第37話 満天姫、怒る
ビリビリと空気が鳴って満天姫の怒りが部屋中にこだまするかのようだ。
「いや、前原は幕府の旗本。家柄は将軍家が三河岡崎にあった頃からの忠臣。町人を数人斬ったからとて、処罰を与えるわけにはいかぬ」
そう十兵衛は言ったが、満天姫の威圧で最後の方は声がしぼんでしまった。満天姫の瞳はごうごうと怒りの炎で燃え盛っている。
「人の命を……何だと思っておるのじゃ!」
その凄みのある台詞に幕府の有能な役人二人も凍り付いた。
「で、では……姫様ならどのような御処分に……」
「お家取り潰しだけは、幕府の名誉に関わること。それだけはできませぬ」
目付の十兵衛と町奉行の大山はそう満天姫に問いかけた。
満天姫は扇で雪乃を呼ぶ。
そして耳元に近づくとごにょごにょと話す。
雪乃はゆっくりと頷いた。
(さすが、満天姫様。見事なお沙汰だわ……)
雪乃は満天姫の的確な答えに感心した。
そして咳払いを一つすると、雪乃が満天姫の代わりにこう答えた。
「当主、左近丞は江戸より追放。流刑。前原家の家禄三千五百石のうち、千石を召し上げ。左近丞が斬った町人たちの遺族へ償いとして差し出させる」
二人は雪乃の言葉を噛みしめる。有能な二人は左近丞を無罪放免にするつもりは元々ない。お沙汰なしとはいえ、左近丞は隠居させ謹慎は解かないつもりであったが、斬られた町人たちへの配慮は考えていなかった。
それは二人とも武家であったため、そこまで配慮が至らなかったが、こういう事件は隠蔽しても徐々に漏れてしまうものでもある。
前原家への恨みだけならよいが、その背後にいる幕府への怨嗟だけは避けたい。
満天姫の案なら、被害を受けた者への手厚い保証がある。事件の様相がばれても批判がしにくいことになるだろう。
(ただ……)
幕府の上層部はまだ頭の固い、権威主義のものが多い。多くは老人。若い二人には無視できない勢力だ。
「それはよい案ではないか」
突然の声に十兵衛と大山は振り返った。
雪乃の満天姫も部屋の外の渡り廊下で立っている男を見た。
秋葉藩の剣術指南役、立松寺九郎である。
たかが、秋葉藩の食客で剣術指南役の身分に過ぎない青年が偉そうに部屋の外とはいえ、幕府の目付、奉行、大名の姫を見下ろしているのだ。
(あ、あなた、お呼びじゃないわよ)
雪乃は慌てた。満天姫もぶっ飛んでいるが、この若者もおかしい。
おかしいと言えば、たかが食客なのに昨日は料理対決の審判役をやっていたし、この部屋へやって来れたこともおかしい。
「誰だ、お前は?」
「無礼だぞ、うっ……」
十兵衛と大山はそう言って九郎に怒鳴ろうとしたが、不自然に中断した。
九郎がにやりと笑って、人差し指を口に付けたのだ。
(黙ってろということ?)
雪乃は二人の様子と九郎の不自然な行動が引っかかった。
「私は秋葉藩、剣術指南役の立松寺九郎と申す。当主、松平能登守の名代として、満天姫の様子を見に来た次第。ご無礼は許されよ」
そう九郎はよどみなく話す。
藩主の名代というのなら、途中で口をはさんでも無礼にはならない。
「今の満天姫の提案。藩主も納得すると思われるが、幕府の重役殿はどうお考えか?」
九郎の問いに十兵衛も大山も急に物分かりのよい態度になる。
「それがしはよい意見だと思います」
そう大山が言えば、十兵衛は九郎の顔を見て頷き、こんなことを言った。
「問題は幕府内の保守派の説得ですが……。それは問題ないでしょう」
二人は満天姫に頭を下げるとそそくさと退出していった。
これから満天姫の提案を実行するのであろう。
この事件の後始末は大変である。
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