第8話 敗北者の気持ち
「……ん……く……」
意識に、靄がかかっている。それに気づいた瞬間、アズールの意識は浮上しつつあった。どこか重たい身体を億劫に思いながら、思考を巡らせる。
(あ、れ……私は、一体……確か、今日は……)
記憶を手繰る。今日は何か大事な用事があったはずだ。
レリア・ルマンドの決闘。それで戦って、それで――。
「……っ!」
最後の局面を思い出した瞬間、頭が一気に覚醒する。思わずベッドから跳ね起きると、不意に苦笑い交じりの声が横から響き渡った。
「お目覚めみたいだね。アズール・ラコトさん」
その声に振り返った瞬間、ずきり、と頭の芯が鈍く痛む。思わず額を手で抑えながら視線を上げる。
そこは、夕日の差し込む医務室だった。ベッドの上に、アズールは横たわっていたようだ。遅れて消毒液の香りが鼻についてくる。その一角で壁に寄りかかっている講師を見やり、小さくつぶやく。
「ブラームス先生……なるほど、つまり、私は」
「うん、負けたね。鮮やかに」
「そう、か……そうか」
二度つぶやき、その敗北の苦い味を噛みしめる。胸のあたりに残る、刺されたような痛みが鮮明にその光景を思い出させてくれる。
あの瞬間、押し切れると確信していた。木刀を払い飛ばし、返す刃で斬り上げる。そう思った瞬間、完全に油断し切っていた。相手を素人だと見くびってしまった。
その慢心の結果が、これだ。
アズールは深くため息をこぼし、ベッドに背を預ける。それを見やり、ユーシス・ブラームスは傍に歩み寄ってきて訊ねる。
「気分は悪くない?」
「ああ、不調はない――ただ、悔しいだけだ」
「だろうね。正々堂々負けたわけではないし」
「いや、正々堂々負けたとも。ブラームス先生」
アズールは思わず苦笑いをこぼして天井を見上げる。
「そも、戦場では不意打ち、奇襲、奇手、何でもありだ。命を取られたらずるいも言えない。生き残った者が勝者――そう、シュウ殿は言っていたとも。その教えを私は受けていたし、あの小娘も知っていたはず。なら、卑怯でも何でもあるまい」
「そうなのかい? なら、何が悔しいのかな?」
「……そう、だな」
目を閉じてふと思い返す。あの立ち合いの一瞬一瞬を。
レリア・ルマンド。シュウの弟子の座に収まり、その教えを一心に受けた少女。それは彼女の動きからすぐに分かった。
まだ無駄の多い動きで甘い部分もある。それでも彼女は、一切目を逸らさずに立ち回っていた。そしてどんな状況でも食らいつき、好機を窺い続けていた。
今考えてみれば、その戦い方はシュウにそっくりだ。
シュウはいつだって冷静に相手を見据え、動きを見切って立ち回ってくる。その彼の目つきとレリアの視線がそっくりに思えてきて――
思い出すだけでも、腹立たしくて悔しい。
(私の方が、何倍のシュウ殿の教えを受けているというのに……!)
「……知らんっ、もう寝る!」
気持ちが抑えきれず布団をかぶると、頭上から忍び笑いが響いてくる。
「そっか、なら気が済むまで寝ていればいい――っと?」
ふと、扉がノックされる音が響き渡り、先生の足音が遠ざかっていく。アズールはもぞもぞと布団から顔を出すと、聞き覚えのある穏やかな声が響いてくる。
「ああ、ユーシスくん、ご苦労様です」
「あ……これはシモン先生」
「え……シモン教授っ!」
慌ててアズールは跳ね起きると、入ってきた一人の初老の男性がなだめるように手を挙げる。
「大丈夫、寝ていなさい、アズールくん」
「いえ、しかし……」
「休むことも大事なお勉強です。キミは少し頑張りすぎですからね」
柔らかい笑みで諭すように告げる初老の教授。それにユーシス・ブラームスはああ、と納得したように一つ頷く。
「ラコトさんは、シモン先生の研究室に所属していたね」
「ええ、優秀な教え子ですとも。キミもまた、優秀でしたがね」
「あはは、お世辞でも嬉しいです。先生」
「世辞ではありませんが……とにかく、ユーシスくん、世話をかけましたね。アズールくんは私が見ていましょう」
「そうですか。では、お言葉に甘えさせていただきます。じゃあ、ラコトさん、お大事に」
そう言いながら薬学の講師は部屋を後にする。医務室に残ったシモン教授はゆっくりと椅子に腰を下ろすと、小さく苦笑いを浮かべた。
「手痛くやられましたね、アズールくん」
「……申し訳ございません。教授。みすみす醜態を……」
アズールは思わずベッドの上で縮こまるが、教授は首を振って優しく笑う。
「構いませんとも。こういう学びの機会はあるのは、学生ならでは。負けも糧となるでしょう。それに、私が教えているのは兵法……それならアズールくんも負けませんよね?」
「はっ、それはもちろんです!」
「ならばよろしい。この負けを活かして研鑽を積みなさい」
満足げにそう告げたシモン教授は、ふと目を細めて少し声を潜める。
「ところで、アズールくん、ルマンドくんのことはどう思いましたか?」
その目つきはわずかに鋭く冷たい。まるで値踏みするような目線に背筋が引き締まる。こういう目のときのシモン教授は一言でいえば、冷酷だ。
軍事演習の際、兵を指揮するときに戦況を見極め、冷静に判断を下す。
非情な判断さえも躊躇なくする、指揮官としての目。
それに引っ張られるようにすっとアズールの頭も冷える。主観を抜きにして、客観的にレリアのことを見つめ直して告げる。
「……やはり、魔術の腕前は卓越していると思えます。今回の実戦のために、ゼロ距離の雷撃を生み出すなど、遺憾なく才能を発揮しました」
「ふむ、それで?」
「根気もあり、努力もできる。ですが、才覚頼みの部分もあります。何よりの彼女の弱点は体力と筋力」
そう言いながら思い起こすと、思考が整理されてくる。
(そうか、あそこで勝負を急がなくてよかったのか……)
考えてみれば、連続の回避運動で彼女は息が上がっていた。木刀で全力で打ち合うようなことも一切しなかった。そうなれば、あそこで取るべきだった行動が分かる。
「……そうか。私はただ持久戦に持ち込めばよかったのか」
その言葉にふっとシモン教授は視線を和らげる。
「その通り。なら、次に活かせますか?」
「はっ、もちろんです。ご指導、ありがとうございます」
「いや、アズールくん自身で気づけたことです。私はただきっかけを与えただけ」
シモン教授は穏やかに笑う。その師を前にアズールは深々と頭を上げた。
(ありがたいご指導だった。教授のおかげで、冷静に物事を見られる)
いずれは、シモン教授のような大局観を身につけたいものだとつくづく思う。アズールは顔を上げると、初老の教授は目を細めて言葉を続ける。
「次に期待しますよ。アズールくん。いずれ近いうち、彼女とは戦うでしょう」
「そう、でしょうか……?」
「ええ、きっと。それまで研鑽を積みましょう。お互いに」
そう告げたシモン教授の表情は柔らかく微笑んでいて。
だが、何故かその瞳はまるで盤面を俯瞰するかのように、冷たく凍てついていた。
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