狼と少年
あや@『五歳』つぎラノにノミネート!
第1話
「甘い匂いがする……」
何だろう?
凄く、甘い、美味しそうな匂いがする。
彼は、すみれ色の瞳で、あたりを見回した。
けれど、周囲に、その甘い匂いのもとは見つからない。
……どこだろう?
くんくん、鼻をきかせると、確かに、遠くから、薫ってくる。
甘くて、優しくて、幸せな香。
天上の香……。
「やばい……オレ、いよいよ、幻覚が……? あれ? 匂いって幻覚になんの?」
実際、そろそろ、壮の命はデッドラインな気もする……。
もう何日もロクなものを食べてない。
寒いし、ひもじいし、折からの雨に濡れて、体がひどく冷たい。
永遠の眠りにつく場所としては、ずいぶん立派な見知らぬ邸宅の前ではあるが……。
美しい森のような庭。
丁寧に手入れされて、危険のない、人工の森……。
その森に守られるように佇む瀟洒な邸宅。
ここ、日本じゃないのか、て気分になる……。
「あーダメ……この匂い……、気持ち、よすぎて……かたち……保てな……」
脳を溶かすような、肉体的な快楽。
それが何処からの、なにものの匂いかさえ、わからないのに。
心も、身体も、どうしようもない程、悦んでいる。
自制できない。
欲しい。
食べたい。
……これ、欲しい。
この甘い匂いの近くにいきたい。
触れたい。
食らいつきたい。
「……何?」
いまだかつて聞いたこともない程に、九条家の庭で、犬たちが吠えたてている。いつのまにか、夕刻までの雨がやんで、夜空には綺麗なまあるい月が浮かんでいる。
「琥珀様。お騒がせして、申し訳ありません」
紅茶を運んできてくれたメイドが、困ったように、答える。
「…… あんなに吠えるなんて……うちの犬たちに何か?」
読み耽っていた本から、九条琥珀は顔を上げる。
普段は吠えたりしない、躾のいい、優しい子たちなのに。
「いえ。何か不審なものが入り込んだようで……」
「不審者? うちに泥棒に入ろうなんて……それは……何とも気の毒な……」
祖父の趣味で、スパイ映画も真っ青な程、この屋敷には厳重なセキュリティが施されている。
広いとは言え、政府要人が住んでる訳でもないのに、こんな設備はいらないでしょう、おじいさま、と琥珀は呆れるのだが、祖父としては、毎年、新システムが出ると、うずうずして増強せずにはいられないらしい。
なので、ちょっとこの屋敷にコソ泥に入ろうなんて思ったら、ひどい貧乏くじをひいて、嫌というほど、赤外線で焼かれるのが落ちだ。
「……それが、あの……犬たちも追ってはいるんですが、怯えてしまっているようで……」
「怯えて? 不埒者は銃でももっているの?」
「いえ……あの……」
それは可哀想だ。
勝手に入ってきた泥棒に、うちの犬たちが怯えさせられるのも、傷つけられるのも不愉快だ。
「……お屋敷に侵入してるのは、人間ではないとお聞きしましたので、銃などは携帯してないと思うのですが……」
「……人間ではない?」
メイドの戸惑いがちな話では要領を得ないので、琥珀はテーブルの上においてあったパソコンに白い指で触れた。
ガーディアンシステムという項目をクリックすると、パスワードを要求される。
指定のパスワードをいれて、庭のなかで、生体反応がある部分を拡大する。
九条の犬と、ガードマン達、それから……。
満月の月明かりに浮かびあがる、夜目にも、美しい毛並み。
「……狼?」
サーチライトを嫌って、障害を飛び越えて、なんとか身を隠そうとしているのは、狼だった。
大きな獣だ。
九条家の番犬達の倍以上の体格だ。
でもなんて……。
「まあ……なんて……綺麗な……」
「ホントに」
若いメイドが、思わず、漏らした感嘆の声に、九条も頷いた。
跳躍、疾走、威嚇。
すべてが、なんとも優美な動きの、美しい獣だ。
「あ……す、すみませんっ」
「いや謝ることは何も、どこかから逃げてきた、突然変異種? 紫色の狼なんて見たことないよね」
それなら、ニュースで扱いそうな気もするが……。
「……げたぞ! 母屋にいれるな!」
「捕獲しろっ! 琥珀様をお守りしろ!」
それは有難いが、琥珀の名のもとにその美しい獣が傷つけられるのは、何故かあまり嬉しくない。
警備の人間達とは違い、九条家の犬達は、その獣の扱いに困っているようだ。
あきらかに、紫色の獣のほうが、自分達より圧倒的に強いものだ、という認識があるようだ。
動物は人より生存本能に正直だ。
初めから勝てない力量の相手なら、できるかぎり戦いは避けたい。
「──、──」
苛だたしげに美しい狼の瞳が、警備の人間を見下ろす。
何かを探すように、その薄紫の瞳が夜の庭を見つめている。
(……どこに……?)
(何処に、いる……?)
「──、──」
一瞬、カメラ越しのはずなのに、琥珀はここから覗き見ているのを狼に見つけられたような気分になった。
「琥珀様?」
「せっかく紅茶をいれてもらったのに……少し夜風にあたりたくなってしまった」
「い、いけません、琥珀さま、いま、お庭に出るのは危険ですっ」
怖いもの知らずの主人の気紛れをよく知っているメイドは慌てて、制止しようとする。
「そう? 月の綺麗ないい夜だよ。変わったお客様もいらしてる……」
……あの、菫色の瞳。
何処かで、見たことがあるような?
何故か……ひどく懐かしいような?
(……ちょっと、この家、ガード凄すぎない?)
甘い匂いに魅かれて、正体もなく、朦朧と、気がついたら、その豪邸の庭に侵入してしまったが、犬達は壮に怯えて鳴くし、警備員には怒鳴られるし、気を抜くとレーザーで焼かれかけるし、踏んだり蹴ったりだ。
お伽噺のお姫様が住んでる宮殿みたいなのに……、綺麗な薔薇には棘がある、の見本みたいな家だ。
(……ダーメだ……。お腹減ってるのに、こんな運動したら、もたないよ……)
みっともなく倒れる前に、とにかく、いったん退こう。
この物騒な庭には、犬と警備のおじさんしかいない……。
あの、譬えようもなく、甘い匂いの原因は……いな……。
「…………っ」
どくん、と自分の心臓が鳴る音が聞こえる気がした。
時空が歪むような感覚。
甘い、匂い……。
ちかくにいる、……ちかづいてくる。
……あああ、ヤバい。
この美味しそうな匂い嗅ぐと、壮の身体から、戦闘意欲が失せていく。
味方のいないなかで、研ぎ澄まされてた感覚が墜ちる。
言い知れぬ、幸福感が、壮の身体を包む。
「琥珀様!」
「危のうございます、建物の中へ……!」
人間の声が騒ぐ。
けれど、そんな音、ろくに聞いていなかった。
「……わん!」
さっきまで怯えて壮を見つめていた白と黒の斑の犬が、尻尾を振って、駈けていく。
「夜分、御苦労さま……」
薄い紫の着物を纏った、茶色い髪の少年が、犬の頭を撫でてやる。
月明かりの下、夜目にも白い手が、優しく毛並みを撫でている。
羨ましい、と、壮は、飼い犬を睨んだ。
……こ、れ、だ。
誘惑に抗いがたくて、うっかり不法侵入までしてしまった、甘い匂いの根源。
この子だ。
理解すると同時に、壮は跳躍していた。
もっと近くで見たい、感じたい。
触ってみたい。
「あああ!」
「……あ、琥珀様!」
「ケダモノ! 琥珀様に触るな!」
なんか凄い言われよう……、と想いながら、壮は、その子に近付いた。周り中の人間達が怯えていたけれど、不思議と、その子本人は怯えていなかった。
珍しそうに、透き通るような瞳で、壮を見上げていた。
こんな瞳をいままで見たことがない。
こんなに甘い、魅惑的な匂いを、いままで生きてきて、嗅いだことがない。
「……おまえ……」
「…………っ…………」
人間の形をしていなかったので、人の言葉を操れなかったけれど、近付くと、もう嬉しくて仕方なくなってきて、尻尾を振っていた番犬も驚くほどの勢いで、鼻づらを、その子に擦りつけた。
冷静なときなら、狼の姿の壮が、人間にそんなことをしたら、怖がられて、銃で撃たれる、ぐらいの判断はあるのだけれど、間近で嗅いだ、あまりにも甘くて美味しそうな匂いに、脳が半分、解けたようになっていた。
「銃を!」
「やめろ、琥珀様にあたる……!」
愛しさのあまり、壮が、ベロベロとその子の白い頬を舐めたら、舐められた本人はきょとんとしていたが、警備の人間が悲壮な顔をしていた。
壮としては、親愛の情を示しているのだが、客観的に、人間の眼で見ると、たぶん、この少年は、憐れにも紫色の狼に食い殺される寸前だ。
「……よしよし。どーしたの? おまえ、おなか減ってるの?」
「………………っ」
壮にとって、望外の幸運だったのは、可憐な少女のような貌立ちなのに、茶色い髪の少年は、ひどく肝が据わっていた。
「……ああ、やめて。この子が怖がる。大丈夫、危険はないから」
警備の人間を制止する、生まれついての、支配者階級の声。それでいて、少しも嫌見に聞こえない。
「……名前は? 何処から来たの?」
「…………!」
何故か、受け入れられている気配に、壮は嬉しくて嬉しくて、紫色の尻尾を振りまくった。
けれど、名前を聞かれても、この狼の姿では教えようもなくて、切なくて、またペロペロと白い頬を舐めまくって、気の毒なギャラリーを顔面蒼白にさせた。
「……くすぐったい。……なかに入ろう。せっかくの綺麗な毛並みが濡れている。乾かして、何か食事をあげよう」
「……琥珀様! 危険です!」
「琥珀さま! それは可愛い犬や猫ではありません! 凶暴な獣です!」
周囲から、悲鳴のような声がいくつもあがるが、半ば諦め気味なのは、琥珀の豪胆な性質を、皆、熟知しているからだろうか。
「問題ないよ。だって、こんな懐いている。……僕達は、ひどく、気が合うようだ」
琥珀は、可愛い、と言って、壮の鼻づらにキスしてくれた。
「………………っ」
さっきまでの、ひもじい、寒い、もう無理、とは別の意味で、オレ、もうこのまま死んでもいいかも……、と壮は、身に慣れぬ幸福と少琥珀の発する甘い匂いに酔った。
無防備にも程がある琥珀が、
「皆が怖がるなら、僕がこの子をお風呂に……」
と呟いて、壮は、この甘い匂いの主が世話してくれるなら、お風呂も嫌じゃない、と密かにうきうきしたのだが、世の中、そんなに甘くない。
「ご心配には及びません。琥珀様。ほんの少しお待ちください。私どもが綺麗にしますから」
と、ひきつった顔で、壮年の男が応え、壮はいっとき、彼のもとから離されることになた。
「………………」
この甘い匂いから離れるのが嫌で仕方なかったし、さっき追いかけ回された経緯もあって、この屋敷の彼以外の人間は全く信用してなかったので、壮は両の耳を垂れてしゅんとした。
「……大丈夫だよ。綺麗にしてもらったら、戻っておいで」
「…………くぅ」
狼の姿のときの自分のことを、壮は嫌いではなかったけれど、喋れないのは不便だと想った。
「……この子の体調に問題ないか、獣医を呼んだ方がいいだろうか?」
「……そうですね。感染症などを持っていたら、いけませんし……」
「……くぅ……」
それは困る。
人間の獣医にとって、たぶん、壮は管轄外だ。
レントゲン類を撮ったところで、バレるとは想わないが、面倒は避けたい。
「くぅ……」
いやいや、と、琥珀の着物の袖をひいて、若干あざとく可愛く見えるように壮は訴えた。
庇護欲をこの姿の壮に発揮してくれる人類に、滅多に逢ったことはないが、あきらかに琥珀は、壮のことを、可哀想な迷子、ぐらいに思ってるのが見てとれる。
「ん? 医者はイヤなの?」
壮でなくても、獣医大好き! という動物はそんなにいないだろうから、おまえもお医者さんは嫌いかあ、ぐらいに、彼は苦笑していた。
「……琥珀様、何処から来たものかもわかりませんし、一度は獣医に診せないと」
「……くぅ……」
「そう……だね。今日はもう遅いから、獣医は明日にしよう。とりあえず、シャワーだけ使っておいで」
琥珀は、甘やかすように壮の頭を撫でてそう言ってくれた。
よかった。
壮は安心して、琥珀に、ありがとう、と瞳で礼を言った。
元気なときなら、獣医も、人間相手の医者も、いろいろごまかせるが、さすがに弱ってて、今夜はそんな余力に自信がない。
「……こらっ、おいっ。琥珀様をベタベタにするなっ」
「あはは。くすぐったいよ」
「……くぅ……」
この暢気そうな、まるでもう何年も前から琥珀坊っちゃまの愛犬のような生き物が、本当に、さっきまで、庭の闇から闇へと、鋭い眼を輝かせて逃げ回っていた狼か? と壮と攻防していた警備担当の男は訝しさに首を傾げた。
疑惑の主人公の壮はといえば、いっときでも、琥珀から離されるのが悲しくて、くぅと切ない声をあげて、愛しい茶色い姿を名残り惜しげに見守っていた。
「……うーっ……」
お風呂は嫌いじゃないんだけど、オッサンに洗われるのはイヤ。
「……手荒にするなよ。琥珀様が大切に扱ってくれと仰ってたからな」
不機嫌そうに身を任せている紫色の狼の大きな躯を、大の男が二人がかりで洗ってくれる。
オッサンは嫌いだけど、シャワーは温かくて気持ちいいし、あの子の言葉が壮を守ってくれてるんだ、と想うと、嬉しくて耳が揺れた。
「ああ……琥珀様の名前がわかるのか?」
「……」
壮の気配が変わったのがわかるのか、狼を洗っている男の一人がよしよしと壮の毛並みを撫でる。
「オレ達だって、おっかなびっくりなんだから、大人しくしててくれよー?」
それは怖いだろうなあ、と想う。
普段だったら、壮は、こんなオッサンに躯を触られたら、うっかり捻りつぶしてると想う。
茶色い髪のあの子が、泥を落として、暖まって綺麗にしおいで、と優しい声で言ってくれたから、壮としては百万歩譲って、お風呂を許容してるだけだ。
「それにしても、デカい……、琥珀様、どうして、こんなの気にいっちゃったんでしょうねぇ」
「まあ琥珀様は、大旦那様に似て、常に剛胆な方だからなあ……」
「確かに……。琥珀様、何もしてないのに、コイツも一瞬で懐いちゃいましたもんね……」
コイツとは何だ、無礼な奴だな、うっかり爪をひっかけたふりをして教育的指導をすべきなのか? と、壮は犬用ボディシャンプーの泡にまみれつつ、若い方の男を睨む。
……ああ、ダメダメ、好戦的になっちゃ。
冷静に、冷静に。
あの子の家の召使いなんだから、傷つけちゃダメだ。
「よしっ。だいたい洗えたぞっ。男前あがるぞっ」
暖かいシャワーが、白いふわふわの泡を流していくのを、ぼんやり見つめつつ、あの子もお風呂入ったのかなあ、と考えていたら、何故か壮は体温が上がってしまった……。
入浴を終えたら、琥珀様の部屋へ、と、広い屋敷のなかを移動したのだけれど、あの子の部屋に近づいてるのは、壮には言われなくてもわかった。
こんなにいい匂いを撒き散らして生きてて、あの子は普段、誰かに襲われたりしないんだろうか? うっとりしながらも、壮は心配になった。空腹で力の湧かなかった壮の身体に、遠く、あの子から零れてくる匂いだけでも、力が満ちて来る。
「ああ、男前があがったね」
このなかにあの子がいる、と部屋のドアの前から、壮は既に興奮していたけれど、ドアがあいて、九条琥珀が壮を見つけて微笑んでくれたので、幸福感で胸がいっぱいになった。
「ありがとう。手間をかけたね」
「琥珀様、どうしても、これ……、い、いえ、この子と一緒におやすみになるんですか?」
これとはなんだよ、と壮も、じろりと紫の瞳で睨みかけたが、それ以前に、無礼を訂正するように、と茶色い瞳が柔らかく促したようで、男は慌てて言い直していた。
不思議。
綺麗で優しげだけど、この茶色い髪の子はきっと、凄く凄く気が強いんだ……。
このくらいの歳なら、ご主人様とは言え、こうしたほうがいいですよ、て言う大人の使用人達の言葉に押し切られることもありそうなのに……、この館では、全てがこの子の意志で動いている。
琥珀に向かって、否、という返事は許されない雰囲気だ。
「でしたら、せめて、檻をお持ちしますので……、随分大人しくなりましたが、やはり、このままは危険です」
「必要ないよ。君だって、友達を檻にいれたりしないだろう?」
友達。
近くにいるだけで、心地よさにぼうっとする程なのに、思いがけぬことを言われて、壮の心臓の鼓動が早まった。
「……知り合ったばかりなら、御友人にも、恋人にも、警戒が必要です。琥珀様は御心が美しすぎます」
「……僕は人より眼がいいから、人にも獣にも、騙されたりしないよ」
心配顔で諫める中年の男に、にっこり、花のように琥珀は微笑んだ。
「…………」
壮と琥珀を、男二人は交互に眺めて、やはり納得できなさそうな顔をして、その場でぐずぐずしている。
オレはこの子を傷つけたりしないけど、このオジサン達が、二人っきりにするのが不安なのもわかるかも……、と、壮は首を傾げる。
壮の外見が仔猫なら許可されたかも知れないが、人間の身近な犬で例えるなら、壮はゴールデンリトルバーなどよりずっと体格が大きい。
そして、ゴールデンリトルバーやグレーートピレネーほど、見るからに、温和、という印象の獣でもない。
異形の獣だ。
人でもなければ、獣でもない。
自分を人と想ったことも、獣と想ったこともない。
人にも獣にもなれない。
誰からも遠い。
(……壮は特別な子だから)
そう言われて、育った。
一族の中で、ずっと大事にされてきたけれど、いつからか、特別、という言葉が、壮のなかで、孤独、と似た意味になっている。
「……おいで」
「………………」
優しい声に誘われて、壮はその子の傍にそろそろと寄った。
白い手を差しだされて、いいのかな? と想いながら、ぺろぺろとその指を舐める。
「あ、琥珀様……っ」
甘い。
美味しい。
少しも、壮を怖がりも警戒もしない、優しい存在。
もっと舐めたい、じゃれつきたい、と危うくガッつきそうになるのを、壮はなけなしの理性で抑えた。
……嫌われたくない。
……怖がられたくない。
檻にいれろ、というオジサン達の言葉も、あながち間違いではないかも、と、なんとその時、誰よりも、壮自身が想ってしまった。
琥珀の匂いが甘過ぎて、琥珀の気配が好きすぎて、気を抜くと、何するか、自信がない。
……って、匂いが好きすぎて、何するかわからないって、どういうことだ?
慣れぬ衝動に、壮は戸惑い、困ったように、紫の瞳で、その美しい子供を見上げると、愛しげに、茶色い瞳が壮を見下ろしていた。
「名前は、なんて言うの?」
月明かりの下、二人きりになった部屋で(琥珀が他の者を退出させたので)、名前を尋ねられて、壮は困っていた。
名前を伝えて呼んで貰いたいけれど、夜が明けない限り、人の姿に戻れる気がしない。
というか、夜があけても、人の姿に戻れるのかどうかは、わからないけれど……。
慣れ親しんだ故郷とあまりにも何もかもが違う街にいるせいか、ここに来てから、ずっと、身体が不安定だ。
故郷と違って、この東京という街は、夜も昼もずっと明るい。
夜の闇が人の灯す灯りで遠ざけられている。
とはいえ、故郷の街より、ずっと人間が多いせいで、そこかしこに人々の思念や怨念が溜まっている。
ここの闇は薄いように見えて、ずっと濃い気がする……。
ふと気がつくと、本来の狼の姿に変じてしまっているのも、故郷にいるときより、無意識に、危険を多く感じているからだと想う。
どちらの姿でいても、壮的には不都合はないのだが、人の言葉が紡げる唇がないかぎり、琥珀に名前を教えられないと想うと、それだけは凄く残念だ。
でも、狼が、人間の姿になっても、この茶色い髪の子は、……化け物て嫌がらないだろうか?
人間にしてみると、化け物なのは間違いないんだなーと、最近段々、壮は達観してきたのだが、どうでもいい人間ならともかく、さすがに……、好意を持った相手に忌まれるのは辛い。
愛しそうに見つめてくれるこの茶色い瞳が、醜いものを見る色に変じるのは辛い。
だって、この子は、見たことのない美しい紫色の獣は気にいってるかも知れないが、毛並みもたいしたことない人間の男なんて、気にいらないかも知れない……。
それ以前に、動物好きではあっても、化け物は好きではないかも知れない……。
だったら、もういっそ、名前を呼んで貰えなくてもいいから、この姿のままで、この白い手に頭を撫でて貰えるだけでいい……。
壮は、怠惰で、我儘で、そうして少し臆病な、甘えたな子供だった。
生まれた場所にいる限り、一族の大事な跡取り息子で、下にもおかぬ扱いをされて育った。欲しいものは何でも買って貰えた。
『自由』以外のものは、望めば、すべて手に入った。
それをちゃんと知っていたし、今回だって、大人達が無理やり押し付けてきた娘を見て、気にいってたら、あのまま結婚したのかも知れない。
ある程度は、周囲の望みに応えるように、育てられてきた子供だから。
(……ムリ)
壮の許嫁に選ばれた娘は、もちろん優秀な血を残せるようにと、美しい賢い娘だった。
ただ、そんな気になれなくて。
発情期なんだから、綺麗な娘をあてがえば、それで上手くいくだろう、みたいな扱いにも最高にイラついて。
(ごめん、なんか、いろいろ無理。……恥かかせて悪いけど、もっと幸せにおなり)
こんな狭い村で、壮に拒まれた娘、てなったら、そうとう生きるの大変そうだなあ、とは思ったけど、その娘の名誉の為に、抱いて花嫁にしてあげられるほど、お人好しにもなれなくて。
いっそ、滅べばいいんじゃないかな。
そんなに無理に存続させなくても、滅べばいいんじゃないかな、て普通に想った。
壮は、自分自身をイヤだとかは想わないし、生きてるから死にたくないとは生き物として想ってる。
けれど、この血をどうしても残したいかっていうと、それは疑問だ。
どうやっても、人狼が減っていくと言うなら、其れは種として滅びに向かってるんだと想う。
伝説に聞くような神がかった力も、壮にはない。
やいのやいの言われて、壮が花嫁をもらって、自分の子を作ったとしても、やはりその子は壮が戸惑ったように人とは違う自分に戸惑うだろう。
自分でも持て余しているような孤独を、次の世代にまで渡したいとは想えない。
何も欲しいと思えない。
自分の子を生んでくれる妻も。
見たことのない、自分に似た、自分の子供も。
自分でもどうやってこの世界に存在したらいいのか、いまだに判じかねているのに、いったい、その子にどんな風に生きろと言えるというのか。
「……どうして、哀しいカオしてるの?」
故郷のことを想いだしてしまって、物思いに沈んでいたら、零れ落ちそうな茶色い瞳が、壮を見つめていた。
「…………っ」
心臓の鼓動が跳ね上がる。
近い。
近すぎる。
……なんて綺麗なんだろう。
この子、ホントに、人間なのかな……?
こんなに甘い匂いの人間て、いるの……?
近い血は感じないし、狼の匂いはまるでしないけど……、普通の人間は、もう少し壮を怖がるものなんだけどな……。
大きな狼が怖いっていうか、人間の血に潜む、異なる存在への排斥の衝動みたいなもので……。
それなのに、この子からはまるでそういうものがない。
豪胆にして、無邪気。
華やかで、圧倒的で、跪かずにはいられないような……。
「迷子なの? 何処か、帰りたい?」
「…………、」
問われて、静かに、首を横に振る。
迷子ではない。
自分の意志で、一族のもとから離れて来た。
ずっと、か、一時かは、わからないけれど。
一族の発想的に、こないだの娘が気に入らなかったら、次の娘、とそんな繰り返しになる気がする。
そんな日々は、御免だ。
だからって、この夜も昼もわからないような街で暮らすアテがある訳ではないのだけれど……。
出来るだけ、遠くにいこうと思って、新幹線に乗った。
新幹線の終点が、東京だった。
一族はもちろん捜索するだろうが、日本で一番人が多い街で、壮を探すのには、ずいぶん時間がかかるだろう。
それに、一応、十六歳の少年としての、東京への好奇心もあるにはあった。
幸いにも身長も百七十㎝以上あるし、私服なら高校生には見られないので、一人で歩いていても殊に警察から質問もされなかった。
やたらと人の多い街で、人間の姿で迷子になっていたら、ホストクラブとやらいうものの、怪しげな黒服の男から、働かないか、女性を幸せにする仕事だ、イケメンだから向いてると思うよ、と勧誘された。
笑えた。
女性を一人、不幸にして、生まれ育った家から、家出してきたばかりだというのに、女性を幸せにする仕事もないもんだ。
「違うのか? じゃあ、ずっと、うちにいる?」
諸々の現実の無常さと全く無縁な、非現実的な甘い声がする。
この家自体、セキュリティの問題だけでなく、深い森の結界に守られてるみたいで、俗世の穢れと切り離されてる。
おかげで、ここに来て、壮はやっと、全身で、息がつける。
「…………」
うん、おいてくれるなら、オレ、ずっとここにいたいよ、と頷いたけれど、あまりにもその子から、甘いいい匂いがしてくるので、おかしな気分になりそうで、ちょっとだけ離れて欲しい……、あんまり遠くにはいかないで欲しいけど、近すぎるといい匂いすぎて困るよ……、と壮は想った。
「……ホントに?」
ずっといる? という問いに、壮が、うんと頷いたら、その子は、あどけない嬉しそうな顔になった。
そのとき初めて、この家にはたくさん人がいるけれど、この子はオレと同じように一人なのかな……と、なんとなく感じた。
寂しい。
どんなにたくさん周りに人がいても、みんな自分と違うから、ずっと寂しい。
一番仲の良かった者でさえ、壮のように、ふたつの姿を……、狼の姿を持っていた訳ではないから、同じではなかった。
「……」
ホントだよ、嫌われなければ、ずっとそばにいるよ、一人にしないよ、と、壮は、その子の顔を、べろべろ舐めた。
「べたべたになるよ」
さんざんに涎で濡らされて、九条琥珀は笑ったけど、壮を拒みはしなかった。
怖くないの?
生まれつきの牙も爪も、君を傷つける為のものじゃないけど、……みんなが心配するみたいに、怖くないの?
「くすぐったいよ」
琥珀が手の甲で濡れた頬を拭ったから、あ……ベタベタにしてごめんね、と壮はちょっとしゅんとした。
「……?」
沈んだ壮の気配に気がついたように、優しい手が壮の毛並みを撫でてくれて、薄い桜色の唇が、壮の唇に触れた。唇というか、鼻面にというか……。
キス、された。
「おかえし」
甘い声で囁かれて、ふわりと抱きしめられて……、もう……、本当に、壮の身体中の血が沸騰した。
「……っ」
このままはしゃいでじゃれついたら、確実に爪やら牙やらで、この子に傷をつけてしまう……。
「……え?」
琥珀が瞳を見開いている。
「ううう」
壮の身体を覆っていた体毛が消えていく。狼の牙が退化する。背骨が伸びる。二本足で立つ為に、脚が伸びる。二本の腕が伸びる。
「……? 狼じゃなくなった?」
「うー、狼のがよかった?」
嫌がられる?
怖がられる?
なんでオレこんなときに戻っちゃったの?
「そんなことはないが、」
「……あの、オレのこと、き……気持ち悪くないの?」
「何故?」
「……オレ、狼になったり、人間になったりするから……、普通の人間は怖がるよ」
狼の血をひく大神の一族のなかでも、完全に狼に変化できるのは、もう壮だけで。
一族の者はいいんだけど、子供の頃は、うっかり、普通の友達の前で姿が変わってしまったりして、泣かれて、怖がられて、二度と遊んで貰えなくなった。
凄く凄く凄く哀しかった。
狭い村で、大神の家は、神の血を継ぐ一族だったから、面と向かって、詰られることはなかったけれど、あのときの引き攣った友達の顔を忘れられない……。
「そうなのか? 僕は、幸い、あんまり普通じゃないらしいから、何も怖くないよ」
よしよし、と九条は壮の髪を撫でてくれた。
「悪い魔法にでもかけられてるのか?」
「え?」
「キスで人の姿に戻ったから」
たくさんの使用人に命令を下して、大人っぽく見えていても、そのへんは子供なのか、童話のようなことを言っている。
「ち、違う。魔法じゃなくて。生まれつき。オレ、人狼なの……、あ……人狼てわかんないかな……、人と狼の血が混ざってて……、どっちでもあってどっちでもないんだけど……」
「そうなのか? 自由にどっちにでもなれる?」
「いや、オレは……まだ、自由には」
狼に変化するのも、人間に変化するのも、自分で制御できないから、しんどい。
この変化を、自分でコントロールできたら、もう少し人生(人生なのか狼生なのかはわからないけれど)暮らしやすくなると思うんだけど……。
しかも、他に獣人化できる者はいないから、誰にも、教えて貰いようがないという……。
「羨ましいな」
「……て、何が?」
「あんな美しい姿を持ってて」
意外過ぎることを言われたけれど、この風変わりな子に悪意がないと言うのは見てわかる。
「や、普通、そこ、羨ましくないって。琥珀様」
琥珀様呼びはおかしかったけど、琥珀はいかにも世間離れしたお坊ちゃまというかんじだ。
壮のことも、村ではそう呼ぶ者もいたけれど、なんだか山里育ちの自分より、こんな都会に住んでいるのに、ずっと浮世離れしている。
「琥珀様はいらない。琥珀でいい。君の名前は?」
「オレは、壮」
「……壮」
琥珀に名を呼ばれると、何故かはわからないけれど、ひどく落ち着いた。
この街に来てから、ずっと一人で迷子になってたから、知ってる人もいなくて、誰にも名を呼ばれることもなかったけれど、初めて名前を呼ばれた。
どんな思惑もない、少し幼い、綺麗な声で。
狼と少年 あや@『五歳』つぎラノにノミネート! @true2021
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