迦陵頻伽の娘

黒田 由美

第1話

池袋サンシャイン水族館のクラゲ展示コーナーの奥、青い壁に囲まれた行き止まりに、それはいた。白銀に輝くその異形の姿は、神々しく、そして息が止まるほど美しかった。鳥羽崎麗奈は動くこともできず、ただそれを見つめるしかなかった。天井に届きそうな身の丈の上半身半裸の女性、しかしその下半身は真っ白い羽毛に包まれた鳥の体。がっしりとした足には蹴爪がある。ニワトリかもしれない。輝くような銀色の長い髪はうねって床を這い、真綿のような長い尾羽はゆらゆらと宙を漂っていた。

その日、麗奈は、どうしてもここに来なければいけない気がして、仮病を使い、高校をさぼってひとり池袋に来ていた。目立たないように、人から注目されないように、ひっそりと生活する癖がついている麗奈にとって、ズル休みというのは本当に初めての経験だった。平日なので水族館は空いていた。周りに人はいない。白銀に輝く異形の存在は切れ長の銀色の目で麗奈をじっと見下ろしていた。

「よく来たな、にえよ。」

突然頭の中に厳かで美しい声が響いた。畏怖に全身が貫かれ動くことができない。

「儂は迦陵頻伽かりょうびんが。お前は儂の操る通りに動き、果たして今ここに現れた。」

迦陵頻伽は翼を広げた。麗奈はその中に完全に包み込まれてしまった。

「一週間後、16歳になった時にお前はここで儂の代わりに地の大蛇ナーガに呑まれるのじゃ。」

贄?ナーガ?呑まれる?それは死ぬということ?私が死ぬということ?操る通りに動く?私はコントロールされていたの?

麗奈は頭の中が真っ白になった。恐怖で気を失いそうだった。

「ナーガは大地の守り神。そしてナーガのエサは儂ら迦陵頻伽。太古より、迦陵頻伽は、100年に一度、ひとりずつ地の大蛇ナーガに呑まれなければならぬ運命とされておった。ナーガがおらねば大地は死んでしまう。儂らは甘んじてその運命を受け入れておったが、およそ2000年前、身代わりをつくれば儂らが呑まれる必要がないということが分かった。人間に儂らの卵を抱かせ、人間の子として産ませ、その時が来ればそれをナーガに呑ませるのじゃ。そして今回の100年。お前はそのために儂がつくった。」

迦陵頻伽は羽を閉じた。呪縛が解かれたように麗奈は後ろに倒れこんだ。

逃げなきゃ!逃げなきゃ!逃げなきゃ!

麗奈ははじかれたようにクラゲ展示コーナーから走り出た。後ろを振り返る余裕など全くなかった。そしてそのままがむしゃらに池袋駅まで走り続けた。


鳥羽崎麗奈は母方の祖母と二人暮らしをしている。天涯孤独と言っていいほどふたりぼっちだった。

麗奈の母、みどりは、麗奈を生んだ時に、難産の末、出血が止まらなくなり、そのまま帰らぬ人となった。残された父は、悲しみで途方に暮れながらも、ひとりで赤ん坊を一所懸命に育て始めた。親子三人の幸せな生活を夢に見て、妻は可愛い赤ちゃんを抱いて幸せそうに笑いながら家に帰ってくるはずだったのに、二人で赤ちゃんの成長を楽しみにするはずだったのに、ひとり残された父は、とにかく一所懸命に麗奈を育て、そして可愛がった。

おかしくなり始めたのは麗奈が幼稚園に入園した頃。まだ小さい子供なのに麗奈はとても美しかった。そして父にも母にも似ていなかった。心の中に広がり始めた澱んだ感情。疑念が父の心を急速に崩壊させ始めた。

妻の不貞。

この子は自分の本当の子供ではないのではないか?

ひとりで子育てをしている父に相談できる相手はおらず、誰にも助けを求めることができずに、彼はただ不安の泥沼に沈み込んでいった。不安に抗おうとDNA鑑定も試した。結果は99%自分の子供。なのに澱んだ感情は溜まり続けて止まらない。赤ん坊の頃は全身全霊を掛けて可愛がっていたのに、その少女は忌まわしい存在でしかなくなった。なぜ自分に似ていない?そしてついに父は壊れた。

父がうつ病になり、施設に預けられることになった麗奈を引き取ったのは、みどりの祖母、鳥羽崎真紀子だった。

麗奈は真紀子のことをまぁちゃんと呼んでいる。最初は、ばあばと呼んでいたのだが、戸籍上は真紀子の養子になっているのでお母さんかもしれない、でもどっちも何か違う気がして、いつからかまぁちゃんと呼ぶようになった。そもそも祖母は自分で自分のことをまぁちゃんと呼ぶ。

まぁちゃんもひとりぼっちだった。麗奈の祖父、すなわちまぁちゃんの夫は、地元の小さな不動産屋の個人経営者だった。そんな祖父は、ひとり娘のみどりが高校生の時に、知人から頼まれ転売目的で購入した瑕疵不動産の処理に失敗して、借金を苦に自殺してしまった。まぁちゃんはコンビニアルバイトで必死に生計を立て、なんとかみどりを高校まで卒業させた。母が父と結婚して家を出てからも、まぁちゃんはずっとコンビニで働きながらひとりで暮らしていた。そして今でもコンビニアルバイトをしながら麗奈を高校へ通わせている。

「あの化物がお母さんを殺したのかな。」

とぼとぼと歩きながら麗奈は考えた。足が震えて地面に立っている感覚がない。交差点の信号が赤になったので横断歩道の前でゆらりと立ち止まった。ふと視線を足元に落とすと、ガードレールの足に小さなペットボトルが結び付けられていて、枯れかけた数本の花が挿してあった。

「つまらない一生だったな。私が死んでも誰も花なんか供えてくれないよね。」

人から注目されないようにひっそりと生きてきた麗奈には友達もいなかった。惨めさと絶望感で涙がどんどん溢れてきて止まらなくなった。


まぁちゃんはシフト明けで家にいた。

「お帰りなさい。麗奈ちゃん……え?一体どうしたの!?何があったの?…交通事故の現場に行ったの!?」

まぁちゃんには昔から不思議な能力があった。霊感があって幽霊を見ることができるのだ。ただし見えるだけ。除霊できるほどの能力ではない。幽霊の声を聞くこともできない。

「とにかく外に出なさい!」

まぁちゃんは麗奈をアパートの玄関の前に出すと、必死の形相で塩を振りかけた。時々麗奈に幽霊が付いてくるといつも塩を振りかける。何日も振りかけ続けなければならないときもあれば一回でいなくなる時もある。

「あ、いなくなった。バイク事故の高校生だったわ。今回は素直でよかった……え?違うの?…彼じゃないの?今の彼じゃないの?それじゃ一体何があったの!?」

まぁちゃんの顔色が青ざめた。何かを感じている。まぁちゃんの手が肩に触れると麗奈は声を押し殺したまま嗚咽し始めた。涙はとめどなく溢れてくる。まぁちゃんは震える手で麗奈の肩を抱き、部屋の中に入って、狭いダイニングの小さな食事テーブルの前に麗奈を座らせた。そしてそのまま麗奈を抱きしめて無言のままずっとガタガタ震えていた。1DKのアパートはしんしんとして寂寥感だけが満ちていた。荷物はほとんどなく、殺風景で生活感がない。部屋の住人が明日居なくなってもあまり違和感がないだろう。ふたりぼっちの孤独な世界。麗奈が突然いなくなっても世界は何も変わらない。誰も麗奈のことなど気にしない。さっきサンシャイン水族館で起こったことをまぁちゃんに話すことはできなかった。化物によって定められた死から逃げられるとは到底思えなかった。そして死という言葉を口に出す勇気もなかった。

「みぃちゃんが…みぃちゃんが、何か大変なことを伝えようとしているのよ…。でもまぁちゃんにはそれが何なのかわからない…。」

みぃちゃんというのは麗奈の母のみどりのことだ。みぃちゃんは死んでからずっと麗奈の後ろにいる。みぃちゃんが麗奈と一緒にいるので、例え外見が両親に全く似ていなくても、まぁちゃんは麗奈がみぃちゃんの本当の子供だということを知っている。

まぁちゃんは泣き続ける麗奈をただずっと抱きしめ続けた。


晩御飯のコンビニ弁当は一口も喉を通らなかった。鳥羽崎家の食事はコンビニの賞味期限切れ食品のことが多い。まぁちゃんは殆ど料理をしない。アルバイトが忙しくて時間がないのだ。まぁちゃんが働いているコンビニはいつも人手不足だった。クビになるのが怖いので無理を言われてもシフトを断れない。賞味期限切れ食品は必ずしもお弁当とは限らない。唐揚げだけ、コロッケだけということもある。まぁちゃんは家にいないことが多いので食事は大概冷蔵庫に入れてあった。

「…明日から一週間…学校は休みたい…。」

麗奈はやっとそれだけ言うとノタノタと布団を敷いてぐったりと横になった。まぁちゃんは黙って部屋の灯りを消した。


翌朝早く、まぁちゃんはアルバイトに行ってしまった。麗奈は昼近くまで布団の中にいたが、ヨタヨタと起きだし、やっと着替えて図書館へ行き、のろのろと百科事典を調べた。

迦陵頻伽――極楽浄土にすみ、比類なき美声で鳴く。上半身は美女、下半身は鳥の姿をしている。彼女らが作り出す音楽は極楽を極楽たらしめる。

ナーガ――蛇の精霊あるいは蛇神。地底界に住むとされる。神が地底と地上を行き来するための乗り物。

麗奈は深いため息をついた。百科事典なんか調べたって何にもならない。しばらく図書館でぼうっとしていたがどうにもならないので外に出た。行きたくないのに自然と足が池袋に向かっていた。

迦陵頻伽は昨日と同じようにクラゲ展示コーナーの奥にいた。

「私のお母さんが死んだのはあなたのせいですか?」

麗奈は小さい声で訊いた。

「儂らの卵を抱いた人間は役目を終えた後、力尽きて死ぬ。」

迦陵頻伽は事も無げにそう言った。

「私はここで死ぬんですか?」

「そうじゃ。誕生日にここに来い。地底からナーガが上がってくる。儂はナーガを迎えるために天上からここまで降りてきた。これ以上大地に近づくことは出来ぬがな。」

「死んでも誰にも気が付かれないんですか?」

「ナーガが喰らうのは魂だけじゃ。肉体は抜け殻となってここに残るので、人間たちはお前が死んだことに気が付くであろう。」

迦陵頻伽はどこまでも無感情で無慈悲だった。麗奈はしばらく無言のままじっとそれを見つめていた。迦陵頻伽も無言で麗奈を見つめ返してきた。それ以上何も起こらなかった。

何を聞いても無駄なような気がして、麗奈はサンシャイン水族館から外に出た。行く当てもなくフラフラと歩いていると公園があったので、ぐったりと植え込みの縁に腰かけ、足元に寄ってきた鳩をただ茫然と眺めていた。

「ちょっといいですか?」

突然声を掛けられ、麗奈はギクッとして身を縮めた。顔を上げると、スーツ姿で少し長めの髪を真ん中分けにしている30代後半くらいの男性が麗奈の顔を覗き込んでいた。

「モデルに興味ないですか?ボク、芸能スカウトなんですけど…。」

男はにこにこ笑いながら名刺入れを出した。

「怪しい事務所じゃないですよ。大手出版社とも取引のあるちゃんとした事務所です。グラグラビアデビューの実績もたくさんあるんですよ。君は高校生?すごくきれいな人でびっくりしたんだけど。もうどこか事務所と契約してます?」

男は一方的に喋りながら値踏みするように麗奈を上から下まで見回した。麗奈は身をすくめて硬直した。動けない。恐怖で声が出ない。

「そんなに怖がらないでも大丈夫。ホント、ちゃんとした事務所だから!」

そう言いながら男は麗奈のバッグに無理やり名刺を突っ込んだ。男が動いた瞬間、それに驚いたのか、足元の鳩が急にバタバタと飛び立った。鳩の羽ばたきの音で我に返った麗奈は、男を振り切り駆け出した。

「あ!ちょっと!逃げないで!」

後ろで男が叫んでいたが、追ってくる様子はなかった。麗奈は無我夢中で走り続け、電車に飛び乗り、その後どうやって帰ったか覚えていないが、とにかくアパートに辿り着き、部屋に飛び込むと玄関に鍵を掛けた。その場にへたり込むとバッグが下に落ちて、さっき男が無理やり突っ込んだ名刺が飛び出した。麗奈はそれを拾ってゴミ箱に捨てた。小学校2年生の時の恐怖が蘇ってきて体の震えが止まらない。這うように奥へ進むと、押し入れを開け、プラスチックケースの底から手垢で薄汚れた白くまのぬいぐるみを引っ張り出した。それから部屋の隅に座り、白くまを両手で強く抱きしめて顔をうずめた。

まぁちゃんがアルバイトで忙しいので、麗奈はいつもひとりぼっちだった。まぁちゃんが働いているコンビニは駅の近くの商店街にあったが、アパートからは大人の足で15分くらいの距離だった。まぁちゃんは麗奈を引き取った時、ひとりでコンビニに来られるよう、よく場所を教え込んだ。お仕事中だから、あまり来てはいけないということも教え込んだ。小学校2年生の時、学校から帰ってひとりアパートで留守番をしていた麗奈は、冷蔵庫に入っていた晩御飯を食べた後、無性に寂しくなって我慢できなくなり、まぁちゃんに会いに外に出てしまった。コンビニに着くとまぁちゃんはびっくりしたが、麗奈にビスケットを買ってくれ、しばらく奥の事務所で休ませてくれた。コンビニオーナーも店内にいたが、同情してくれて特に文句も言われなかった。ビスケットを食べ終わると麗奈はアパートに帰された。ひとりで来たのだからひとりで帰れるだろう、誰もがそう思った。

明るい商店街からやや暗い住宅街に差し掛かり、近所の公園を通りがかった時だった。突然後ろから大きな手が伸びてきて麗奈の手を掴み、物凄い力で公園の中に引っ張り込まれてしまった。麗奈が声を出そうとすると大きな手が乱暴に口を押さえ、体は持ち上げられてトイレに連れ込まれた。

そしてそこで麗奈はレイプされてしまった。

商店街からつけられてきたのだ。小学校2年生の麗奈は、服装は地味でもかなり目を引く美少女だった。それが子供ひとりで歩いていて、犯罪者にとってはちょうど都合のいいカモでしかなかったのだ。男は目的を遂げるとあっという間にいなくなってしまった。残された麗奈は這うようにしてなんとかアパートに戻り、ズキズキする下半身を押さえて布団に潜り込んだ。翌日シフトを終えて帰ってきたまぁちゃんは異変に気が付いたが、麗奈は何があったかを絶対に言わなかった。麗奈の背後にいるみどりの様子から何か大変なことが起こったということだけはわかったので、麗奈をひとりで帰らせてしまった自分を責め、パニックを起こして、まぁちゃんは麗奈に謝り続けた。そして麗奈が少しでも寂しくないようにと白くまのぬいぐるみを買ってくれたのだ。それがまぁちゃんにできる精いっぱいだった。事件以来、麗奈は外が暗くなってからは絶対にアパートから出なかった。どんなに寂しくても白くまを抱きしめてじっと我慢した。そのうち白くまは手垢で薄汚れてぼろぼろになった。


翌日も麗奈はクラゲ展示コーナーに行った。

「誕生日になる前に私が自殺したらどうなりますか?」

昨日と同じようにまた小さな声で訊いた。

「儂がお前を操れるのはここに来させることだけじゃ。自殺させないようには操ることはできない。じゃが、お前には自殺するほどの勇気などない。そうじゃろう?」

迦陵頻伽は無感情にそう答えた。麗奈もその通りだと思った。自殺する勇気はない。しばらく見つめ合ったが、麗奈は諦めてその場を去った。

帰り道、麗奈はその変化に気が付いた。ペットボトルに花が供えてあったバイク事故の交差点で信号待ちをしている時、急に死んだ高校生が見えたのだ。彼はまだそこにいた。そして懸命に潰れたバイクを起こそうとしていた。麗奈は幽霊が見えるようになっていた。天上の存在である迦陵頻伽と会うことによってまぁちゃんから受け継いだ霊媒体質の血が目覚めたのだ。麗奈は事故の高校生に関わらないようにそっとそこを通り過ぎた。


家に帰るとまぁちゃんがシフトから戻っていた。まぁちゃんはコンビニで買ってきたらしい週刊誌を見せ、無理に明るく笑いながら言った。

「麗奈ちゃん。レコード会社がオーディションをしてるわよ。応募してみない?歌、うまいじゃない?アイドルになって大金持ちになってまぁちゃんを養って。」

たぶん捨ててあった芸能事務所の名刺を見つけて思いついたのだろう。麗奈が思いつめたようになっているので何とか明るくさせようと無理をしているのが痛いほどよく伝わってきた。まぁちゃんは麗奈がいなくなったらきっと悲しむだろう。麗奈もまぁちゃんをまたひとりきりにさせるのはとても嫌だ。迦陵頻伽の言ったとおりだ。麗奈には自殺する勇気などない。というより死にたくない。

「そうね。考えてみようかな…。」

麗奈も無理に作り笑いを浮かべてまぁちゃんに調子を合わせた。その晩、ふたりはうわべだけ無理に明るく遅くまで笑い合った。


翌日、麗奈はまた図書館に行った。図鑑を調べ、ネットを調べた。

「木酢液…。蛇の忌避剤。ナーガも蛇だというのなら効くかな…?やるだけやってみる。何もせずにただ死ぬのを待つのは…イヤだ。」

麗奈は出来るだけのことをしようと決めた。まぁちゃんをひとりにしないために。死にたくないという自分の思いを守るために。図書館を出るとホームセンターに行って木酢液を2リットル購入した。重さ的にそれが持って行ける限界だと思った。そしてアパート帰って押し入れの隅に買ってきた木酢液を隠した。


誕生日の前日、まぁちゃんはずっとシフトだった。麗奈はコンビニが比較的空いていそうな時間をはかってまぁちゃんを訪ねた。まぁちゃんは麗奈を見て驚いたが、ちょうどそろそろ時間だからと言って、遅いお昼ご飯用の総菜パンをもって休憩を取った。

コンビニが入居している雑居ビルの4階は空き室になっており、裏階段の4階の踊り場はこの雑居ビルで働く人たちの休憩用の隠れ場所になっていた。麗奈とまぁちゃんは踊り場に腰を下ろし、しばらく何も言わずに隣のビルの壁をただ見つめていた。

「麗奈ちゃん、どこにも行かないで…。」

まぁちゃんは壁を見つめたままぽつりとつぶやいた。

「うん。行かない。」

麗奈は必死に強がった。本当はこれでお別れかもしれない。ごめんなさい。

「歌、歌ってくれる?フーガ。」

まぁちゃんは昔から、バッハが作曲した「小フーガ、ト短調」という曲が好きで、よくハミングしていた。麗奈は小学生の頃、これにオリジナルの歌詞をつけてよくまぁちゃんに聞かせていた。まぁちゃんはいつも喜んでそれを聞いていた。

「いいよ。歌う。」

隣のビルの壁を見つめたまま、麗奈は綺麗な透き通る声で歌いだした。


優しい翼よ 風を

白き無垢な綿毛そよぎ

青き光る空に歌い

遥かに舞い昇れ…


「明日も歌って。」

まぁちゃんは麗奈の方を向き、にっこりと笑いかけた。

「うん。」

麗奈も笑い返した。


その日。確かに操られ、抗うこともできずに、麗奈はクラゲ展示コーナーに立っていた。迦陵頻伽は麗奈を見据えて

「よく来た。」

と言った。麗奈は歯を食いしばった。戦う。なんとしても戦う。しばらくすると不快な振動が足元から伝わってきた。

「ナーガじゃ。」

迦陵頻伽はおもむろに翼を開いた。次の瞬間、麗奈の目の前に横幅2メーターにもなろうかという巨大なコブラの頭が現れ、そして麗奈を呑もうといきなり勢いよく口を開けた。麗奈は無我夢中で持ってきた木酢液を全て自分の頭にぶっかけた。物凄い刺激臭があたりに充満する。幸運にもこの世の蛇の忌避剤はあの世の蛇にも効果があったらしい。ナーガはちょっとひるみ、大きく開けた口を一旦閉じた。そして方向を見失って少しのたうつと、迦陵頻伽の方を向き、再び口を開けようとした。

「無駄じゃ!」

迦陵頻伽は身をひるがえして麗奈の背後に回り込んだ。ナーガは迦陵頻伽を追うように麗奈の方を向きそのまま口を全開した。ナーガの喉の奥まで見えた瞬間、麗奈の意識はなくなった。そしてその場に倒れこんだ。


倒れた麗奈の中に魂が感じられなくなったので、迦陵頻伽は全て終わったと考えた。そして天上に戻るべく飛び上がるため、身を低くして大きく翼を広げた。その瞬間。ナーガは迦陵頻伽にとびかかり、尾羽一本も残らず全て丸呑みした。


「…麗奈。麗奈。」

朦朧とする意識の中で誰かが麗奈を呼んでいた。聞いたことのない声。でもその声の主が誰なのかなぜか知っている。

「麗奈。ひとりにしてごめんね。でも生きることを諦めないで。」

「…お母さん?お母さんなの?」

麗奈はぼんやりと返事をした。

「あなたに乗り移ってあなたの魂を私の魂の中に隠したわ。ナーガはあなたを見失って本物の迦陵頻伽を呑んだ。あなたは生き延びたの。」

母のみどりはいつも麗奈と一緒にいた。麗奈を心配していつも一緒に。

「生きて。そして幸せになることを諦めないで。」

母の声はだんだん聞こえなくなった。そして麗奈は意識を取り戻した。


トイレで木酢液を洗い流すと、鏡に映ったびしょびしょの自分を見ながら麗奈はゆっくり考えた。もう殺されるしかないと思っていたのに。せっかく助かった命。お母さんが言ってた。生きることを諦めないでって。そうだね。後ろ向きに生きるのはやめよう。化物のせいで生まれた時から不幸だった。でももうその化物はいない。化物のせいでお父さんから嫌われたこの容姿。これも不幸の種だった。でも前向きに考える。何かを変えるために前向きになる。

麗奈はびしょびしょの髪をまとめて力いっぱい絞ると、トイレを出た。そしてまっすぐ顔を上げて前を向き、大きく一回深呼吸すると、まぁちゃんが見つけてくれたレコード会社のオーディションに応募するために履歴書を買いに行った。


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迦陵頻伽の娘 黒田 由美 @pandarusp

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