第19話 元箱根、裏箱根

気が狂いそうになった。


初めは夢だと思った。どこか夢の花が咲いたように、箱根神社の石段に夕日が差し込み、音だけは夏そのもの。気温が幾分か下がった後のひぐらしの鳴き声と、昼間がまだ続くだろうと錯覚させるクマ蝉の鳴き声。人がいないことを除けば、そこは幼い頃に駆けずり回ったどこかの山の、夏の思い出をひっくり返したかのような情景になる。


ただ、季節外れの鯉のぼりと、灯りが無く暗いままの壊れたちょうちんが夢から冷めろと主張し、暑さとは違う緊張から来た汗が俺の額を流れた。


西日を背にした建築物に人口的な光などなく、みんな夕日に黒を混ぜて溶けていく。


この幻想が夢だと錯覚するには最高の景色だし、写真を撮るのも悪くない。だけど、持っている携帯が幼馴染を映して、少しだけ安堵する程度にしか、役に立っていない。


文明の利器は圏外を示している。


そして、人がいない。3時間ほど探し歩いても、結局見つけられなかった。


『建物の中に隠れよう』


そう思った。全身に纏わりつく湿気と息苦しい程の暑さは日が暮れても多分収まらない。


神頼み、ではないけれど、バチが当たるかもしれないけれど、どこかの家に囲まれるよりは、ここに留まっているほうが良いと思う。


これが夢なら、勝手に次の展開に進むのだろう。けれど、空腹と何よりも喉の渇きが、これが現実なんだと思わせてくる。


日が暮れるまでの勝負だ。なるべく安全な水が欲しいので、だるい熱気のあるモヤみたいな空気を割いて、石段を駆けた。



ーーーーーーー


心願成就というから、てっきり自分の願望が夢の中に現れるのかなと期待したんだけど、そううまくはいかないらしい。


来たことはないけど、箱根神社は有名どころ。絵馬に願いを書いて吊す人が多いのは知ってる。


勝負の神がいるから受験にはもってこいなのだが、未だにご縁は無かった。


「龍の口から水が出てる・・・」


流れる水は腐らない。だから、少々苔が生えていようが気にしないし、海に出て水に困った遭難者が苔を食べて生き延びた話を思い出し、そのまま掬って顔にかけてみた。


冷たい。アメンボがいるが、そんなの気にせずに飲みまくった。


ようやく生き返った心地がして、同時に寝床の確保に急いだ。


ーーーーーーー


御賽銭箱の中が1番安全かもしれない。


丈の長い草が茂っているのを見て、夜には獣が来るんじゃないかと心配になった。茂みがあるだけで熊が人里に下りてくると親父から聞いたことがあるから、どこかには隠れたい。


御賽銭箱は簡単に開くようになっていた。ここに隠れて泥棒と思われて捕まるのも良し。誰かに発見してもらえれば助かる。


だが、いきなり神様の家でそんな罰当たりなことをするなら、最初はまず、お願いをしてみるのが筋じゃないか?


「神頼みはどうしようもない時にするもんだ。自分ではこれ以上、できることが無いなとわかった上で願うなら良し」


親父の言葉である。そもそもおまいりは神様に願いに来るものではなく、自分を奮い立たせるための決意表明をしに神社に行くのだとか。


その感覚は俺も好きだが、今は全力で頼ってみるとしよう。


人がいないなら、せめて神様くらいいてもいいだろうと。ちょっと投げやりな気分だ。それぐらい疲れてはいた。


神様に頼る人間がいない分、自分の願いを叶えて欲しいという自分勝手な発想だ。猫の1匹でもいて話しかけられれば気持ちが紛れるのに、本当に蝉と鳥以外に気配が無い。


カランカラン。


乾いた音には軽快な拍手を。二礼してパンパンと叩けば、響き渡る音。いつのまにか、蝉の音は止んでいた。


「湊兄、帰ろう?」


後ろから、聞いたことのある声。


中二の俺は、そこで振り返り、そいつの目を見て意識を手放した。

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