あなたへ

@asagasumihonoka

あなたへ

  心を現出させるために、彼女だけでは足りない。

  彼女へ愛を与えるために、必要なものは。


 七時四十七分、物音がしてベルカは目を開けた。ベッドから起き上がって、辺りを見渡す。

「おはよう、ベルカ。よく眠れたかい?」

 声がした方に顔を向けると、ストレルカが窓のカーテンを開けているところだった。金色の髪が光を反射してきらきら輝いて、朝の到来を告げていた。

「不思議そうな顔をしているね。はじめまして、私はストレルカ。ご覧、今日も良い天気だよ」

 口振りは男性のようだが、外見は少女に見える。ラウンドカラーの黒いクレリックシャツに合わせた黒いアンクルパンツと黒い靴から、赤い靴下が覗いている。腕を通していないサスペンダーが腰にだらり、ぶら下がっているのを左手で弄びながら、ストレルカが右手で窓を指した。

 窓外の風景には庭園が広がり、首をもたげた花々が色鮮やかに咲き誇っている。木々の梢をすりぬけた光がちろちろと、踊るように地面の影を揺らしているのが見えた。

「ここは……?」

「ここは、おうちだよ」

「ストレルカの?」

「私たちの」

 どうにも腑に落ちない顔で、ベルカはベッドから降りた。寝間着の裾がさらさら、衣擦れの音を立てた。

「私、こんなところ知らない。ねぇ、ここはどこなの。なんで、私がここにいるの。私は、……私は、誰なの。私の名前は本当に、ベルカなの?」

「……本当に、ベルカだよ」

 ストレルカは微笑んでベルカに近づくと、寝癖のついた金髪を撫でた。

「あなたが誰なのか。ここはどこなのか。なぜ、まったく記憶がないのか。おうちを案内したら、おいおい話してあげるから、まずは身嗜みを整えようか。急がなくても大丈夫、私は逃げたりしないから」


 八時十二分、用意してあった黒いクレリックワンピースに着替えたベルカは、ストレルカに連れられて寝室を後にした。細い廊下をすいすい進むストレルカの背中をベルカは見つめていた。

「ねぇ、」

 言いさして、俯いてしまったベルカに、ストレルカが立ち止まった。

「なんだい?」

「……なんでもない」

 ベルカがそっと、右手で左手首を握る。着替えようとして露わになったベルカの左手首には傷があった。刃物で切った傷跡が。

 ストレルカは黙ってベルカの様子を見ていたが、八時十五分、振り向いて歩き出した。

「おうちは狭いけれど、書斎も温室もあるんだよ。あとで連れて行ってあげるから、どうか楽しみにしておいで。どの部屋に入ってもかまわないが一つだけ、窓を開けてはいけないよ」

 廊下の窓からは柔らかな光が差し込み、ほの暗い床を四角く切り取っている。ベルカが覗き込んだ窓には、庭園を囲う垣根の隙間に、行き交う人々の姿が映っていた。

「ほら、ここが食堂。お腹は空いてる?」

「……まだ」

「じゃあ、朝食は食べたくなったらにしよう」

 八時十八分、食堂を通り過ぎた二人は、隣の部屋に移動した。

「ここが、さっき言った書斎。ここの蔵書は、あなたが気に入るだろう本を集めてあるんだ。何を読んでも良いよ、きっと面白いから。今のあなたに必要な情報も、ここにあるかもしれないしね」

 室内の三方の壁は天井まで届く本棚で覆われている。本棚には隙間なくみっちりと本が並べられ、カテゴリー別に整理されている様子である。広くはない部屋には踏み台が一つと、小さな机と椅子が一脚だけ置かれていた。

「すごい、一生かかっても読みきれなさそう」

 食い入るように背表紙を眺めはじめたベルカに、ストレルカは緩く首を振って、笑った。

「お気に召したかい? 気になる本があったら、椅子に座って読むと良い。その間に私は家事を済ませてくるから」

「ストレルカは読まないの?」

「読まない。私には必要ない。この部屋は私のための部屋じゃあないんだ」


 十四時五十九分、ベルカの呼び声が廊下に響くと、程なくして書斎にストレルカが顔を出した。

「なんだい、もう本はいいのかい?」

「うん、ちょっと疲れちゃった。まだ読んでない本はたくさんあるし、本当にどの本も面白そうだったけど、案内してもらうのが途中だったでしょ。本の続きは明日でもいいかな、って」

「そうだね、明日でも。では、探検を続けようか」

 机に積み上げていた本を棚に戻しながら、ベルカが言った。

「ざっと眺めてみた感じ、宇宙とか、あとはアンドロイド関連の本が多いね。造り方とか操作の仕方とか」

「多いだろうね」

 ベルカは黙って、片づけを手伝うストレルカの横顔を見た。窓のない部屋に沈黙が落ちた。

「なんだい?」

 ストレルカが微笑んで尋ねる。

「……アンドロイドって、そんな簡単に造れるものなの」

「簡単じゃあないが、素体と設備と知識があれば造ることは可能だよ、今は。このおうちにも設備はあるし、工場でも量産されて一家に一台の時代だからね」

「そんなに造ってどうするの」

「さあ? 目的は人それぞれだろう。家事をさせたり、仕事をさせたり。話し相手とか、愛玩用とか」

「アンドロイドに? それをさせるの?」

 人それぞれだよ、と答えてストレルカが十五時十分、書斎のドアを開けた。ベルカも後を追いながら、なおも尋ねつづけた。

「アンドロイドって機械じゃないの? 機械に話し相手をさせるの?」

「見た目は人間と変わらないよ。多少お高くなるけど、材料によっては泣いたり血を流したりもできる。話しぶりを見ても、人間と遜色ないほど精巧だ」

「区別がつかないの? 見て話しただけじゃ、人間と?」

「出来による。……アンドロイドの話が随分と気になるようだね」

 ベルカは一瞬、怯んだような表情をした。ストレルカの背中に、肩から腰へ伸びたサスペンダーが交差しているのを見つめる。やがて、そろりそろり、切り出した。

「失礼でなければ教えてほしいんだけど、ストレルカはその……、人間、なの?」

「その質問はとっても失礼だから教えないよ」

 ごめんなさい、と消え入りそうな声で呟いたベルカに、ストレルカが笑い声を立てた。

「怒っていない。気にしなくていい。ほかに訊きたいことはある?」

「じゃあ、」

 暫しの沈黙ののち、

「もし……もし、造られたばかりのアンドロイドがいたとして、アンドロイドには自分が人間かそうじゃないか、わかるものかな?」

「場合によるね」

 ストレルカは振り向かない。前を見たまま、淡々と声が渡り廊下に響く。

「アンドロイドとして振舞うよう最初からプログラムされている場合もあるし、されていない場合もある。人間の記憶をアンドロイドにコピーして上書きしたり消去したりする技術を応用して、アンドロイドがある特定の人間の記憶も持っているというだけでなく、その人間自身であるかのように振舞わせることもできる。その場合だと、自分からアンドロイドであると認めたりはしない」

 それじゃあ、と呟いたベルカの前で、ストレルカが足を止めた。

「ここが温室。庭とは違う花が咲いていて、いつでも楽しめる。あなたもきっと気に入る花ばかりだよ」

 十五時十四分、ベルカはストレルカに促されて温室に足を踏み入れた。立ち込めた強い花の匂いがベルカを迎え入れた。

 天井一面に嵌め込まれた磨りガラスを通して、柔らかな光が辺りを満たしている。区画ごとに整然と色分けされた花が温室の奥まで覆う様(さま)はパッチワークを広げたかのようだ。

「水をやるかい?」

 立ち尽くしているベルカにホースを手渡し、ストレルカが水道の蛇口を捻った。ノズルから迸る水の粒が天窓からの光を反射して、そこに光があることを主張するように煌きながら降り注ぐ。花々から零れる水滴はまろく輝き、滴って、その葉を撫でた。

「すごい、大きい」

 花の間を縫って水をやっていたベルカが、柱を回り込んで歓声を上げた。見上げた視線の先に、黄色い向日葵がそびえていた。

「お気に召したかな。あっちには蘭の鉢があるよ」

 並んで案内するストレルカが、現れては目まぐるしく変わる花の品種を指差して唱えるのを遮って、ベルカが振り向いた。

「待って待って、そんなに覚えられない。朝から知らないことだらけで、一度に言われても追いつかないよ」

 それは失礼、と肩を竦めて、ストレルカはさらに奥に行こうとするベルカを引き止めた。

「そこより先に花はないよ」

「何があるの?」

「クドリャフカのお墓」

 ふぅん、とベルカは鼻を鳴らす。

十五時四十三分、ベルカはそのまま踵を返す。


水やりを終えてからも、ベルカはしばらくはしゃいだ調子で花を見て回っていたが、十六時二十六分、光が翳り始めた温室をストレルカを連れて後にした。渡り廊下から、来た棟へ戻り、食堂を挟んで書斎の先隣にある居間へ入る。疲れた、と呟いて寝椅子(カウチ)に腰かけると、十六時四十六分、寝そべって目を閉じた。

ベルカに毛布(ブランケット)を掛けて部屋を出たストレルカが戻ったのは二十時五十一分だった。騒がしい音が断続的に響く室内に足を踏み入れる。

「どうしたの、ベルカ」

 問われたベルカは泣きそうな顔で振り向いた。その両手には椅子が抱えられている。

「どうしたの、って、見てわからない?」

 開け放たれた窓を指差した。

「これは、どういうことなの」

 窓の外には、外がなかった。

「窓ガラスからは庭の外灯が見えていたのに、」

窓を開けたすぐ外側を灰色の壁で覆われ、戸外が窺い知れない。

「椅子を叩きつけてもびくともしない。この壁は何? ねぇ、ここはどこ!?」

 声を荒げるベルカを見据えるストレルカはただ、無表情に呟いた。

「そう。開けてしまったんだね、ベルカ」

「答えてよ!」

 その静かな、どこまでも抑揚のない声音に、ますます激昂した様子でベルカが言い募る。ストレルカは、ついと目線を逸らした。

「ここがどこなのか。あなたはどう思う、ベルカ?」

「……いいかげんにして!」

 叫んだ、ベルカは、テーブルの上のナイフを掴むと自分の喉元に刃を向けた。

「そんなもの、どうしたのさ。私が食堂に戻しておくから渡しなさい。刺さると危ないよ、ベルカ」

「危ないことくらい知ってる」

 ストレルカを睨みつけて、ベルカは言う。

「この辺りの窓も全部、開けたの。全部が壁だった。この部屋も廊下も食堂もどの窓も全部壁、壁だった! ここはどこなの、私はなんでここにいるの!」

 ストレルカが眉根を寄せる。口を開きかけて、また閉ざした。

 あたかも逡巡しているかのように。

「どうしたの、って今、ストレルカは私に訊いたよね。私が窓を開けたことぐらい、私が壁を壊そうとしたことぐらい、見たらわかりそうなものなのに訊いたよね。ねぇストレルカ、あなた人間なの? ううん人間じゃなくてもかまわない。私が知りたいのは、」

 ナイフを握る手が震えている。

「私は人間なの?」

 ストレルカは答えない。沈鬱な表情を浮かべて、ベルカを見ている。

 あたかも、答えるべきか躊躇しているかのように。

あたかも、人間のように。

「……もし私が、ナイフで喉を突いて死んだら、私が人間だったことはわかるよね。ちょっと切って血が出たくらいじゃアンドロイドと見分けがつかないとしても、さすがに喉を突いたら。もし死ななかったら、私、私は……」

「やめなさい、ベルカ」

 ストレルカの声が強く、明瞭に響いた。

「命に関わる危険な事態であると判断し、禁則事項の特例として、指示に背きます。私の責任において回答を実行します。ベルカ、確かに私は人間ではありません。私はアンドロイドであり、あなたは私の所有者です」

「所有者?」

 怪訝そうな顔をするベルカに、ストレルカは微笑んで続けた。

「あなたはかつて、研究者だった。宇宙で地球と同じように生活できる居住空間の実現を目指す研究開発に携わっていた。地球と変わらず半永久的に生活できる宇宙船の試験機が完成したときも、研究を進めるために被験者として乗り込み、宇宙に飛び出した」

 ベルカが息を呑む。ストレルカは頷いた。

「ここは、その宇宙船のなか。私たちのおうちの窓は全て、通常のガラスではなくディスプレイが嵌め込まれていて、AI制御で任意の映像を映し出すことができる。地球の風景だったり、リアルタイムの外の光景だったり。窓の外側の壁は宇宙船の外郭壁と同じ素材でできていて、おまけに複数層になっているから、あなたが椅子で殴ったくらいじゃ外には出られない」

「じゃあ、ここは地球じゃない……?」

「そう、ここは地球じゃない。本当を言うと私にも、ここがどこかはわからない。当初、数年を予定されていた長期宇宙滞在試験の最中に事故があって、この船は軌道を外れて戻れなくなってしまったんだ。地球との通信も途切れてしまった。それからずっと、何十年もの間、宇宙を漂っている」

 ベルカが目を見開いた。節だった手からナイフが滑り落ちて乾いた音を立てた。

「幸いにも、人間一人の寿命分の食料くらいは備蓄があった。持ち込んだ種子を播いて温室で野菜や果物を栽培することもできた。船内作業のために私を積み込んでいたから、孤独を紛らす話し相手にも困らなかった。だけど不幸にも、状況は変わらなかった。滞在中に読み進めようと溜めていた本は数年も経たずに読み尽くしてしまった。温室で育てていた大好きな花は来る日も来る日も同じ花を咲かせた。窓に映る懐かしい地球の風景の映像は数パターンしか用意がなかった。もう知っている本、もう知っている花、もう知っている風景。外部からの情報を遮断され、『いつか戻れる』という楽観を日に日に磨り減らすだけの生活に、あなたは倦(う)んでいった。だから、私に移植したんだ。その全ての記憶を」

 ストレルカの表情は変わらずに微笑んでいる。

「だって機械だから。私は機械だから、繰り返しに飽きない。単調に倦まない。あなたは、現状に関するあらゆる記憶をコピーして私に移し替え、日常生活に必要な知識だけを自分の脳に残した。それができる設備がおうちにはあった」

 ベルカに歩み寄ると、落としたナイフを拾い上げた。

「さらに念入りに、あなたは地球時間で二十四時になると自分の記憶がリセットされるように設定した。日が変わると、その日に起こったことは全て忘れてしまう。もう二度と、蓄積されていく既知に厭くことがないように」

 薄く笑んでナイフを自分の左手首に突き立ててみせる。その手首からは、一滴の血も流れ出なかった。

「そんな顔をしないで、ベルカ。私は痛くないし、皮膚状ゴム素材を溶接すれば直るから。でも、あなたは自分を傷つけてはダメだよ。前に手首を切って自分が人間か確かめようとしたときは大変だったんだからね」

 ベルカがそっと自分の左手首を握る。その上からストレルカが左手を重ねた。

「困らせてしまってごめんね、ベルカ。あなたがかつて忘れてしまおうとしたことをすぐには答えないように、生活で必要なこと以外は教えないように、かつてのあなたに命じられたんだ。窓を開けないよう言ったのも、現状に気づくのを遅らせるためだった。元から開かないようにすればいいのかもしれないけれど、ディスプレイを交換するときの利便性を考慮して窓を開けられる仕様にしてあるものでね」

「記憶を元には戻せないの」

「技術的に可能ではあるが、どんなに記憶を戻したいと懇願されても応じないように命じられている。記憶を失くす前の、少し狂ってしまっていたあなたから」

 ベルカは俯いて話を聴いていたが、ぱっと顔を上げると、両手でストレルカの手を握り返した。

「ねぇ、ストレルカ。アンドロイドってもう一体、造れる?」

「……私の予備の素体が倉庫にあるから、やってやれないことはないだろうね。でも何に使うんだい?」

「だってストレルカ、私はいつか死んでしまうでしょう。そうしたら、私の記憶を持つあなたは、ここに一人になってしまうじゃない。私のために造られて、私の記憶を背負わされて、私の世話をして、私がいなくなったあとは一人だなんて」

 ストレルカはそっと微笑んだ。変わらない穏やかな笑みは、悲しげでさえあった。

「必要ない。私は機械だから。寂しくはないよ、ベルカ」

「いや。あなたが寂しいと感じない機械だとしても、あなたが一人になると思うと私が寂しいの。アンドロイドが二人いても困ることはないでしょう」

「自家発電装置の電力だって、余裕はあれど無限じゃない。アンドロイドが増えて、どんな影響が出るかわからない。人間を危険に晒しかねない考えには従えない。私は造らない」

「なら、私が造るから、やり方を教えてちょうだい」

「教えるだけならいいけど、覚えておけないよ。今からでは二十四時になるまでに間に合わない」

「……じゃあ、私が何をすべきなのか明日の私にメモを残しておくから、何か書くものをちょうだい。明日、それを見たらすべて理解できるように。ストレルカ、明日になったら私にメモを見せて」

「それはできない。あなたの記憶を取り戻す恐れのある指示には従わないよう命じられている」

「それなら、私の目に付く場所に置いておけば、明日の私が気づくわよね?」

「あからさまにあなたの目に付くような場所にメモを残させるわけには、」

「もう、融通をきかせてよ! いいわ、これでどう? 私はメモを残して、一見すると気づかない場所にしまう。『気づかない場所』なら、何を残そうが『気づかない』のだから、いいわよね?」

「『気づかない』ならいいけど、意味がないのでは……」

「気づくかもしれないじゃない」

「???」

 二十二時四十三分、ストレルカは困ったような顔をして笑うと、おいで、とだけ言って、ベルカとともに居間を出た。二十二時四十四分、書斎に入る。机の抽斗を開けて、一冊のノートを取り出した。

「これに書くといい。電子機器の操作方法も忘れてしまっている状態だから、記憶を失くしてから今まで、あなたが何かを書きたいと言ったときは、これを渡してきた。昨日までのあなたが思ったことが書いてある」

 おずおずと受け取った、ノートの最初のページを開く。書かれた文字を指で追う。


  ストレルカのために、ストレルカの孤独を埋めるために、何ができるだろう?

  心を現出させるために、彼女だけでは足りない。

  彼女へ愛を与えるために、必要なものは。


ページを繰るベルカの指は、次第に速くなっていった。

「書いたら、もうお休み。二十四時を過ぎると今日の記憶も失われてしまう。起きていても不安になって辛いだけだよ」

 最後のページまで捲(めく)りおえたベルカが、ぺたん、と椅子に座った。そのまま俯いて、ただノートを見つめている。

「書かないのかい?」

「ええ。……もう書いてあるもの」

 両手で顔を覆った。二十三時一分。

「私、ノートを埋めてしまえるくらいずっと、同じ日を繰り返しているのね」


 二十三時二十六分、ベルカが床に入るのを見届けたのち、ストレルカはノートを持って温室に入った。花々を過ぎ、最奥へと向かう。

「クドリャフカ、本日の報告をします」

 花の植えられていない畝の一角を前に、ストレルカはノートを繰った。

「本日も、おうちに異常はありません。おうちの通信設備からAI制御でメッセージを送信しつづけておりますが、未だ返事はありません。つまり、報告できることはありません」

 土を見下ろし、言葉を切る。

「クドリャフカ、あなたが私をここに招き、私たちの『おうち』だと教えてくれ、宇宙にともに旅立ってからというもの、私はあなたの意に沿うように行動してきました。あなたが亡くなってからも。これで正しかったのでしょうか」

 ノートに遺されたクドリャフカの字に目を移す。

「クドリャフカが亡くなって、生命を守るべき人間がおうちに存在しなくなったため、私はあなたの生前からの望みに従い、もう一体のアンドロイドを造りました。名前はベルカ。あなたが、新たなアンドロイドのために用意していた名前です。行動パターンはノートの指示通り、パターン学習によって、生前のあなたの言動を模倣するように設定してあります。ベルカの動作に異常が出ないよう、私自身もベルカに、名前以外はクドリャフカ本人として接しています。クドリャフカが知らないことや、やらなかったことにはベルカも対応できませんが、今のところ、私もベルカも異常なく稼動しています。なるべくあなたに近づけるために、生前の傷跡など、私にも手を加えられるところは再現したのですが、私の予備(コピー)しかおうちには積載されていないため、技術が及ばず顔は私と同じになってしまいました。問題があればご指摘ください」

 返事はない。

 ストレルカがページを繰るひそやかな音だけが、黒々とした土に落ちていく。

ノートに遺されたクドリャフカの言葉を、ストレルカに内蔵されたセンサーがスキャンし読み取っていく。


  ストレルカのために、ストレルカの孤独を埋めるために、何ができるだろう?

  心を現出させるために、彼女だけでは足りない。

  彼女へ愛を与えるために、必要なものは。


  私の記憶を私に背負わされて、私の世話をするためにあるこの機械を、優しくないなどと言えるだろうか。健気に私に笑いかけるこの機械が愛を知らないなどと言えようか。

  だが、私が彼女から確かに受け取った愛も優しさも、ストレルカが一人になってしまえば潰えてしまうと予測される。他者に注ぐことで初めて存在が可能になる感情は、他者を欠いては成立しえないのだから。

  人間ならば、身の内に他者を想像し愛を捧げることもできるだろう。しかし、ストレルカは人間ではない。

  私を失ったストレルカはただ、おうちを維持するためのルーティンに従事する機械になってしまうだろう。ストレルカが、この優しい機械が、優しくなくなってしまう。それが私には耐えられない。

  ストレルカのためにストレルカが優しくあるためにありつづけるためにためにそのために

  他者がいればいい。もう一体、造ればいい。

  では、二体のアンドロイドがプログラムに沿って私とストレルカの日々を再現したところで、ストレルカの優しさをも再現したと言えるだろうか。

  否、優しいかのように振舞い、厭かず予定調和を繰り返す機械たちの挙動は途方もない無為でしかない。

  それは心ではない。学習されたパターンの連鎖でしかない。

  機械は心ない。ただ、機械の挙動に心を動かされる人間がいて初めて、そこに心があることになる。

  愛や優しさは機械が感じているわけではなく、それを観測する人間が存在するときに証明されるのだ。

  機械の挙動に優しさを見出す人の存在こそが、その機械を優しい機械たらしめる。

  私がストレルカに優しさを見たように。

  あるいは、水滴が光を反射し眩く煌くことで初めて、そこに光があることが強く認知されるように。

  だから

  ストレルカのために

  彼女が優しい機械であることにするためにそのために

  彼女たちの無為を愛に変換するために


  その営為を、観測する人間が必要だ。


ストレルカは黙ってページを繰っていたが、二十三時四十一分、再び話し出した。

「本日は目立った成果が確認できませんでしたが、あなたの遺志に従い、明日以降もおうちからメッセージの送信を続ける予定です」

 二十三時四十二分、ストレルカはノートを閉じると踵を返した。温室を出て書斎に戻り、抽斗にノートをしまう。二十三時四十九分、本日の全工程を終了した。

 以上を以って、本船より、四万五千百六十七回目の送信を終える。四万五千百六十八回目の通信は地球時間にして明朝七時四十七分、ベルカの活動開始と同時刻に開始を予定している。この通信を受信した者は返答を求む。

 あなたが観測する行為が、ストレルカとベルカを生きた存在たらしめる日が来ることを我々は待っている。

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