備をすすめる。

「ふん、なかなかやるじゃない!それなら!」

 そうここが引き際だ。ツルカは相手の攻撃に合わせて防御の体勢に入ろうとする。このまま吹っ飛ばされる手筈だったが。

 相手は氷の魔法と手段を変え、数多の雹を振らせる。それに気をとられている内にツルカを吹き飛ばそうと構えに入った。ツルカは防御の魔法を解き、火の魔法で打ち消そうとしていた。その時だった。

 かすめた。

「あ……」

 視認されてはいないものの、彼女のイヤリングは確かに存在している。雹の1つイヤリングに当たり、小さく揺れた。ツルカは青ざめた。これは決して壊れないものなどではない。これが壊れてしまったら、その時は。

「あああ……」

「はあっ!」

 ツルカがやたらと風の魔法を使用していたことはわかっている。ならば、同じ力で実力差を見せてやろう、打ち負かしてやろうと少女は杖をかぶり振る。詠唱も終えた、これで終わりだと。

「うわあああああ!」

 ツルカも悲鳴を上げながら杖を振り上げた。ご丁寧に文字など形成している手間すら惜しい。荒ぶる風が勢いをつけて少女にぶつかっていく。相手は声を上げることなく吹っ飛ばされていった。場外の水中に音を立てて沈んでいく。

「はあはあ……」

 ツルカは息を整え、杖を力なく下げた。静寂が訪れる。自身の呼吸音がうるさく聞こえた。

「……これまで。勝者をツルカ・ラーデンとします」

 教官が静かに告げた。ツルカは勝利した。格上の相手を下し、そして。

「あ……」

 体の震えが止まってくれない。杖を落としてしまう。

「……ツルカ・ラーデン。救済を行いなさい」

 相手はまだ浮かんでこない。それならば魔力をもってして救わなくてはならなかった。それがローゼの心得である。教官はもう一度ツルカの名を呼ぶ。

「は、はい……」

 いつもツルカがしてもらっていたことだ。ふらついた足取りで水面へと歩いていく。誰しもが彼女の行動が不可解であった。だが、思い当たる。

「救済を行い……ます」

 靴とローブを脱いで、水面に足をつける。まさか、自分で潜って助けにいく気ではないかと騒然とし始める。その通りだった。彼女はそうするしかなかった。

「私は、魔女だから」

 今は姿は見えない、あの黄色の宝石は色が失せたように思えた。―彼女の魔力は尽きてしまった。

 あのおかしな生徒は底の知れない水に潜ろうとしている。教官は慌てて静止する。教官の腕の中でそれでも進もうとしていた。それならば、と教官はこの空間を消去しようとした。溺れている少女も救出しなくてはならない。

「……」

 あいつ、とだけつぶやいたハルトは場に乱入した。教官は何事かと目を見張るが、ハルトはお構いなしに水面に向かって杖を向けた。あの辺りかと狙いをつける。飛沫が上がり、少女は水の中から飛び上がってきた。そのままハルトの腕に抱きとめられた。

 少女の姿を確認すると治療薬が投与される。ゆっくりと彼女の大きな瞳が開く。

「役得だよね。やっぱり可愛い子は助けたいし」

「……って、あ、あなたねぇ!」

 それだけの元気があるならと、ハルトはそっと少女を降ろした。当の少女は気まずそうにしてはいる。どこか納得がいっていないようだった。

 ハルトはハルトで教官に向かって頭を下げた。だが、すぐ面を上げる。

「すみませんでした。やっぱりこれって処罰の対象ですか?でもまあ、模範生ですし、良いとこみせたくて」

 いけしゃあしゃあと言うハルトに教官は頭を抱えた。

「模範生ならちゃんとして欲しいよ……罰則には変わらないから、都合がつく時でもいいから懲罰室へ」

「はい。そうそう、今日の事をマルグリット先輩には言わないでくださいね」

「言うに決まってるでしょうが!マルグリットの監督不行き届きでもあるからね」

「うわぁ……まじか」

 教官は実技の授業を再開することにした。拘束していたツルカを解放する。ツルカはようやく意識がはっきりとし始める。ハルトの視線を感じたが、一瞬だけだった。教官はツルカに問いかける。

「顔色が優れないようだね。教官として指摘しておこうか。自身の力量は把握しておきなさい。それとだ。今回は不問としておくけど、本来救済は必ず勝者自身の手で行わくてはならない。次は怠らないように」

「はい……次こそは。申し訳ありませんでした」

 ツルカはふらつく頭を抑えつつ、教官に頭を下げた。余計ふらついてしまった。

「おっと」

 ツルカはよろめいたが、ハルトに抱き留められた。

「よろついているけど、大丈夫?」

「……ううん、ただ調子が良くないだけ」

「ああそう。教官!この子調子良くないっていうんで、救護室連れていきますね。だから懲罰室行きは勘弁してもらえませんか」

「却下だ。まあ、ついていてあげなさい」

 あとはハルトに任せ、教官も他の生徒をみることにした。ツルカは内心ほっとしていた。この場から離れられるなら、今は何でもいい。

「……ありがとう」

「こっちこそありがとう。オレがサボる口実になってくれて」

 きっとハルトが色々とフォローしてくれている。そのことはツルカはわかってはいるが、だが上の空であった。

 授業中ということもあり、本校舎の廊下は静まり返っていた。二人の足音が響き渡る。救護室の前に立ち、ハルトはノックする。だが、不在だったようだ。

「勝手に入るか。失礼します」

「待って、ハルト君。それなら自分の部屋に戻りたい」

「まあ、その方がいいかもね。一人で帰れる?」

「うん、帰れる。大丈夫だよ」

「ふーん。…ねえ」

 足取りはおぼつかないままだったが、ツルカは今は真っ先に自室に戻りたかった。誰に会うこともなく、休日を迎えたかった。自分勝手だ、と自嘲した。

「……魔力の枯渇も処罰の対象って知ってるよね」

「それは……もちろん」

「お前はほんと、バカみたいに正直だよね。なくなったんだったら、相手の魔力奪えばよかったのに」

「……それも処罰の対象だよね。さらっというけど」

「覚えてたか。真に受けたら面白かったのに」

 初期に教えられる倫理だった。人の魔力は泥棒してはいけないと、わかりやすい絵で解説されていたものだ。

 それに魔力の枯渇も処罰の対象である。魔女の血を引く者でも、魔力は大抵有限である。その管理を怠ることは不覚なるとされていた。処罰以前にツルカには死活問題だが。

 今はハルトの軽口に付き合う気力がツルカにはないが、大人しく聞くことにした。

「実際、そうだったんだろ。まあ、あれだけ無茶すればね。ああ、別にちくったりはしないから」

 けど、とハルトは続ける。真剣な面持ちだった。普段の軽薄さはそこにはない。

「なんであんな無茶したんだ。なんであんな必死だった?術の詠唱だってめちゃくちゃだったし、お前自体に反動がいきかねない」

「ハルト君、それは……私」

「いかれてるよ。もしさ、お前になにかあるなら……」

「わかってる。とっくに私はいかれてる」

「お前……」

 ツルカに思わぬ即答をされて、ハルトの方が驚いてしまう。こうもはっきりと告げられるとは思ってもみなかったようだ。それも自棄を含んでいるようだった。

「今更だよ。それじゃあね」

 彼に背を向けて歩き出す。ハルトが追いかけてくることはなかったが。

「……あとちょと、なんだけどな」

 彼のこの言葉の意味を。ツルカは後程思い知らされることになる。


 ツルカは仮病を使った。そうするしかなかった。勤務先にはあらかじめ手紙を送っておいた。こうして、最低限誰とも合わない生活を送っていた。生きた心地がしなかった彼女だが、ようやく休日を迎えることができた。やっとだ。


―ツルカは暗闇の中、立たされていた。手探りで歩みを進めていく。ようやく明かりが見えてきた。懐かしい光景だった。かつて過ごした集落だった。誰に会うこともなく、川辺まで出てきた。これはホタルだろうか。白く淡い光が飛び交っている。名前を呼ばれた思って、ツルカは振り返る。

 ツルカを取り巻くのはトビーや親善大使達だった。会いたかった人達に駆け寄ろうとするが、黒い檻が出現し彼女を囲む。閉じ込められた彼女を助けもせず、眺めているだけだった。呼んでも呼んでも誰も応えることはない。

 ラムルがどこにもいない。ここでもだ。


「……い。おい。起きろって、おい」

 かなり強い力で揺さぶられている。ツルカは徐々に覚醒していく。膝を抱えたまま壁にもたれて眠っていたようだ。見慣れた部屋と、そして目の前では人間の姿の方のラムルだった。

 夜風が入り込む。窓を開けたままだったのか。月がぼやけて見えた、まだツルカは夢つつだった。

「さすがにうなされてたからな」

 猫の力だとびくともしなかったので、元の姿になることにしたようだ。

「……本物?」

「急にどうした。まあ……本物のラムル様だ。安心しろ」

「あはは、懐かしないな。ラムル様……」

 力なく笑ったあと、ラムルの両腕をつかむ。

「待ってたんだ、ラムル。いつものお願い」

「わかった、わかったから手を離せって」

「……うん」

 どこかツルカの目は虚ろだった。ラムルから手を離すと、そのまま瞳を閉じる。このまま彼に身を委ねるかのようだった。ラムルは納得いかない気持ちはあったが、いつものように左耳にあるイヤリングに力を与えようとしていた。

「これ、どうした?」

 魔力が尽きていた。今までは微かでも残っていたのに、まっさらな量であった。よほどの事態があったのだろうか。ツルカは何も答えない。

「ツルカ」

「……今回は配分を間違えただけだよ。次はちゃんとするから。ちゃんとうまくやるから」

「……」 

 ラムルはそっと手を離した。それから触れようとしない。

「ラムル?どうしたの?」

「……すごい顔だな、お前」

 そしてそのまま両手で頬を包み込まれた。ツルカは瞳を瞬かせた。理解が追いついてないようだ。

「……魔力、もう与えない方がいいんじゃないか」

「え……?」

「もう、いいんじゃないか。限界なんだろ」

「ううん!まだまだ平気だよ、私。限界なんて―」

「そうか、お前は平気だとしておく。……でもな、俺が限界きてんだよ」

「ラムル……!?」

 そのまま強く抱きしめられた。そして耳元で告げられた。

「もういいだろ。……フルムに来い」

「!」

「こんな忌々しいもの、どうとでもなる」

 抱きしめられたのは束の間だったが、そのままツルカの左手を手にとった。ローゼの学生の証でもある、バラの刻印だった。

「迷うことなんてなかったんだ。俺はお前さえ―」

 ラムルが何か言っている。だがツルカの視界が突如歪み、彼をうまく認識できなくなっている。頭もくらくらして、眩暈がしてきていた。今にも意識が沈みそうだ。

「ツルカ?」

「その……もう寝るね。ばたばたしてたのもそうだし、疲れがたまっていたのかも」

 ラムルの肩に手を置いて、そのまま距離をとる。ツルカにはどうしてかわからない。彼といればいるほど意識は黒く落ちそうになっていくのだ。ラムルもそうだ。胡乱だ顔になってきている。急激な眠気がツルカを襲う。瞼が重くなってきたのでそのまま彼女は目を閉じた。

「……寝たのか」

 ツルカを抱き上げ、そのままベッドに寝かせる。寝ているのならそれはそれでいい。

 魔力は今日のところは注入しておくことにした。彼女を守ることには変わりないからだ。そう今はそれでいいとラムルは考えた。

「迷わなければ良かったんだよ……最初から」

 寝ているツルカの髪を優しくかき上げたと、ラムルはそのままの姿で窓から降りていく。もうあの仮の姿は必要ない。心を偽る必要がないからだ。


―ゆりかごに揺られている。きつめな化粧を施した女性も、ゆりかごの中の存在に笑いかけている。彼女が笑うと、自分も笑顔になった。わけがわからなく泣きたくなり、怒りたくなる。その度彼女を困らせてしまっていた。けれど自分ではどうしようもなかった。それでも愛情を注いでくれた。幸せだった。穏やかな闇が自分を包み込む。ああ、なんて穏やかで幸せなんだろうか。自分はこんなにも満たされている。


 翌日。カタリーナが共を連れて久々にローゼ魔法学院に現れた。生徒達は歓迎するが、カタリーナの表情は曇ったままだ。そんな彼女を親衛隊達は神妙な顔をして見つめていた。

 ツルカにとって久々の学び舎であった。ラムルは魔力を足しておいてくれたようだ。彼とはまともに別れることが出来なかった。それが気がかりである。それにしてもだ。

「あの子だよ……」

「カタリーナ様までみえられたということは……」

 今日は一層視線を集めている気がした。批判めいたものが増しているようだ。針のむしろであった。それが授業中も続き、ツルカは疲弊していた。人目を避け、お昼は外れの林でとっている。ようやく落ち着くことができた。

「……やっぱり、ここか」

 現れたのはハルトだった。かなり浮かない顔をしていた。ツルカの左耳を見て、そして何かを言いたそうにしている。

「……ハルト君、何もないからね。そりゃ、私のクセがおかしいのかもしれないけど」

「……お前なんなの」

 その言葉には彼の戸惑いの感情が含まれていた。

「なんで、そんなことする必要があるんだ。そんな厳重にしてまで」

「そんなことって……厳重って」

「言えないこと?」

 ハルトは何に気付いたというのか。彼は気がついてしまったのだろうか。いや、まだ致命的ではないと考える。まだ、自分は魔女でいられるはずだと。

 鐘の音がなる。このような音、長い学院生活でもツルカは耳にしたことがなかった。

「なにこの鐘……?」

「オレもさっき教えてもらった。―魔女会議が始まる音なんだって」

「魔女、会議?」

 ツルカは何が何だかわからない。ハルトが説明を続ける。

「……魔女の血を引く者としてふさわしいか。そぐわない行動をしていないか。品位は貶しめていないか。そうした理想を語るものが、いつの間にかつるし上げをするものになってた。この人物は本当に我々と同じ志なのか、とか」

 そのままハルトに腕をつかまれる。

「議題はお前について。だから迎えにきた」

「私が……そう」

 思い帰してみれば、ツルカはいつ疑われてもおかしくない行為をしていた。そう、どこか納得してしまう。近くを見渡せば、数人の生徒が控えていた。事をおこせばただではすまないだろう。ここは大人しく従うしかなかった。

「まあ、そう構えることなくない?学院長の許可を得てないっていうし。あくまで生徒の自治程度のことだし」

 ハルトはわざとらしく明るく振る舞うが、ツルカにはそうだとは思えなかった。尚更彼女の不安を駆り立てさせる。

 模範生達が一同に集う会議室までハルトに手を引かれた。マルグリットは咳払いをする。

「もう結構ですよ、ハルトさん」

 ツルカを迎えにいくと申し出たのはハルトだった。この二人の交流は増えていた。なにか吹き込むのかと思ったが、マルグリットの杞憂だったようだ。

「……はい。それじゃあね」

 ハルトの手が離れる。そして彼は黒いガウンを翻して模範生側の席へと向かっていった。

 ただツルカ一人が立たされる。模範生達からも鋭い視線にさらされる。

「ようこそツルカ・ラーデンさん。あなたに対する疑いの声が多く寄せられております。思い当たる節はおありでしょうが」

 マルグリットは机上で手を組み直す。まっすぐにツルカを見つめる。

「僭越ながらこのような機会を設けさせていただきました。学院長が不在な中であります故、責任の所在はこのマルグリット・トラバントが持ちます。そして、あなたを見定めるのは私も含めた模範生達が」

「はい」

「あなたに嫌疑がかけられています。どうぞ、あなたが魔女の血を引くものであると。我々を納得させてください」

 ―魔女会議が始まる。


 進行はマルグリットが執り行っていた。模範生一同が水の球体を発現させる。そこでツルカのデータを共有することになる。

 今までの彼女の不審であった点があげられていく。まずはどうして必要以上に魔力を節約しようとしていたのか。治療魔法学もそうだが、他の授業でもそうだ。他の生徒が当たり前にしようとしている時でも、少量の魔力の使用ですむ場面でもそうである。彼女は頑なに使わない。

「そうですね、節約はしてます。それは私達の祖のお考えに影響を受けているからなんです。自分より、誰かの為に魔力を使うべきだって。だから自分が楽するためにできるだけ使いたくないんです」

「我々の祖は確かにそうお考えでしょうね。律儀な事」

 マルグリットは一定の調子でいう。彼女の表情から窺い知ることは困難であった。

 握りしめた手の汗がとまらない。けれど、声も体も今震わせてはならない。

 彼女はこの場を乗り切らなくてはない。その為には騙り続ける必要がある。彼女の秘密が暴かれた時、その時はツルカの終わりの時だ。

「よいでしょう。現にこうして学院の生活に支障をきたしているわけではないのですから」

「それと、正直に言います。魔力が尽きやすいからです」

 おそらく先日の模擬試合の事も触れられるだろう。あの日の事で尚更疑われることになったからだ。ツルカから切り出す。

 嘘の中にも本当のことを混ぜる。これも許されざることだが、それこそツルカにとってはどうということはない。魔女を騙ったとばれるよりはマシであると、彼女は考えていた。

 他の模範生達も何かをいいかけたが、マルグリットは続きを促す。

「先ほどの節約の理由にもつながります。私は生まれつき魔力の量が人より劣ります。それでも魔女の血を引く者の端くれ、精進してきました」

「そうですか」

「はい。私思うんです。私達の祖なら、同じ志を持つ者ならば受け入れてくださるんじゃないかと。たとえ魔力の器が皆さんより劣っていたとしてもです」

「それが……あなたの主張なのですね」

「はい、私の主張です」

 次の話に移ろうとした時だった。カタリーナが手をあげる。

「あたくしからもいいかしら。生誕祭にあなたを見かけたのだけれど。あたくしが襲撃にあった時、あなたいたんじゃない?そして、背後をとられたあたくしもそうだけれど、あの大元も退けた。違う?」

 これは追い風だろうか。カタリーナに大元は違えど、他はそうです、自分ですとツルカは答えとした。だがマルグリット達をみる。ここで正直に答えてよいのだろうか、と。何が墓穴を掘ることになるのか、ツルカには読めなかった。こうして迷ったら、疑いが深まってしまうだろう。

「その、襲撃があった時は別のところにいたのでわかりません」

 実際に、ラムルの魔法で自分達の姿は隠されていた。そして今日この日までその事がばれていないはず。そうツルカはふんだ。

「……そう、まあいいわ」

 カタリーナは目を伏せた。これは正答だったのだろうか。それでも返答は取り消せない。

 それなら自分からもと、質問をぶつけてくる他の模範生達にも返していく。疑いが晴れたようではないが、会議はそのまま続行されている。ならばとツルカは平静を装っていく。

 精神は消耗していく。喉が渇く。冷や汗が止まってくれない。それでもツルカはさらされる中、背筋を伸ばして立つ。

「……」

 ハルトは何も言わない。彼とてツルカを言及する側の人間だ。それに彼はツルカの秘密に気付いているのに言おうとしない。

「ハルトさん。あなたから何かありますか?」

「……あ、聞いてませんでした。ぼっとしてて」

「……ハルトさん。あなたから何かありますか?」

 マルグリットはこれでもかと強調して言った。ハルトは苦笑する。

「すみませんて。つか、映像とかみた方が早くないですか?こいつが怪しい動きしてれば一発でしょ」

 今更落胆などしない。ハルトは向こう側の人間なのだ。誰が相手だろうと、ツルカは虚勢を張ることにするまでだ。

「ああ、映像は私の方で確認しましたが、特に不審な点などは」

「そうなんですか。まあ、怪しいですけどね。ほら、素行とか。学校サボったりとか」

「近頃はそれもあったようですが、彼女の学院における態度は問題ないかと。平日は学業、休日は勤労。時として学院の雑用も受けていたようです」

「うわぁ、徹底的ないい子ちゃんぶり。つまんな」

 ハルトは。ハルトは口ぶりはこうではあるが、決め手になることは言ってない。それがどうしてかはツルカにはわからない。

「ハルト、あなたね……。まあ、ローゼの学徒として励んでいるのではなくて?」

「それは、私もそう思います。……そうですね、彼女は」

 マルグリットは口元に手をあてて、思案する。彼女の表情が少し和らいだ気がした。他の模範生達も彼女に疑問を投げかけることもない。

 これは、無事乗り切ったということでよいだろうか。ツルカの耳元のイヤリングが揺れる。そう、まだだ。マルグリットから終了を告げるまでは。いつもこのイヤリングが教えてくれる。ツルカの心の支えで、そして命綱。

「良かったね、お前ー。地味な学生生活を送ってて。じゃあ終わりってことで」

 いつも通りの軽い態度にに、それどころではないツルカ以外は呆れ果てていた。カタリーナはじと目でハルトを見る。

「まったく、あなたという人は……。終了と判断するのは、彼女に対して全員が判断を下した時よ。それに終了を告げるのは第1模範生のマルグリットの役目でしょう」

「おかまいなく、カタリーナ。それでは皆さん、彼女が同志であるか、否か」

 模範生達がツルカに審判を下す。ツルカはいつものように大丈夫と言い聞かせる。

「……と、その前にです。ハルトさん、どういったおつもりでしょうか?」

「オレ、ですか?」

 あくまでハルトをみることなく、マルグリットは告げた。ツルカは胸騒ぎがしてならない。

「どういったおつもりって……ああ、もっと真面目にやれってことかな。ほんとすみません」

「いえ。……彼女の左耳になにかあるのですか?見てますよね、頻度はそれほどでもありませんが」

「!」

 ハルトは絶句する。

 動揺が走る。いや、まだ大丈夫だとツルカは念じた。あれだけ厳重に施してくれているものが明るみに出るはずはないと。

「あ……」

 だが、ハルトがその事を暗に伝えていた。けれど、彼以外の模範生達はその事に触れていない。それに露見したとしても、あくまで装飾品と言い張れればいい、と。だがそうではないということを、ツルカは気づいてない。

「……綻び?」

 マルグリットはある一点を見つめる。何か魔法が施されている、そしてそれは秘匿の魔法であり、なぜか解除途中のままでいる、とぶつぶつマルグリットは言い始めた。

「……」

 ツルカはハルトを見るが、慌てて視線をそらされてしまった。彼の仕業か。ツルカの左耳をやたらと見ていたその時、密にそれを行っていたということか。

「……失礼」

 席を立ったマルグリットは、ツルカに詰め寄る。逃げようにも、マルグリットに肩を強く掴まれる。もう一方の手をツルカの左耳に触れさせる。ふむ、と言ったあと、自身の指で何かを綴った。

 ツルカは失念していた。マルグリットは数少ない、魔法の無力化を扱える人物だったことを。

「……!」

 その様はまるで、破片が砕け散るようだった。パン、と音を立ててあと、隠されていたものが姿を現す。黄色い宝石のイヤリングが彼女の左の耳元で揺れていた。

「その宝石、フルムのじゃないかしら。……あなたの隣にいた彼って確か」

「違います!これは、違くて!ふ、普通におしゃれで……」

 目に見えて動揺しているのがとれた。いけない、とツルカは自身に叱咤する。まだだ、まだごまかせると。

「うち掟が厳しいし、ばれちゃったら怒られるかなって」

 喋れば喋るほど、冷ややかな空気になっていく。けれど彼女は止まらなかった。これでは疑いが深まってしまう。このままでは―

「ツルカ・ラーデンさん。あなたの言動などこの際良いのです。ただ秘匿魔法をあれほどに施していた事。当学院の掟を気にされているのならば、わざわざこの場につけてくることなかったでしょうに」

「それは……」

「それではこうしましょうか。今すぐ、同じ秘匿魔法をかけてください。同等のものですよ」

 たとえ、今手真似で秘匿魔法をかけたとしても、ラムルクラスのものが出来るのだろうか。マルグリットはそうだ。出来ないと確信したうえで、彼女に提案している。

「では改めまして。それでは彼女が同志であるか、否か。―彼女は魔女を騙っているのか。順は問いません。どうぞ述べてください」

 チェックメイト、なのだろうか。ツルカはその場に立ち尽くしていた。

「……あたくしは、ひとまず保留にさせてもらうわ」

 そう述べたのはカタリーナだった。マルグリットは彼女の意見を否定も肯定もしない。続けさせる。

「保留が納得いかないなら、無効票扱いにしてもかまわないわ。過半数を越えない限りは、なんでしょう?」

「ええ、その通りです。今は保留で構いませんが、カタリーナ。何卒早急のご決断を」

「ええ、わかってますとも。それでだけれど」

 過半数。模範生達は6人だ。その半分も果たして認める人はいるのだろうか。

「あの時の方、やはりあなただったと考えているの。先程それを述べていれば、心証違ったでしょうに。あなたはあたくしに恩を着せることはしなかった」

 そのような綺麗な思いではツルカはなかった。まっすぐに見つめられて、彼女はいたたまれなくなってしまう。

「……けれど、やはり不可解ではあるのよ。そのイヤリングについて、あたくし達を納得させてくれるならば別だけれど」

「それは……」 

 このイヤリングについてツルカは黙秘を貫く。もう彼女の手札はほぼない。ただ言われるのを待つまでだ。マルグリットは他の模範生にも結論を出すように伝えた。

「あたしは、あんたは嘘をついていると思う」

「オレもキミは同志ではないと思うよ」

「クロだな。どう考えてもよォ」

「……」

 3人の模範生達は彼女を否定した。あと、一人でも。彼女を否定したら。

「私は最後に述べさせていただきます。ハルトさん、お願いします。なんでしたらカタリーナのように保留でも構いませんよ。……どちらにせよ、私の意見で答えがでるでしょうから」

「!」

 これはもう結果がみえたようなものではないか。

「オレは……」

「あなたが暴いてくださったようなものです。どうぞあなたの結論を聞かせてください……失礼」

 マルグリットの電話が鳴っている。彼女は会話の為、一度会議室をあとにした。

「ハルト君……」

 ツルカは目で訴えようとする。だがツルカは愚行である、と思い直した。ハルトの言う事も言うことであったが、自分も敬遠していたところもあったではないかと。時折気にかけてくれていたとは思っていた。根は悪い人だとは思えなかった。だけど距離をとっていたのはツルカだ。

 確かにイヤリングがばれることになったのはハルトがしでかしたことだ。だが、彼からは言うことはなかった。もうそれで充分なのかもしれない。ツルカは首を振った。

「そうだ……オレが暴いたようなものだから」

 どちらにせよ、もうこの会議での結論は決まり切ってしまっているのだ。

「……オレも、そう思います。ツルカ・ラーデンは魔女を騙っている」

 ハルトも彼女を肯定することはしない。ここまでかなのか。

 沈黙が続く。答えはわかっているが、マルグリットの終了の宣告がなければこの会議は終了しない。答えは決定してしまった。処遇はただでは済まされないだろう。然るべき機関に送られたら、もう彼女の未来は閉ざされてしまう。

「お待たせ致しました。学院長がいらっしゃってます。……これにて決定されたようなものです。私の意見は述べるまでもありませんね。―学院長、どうぞ」

 ノックしたあと、扉を開けたマルグリットが学院長に道を譲る。今しがた帰ってきた学院長は模範生を見回したあと、ほほ笑んだ。学院長の許可なく魔女会議を開催したが、特にそのことを怒ってはいないようである。

 ちらりとツルカを見るが、これみよがしに肩を竦めた。ツルカにはよくわかっていた。この男の来訪は救いなどではないことを。

「いいと思うよ?学徒達による自治。その自主性は感嘆に値するよ。けれどいただけないな、私の許可を得てからにして欲しかったかな」

「大変申し訳ございませんでした、学院長。魔女会議を決行したのは私です。責任は私が」

「ああ、そんなにかしこまらないでくれないかな、マルグリット君。なあに、そうせざるを得なかったのはわかっているからね。私が言いたいのはね、私の許可のもとで開けば良かったということだよ」

 そう、こういう男だ。彼は口の動きだけでツルカに伝えた。

―ここまでか、残念だよ。

「では学院長。明日にでもやり直し、ということでしょうか」

「まあ、形式には乗っ取って欲しいからね。そうだな、私も見届けさせてもらおうかな」

 自分達の結論は出ている会議をもう一度行う。だが、学院長がそう言うのなら、と彼らは従うことにした。学院長は結構、と言うと手を叩いた。側で控えていた部下がツルカを拘束する。とても彼女一人でどうにかできる力ではなかった。

「私の許可の元で、明日改めて魔女会議を開催させてもらうよ。それまで逃亡されては敵わないからね。ツルカ君、君を幽閉させてもらう。マルグリット君、君も同行をお願いできるかな」

「かしこまりました。場所は幽閉塔になります。参りましょうか」

「……はい」

「待ってください」

 向かおうとした彼女達を呼び止めたのはハルトだった。そして。

「確か、そこって懲罰室がありましたよね?そいつ送ったあとでいいんで、マルグリット先輩も一緒に来てもらえませんか?ほら、怒られるなら同時に済ませた方がいいかなって」

 学院長だけ噴き出したか、他の模範生達は非難ごうごうだった。それでも本人はへらへらとしている。マルグリットは青筋を立てながらも、無言でハルトの腕をつかんだ。その細腕からは考えられないほど握力に、ハルトは痛い痛いと連呼する。

 本日はお開きとなった為、他の模範生達もそれに続く。彼らはツルカをみることはない。カタリーナだけはちらりと彼女をみるが、それきりだった。

「ああ、君。ラーデン姓剥奪の手続きはしておいてあげる。……ラーデンに迷惑がかかるからね」

 拘束したツルカの側に寄り、学院長は耳元でこっそりと告げる。

「これから何があったとしても、君はただのツルカとして生を終えることになる。まあ、それも偽名だっただろうけどね」

「……」

 ツルカは頷くだけだった。少なくともラーデンに迷惑がかかることはないようだ。 学院長は彼女の肩をたたいて、そして会議室を退出した。あとは自身の部下とマルグリットに任せることにしたようだ。

「……」

 一日延びた。ツルカはこのまま諦めるべきか、そうではないか。今一度考える。


 ツルカはそのまま、学院の最奥にある幽閉棟まで連行された。そして牢の中に閉じ込められてしまう。牢越しのマルグリットが杖を向ける。高速で文字を描いていき、そのまま杖を地面に置いた。強烈な光を放ったあと、牢は黒光るする。学院長が彼女を連れていったのはこの為だろう。どのような魔力も寄せ付けない効果を付加させたのだ。

 鉄格子の窓からは夕日が差す。老朽化の激しいレンガ造りの壁面に、寝具と洗面台、そして便器。まさに囚人の為にあつらえたもののようだった。よほどのことをしない限りはここに入れられることはない。

「それでは本日のところはこちらでお休みください。明日、迎えに参ります。ハルトさん、私達も」

「……はーい。あーあ、めんどくさ。下の懲罰室で待っててよかったのに」

「自業自得かと。では失礼します」

 ハルトが気が変わらないうちにと、マルグリットは彼をここまで連れてきた。長い螺旋階段を上らせ、そしてまた下らせる。気の毒ではあるが、マルグリットの言う通り当人にも原因はある。先行くマルグリットのあとをハルトは渋々ついていく。

「……」

 静寂が訪れた。一人になってツルカは考える。今の自分は死を待つ大罪人。もうただのツルカ、いや鶴村佳弥乃だろうか。

 誰もいないなら、と左耳に触れる。決め手となった存在だったが、それでも大切なものには変わりない。彼からもらったものだ。何より大切な。

「……ラムル」

 ラムルとは昨日逢ったばかりである。また休日にならない限り、彼はこの学院にはやってこないだろう。ツルカには明日があるかどうかもわからない。彼が訪れた時にはツルカは―

「……逢いたい」

 ツルカは辺りに目を光らせる。鉄格子の下のある一点をみつけた。そこには亀裂が入っていた。ここに投獄されたかつての先輩方が壊そうとしていたのだろう。ツルカは小さく笑った。そして。

「……出るんだ。こんなとこで終わりたくない!」

 ある意味学院長に助けられたのかもしれない。あの流れで彼女のイヤリングに何らかをされてもおかしくなかったものが、なくなったのだから。ツルカは頷いた。

 懐からピンスティックを出す。亀裂にあてて、衝撃を与えた。切り込みが深くなる。彼女にはそれで十分だ。あとは手で取り除こうとするが。

「!」

 足音が下から聞こえてきた。まさか、とは思ったが、ツルカは浮かんだ思いを即座に否定した。学院長の部下か、それともマルグリットでも様子でも見にきたのかもしれない。

「……ハルト君」

「いやー、話が長いこと、長いこと」

 その声にツルカは慌てて壁を隠すように座り込む。

 予想もしていない相手だった。肩を回しながら怠そうに階段を上ってきたのはハルトだった。片手には食事を、そしてもう片方では鍵を放り投げて遊ばせていた。マルグリットからでも預かってきたのだろうか。でなければ無効化の意味がない。

 先ほどツルカを否定したこともそうだが、腐っても第2模範生の彼は信頼されているのだろう。

「ま、パシリで勘弁してもらえないかなって、申し出ちゃった。ある意味お前のおかげかな」

 いつものように小ばかにしたように彼は笑う。ツルカはどういう顔をしたらいいかわからなかった。

「それにしてもお前やっちゃったね。まあ、健闘はしたと思うけど、ここまでかって」

「……私、まだあきらめない」

「……へえ」

 ハルトは彼女の後方に目をやる。彼自身でもどうしてかはわからないが、彼女ならそうだろう、と不思議とそう思えたようだ。

「それって、お前の背後のこと?無謀すぎない?どんだけ高いと思ってんの」

 ばれているのなら、と開き直る。ハルトが少しでも近づいたなら、体当たりでもかましてやろうと。

「どうってことない」

「……見逃したらさ、オレ怒られるよね」

「そうだね}

「……はあ」

 ハルトが一歩前に出る。それなら、とツルカは構えようとする。

「ごめん」

 思いもよらない言葉に、ツルカは手を止めてしまう。

「……お前のそこに何があるんだろって気になったから。それに、オレでも手こずらせるくらい難解な術がかけられてて。……でもこんなことになっちゃった」

 ハルトは申し訳なさそうにしていた。しばらく黙っていたツルカだったが、ハルトをまっすぐと見た。確かに彼がきっかけだったとしても。

「何のことやら。私は魔女だし。ハルト君が解いたところで大したことないし」

「……お前」

「ハルト君、気にすることないよ。むしろ、私の術を解けるなんてさすがだねって感じ。あのね、せいせいしたんだ。もうあんな学院いたくなかったし。ここから逃げるから」

「何言ってんの……。お前は魔女なんかじゃ」

「魔女だよ、私は。トラオムの魔女だ。……魔女じゃなきゃいられない」

 痛々しかった。彼女は最後まで強がろうとしていた。内心では思うところはあるだろうが、それでも彼女はハルトを責めなかった。

 もしかしたらハルトに見せたのは初めてかもしれない。ツルカは笑って、そして手を振った。

「ばいばい、ハルトく」

「……お前は日本人だろ、何がトラオムの魔女だよ!」

「!」

 ハルトの怒声にツルカは思わず身を引いてしまった。ハルトも自身の大声にびっくりしたようで、深呼吸をしたあと、抑え目の声で話を続ける。

「さっきから、オレ日本語で話しかけてたんだけど。普通に通じてたよね」

「あ……」

 思えば、頑張るという言葉が通じていた時があった。あの時から薄々ハルトは感づいていたのだろうか。今のこのやりとりで彼は確信を得たようだ。

「まあ、日本語にも精通しているって言われたらそれまでなんだけど。……でもお前はきっとそうだ。まあ何となくだけど」

 確かに気になる話だが、ツルカはそれでも行こうとする。こうしてここに留まるのはお互いの為にはならないと。

「……頼むからオレの話聞いて。手短に済ませる。さすがにさ、今回のことは責任感じているんだ」

「……」

「―提案しにきた。お前が住んでたところに帰すって」

「住んでたって……日本に?」

 ハルトは静かに頷いた。

「オレのじいさん、わりとすごい人で。……お前だから話しておく。オレもつい最近だけど、日本からやってきた。ま、オレの目的はこの際おいとく。だから、ほぼ確実だと思ってくれていい」

 話は確かなようだ。彼は嘘をついているようには思えない。

「お母さん、はると君、皆にも逢えるの……?」

 その話が本当だとしたら、ツルカは平和な日常に戻れて、そして家族や幼馴染達に再会できるということだ。願ってもない話である。

「……オレ?」

「その、名前が同じだけ。幼馴染にはると君っていたんだ」

 ハルトは一瞬黙り込む。が、彼は話を続ける。やはり他人なのだろうか。

「絶対その方がいい。オレが言うのもなんだけど、お前はもうこっちにいられる?」

「……それは」

 ハルトの言う通りだ。でも、思い出すのはラムルのことだ。ツルカは息を吸って吐いた。深呼吸をしたあと、ハルトに伝える。

「それでも、私はこっちに残りたい。親不幸だし、みんなと逢えないのも本当は悲しい。けど、その……あれだ」

 何を断ることがあるのか、とハルトは不服そうだが、それでもハルトには言っておきたかった。彼としても危ない橋を渡っていることには変わりない。

「本当にありがとう、ハルト君。でもね。ここ誰よりも大切な人がいるんだ。だから、ここに残りたい」

「!」

 ハルトは何も言わない。それでは、と今度こそ彼と別れようとしたが、ハルトは引き下がらなかった。

「今夜、0時を回ったくらい頃にまた来るから」

「ハルト君、私は」

「お前は本当に何なのかな。こんなまだ明るい内に出たって、見つかるのがオチだし。それにカタリーナ様がいる内はまだ警備もすごいと思う」

「それは……そうだね」

 夜までは大人しくすることにする。だが、ツルカの答えが変わることはないようだった。


 時間の感覚はツルカにはわからない。ただ、月が真上にきていた。そろそろだろうか。

「本当にありがとう。でも」

 うずくまりながら、ツルカは日本での暮らしを思い返していた。あの優しい日々に戻れたらとは思う。けれどそこには彼がいない。

「ラムルがいないんじゃ……意味がない」

「……ツルカ」

 ツルカは勢いよく顔を上げた。いつの間にいたのだろうか。牢を隔てた先にラムルが立っていたのだ。慌てて立ち上がり、牢に手をかける。

「お前、無茶過ぎるだろ。はは……」

 後ろの破壊しかけの壁穴をみて笑ったのだろう。やはり、ラムルだと彼を見上げる。月明りが彼の表情を照らす。

「……する必要ないのにな。俺が出してやるのに」

「ラムル……?」

 どうしてこうも暗い表情をしているのだろうか。ツルカは後ずさってしまった。

「なんだよ、それ。こうしてお前を迎えにきてやったっていうのに。なあ、ツルカ。お前の事は聞いた」

「う、うん……結局、ばれちゃったなって。それでこの際、脱出してラムルに逢いに行こうと」

「んじゃ、手間省けたな。よし、んじゃ行くとするか。待たせているし」

「待たせているって、誰を?」

 ツルカは素直に疑問を口にした。何気なくであったが、さらにラムルの声が低くなる。

「……フルムの同胞だけど。他に誰がいるっていうんだ。―この学院の男か。模範生だったか」

 ハルトだ。確かにこの時間くらいにもう一度来ると言っていた。ハルトに何かあったのか。そしてラムルは何を知っているのか。

「ハ……ううん、彼に何があったの」

「……気にすることか。まああいつは事が済んだら解放はしてやる。さてと」

 ハルトは無事なのか。フルムの同胞を連れてきてどうしたということか。何より事とはなにを指しているのか。

 ラムルは牢に手を触れる。そして、軽く魔力を込めると文字が浮かび上がった。まさか彼はマルグリットのかけた魔法を解こうというのか。幼い頃手出しも出来なかった無効化の魔法だ。文字の羅列にげんなりしつつも、ラムルは一文字一文字破壊していく。次元が違う。

「ラムル……」

「ん?ああ、待ってろ。もうすぐだ」

 穏やかにそう告げた。確かに目の前にいるのはラムルだ。だがラムルとは思えなかった。ツルカは自分でもわけがわからなく思っている。

 破片が砕けちるような音がした。鍵穴が破壊される音もする。そして扉が開かれる音がした。

 ラムルの方が見られないツルカは、耳で状況を把握するしかなかった。ラムルが怖くて仕方ない。いつも見せてくれていた姿とは違っていた。

「待たせたな、ツルカ」

「ラムル、その……」

 足腰に力が入らず、ツルカはその場に座り込んでしまった。そんな彼女に目線を合わせるように、ラムルも片膝をついた。髪の毛を撫でられ、そのまま頬に手を添えられた。

「お前をさらいにきた」

「え……」

 ラムルの瞳がよくみえる距離まで顔を近づけられた。いつもは綺麗だと思える瞳も淀んでいるようだ。

「もういいだろ。お前が頑張ってきたのは俺がわかっているから。な、ツルカ。フルムで暮らそう。それならずっと一緒にいられる」

「……待って、ラムル。それはすごく嬉しいんだけど!」

 ラムルの様子がどこかおかしい。ひとまず落ち着かせようと、ツルカは相手の肩をおしのけた。そして自身の左指をみせた。しっかりと存在を主張する薔薇の刻印だ。

「これ。これがある限り、私はトラオムから出られない。そう……だから」

 ハルトのは何か裏技のようなものがあるかもしれない。けれど、フルムは違うだろう。このままではラムルと共に国外に出ることは叶わないと。

「いつ見ても忌々しい。……ツルカ、こんなのよりもっと相応しいものを造ってやる。お前に喜んでもらえるような、とびきりのやつ」

 そのまま指が絡まり、手が繋ぎ合わせられる。甘い囁きなはずが、それでもツルカの中の恐怖心は消えてくれない。でもね、とラムルに話そうとする。

「やっぱり、これがあるから。だから、私はトラオムに残ることに―」

「どうとでもなるって言ってんだろ。学院長ぶっ殺すんだから」

「!?」

 ツルカは耳を疑った。ラムルは淡々と告げる。

「これをやりやがったのはあのおっさんだ。まあ、おっさんだけでは済まない。国の管轄なんだってきいた。なら、それ取り仕切りる奴ら。最終的には王族だな」

「ラムル……」

「なんなら面倒くさいし、国ごとぶっつぶしてもいい。あいつらとは元々敵対していたんだ。それでいいんだよ、な。お前もそれで一安心だ。それでいいんだ」

「……」

「……そうするしかないんだよ。俺はお前がいればいい。お前さえ失わなければ、それでいい」

 そして綺麗に笑みを作った。こうも嫋やかに笑うような男だっただろうか。―こうも悲しそうに笑う男だっただろうか。

 繋いだ手はそのままで、ラムルの瞳を覗き込む。引き込まれそうな漆黒の瞳の色だった。それが滲んでいる。ツルカは思った。彼に悲しい顔はさせてはいけない。いつものように強気に笑っていて欲しかった。ツルカは語りかける。

「……違うよ、ラムル。違う」

「……お前そればっかだな」

「ラムルもいけないんだよ。だって、せっかくトラオムとも友好的になってきたのに。それが水の泡になったら、フルムの人達だって困るよね」

「……だから、なんだよ。あいつらはこれからも守ってやる。俺がいればいい。俺の力があれば」

「……力しか必要されてないと思ったの?」

「!」

 ラムルは目を伏せた。長い睫毛が影を作る。

「でなきゃ、出自の知れない奴のことをああも崇めることもないだろ。俺は道端に捨てられていた。魔力が強くなければ、どうなっていたかわからない」

「……そっか。でもラムルは魔力だけじゃなくて」

「お前だってそうだろ。俺の魔力があるから学院でやっていけてる」

「それは……」

 まさに図星だった。だがらこそ、ツルカはある行動に出る。左耳からイヤリングを外し、そのまま地面に投げつけようとしていた。

「お、おい!」

 慌ててラムルがその手をとる。文句を言おうとしたが、逆にツルカの形相に怯んでしまう。

「もらっておいてひどいけど、だったらいらない。心の支えだったけど、そうじゃない。私がラムルといたかったから、その為に必要だっただけ。ラムルと一緒にいたかったから」

 ラムル、ともう一度呼ぶ。

「昔から言ってるじゃない。あなたのこと皆大好きだって。ラムルが優しくて、でもって普通の人だからだよ」

「……」

「……あなたが優しいってみんなわかっている。そんな優しい人が、誰かを傷つけて平気なわけがない。だからお願い、それはなしでいこう」

「……」

「私はトラオムで生きていく。これをどうにか出来た時、ラムルにも逢いにいくから」

「……お前という奴は」

 思いっきりため息をついたあと、軽く笑った。

「……無計画でよく、それだけの大口をたたけるな。この、能天気女。根性だけでどうにかなると思うな」

「ラムル……」

 口ではこうは言うが、ラムルは眉尻を下げていた。

「情報収集も必要だ。しばらく隠匿生活が続くが、ようは脅してでもそれをどうにか出来ればいいんだろ」

「脅すって……」

「……わかっている。お前にドン引きされない程度だ」

「ラムル……」

「まあ、都内かけずり回るのはお前の役割だ。適任ってやつだな」

「任せて!」

「いや、お前。いいのか……って」

 彼が、戻ってくれたと思った。嬉しそうにラムルに体を寄せるも、そっと離れた。今のはやりすぎたと、ツルカは自省していた。

「……」

 ラムルは優しく笑っていた。ただ愛しそうに彼女を見ている。

「……参った。なあ、ツルカ。今、言ってもいいか。……一回しか言わないからな。俺はお前が―」

「……え?」

 心臓が早く鼓動を打つ。この胸の高鳴りはなんだろうか。この高揚の抑えられなさはどうしたことか。これは―

「―ようやくですか」

 今のは誰が言葉を発したのか。そして誰が懐から宝剣を取り出したのか。そして誰が。

「ツル……カ?」

 ツルカは大きく目を見開く。全てがスローモーションのように思えた。ラムルが胸元を抑えている。彼に左胸辺りで滲みが広がっているのは―血だ。ツルカが手にした宝剣から血が滴っている。

「ああ……あ……」

 このまま宝剣を投げ捨てて、ラムルのそばに駆け寄りたい。だが、体がどうしても言うことを聞いてはくれない。そのまま宝剣をラムルに振り下ろす。

 逃げて、ラムル。逃げて。逃げて。ツルカが心の中でそう連呼してもラムルはじっとしているままだ。そうして、彼の左腕に突き刺さってしまう。彼は苦痛で顔を歪ませている。

「―外したか。心臓ではなくて意味がない。次こそは」

 ツルカの声とは思えない、艶やかな女性の声だった。ラムルが意識が遠のいている中、考える。これはおそらくツルカではない。では誰だ。誰がツルカを操っているのか。誰が彼女を悲しませようとしているのか。

 そう、ツルカの心が悲鳴をあげている。まだ彼を傷つけようとしているのだ。止まってはくれない。

「あ……」

 あの川べりでも。そして運河の欄干から見上げた白く淡い光が辺りを漂っていた。浮かんでは消えを繰り返し、二人を取り巻く。

「いやだ……」

 ツルカが昔から見る悪夢の時と同じ感覚であった。ツルカの意識が暗く沈んでいこうとしている。このまま飲まれてしまったら、その時は二度と。

「ぜった……い、いやだ!」

「お……まえ」

「……っ」

 ツルカの手に激痛が走る。ぼたぼた、と床に自身の血が落ちていた。両手で宝剣の刃をつかむ。こうしていれば、ラムルを傷つけなくてすむ。

 何者かがツルカに訴える。早くあの男を刺せと。そして彼の心臓を抉れと。ツルカは首を振って必死に拒む。だが、いつまでもつかはわからなかった。ツルカは声を振り絞る。

「お願い、ラムル……にげ……て」

「馬鹿、お前を置いていげるか……」

「なら……私を殺して」

 もう何をするかツルカはわからない。なら、ラムルにどうにかしてもらうかもしれない。最悪な手段を使わせてしまうことになる。けれど、彼を失うよりはいい、とツルカは思っていた。

「それはできない。……俺にお前を手にかけるなんて、できるわけがない」

 はっきりと、ラムルはそう答えた。

「そんな……。―そうでしょうね。あなたはこの娘にだけは手を出せるわけがないと思っておりました」

「何者だ……」

 ラムルは目を凝らす。ツルカはやはり何者かに乗っ取られている。なら、どこかでボロを出すはずだ。

「くっ……。―何をしているのです、いつまで抗うというのですか。埒が明かないですね……!」

 ツルカの周りで黒い靄が発現し始める。ラムルははっとする。

「―もうよいです。ここまでくればあとは私が!」

「……久しぶりだな。お前か!」

 ラムルには覚えがあった。昔、身を隠していた森を巡回していた時、見慣れない服装の少女が黒い靄のように捕らえられていた。その少女はこちらに迷い込んだばかりのツルカである。

 黒い靄は集合体として形を成そうとしていた。だが、ラムルは逃さない。魔法で衝撃を与えてそして焦がしつくす。悲鳴をあげるが、そのまま両翼を作り上げ、壁を貫通したあとそのまま飛んでいった。ラムルは舌を打つ。今の自分は追撃できるまでの状態ではなかったからだ。

「……」

 ツルカの両手から血まみれの宝剣が落ちる。床に音を立てて落ちたあと、そのまま転がって壁にぶちあたる。ラムルは一瞬だけ見たあと、すぐツルカに視線を戻した。

「ツルカ……大丈夫か?」

「ラムル……私、私なんてこと」

「痛そうだな、手……。治療魔法、使ってやるから。応急手当程度だけど……な。あとはあいつらが心得あるし……」

 こっち、とラムルは手招きをする。喋ることすら辛そうなのに、ラムルは彼女を案じていた。どう見ても致命傷はラムルの方だ。

「わ、私がやるから。魔法じゃないけど、薬とかなら……」

 ツルカが持っている薬の効力など、今の彼に対しては微々たるものだった。だが今の話なら、同行してきたというフルムの民なら治せるのではないか。

「待ってて、ラムル。私、呼んできて―」

「……どういったことでしょうか。ご説明願いますか?」

 中々出てこないラムルを心配したのだろうか。親善大使を筆頭にフルムの人間がやってきたのだ。だが。

「なぜラムル様がこのような目に遭わされているのか。返答次第では、貴方を下さなくてはなりませんから」

 振り返った時には既に一斉に武器を向けられていた。彼らにとってツルカはもはや害なす存在だった。ラムルをここまで追い込んだ相手でもある思われているようだ。警戒が高まる。

「フルムの人って手荒だったんだね……しかも、クソまずいもん飲ませやがって」

 ハルトは後ろ手で縛られていた。彼が魔法を使わないということは、何か対策をされたのかもしれない。ハルトは手が血まみれのツルカ、意識がないフルム人の青年、そして床に転がった宝剣と順々にみていく。このような状況下で判断しようとしているようだ。

「ひとまずラムル様の処置を。あとはその者を拘束するように。もちろん秘薬の投与を忘れずに。ラムル様の魔力で暴れられては困る」

「……」 

 ツルカの頭は真っ白だった。親善大使と共にラムルは抱えられてそのまま連れていかれてしまった。ただラムルから目を離せずにいた。

「お前……って、痛いんだけど」

 ハルトを縛る紐もきつくなっていく。顔をしかめるハルトに対して、フルム人は肩を竦めた。

「ふん。トラオム人など魔法がなければただの人。だな」

「……ああそう」

 ツルカは呆然としたままである。ただでさえ、今のでハルトは頭にきていた。ツルカなら魔法が使えるだろうと、頼み事をすることにしたようだ。

「あのさ、これ切ってくんない?邪魔でさ」

「……」

 だが返事はない。

「でもって無視ときたか」

「……ごめん、ハルト君。私……」

「……お前さ、ここで終わる気が」

 ツルカに対してそう言う。ゆっくりとハルトをみる。漠然とだったが、それは嫌だった。ツルカは首を振る。そして風を発生させて、ハルトの紐を断ち切った。

「十分だよ、今はそれで……っと!」

 手首を振ったハルトは、そのまま後方にいたフルム人に回し蹴りを食らわせた。ハルトを止めようとするもう一人の顎も蹴り上げる。相手はフルム人の中でも腕が立つ部類のはずだ。だがハルトは楽々といなす。

「行くよ。ちょうどおあつらえ向きのものがあるし」

「え。ええっ。えええ!?」

 流れるようにツルカを横抱きし、そのまま壁の亀裂を足で打ち砕き、そしてそのまま塔から飛び出す。ツルカは慌てて風の力を発生させた。一旦、浮かせたあと、ふわりと着地する。

「へえ。別にこのまま着地しても良かったんだけど」

「絶対危ないと思う」

 早くこの場から離れた方がいい。ひとまずハルトの祖父にあたる人物の元へ身を寄せることにした。


 中央通りの坂の上を目指す。いくら真夜中とはいえ、辺りは静まり返っていた。月が雲で覆い隠されている。嫌な風が吹いた。とハルトは急ぐことにした。

「あのさ、ハルト君。……そろそろ」

 ツルカが何か気まずそうにしているが、ハルトは構うことなく足を速めることにした。

 蔦が絡まった緑色の屋根がハルトの祖父の店のようだ。ハルトは慣れた様子で鍵でドアを開ける。ラウンジチェアに腰かけた老人が、暖炉にあたっていた。楽器屋のようだ。

「ただいま、じいさん。急ぎでお願いしたいことがあるんだけど」

「いや、ハルト君。もうそろそろ……。あの、夜分遅くにすみません。私はツルカ……といいます」

 老人は傍らの杖をついて、玄関口の方までやってきた。

「これは可愛らしいお嬢ちゃん。ハルトも離さないわけだ」

「え?……うっわ」

 嫌そうな顔をしつつもハルトはようやくツルカを降ろした。にこにこと老人は見守っていた。だが、孫は火急の用があるようだ。おもてなしの準備はせずに彼の話を待つ。

「急で悪いんだけど、こいつを日本まで送り届けて欲しい」

「!」

「お前の意見はきかない。じいさん、ほんと急いでるから」

「でも!」

 老人はハルトを杖で軽く小突いた。顔をしかめるハルトに対しても飄々としていた。

「話はわかったよ。だが、材料が必要になるね。ハルト、持ってきても構わないかい?一通り倉庫にそろっているはずだ」

「わかった。それとさ、そいつ頼んだ」

 ツルカが声をかける前に、ハルトは地下へと走っていった。

「わかっているよ。おいで、お嬢ちゃん。応急手当ですまないね」

 ハルトも布で巻いてくれてはいたが、その場しのぎであった。老人はツルカの両手を止血し、包帯を巻く。

「ありがとうございます……。私も手伝いを……。いや、手伝えないか」

 ハルトはツルカを何が何でも日本に帰す気らしい。トラオムだけでなく、フルムの人間も敵に回してしまった。何よりラムルに合わす顔もない。老人はツルカの横顔を見ていた。そして、何かを思い立ったように入口のドアを開ける。ハルトもまだ戻ってきてないようだ。ツルカもひとまず老人に続いた。

 外に出ると夜空が広がっていた。老人は杖で一つの星を指し示す。

「ごらんなさい、ツルカちゃん。あそこが君の星、チキュウだよ」

「星って……」

 それならここは別の星だというのか。それこそ距離すらわからないくらいの。老人はぽつりと語り始める。

「ハルトはね、ここで生まれた。あの子は生まれつき魔力の素養が高くて、しかも万物の言葉を理解できた。その分、悪しき存在に狙われてしまったね。だからここよりは安全なチキュウで暮らすことにさせた。だけど見つかってしまって、ハルトは悪意ある存在に連れていかれるところだった。私が与えた護符があの子を守ってはくれたけれど、それならと別の誰かを狙い始めていたのかもしれないね」

「それは……」

 ラムルだ。彼も魔力の素養が高い。そして今思えば言葉が最初から通じたのもその事があったからかもしれない。そして彼が狙われているとしたら。

「だから、ハルトが狙われることはなくなった」

 意味がありそうにツルカを見るが、何でもないよと、夜空を見上げた。

「まあ、ハルトの話はこのへんにしておこうか。ツルカちゃん。確かに私の力をもってすれば送り届けるのはたやすい。けれど、逆に送り返す人はいない。わかるね?」

「!」

「もう戻れないからね、おそらくは」

 老人はバラの刻印の事にも触れる。トラオムの息の根がかかるのはあくまで、同じ星の範疇まで。遥か遠くの星までは届かないだろう。

 本当にこのまま帰っていいのか。居場所がないこの場に留まっていいのか。ツルカはただ夜空を眺めた。

「ハルト君のおじいさん。色々とありがとうございました。―ハルト君にもよろしくお伝えください」

 深く頭を下げたあと、ツルカは走り出していく。もう彼の側にはいられない、いる資格がないのに。それでもツルカはこの場所に、この星に留まる選択をした。だが、祈らずにはいられない。

―もし、もう一度彼といられるのなら。今度こそはあんなものに屈したりしない。そして、二度と彼を傷つけずに済むように。

 無我夢中に走って、気がつけば運河の近くまで来ていた。つい最近の出来事なのに、ツルカにとっては随分遠くの事の思えた。

「さて、これからどうしよう―」

 誰かに呼ばれた気がした。そう、大切な誰かに。

「あ……」

 包帯を巻かれた茶色の縞模様の猫が、橋の欄干の上で立っていた。あれだけ痛々しい姿なのに、気丈に立っていた。

「……ふん、考えること同じかよ」

「……!」

 ツルカは胸が温かくなる思いだ。ただたまらなくなっていた。愛しい気持ちが溢れて止まらない。言葉にはできない。早く彼に触れたい、と歩きだしていく。

 一息をついたあと、ラムルはゆっくりと猫の足で歩きだす。そして速度を速めていく。ツルカは目を細めて笑った。

「ラム……!」

「残念だったな、こっちの方がしっくりくるんだよ」

 ツルカよりも一回りも大きい体で抱きしめる。傷口が広がるのではないか、と心配するが、ラムルは構わずにさらにツルカを強く抱きしめた。

「ごめんなさい、ラムル……」

「だから、気にするな。もうお前からはそいつの気配がない。だから、安心しろ」

 そのままツルカの髪を撫でた。いつものしぐさにツルカはさらに身を委ねた。だが、そのひと時は終わる。ラムルが体を離したからだ。

「本当にお前のせいじゃない。やっと裏で糸を引いていた奴の目星を。そいつを締めてくる」

「ラムル達を狙い続けてきた人ってこと?」

「たち?まあ、いい。ご丁寧に証拠まで残していったからな」

 布で包まれていたソレをツルカにみせる。あまりお互い気分のよくないものだったが、そうはいってられない。豪奢な宝剣。そこに刻まれていたのは王家の紋章だった。ツルカは書物に記されていたことを思い出した。この宝剣は王家の息女が成人した際にもたされていたものだ。持ち主当人という前提ではあるが、かなり絞られる事になる。

「王家の方が……」

 ツルカの胸はざわつく。どうしてもとある人物にたどり着いてしまう。あれだけ優しく聡明な方なのに。けれど今思えばどこか納得できる気もした。ラムルも頷く。

「考えることは同じだな。―クラーニビだ。あいつのうさん臭さもそうだが、声は間違いない。ま、証拠もあるしな」

「……うん」

「お前は、とりあえず誰かの世話になっているんだろ。……あの、模範生のとこでも今は仕方ない。そこに身を寄せてろ」

「……うん、わかった。ラムル、猫になって」

「よし、わかったならいい。……ああ?」

 こいつはこの期に及んで何をいうのかと、ラムルは眉をひそめた。

「かけずり回るのは私の役目だよ」

「ツルカ……」

 彼とて本調子ではないはずだ。ならそれは自分が代わりになる、とツルカは考えた。だがそれは共にクラーニビの元へといくことになる。また、危険にさらされるかもしれない。

「……覚悟、できてんだな」

「うん、覚悟できてる」

 ラムルは悩んだのは一瞬で、ツルカの耳元に魔力を宿す。光が灯った。それが彼の答えだった。ツルカはほほ笑む。ラムルも肩を下げて笑った。

「クラーニビをどうにかしない限り、この先はない。行くぞ!」

「おいで!」

 渋々猫の姿になったラムルはそのままツルカの腕に飛び込む。よし、と鼻息を荒くしたあと、ツルカは猫を抱えたまま駆け出していく。今はだけでもラムルは体を休めることにした。大事なことだとは彼はわかってはいるのだが。

「……なんか、締まらなねぇ」


 高台に建つ白亜の城。豊かなトラオムの都を見下ろすように建てられた王城である。いつもならば厳かなその城が、今は禍々しいものに包まれている。見張りの兵達の姿もなく、いつしか夜空にも暗雲が立ち込める。

「……気、抜くなよ」

「わかった」

 ツルカの腕の中から飛び降りると、ラムルは人間の姿に戻る。張り詰めた空気だ。

 重厚な扉を開く。警備も手薄だった。そのまま城内に足を踏み入れた時だった。おどろおどろしい音がしたと同時、扉が閉まる。ラムルが力を込めてもびくともしない。ならば魔力でとも考えたが、どのみち目的を果たすまでは戻ることはできまい。上等だと、薄暗い城内を駆けていく。

「うう……。ううう……」

 通路の奥から子供の泣き声がした。女の子のようだ。ラムルはまず罠かとふむが、情報が得られるかもしれない、と考えた。念のため、ツルカを自身の背中に隠す。金髪の長い髪が揺れる。その少女を追いかける。二人は城の地下へと誘われていく。走ってようやく少女に追いつくかとおもった、だがその少女は姿を消してしまった。

 たどり着いたのは地下の礼拝堂だった。警戒しつつもラムルが扉を手にかける。

「……っ!」

 地中からはえた蔓が二人を拘束しようとした。後方に飛んで、二人は交わした。

「カタリーナ様……?」

「あなた達は……」

 魔法を発動させたのは、衣服がぼろぼろなカタリーナだった。彼女は項垂れたマルグリットを抱きかかえながら、前方に杖を向けていた。

 ステンドグラスは、天使たちをモチーフにしていた。礼拝堂の長椅子に隠れているのは使用人達だ。彼女一人で守っていたというのだろうか。

「……あたくしは、あなたを信用してもいいの?」

 ツルカに杖の先を向ける。ツルカは疑惑の対象である。カタリーナは確かに保留にするとは言った。けれど、この状況では悠長にいっていられなかった。

「はい、私はあなた達の同志です。―魔女ですから」

「……」 

 何かを吹っ切れたのだろうか。カタリーナは杖を下ろし、マルグリットを壁にもたれかかせると、二人に歩み寄る。

「いいわ、この際。マルグリットの復活にもまだかかる。あたくし一人でと意地をはっても、守れなくては意味がないもの。説明するわ」

 マルグリットに治療魔法をかけ続けながらも、警戒を続けなくてはならない。カタリーナは気丈に振る舞っていても、限界を超える寸前だった。今はツルカ達の協力を仰ぐことにする。それならばと、経緯を説明することにした。

―魔女会議のあと、カタリーナは兵達と共に城に帰っていった。だがすでに異変が生じていた。城の人々は生気が吸われ、その場で倒れていた。一人なったカタリーナは黒い手に囚われてしまう。気がつけば、この礼拝堂の奥の隠し部屋で拘束されていた。真っ先に単独で助けにきたのがマルグリットだった。だが、彼女一人では限度があったのだろうか。かなりの致命傷を負い、カタリーナを救出したものの、そのまま倒れ伏せてしまった。

「んん……。私は……慢心していたので……しょうか。一人でも、どうにかなると」

「今は喋らないで、マルグリット」

 マルグリットは意識を取り戻したようだ。だが、魔力を扱えるような心身の状態ではないようだ。この礼拝堂に避難してきた人々も守護している。下手に動けない状態のようだった。

「……私達、元凶のもとに行ってきます。もう少し耐えてください」

「……そうしてもらうしかないようね。お気をつけて」

「はい」

 ツルカはカタリーナ達に頭を下げる。ラムルも視線で行くぞ、と促した。先を行く彼の元へ駆け寄ろうとした、その時だった。

「!」

 数多の黒い手が礼拝堂に現れた。その一つがツルカを掴む。そして闇へとそのまま引きずりこもうとしている。魔法を打っても、ツルカに当たってしまうかもしれない。だったら、とラムルも飛び込もうとした。

「きゃあああ」

 黒い手は隠れていた使用人をも掴もうとしていた。気づいたカタリーナが風の刃でそれを切り裂く。だが、多方から襲いかかるそれらを対処するには無理がある。カタリーナはまさに限界を向かえようとしていた。

「あたくしは王族よ……。王族は民の為になくてはならない。マルグリット、走るくらいはできるでしょう?誘導をお願いするわ。彼女達を連れて行きなさい」

「カタリーナ、なにを……」

 カタリーナの言わんとしていることがわかってしまう。彼女を慕う使用人達も反対する。カタリーナは一人残ってくい止めようとしているのだ。

「無茶過ぎます、カタリーナ様!」

「……そうね、あなた。虫の良い話だったわ。あたくし達はあなたに疑いを向けた。同志ではない、と結論づけた。それに……そこのフルムの方。あなたも早く追いかけなさいよ」 

 長年敵対していたフルム人。いくら国交が良くなり始めているとはいえ、そこまでの義理もないのだろう。

「大切なんでしょう、あの子が」

「!」

 ラムルにとっては、まさしくカタリーナの言う通りだ。

 カタリーナは手を緩めない。最期まで王族であろうとするのだろう。

「カタリーナ様……ラムル」

 彼の瞳が揺れている。ツルカは深く息を吸った。

「―あなたはここに残って。私一人で行く。あれだけたくさん言われてるからね、気をつけろ気をつけろって。だから、大丈夫だよ」

「ツルカ……」

 ツルカを引きずり込む力は強まっていく。もう時間の問題だ。だから彼に語りかける。

「ラムル。私を信じて」

 もう覚悟は決めたのだ。クラーニビさえどうかすれば、もう彼を傷つけなくてすむ。もう学院には戻れなくても、未来が閉ざされなくて済むのだ。

「……魔女だからか」

 ラムルはそれだけ言うと、風を生じさせ、カタリーナ達を守る防壁とさせる。やはりラムルはそうだ、とツルカは笑った。そのまま闇へと同化していく。


 ツルカは夢を見ているようだった。

 ふわふわの金色の髪の愛くるしい赤ん坊がゆりかごに揺られていた。美しい女性はその赤子を慈しむ。母親の顔して見守るのはクラーニビだった。誰もがその赤子の誕生を祝福した。

―これは素晴らしい素養ですな!母君譲りでしょうかな。

―まさに魔女様による祝福でしょう。その癒しの力はまさにそうなのでしょう。

 場面は変わる。その少女は十ほどの娘に成長した。顔面を蒼白した金髪の少女が母親であるクラーニビに告げる。

―母上……わたくし、わたくしは。

―大丈夫ですよ、落ち着いて話してごらんなさい。私は貴女の味方ですからね。

―母上、わたくしは……魔女ではなくなりました。魔力が使えなくなってしまったのです。

 その会話は聞かれてしまっていた。その少女の魔力がなぜ消失したかはわからない。けれどよりにもよって、王族が魔女を騙るとはあってはならないこと。少女は永久に幽閉されてしまうことになる。

―ああ、良かった。貴女は今日も生きている。ご安心なさい、ここならば安全よ。誰も貴女を咎めることはない。

―母上、わたくしはそれほど許されざる存在なのでしょうか。こうして命を長らえてはおりますが、わたくしは権利がないのでしょうか。

―権利、なにをおっしゃるの?

―生きていられる権利です。

―馬鹿なことを言わないで。貴女はこうして生きている、それだけで母はよいのです。

 場面は暗転した。その少女はかつての美しさは失いつつあった。年の頃はツルカと同じくらいだろうか。その少女が魔力がないにも関わらず魔女を騙ったことが明るみになってしまった。王族は苦渋の決断をする。もはや姫ではない、ただの娘として刑を処すべきだと。その少女の名はない。そのままギロチン台まで連行され―

―母上……わたくしはなぜ。

 クラーニビは何も言わない。その少女は絶望した。ならば、と今際の言葉を残す。

―わたくしは、生まれてこなければよかったのですね。

―それは……。

 クラーニビが語りかけようとしたその時。

 名もなき少女は生を終えた。クラーニビが手を伸ばそうとする。けれど少女の亡骸は目の前で連れていかれてしまった。半狂乱になったクラーニビは取り押さえられる。


「……クラーニビ様。これは、あの人の過去?」

 暗闇の中、ツルカは意識を取り戻す。目の前で白い仄かな光が生じる。その中から姿を現したのは、かの金髪の少女だった。こうしてみるとカタリーナによく似ていた。 

 ツルカは彼女の首元を見てしまう。そして唇をかみしめる。つなぎ目のあるものだった。それは刑を処された確たる証拠だった。恐る恐るではあったが、ツルカは彼女の首元に触れる。少女は拒むことはなかった。

「私達をここまで連れてきてくれたのは、あなたですね」

 少女は何も言わない。

「……きっとあの人も苦しんだと思います」

 大罪人の遺言をきこうとするのも、献花をするのもきっとそうだ。彼女なりの贖罪の気持ちだったのかもしれない。大切な娘にできなかったことであった。

「でも、止めにきたんです。苦しみはわかっても、それでもあの人のことは放ってはおけないから」

 少女は儚く微笑んだ。そして静かに消失していった。


 暗闇の空間を抜けると、研究室に出たようだ。壁面にはたくさんの本が収納されている。だが、ただの研究室なわけがなく。

「……!」

 至るところに標本があった。首を接合された人々の中で、見覚えのある顔があった。港町で処刑された女性だった。手を合わせたいところだが、今はそうしてはいられない。ヒールの音がする。やってきたのはおそらく。

「そちらのご婦人は惜しかったわ。あの子と近しい魔力の持ち主だと思っていたけれど。残念ね」

 黒い羽毛が表面を覆う、妖艶な女性が現れた。クラーニビだ。

「あなたの……目的はなんですか?」

「ふふ、ツルカ・ラーデンさん?いえ、ただのツルカさんでしたね。あなたは私の授業に真摯に取り組んでくださった。ならば自ずとわかるはずよ」

 クラーニビの専攻は治療魔法学だ。そして仕切りに連呼していたのは。

「蘇生……」

「よくできました。わかりやすく説明しましょうか。まずは強大な魔力を要するの。けれど神の子、稀に過剰な魔力を持って生まれてくる、その存在の命で事足りるでしょう。そして、器となる人間は近しい人間。近しい魔力の持ち主と述べた方が良いかしら。それが姪のカタリーナでしたの」

「そういうことだったの……」

「ええ。理解をしていただけたところで、交渉をしましょうか」

 黒い手が発現し、ツルカのところまで這いずり寄ってくる。

「あなたからお願いしてくださらないかしら?どちらの殿方でも構わないわ。カタリーナならどうとでもなりますもの。それをもってあなたを解放してさしあげましょう」

 ラムルと、おそらくハルトに対してか。その質問はツルカにとってバカげた質問だった。承諾するわけがない。愚問でしたわね、とクラーニビは微笑んだ。

「ならばせめて邪魔しないでくださるかしら」

「それはできません。私はあなたを止めにきました」

「……止めるですって?」

 クラーニビはおそらく娘を蘇生しようとしている。ツルカは首を振ったあと、クラーニビと対峙した。

「それで犠牲になる人だっている。それに娘さんだって生き返らない。許されないことだと思います」

「何をおっしゃるやら。……あの子は死という罰を十分に受けました。なら、今度こそ幸せにしてあげたいの!今度こそ魔力を失わないで済むように!普通の幸せを与えてあげる!私は、母親よ!何か、何か間違っているのかしら!ただ、生きてほしいだけなのに!」

「その人はもう、あなたの娘さんじゃないと思います」 

「!」

「あなたが娘さんを大切だと思っていたことはわかります!大罪人だって言われた人達を弔っていたことも。だけど、それは本当に望まれて―」

「ふふふ、ははは、あははははは!」

 クラーニビは突如笑い声を上げる。ひとしきり笑ったあと、ツルカをみた。

 その瞳は怒りに満ちていた。その剣幕にツルカは喉を鳴らす。それでも逃げることはしない。

「あなたを越えなくちゃ、未来がないから。だから、あなたを止めてみせる」

「ふふ。……さすがは魔女騙りのお嬢さん。大した度胸ですのね」

「!」

 クラーニビは衝撃波を発生させる。ツルカは杖を構えた。激しい閃光が走り、そして。 


 ツルカの眼前に広がるのは多くの群衆。またしても夢の世界なのか。それにしてはやけにリアルだ。おそらくここはクラーニビが造り出した空間。夢ではないのだろう。

 立ち並ぶ建物の中心にある広場。いつぞやの広場を思い出す。熱狂する彼らは、ギロチン台に向けて罵声を浴びせていた。

 巨大な影が覆う。ツルカは空中を仰ぎみる。クラーニビは両翼を生やし、異形の姿を化していた。翼をはためかせ、冷ややかな目線をツルカに浴びせる。

「―これはあなたの辿りつく未来。私の娘が潰えてしまった未来、あなただけ許されるなんてあってはならないこと」

「それでも、私は乗り切ってみせます。いくらでも騙ってみせる。ここで終わるわけにはいかないから!」

 浮遊するクラーニビは群衆を煽り始める。大罪人はここにいる。この娘は魔女騙りの少女だ。さあ、裁け。さあ、殺せと。煽るだけ煽ると、クラーニビは上空へと飛んでいく。そして、彼女が取った行動にツルカは愕然とした。

「……なにを」

 クラーニビの風が赤く染まる。そのまま炎上させ、羽ばたかせた。炎が群衆達を襲う。そのまま炎に包れ、呻き声をあげてそのまま消失していった。群衆はあくまで偽物のようだが、それでも人の形を成している分、ツルカはやりづらかった。

 だがそうは言ってられない。ごめんなさい、と小さく謝ると彼らを足の踏み場にする。そして風の力によって自身を舞い上げた。そのまま建物の上を飛んで渡っていく。そしてクラーニビをけん制させていく。

 クラーニビは逃げに徹している。クラーニビはツルカの秘密を知っているはずだ。だから、その借りものの魔力が尽きるのを待っているのだろう。ツルカの息もあがってきた。いっそとどめをさせるものを、クラーニビはあえてそうしない。

 怒りに震えるクラーニビはツルカを絶望させたかった。この小娘は自分のこれまでの苦労を、そして悲痛の願いを否定したのだ。それなら、魔力を尽きさせ、そしてあの処刑台におとしてやろう。そう思い至ったのだ。

「はあっ……」

 そろそろ魔力の残量が少なくなりかけていた。一度ツルカは体勢を整える。クラーニビを撃墜させようと、特大の魔力をぶつけようとしていた。意識を集中させる。

「これなら!」

 クラーニビがまたしても大きく翼を開く。その隙を狙って、力の限りの風の刃をクラーニビにぶつける。狙いはクラーニビの胸部だ。見事命中し、クラーニビは悲鳴をあげる。ツルカは手ごたえを感じたが。

「……!」

 突進してきたクラーニビに叩き落とされた。このままではツルカは地面に衝突してしまい、魔力で自身を浮かべる。まずかった、想定量以上に魔力を消耗をしてしまった。ツルカは地上にて駆けまわる。転がりまわり、群衆の合間を縫う。逃げの一手であった。

「……そろそろ潮時かしら」

「……」

 ツルカは酸素が薄くなるなか、必死に自身の頭を働かせる。何かまだ手立てがあるはずだ。ここで彼女は終わるわけにはいかない。何かあるはずだ。何か、まだ自分が出来ること。今まで自分が頑張ってきたこと。努力してきたこと。学んできたこと。何かがあるはずだ、と考えを巡らせる。

「さようなら……魔女騙りのお嬢さん」

「あ……」

 ツルカの周囲に火柱が生じる。それらは勢いをつけて彼女に向かっていく。今にも彼女を焼き尽くそうとしていた。防御をしようとツルカは杖を構えるが、すぐそこまで勢い増して迫ってきている。今からでは間に合わない。

「なにか、なにかあるはず……!」

 ふと、脳裏に浮かんだのは子憎たらしい彼の表情だった。だが、もう遅かったのか。

 ツルカは炎に包まれてしまった。

「……あっけないものですね。皆、同じ。魔女を騙った者の末路は……同じなの」

 クラーニビは地上に降り立った。今も彼女を焼き付かさんとばかりに、燃え盛っている。この炎が尽きた時、彼女は何も残らないだろう。クラーニビは手から白い花を生じさせる。せめて、この少女にはなむけをと地面に置いた。

 炎が消えていく。もう名もなき大罪人は、もう跡形もなくなっているだろうと。クラーニビはゆっくりと近づいていった。

 思った以上に時間がかかっていった。この少女がいなくなることで、彼は暴走するかもしれない。それならそれでクラーニビは次の手を打つまでだ。彼女の悲願はまだ達成されていない。クラーニビは新たに決意をした、その時であった。

「はあっ!」

「なっ……!」

 彼女の魔力は尽きたはずだ。なのにどうしてなのか。右腕に宿したのは炎の魔力。それをそのままクラーニビの胸元にぶつけた。かなりダメージを与えたようだ。クラーニビはその場に倒れこんだ。

「……これでようやく」

 ツルカは火傷した腕を支えながら、立ち尽くした。今まで自分が培った力は通用しない。ならばいっそやった事がないことならどうか。―人の魔力を盗む事だった。イチかバチかであった。あれだけの炎の力に対し、ツルカはごく一部しか盗めなかった。それでもかなりのダメ押しにはなった。

 ツルカの体はふらつく。今もまた、火の手を防ぐのに魔法を使ってしまった。残りはもう―

「……」 

 意識を失ったクラーニビからいずるは黒い靄だった。まだ終わってなかった。大きな翼を形成させ、ツルカに襲いかかる。それには意思があった。この少女にはもう魔力は残ってない、抵抗する術もないだろうと。なら、次の依り代はこの娘でよいのではないか。この留まることしかできない少女に。

「……これが本当の元凶だったんだ」

 人なのか。ならざるものなのか。悪意ある存在がクラーニビをここまで突き動かした。そして無力となったであろう少女に矛先を向けようとした。

「……さよなら!」

 もう魔力は尽きたはずだった。だが、ツルカは弓を引くような動きで火の魔力を使用する。それを放つ。

 自身の時でも黒い靄が出てきていた。クラーニビ自身も操られている可能性を彼女は考えていた。案の定だ。この存在が元凶であり、事の始まりだった。

 そしてそのまま。

「……」

 元凶を貫いた。断末魔をあげたそれは消え失せていった。白い光が辺りを漂う。今となっては紛い物の美しさであったそれは、弾けるように飛んで行った。

「クラーニビ……様」

「ん……」

 クラーニビはゆっくりと上体を起こす。まだ彼女の意識はぼやけているようだ。だがしっかりとツルカをみる。今まで自分のしでかしたことの記憶はあったようだ。

「……私は、それでも悔いてません。あの子が蘇るなら、どんな手だって使ってやる……。そうでもしなくては自分が許せないの」

 虚ろな目をしていた。だが次第にクラーニビの瞳があふれ出す。

「……存じてます。あの子は帰ってこないということは。それでも、可能性があるなら、諦められるわけがないのです!あの子が生きてくれているなら!」

「……」

「大罪人の終末など決まり切っていると……そう思ってました。でもせめて……」

 クラーニビのはツルカに手を伸ばす。

「大罪人が……生きられるというのなら。まだ、光は残されているのかしら」

「クラーニビ様……」 

 視界がぼやける。ゆっくりと世界が白に染まっていく。


「ツルカ!」

「うわあああ」

 そのまま宙に放り込まれた彼女を、ラムルが受け止めた。元凶の消失により、礼拝度の人達も無事だったようだ。カタリーナ達は瞳をぱちくりとさせていた。

「良かった、ほんとに……」

「いや、よくないだろ。……急ぐか」

 彼女の火傷のあとが残っていた。今の立場なら正規の手段では厳しいだろう。こればかりは金を積むしかない。今すぐに治療をしようと、彼女を抱き上げようとする。

「お待ちなさいよ!」

「待ってください、お二人とも」

 同時だった。マルグリットはカタリーナに先を譲る。当然と受け取ったカタリーナが二人に近づいた。ツルカの火傷に杖をあてると、治療魔法を施した。傷がみるみる癒えていく。

「あ、ありがとうござ―」

「よして。礼を言われるほどではないわ。あなた方には助けられた。けれど、素直にお礼を言っていいかまだわからないもの。はっきりさせましょ、魔女会議で」

「……カタリーナ様」

 そう、元凶が片付いたとしても、まだ模範生達を納得させることが出来たわけではなかった。

「とにかく今は体を休めなさい。万全の状態ではないとこちらも困るわ。マルグリット、時間を遅らせてあげて」

 時間。ツルカは首を傾げた。自身の懐中時計で確認する。なんということだ、とうに開始の時間となっていた。ツルカはカタリーナを見る。彼女は時間の猶予を与えてくれたのか。カタリーナも思うところがあったのかもしれない。何はともあれ、有難い事に変わりなかった。

 ラムルが対策を練るぞ、と耳打ちをする。ツルカはただ頷いた。

 城の人々も意識を取り戻しつつあるようだ。だが、混乱の中である。

 クラーニビは城内の庭園にて発見され、確保された。遠くを見る彼女ではあったが、抵抗することはなかった。彼女は何かを見出したのかもしれない。

「さ、王女としての職務を果たさないとね。それではまたあとでお会いしましょう」

 カタリーナは髪をかきあげながら、迎えにきた兵達と共に礼拝堂をあとにした。事情を知らない使用人達は深く頭を下げ、カタリーナに続いた。

 さて、マルグリットが残っている。彼女も何か言いたげだ。

「……あなたにお聞きしたいことがあります。我々を助けてあなたに利があったのか。お忘れではないでしょうが、あなたには嫌疑がかけられています。たとえ救われたとしても堂々と発表することはできないのです。今回の事が魔女会議に有利に働くことはありません、その事はお忘れなく」

 やはり手厳しかった。そう甘くはないようだ。ツルカは開き直って、マルグリットに笑ってみせた。

「うん、まあいいです。魔女として当然のことをしたままです」

「……まだそう主張するのですか、あなたは」

「主張しますよ。本当の事ですから」

「……」

 あくまで笑い続けるツルカに、マルグリットは毒気を抜かれたようだ。しばし沈黙をしたあと、失礼と一言言って、ツルカの手をとった。そしてマルグリットは扉を開く。そして、扉を閉めた。そして、そのまま手早く扉に文字を記していった。幽閉塔とは比べ物にならないほど、尋常な速さであった。マルグリットの鬼気迫るその表情に、ツルカは身をすくませた。

「あってはならないことなのです。有事ではないのに、私の魔法が解かれることなど。あってはならない、ありえないのですから!」

「マルグリット先輩……?」

 集中しているのであればと、そっとツルカは距離をとってみる。

「おや、どちらへおいででしょうか?」 

 マルグリットが見逃すわけがなかった。そのまま連行されてしまう。

「そ、その時間の猶予というお話があったはず!」

「それはカタリーナが勝手に申し出たことです。彼女にも話が言っているはずでしょう。さあ、皆が待っております」

 扉の向こうではラムルが乱暴に叩いているのだろう。ただただ遠ざかっていく。


―マルグリットが言っていた事は本当であった。会議室には模範生達と、ついでに学院長達が一同に会していた。まず目についたのは気まずそうなカタリーナ。そしてハルトだ。彼は無表情だった。一言も言わずに抜け出したことを怒っているのか。それとも彼女が魔女ではないと知っている。どういった態度に出るべきか考えでもしているのか。とことん表情を変えない。

 開始早々マルグリットがイヤリングを確認する。もう魔力が底尽きている、反応ないのを確認すると、マルグリットも席についた。また押し問答が始まって、ツルカが不利な状況になるのは目にみえていた。ならばこうするまでだ。

「皆さんが私を疑うなら、主張し続けます。―魔女だって語り続けますから」

 スティックを指揮をふるように動かす。彼女の手の動きに合わせるように水の泡が次々と浮かびあがる。花の形に象り、そのまま凍らせた。そして彼らの飲み物のグラスに丁寧に落とす。

「どうぞお召し上がりください」

 呆気にとられた彼らだったが、毒が入ってはないようなのでそのまま口にする。

「……なるほどね。ぶふっ」

 ハルトはそうつぶやいて、自分で作り出した球体に目をやる。さて、この不自然な欠けはなんだろうか。それにしても抵抗もなくそれを口にしている。思わず噴き出さずにはいられなかった、彼の性格的に。

「……ハルトさん」

「あ、はい、すみません」

 いつものようにマルグリットが隣の席のハルトを窘める。だが隣の席だからこそ、ハルトは気づいた。マルグリットが小さく笑っていた

「いや。汚いだろ、それ」

「え」

 ツルカは寮の自室のベッドに腰かけていた。人目を忍んでやってきた猫のラムルに魔女会議の事のあらましを伝えた。

 魔女会議の結果である。彼女は残留が決定した。

 ハルトは彼女を魔女とは肯定しなかった。かといって否定もしない。中立の立場であるとした。

『責任負いたくないし?つか、グロいじゃないですか。下手に見知ったやつだと、夢でうなされそうですし』

 と、いつものように軽い調子だった。

「ま、そういっといた方が動きやすいのかもな」

 ツルカの足元でラムルがそう言うが、実際はどうだかわからなかった。

 マルグリットもだ。彼女も下した決断は保留することだった。だが、彼女は保留でも最終的には決断を下せと、言っていたはずだった。だが。

『私はあくまで過半数を越えるべきだと考えています。よって、今回はあなたへの判断は見送らせていただきます』

 ツルカへの完全に疑いが晴れたわけではない。けれど首の皮一枚がつながった。

『ああ、そうそう。ラーデン姓取り消す前で良かったよ。二度手間になるところだったからね』

 昨日の今日だった為、手続きしていなかったようだ。ツルカはツルカ・ラーデンのままだった。学院長の真意もわからない。

 ツルカは学院に残る選択しを選んだ。卒業をし、そしてこの薔薇の刻印から解放される。それがベストであると考えたのだ。

「よし」

 もうあのイヤリングに魔力を宿すのは難しいだろう。フルムに戻らない限り、同等の秘石をもってくるのは難しい。性能が劣る秘石を使わざるを得なかったが、ないのも困る。早急にあつらえた為、出来栄えに不満もあるがそれも仕方ない。

 ラムルも当初の通り、トラオムに留まることにした。それも彼にとっては最上の決断だった。

「ありがとう、ラムル。これも綺麗だねぇ」

 ツルカは上機嫌で足をあげた。彼女の足元でアンクレットが揺れる。さらに頑丈に隠匿の魔法をかける。今度こそばれないようにと、これでもかと行った。

「壊すなよ。もうあとがないからな」

「うん、気を付けるって、あっ!」

 足を上げては下げてを繰り返していたのがいけなかった。そのままツルカの足からすっぽ抜けてしまう。慌てて猫のラムルが空中で口で加えてキャッチした。見事と拍手しようとするが、ツルカはやめた。ラムルの剣幕がとてつもなかったからだ。

「本当に気を付けます……。それ、もらうね」

「もう、揺らすなよ」

「ゆ、揺らさないよ」

 呆れ果てたラムルはくわえたまま渡す。笑ってごまかして、ツルカはアンクレットを装着し直した。また揺らしかけたので、もう足を閉じることにした。ダメだこれは、とラムルはため息をついた。

「お前はあれか、揺らさないと気が済まない習性なのか!」

「習性じゃないし!……安心するから、つい」

 存在を確認できて、ラムルを感じられる。

「……むかつく。本人が目の前にいるのに」

「そうだね。本人が……」

 いつの間に人間になっていたのか。そしてそのままツルカの隣に腰かける。近づく距離に胸が高鳴る。彼は長い足を組み、そしてツルカの耳に髪をかけた。この流れであったが、それがくすぐったくかったのかツルカは笑ってしまった。

「ふふ、ふひっ。く、くすぐった……」

「おっまえ……、その反応はないだろうが。お前は色気をどこへ置いてきたんだ」

「だ、だって。不意打ちだったから。……待って、今ひどいこと言われた気がする」

 それならラムルはどうだ、とツルカはやり返してやろうとする。だが、そのまま伸ばした手をラムルに掴まれた。

「まあいいけどな」

「ラムル……」

 二人の顔が近づく。自然と瞳を閉じた。

「……」

 前髪をあげられたまでは良かった。だがそれからは何もない。時が止まったようだ。ただし、ムードもへったくれもない。

「やめだやめだ。……これ以上はお前にはまだ早い」

「そりゃ、私じゃ……って」

 そう言った当人の方が顔を真っ赤にしていた。ツルカが瞳を合わせようとすると、そのままそらす。堂々巡りだ。

「う、うん。まあ……あれだよね。私達にはまだ早いよね。いや、早いも何も」

 そもそもまだ気持ちも伝えてないのだ。

「は?達ってなんだ。俺じゃない、お前に早いんだ。一緒にすんな」

「もー、ラムルはすぐそう言う!正直すぎるの、本当に考えものだからね!」

「お前はお前でバカ正直過ぎるけどな」

「くっ」

 いつものように言い合いになってしまう。それでもツルカは笑いだしてしまった。なんだこいつ、とラムルは警戒していた。今の流れのどこに笑う要素があったのか。

「いいや、楽しいから。ラムルと一緒だから」

「……」

「だから幸せ」

「……お前のほうが正直すぎんだよ」

 勢いに任せてそのままツルカの額に口づけた。しばらくは呆けていたツルカだったが、みるみる内に顔が茹で上がっていく。そんな彼女をみてラムルは勝ち誇っていた。

「ほらな、心の準備が出来てないのはお前の方だ」

「……い、今のは不意打ちだし、ずるいと思う!」

「ははは、お前はそれしか言えないのか、ツルカ!」

「いや、そっちが不意打ちばっかだし」

「……じゃあな、俺は行く!」

「あっ」

 いつの間に猫の姿になっていたラムルは窓のフチに飛び乗る。もう時間なのだろう。

「ツルカ。やっぱりお前はその方がいい。言っただろ、お前が笑ってくれてればいいって」

「ラムル……」

 こうしてツルカが笑顔でいられるのは、ラムルがいてくれるからだ。気持ちが溢れそうになる。だからラムルに伝えようとした。だが、彼の姿はもうなかった。

「っていないし!……あーあ、言い逃げされた」

 仕方ないと笑いつつも、ツルカはフチに両手をついた。夜風にあたる。初夏の気配が近づいてきた。季節は巡るのだ。


 遠くない未来。花びらが飛び舞う中、卒業証書を手にする。その時はきっと訪れるだろう。その先にある未来に思いを馳せる。

 その日を迎えるまで。今日も彼女は魔女であり続ける。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔女会議、始めます。―魔女がたりの少女は今日も欺く― 古賀文香 @fumikoga321

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る