悪役姫のお目付け役にされたので、お手打ちフラグ回避して江戸時代で平凡に暮らします

九重七六八

第1話 雪乃、茶室へ呼ばれる

 井筒亀庵(いずかめあん)というのは、樺山城の中にある茶室である。

 この樺山城が築城されたのは今から二百三十年前。

 初代藩主、矢部和泉守忠正(やべいずみにかみただまさ)は、関ケ原の戦いの武功により、権現様(とくがわいえやす)の旗本から大名へ抜擢され、この近江の地、赤坂で三万石を拝領した。

 それまで武辺者として有名だった初代赤坂藩主は、大名となってからは急に茶の湯に没頭し、この樺山城内に雅な茶室を建てたという。

 それが井筒亀庵である。二百三十年の歴史が込められた樺山城の一角である。

 そこにこの物語の主人公、雪乃ゆきのがかしこまっている。茶の湯の開祖、千利休が好んだと言う『小間』と呼ばれる四畳半ほどの空間の茶室。

 雪乃と隣の父、駒場宇兵衛(こまばうひょうへ)が平服しているのは十三代藩主、矢部和泉守忠次(やべいづみのかみただつぐ)である。

 元来、茶室の中は身分関係なく、雪乃と父が頭を畳にこすり付けんばかりに平服をする必要はないのであるが、二人としては相手が藩主であれば頭を下げないわけにはいかない。

 雪乃の父はこの赤坂藩で三百石の知行を与えられている。侍ながら算術に優れた父は、特別に抜擢されて勘定奉行の職にあった。

 しかし、勘定奉行は藩の財政を司る重要な職ではあるものの、銭金勘定は卑しいものと考える武士の間では、身分は下に見られており、雪乃の父は城ではいつも頭を下げることの方が多かった。

 勘定奉行といえども、お殿様にお目見えするのはほとんどなく、ましてや狭い茶室の中で息がかかるほどの距離で面と向かうなど、恐れ多くて頭が上げられないのである。

 雪乃にしてもそうだ。勘定奉行の娘ならお姫様と思われるが、三百石取りでは、ポジションが微妙であった。

 これが家老クラスの三千石なら十分にお姫様と言ってよいが、三百石程度では下級武士ではないが、上級武士の中に入るのは、ちょっとおこがましい。

 中の少し上という言葉がちょうどよいのだ。

 よってちょっといいとこのお嬢様という表現がふさわしいだろう。

 現実、昨今の不景気で十人ほどいた奉公人は半減し、雪乃自身も母と食事作りや屋敷の掃除等をしているほどである。

「おもてを上げよ」

 そう藩主が厳かに言った。狭い茶室に響き渡る声に父が「ははっ」と言ってさらに畳に額をこすりつけたので、雪乃もそうするしかない。先ほどから、父の膝が小刻みに震えているのが袴ごしからもわかった。

「茶室の中は無礼講だ。宇兵衛、雪乃、面を上げて顔を見せよ。それでは話もできん」

 そうお殿様が言うのでは従わざるを得ない。父と雪乃は恐る恐る頭を上げた。

(この方が藩主和泉守様……)

 雪乃の第一印象は『人の良さそうなおじさん』であった。そんな大それた言葉が頭に浮かんだのには訳がある。

 雪乃は正確にはこの世界の人間ではない。

 こんなことを告白すると狐にでも憑りつかれたのか、はたまた頭がおかしゅうなったのかと言われそうだが、雪乃には前世と言うか、別世界の記憶があるのだ。

 いわゆる転生者という奴だ。

 雪乃の前世は令和の時代の日本。名前も憶えている『太田雪乃』と言う。年齢は十七歳。花のJKという奴だが、雪乃はいわゆる『オタク』にちょっと足を突っ込んだ『乙女ゲーオタク』であった。

 足を突っ込んだ程度と書いたが、突っ込んだ範囲が『乙女ゲー』までであったからだ。雪乃を乙女ゲーの世界に引き込んだのは中三の時の友達であった。よって、オタク生活は二年少々。どっぷり浸かっていたわけではない。

 また雪乃自身、すれ違った男が二度見するくらいの美貌であったから、リア充生活を始めることは難しくはなかっただろう。

 しかし、雪乃にはリアルな社会で彼氏とつきあうなんて気はさらさらなかった。小学校四年生の時に男子にいじめられて以来、男子に少し苦手意識があった雪乃は、リアル男子と付き合うなんて、まっぴらごめんであったからだ。

 人見知りする大人しい性格と、周りの男もなんとなく遠慮したせいもあって十七歳まで彼氏なし生活であったが、それは彼女が望んだこと。

 それでも思春期になると異性のことが気にかかる。気にかかるけれど話すのは怖い。そんなもやもや、うじうじした毎日を送っていた。

 そんな雪乃をバーチャルの世界に誘った中三の時の旧友は、ある意味、救世主であったかもしれない。なぜなら、リアルでない社会なら積極的に男に話しかけ、疑似恋愛を楽しむことができたからだ。

 つまり雪乃はリアル社会では、目立たない女子であったが、ゲームの世界では、本当の自分を出すことができたのだ。そして異世界男子をこよなく愛する癖を獲得したのだ。

 そんな雪乃がどんなわけか、この世界の武士の娘として生まれ変わった。生まれ変わったと言うより、十歳の誕生日の朝、突然、令和の雪乃の記憶が蘇ったのだ。

 令和の雪乃がどうなったのか、全く記憶がないが、容姿、記憶、性格、全て自分であると自覚した。

 自覚してみると自分が生きているこの世界が大好きになった。江戸時代は日本の歴史上、二百六十年余も戦いくさがない平和な時代である。

 しかも雪乃はそこそこの身分の武家の娘だ。そんなに働かなくても暮らしていける適度な豊かさもあって、雪乃には理想の生活であった。

 雪乃は日本の歴史の中で江戸時代が一番好きだ。鎖国を続ける当時の日本は、確かに産業革命から遅れ、世界の先進技術から取り残されたかもしれないが、日本独自の文化を発展させ、世界から遅れた未開の国ではなかった。

 首都にあたる江戸は世界でも有数の都市であり、驚いたことにもっとも衛生的で整えられた住みよい都市であった。そのレベルは当時において世界一と言っても差し支えないだろう。

 道端に捨てられた汚物で、異臭が漂うヨーロッパの町に比べて、江戸の町はリサイクルが根付き、糞尿でさえも近隣の農村に肥料として使われる循環社会である。

 人々の生活もけっして金銭的には豊かではないが、みんな笑顔で働き、家族を養い、平和に暮らしている。

 この生活比べれば、あくせくと満員電車に乗って会社に行くサラリーマン。いい大学、いい会社に入ることを目的に競争する学歴社会で苦しむ学生。子育てとパートにてんてこ舞いの主婦。

 物欲的な豊かさを求めてあくせくする令和の時代より、まったり平和な江戸時代ライフは、雪乃にとって理想の世界であった。

(どうしてこの世界に転生したのか分からないけど……悪くはないわね)

 雪乃がそんな風に割り切って今まで生活してこられたのは、理想社会であり、さらにちょっぴり裕福な武家の娘という身分であったことだ。

 これが飢饉になると生きるか死ぬかの選択に迫られる貧村の水飲み百姓の娘とか、自由がない大名のお姫様とかであったら、きっと令和の時代を懐かしみ、心が病んでしまったかもしれない。

 食うにも困らず、かといって家来に囲まれて動くことままならずというわけでもない。好きな時に城下の町でお菓子も買えるし、きれいな布を買って裁縫もできる。

(まったり異世界ライフ最高~っ)

 要するに雪乃は今の生活に大満足。幸せを感じていたのだ。

 多少の不便も雪乃には苦にならない。女子高生だった時には、学校で生活クラブという部活に入っており、そこで料理裁縫はもちろん、DIYに園芸、サバイバル生活まで研究、体験をしていた。

 その知識と経験があれば、この時代でも工夫次第で様々なものが手作り可能。生活をより豊かにすることができていた。

 ただこの江戸時代のようなこの世界が、だんだんリアル江戸時代ではなく、『江戸時代風』だと思うようになったのは、記憶が戻って一年後くらいから。

 最初はタイムスリップしたのだと思っていたがどうも違うらしい。

 確かに江戸時代の風俗、服装、習慣であるが、「風」らしく時代設定がアバウト。江戸時代にこんなことはしていないだろうということが度々あり、雪乃は「江戸時代風」の異世界だと断定していた。

 例えば、髪形。この時代の成人男性は月代を剃って、ちょんまげ姿が主流である。しかし、この世界はちょんまげ姿もあるが、長髪、短髪も存在し、イケメンキャラ満載の幕末乙女ゲーかという容姿なのである。

 これは女性も同じで上級武家の女性は、長い髪を巻き付けて結った日本髪にかんざしを挿すという定番から、長い髪を縛っただけのポニーテールにショートボブなんてのもレアだがあるのだ。

(まあ、平和でのうのうと暮らしていけるのだから、よしとしよう)

 雪乃は元来、小さなことにはとらわれず大らかに過ごせる性格なのだ。この世界で好きな料理や裁縫をし、街行く刀男子のイケメンを愛でる生活を死ぬまで続けたいと思っていた。

 それに苦手な男子も異世界のゲームの中だと思えば気にならなくなった。普通にしゃべることができるし、冗談も言えるコミュニケーション力を身に付けることができた。

 雪乃にとっては、まさに理想の世界である

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