第2話 雪乃、お目付け役になる

 ところが急に父が仕えるお殿様の呼び出しだ。雪乃はとっても嫌な予感がしていた。ここまでのうのうと過ごしていた平和が終わってしまう予感だ。

(だいたい父上だけならともかく、娘の私が呼び出される用事って……) 

 今の雪乃は結った髪を潰し島田という形にして、一張羅のかんざしを挿している。これは下級武家の女性の定番の髪型である。

 雪乃の家、駒場家は代々、矢部家に仕えてきた武家。三百石取りの家である。父親が勘定奉行なので、もう少しおめかしをしてもよかったが、所詮は十七歳の小娘だからこの程度でよいだろう。

 男尊女卑のこの江戸時代風の世界。女性で目立ってもよいことは1つもない。それは雪乃が父親とこんなところで、お殿様と会っていることが既に物語っている。

 令和の記憶が蘇った雪乃は、ここまで高校の生活クラブで実践してきた経験と令和の記憶で、神女と城下で言われるようになってしまったのだ。

 それはそうだ。江戸時代風とはいえ、所詮は遅れた時代。令和の知識がどれほど人々を驚かせたか分からない。

(それが原因でお殿様に呼び出されたことは間違いないわね……)

 どう考えてもそれしか考えられない。

(しまった……あの小麦で作ったドーナッツのせいかしら。それとも廃油と灰で作った石鹸のせい?)

 ついうっかりと令和の知識で作ったものがお殿様の耳に入ったに違いない。

 そこから知恵者として評判の娘を抜擢しようと考えたことは想像に難くない。

(お殿様から命令されれば、拒否権はない……。ああ~嫌だ~) 

 父と二人でこうやって呼びつけられたのだ。

 有無を言わさず、命令されるであろう。

 だが、顔を上げた雪乃の目に入ったのはお殿様のとんでもない姿であった。

「と、殿!」

「えっ!」

 父親は狼狽し、雪乃は思わず両手で口を覆った。驚いた時の癖である。

 赤坂藩三万石の大名が手をついて頭を下げているのである。

「雪乃にお願いがある」

「と、殿、いけませぬ。それがしと愚女などに頭を下げるなどと……」

 どうしてお殿様がこんな茶室に雪乃と父を呼び出したか分かった。こんな姿を絶対に他の家来に見られるわけにはいかない。

「いや、この願いは我が赤坂藩三万石の存亡がかかっておるのだ。十二代続いた我が矢部家のご先祖様の手前、余が頭を下げねばならぬのだ」

「殿、わかりました。どんなお願いであろうとも、それがしも愚女も殿の忠実な家来。死ねと命があれば娘共々、腹を切る覚悟……」

(ち、父上、腹を切るならお一人でしてください。私は死にません)

 雪乃はそう心の中で叫んだが、無論、表情には現わさない。それよりも、とんでもなく気になった。

 三万石の城持ち大名が、家来の娘に過ぎない自分に頭を下げてまでするお願いの内容である。

(絶対に簡単なお願いじゃない)

「それでは話そう。実は我が娘に縁談が来ておるのじゃ……」

「そ、それは恐悦至極に存じます」

 父親がそう言ってひれ伏したので、雪乃も慌てて頭を下げる。

「相手は越後の秋葉藩の松平能登守殿。十八歳ながらも先日、跡をついで三十五万石の太守となられた。その方が我が娘を是非、正室候補にとのこと」

「それはますます、おめでたいことです。秋葉藩と言えば、将軍家のご親戚筋。松平能登守家秀様は、お若いながらもその才は天下無二と聞くお方とのこと。この赤坂藩のさらなる弥栄が決まったようなもの」

 父親はそうお祝いの言葉を述べたが、雪乃はお殿様の口調に少しもうれしい気持ちが含まれていないことに気づいていた。

(どちらかと言えば、この縁談を断りたいという臭いがプンプンするのだけど)

 雪乃はさらに気づいたこと。

 矢部和泉守の額にはびっしりと汗。

 そして白髪交じりの曲げ。

 話している最中にその白いものがどっと増えたのではないかと思うのだ。

(普通なら、自分の娘を嫁がせるのに大国の太守なら、父親としては万々歳だとおもうのだけど……)

 雪乃はそう考えたが、それはごく一般的なもの。しかし、矢部和泉守の答えはそうではなかった。

「娘を嫁にやれば、とんでもないことが起きる。それはこの赤坂三万石が亡ぶくらいのとんでもなさ……」

「はあ?」

「……」

 父は沈黙し、雪乃はお殿様の言っていることが全く理解できず、思わず間抜けな反応をしてしまった。それが無礼と気づいて慌てて頭を下げる。

 そもそも雪乃はその姫様の名前も人なりも知らない。興味がなかったのが理由だが、雪乃程度の身分の娘の耳に姫君に関する情報が入ってくることはない。

 それに嫁に行く姫君は生まれてこのかた、ずっと江戸住まいで、この国元に足を踏み入れたこともないのだ。

 父親は勘定奉行であるから、姫様の噂くらいは耳に入っているようである。沈黙がそれを物語っていた。要するに心当たりがあるということだ。

「そ、それでわが愚女に一体、何をお命じに?」

(父上、さっきから私のことを愚女、愚女と~なんだかむかつくんですけど)

 愚女とは、愚息の娘バージョン。自分の息子のことを謙遜して愚息というが、娘は愚娘とは言わない。愚女である。なんとなく、女性全体を指しているようで不愉快になる。

「雪乃を姫のお目付けとして、同行してもらいたいのじゃ」

「お目付け役?」

 雪乃は思わず聞いてしまった。

 一週間後に姫様は嫁ぎ先の秋葉藩の江戸屋敷へと向かう。そこですぐに祝言を上げて正室になるのではなく、一年間は行儀見習いとしてそこで暮らすのだ。

 そしてそれは一人だけではない。他にも各国や領内から集められた美姫たちの中から選ぶらしい。

 隣国の松平なんとかというお殿様は、一番のお気に入りを正室。他にもいれば側室とするのだ。手を付けなかった姫は実家に戻される。

(何だか男に都合がいい仕組みよね……でも、こんな仕組みだったかしら?)

 雪乃が引っかかったのは、江戸時代の大名の結婚がこんな仕組みではなかった点。大名の結婚はいわゆる政略結婚。

 本人の意志とは関係なく、政略結婚で決められる。そしてそれは幕府に届け、許可を得てから初めて結婚が成立するのだ。

 それがまるで中国やアラブの後宮、ハーレムのような仕組みなのだ。まあ、江戸城に行けば、大奥なるものがあるにはあるが。

(さすが江戸時代風の世界。微妙に設定が違うわよね……でも、何だかやったことのある乙女ゲーの仕組みにそっくりだわ……)

 なんとなく気になる。

 雪乃は令和の時代にあらゆる異世界設定の乙女ゲーをやっていた。日本を舞台にしたゲームも数多くやっているため、どんなゲームだったか思い出そうとしたがスムーズに出てこない。

(考えてみれば、どのゲームも同じような設定だったからなあ……)

 思い出せず、表情が硬くなった雪乃に和泉守はこんなしきたりを話した。

「婚儀にあたって、実家から姫に同行できるものは一人だけと決められている。雪乃はお目付け役として姫に付き添ってほしい。我が家から姫に付ける家来は、雪乃ただ一人」

「私……だけですか?」

 雪乃は自分の役割の重要さを思い知る。姫の頼る唯一の人になるということだ。

「お目付け役と言っても正式な役職は『祐筆』だ。姫の代筆を行う文官。常に姫の傍らにいて、奴が何かをやらかさないよう見張っていてくれ」

「は、はあ……」

 何かをやらかさないように見張っていてくれとはお殿様も自分の娘が信用置けないらしい。どう考えても楽な仕事ではなさそうなので、雪乃としては引き受けたくない仕事である。

 しかし、雪乃も父も矢部和泉守に仕える家来。殿様の命令に背くことはできない。

「ありがたき幸せです。微力ではありますが、この雪乃。姫様を立派なご正室になれるよう全力を尽くします」

 雪乃はそう答えた。これがベスト解答。この時点でのベスト解である。だが、和泉守の顔は歪んだ。

「いや、雪乃。姫を正室などにしてはいかん。側室もだ。何とか先方に嫌われて穏便に返していただくようにするのじゃ」

「ほえ?」

 またまた無礼な返答をしてしまった。お殿様の命令は、雪乃には全く理解できないから仕方がない。意味が分からないから雪乃は聞いてみる。

「それはどういうことで?」

「あやつが正室になどになっては、安心して眠れぬ」

 雪乃は何だか嫌な予感がした。

 この江戸時代風の世界は自分がよく知っている世界ではないかと薄々思っていたが、何だか確信がもてる状況になりつつあるのだ。

「あの、お殿様。一つ聞いてもよろしいでしょうか?」

「これ雪乃、殿に尋ねるなど無礼であるぞ」

 父が慌てて制止するが和泉守は右手で制した。先ほどから無礼な返答をする娘に内心肝を冷やしていた父は、可哀そうなくらい顔から汗を噴出させていた。

 お殿様はそんな雪乃の父を目で制した。

「言うてみよ」

「恐れながら、お姫様のお名前を教えていただけないでしょうか?」

 雪乃は意を決してそう聞いた。聞いてはならなぬと心の中で誰かが叫んでいたが、それで止まる好奇心ではなかった。

「満天(まて)じゃ」

「ま……満天……姫……さ……ま?」

 雪乃は思わず聞き返した。そして心の中で絶叫した。あまりに絶叫が激しかったので、ついポロっと小さく口に出してしまった。

「悪役姫じゃん!」


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