第四話「電車の黒い影」(語り手:石綿恵美香)
次に話すのも、続いて女性。ただしこちらは一転、髪の長く、腫れぼったい目をした、いかにも怪談話が好きそうな様相である。
病弱そうな彼女は、青白い顔をしながら、俯きがちに話し始める。
「はじめまして、こんにちは。いえ、こんばんは、ね。私、M1《えむいち》、えーと、院生の一年、
ところで、みんなは『電車』ってどういう印象がある?速い?便利?時間通りに来る、とか?
それとも、うるさい、とか、満員電車が嫌、という人もいるかしら。
色んなものがあると思うけど、私はね、『怖いな』って思うの。
だって、『ガタン、ガタン』という音とは裏腹に、車内は、しん、と静かでしょう。色々な人が乗っているけど、だいたい皆やってることは同じで。かと思えば、急に大声を上げたりする人とか、暴れたりする人とかもいて。でも、走ってる間は、密室みたいなものだから、逃げ出すことも、ままならない。その上、『自殺した人が地縛霊になってる』とか、『いつの間にか知らない駅に着いてる』とか、そう言った怪談も多い訳でしょう。
自分の身が危険にさらされるような、現実的恐怖と、背筋が寒くなるような、霊的恐怖。それらが入り混じったあの空間は、私にとって最も怖い場所といっても過言ではないわ。
まぁ、一般の人なら、霊的な怖さは感じないのかもしれないけど、私は、感じてしまうのよ。霊感が強いらしいから」
胡散臭さの漂うその言葉も、青白い彼女が発すると、本当かもしれないと思えてくる。
「そういう理由があって、私、昔から電車が苦手でね。なるべく使わないようにして生きてきたんだけど、どうしても乗らざるを得ない時ってあるでしょう?部活の大会の応援だったり、修学旅行だったり、検定の試験だったり、就活だったり。
そんな時は決まって、イヤホンで曲を聴いて、お気に入りの香水をつけて、特製のハーブティーを持って、手のツボを押しながら、電車に乗ってるの。そうまでしないと、電車のドアをくぐり抜ける勇気が出ないから。
それに加えて、『気分が悪くなった時、すぐ降りられるように』ということで、ドアの前に立つようにもしていたんだけど。ある事件を境に、辞めることにしたわ。だって、あまりにも怖い思いをしちゃったんですもの。
それは、友達と三人で学生旅行に行った時のこと。二人とも私が電車苦手なのは知ってたんだけど、大学生だから金銭的に余裕がないじゃない?だからどうしても、観光地から少し外れた、安い民宿に泊まるしかなくて。そうなると、『一旦、電車で街に出る』っていう行程が必要になってしまうのよ。正直ちょっと嫌だったけど、お金がないのはどうしようもないし、それも含めて思い出になるかも、っていうことで、そこに宿泊することにしたの。二泊三日。だから、電車に乗るのは最低でも四回。観光地の中心、T駅から、宿屋の最寄駅、K駅まで、だいたい二十分。まぁ、乗り換えの必要がなかったのは、不幸中の幸いだったんだけど。
一回目、すごい大変だったわ。高速バスでT駅に着いて、荷物も預けずに、そのまま軽く食べ歩き。バスの窮屈さと、その後の荷物の重圧で、脚がもうヘトヘトで。そんな状況の中、電車なんかに乗らなければいけないんだから。
その上、初めて乗る路線だから、どっち側の扉が開くか分からないし、どれくらいの混み具合かも分からないでしょう。だから、オロオロしちゃって、全く落ち着くことができなかったわ。
まぁでも、疲れてたのと必死だったのとで、周りを気にする余裕がなかったっていうのは、その時の私にとって、幸せなことだったのかもしれない。だって怖さを感じずに済んでたんですもの。
そして次の日の朝、二回目の乗車。友達が観光好きでね、通勤、通学の時間帯に乗ることになったの。遊びの時くらい、もう少しゆっくりしても良いんじゃないかしら、とか思ったけど、まぁ、友達だからね。寝ぼけた意識を叩き起こして、電車に乗ることにしたの。昨日とは違って、開くドアは分かってるし、『T駅に近付くにつれて徐々に混んでいく』っていうことも分かっているから、幾分か気が楽だったわ。
いつも通り、香水、ハーブティー、手のツボ、さすがに友達といるからイヤホンは付けなかったけど、落ち着けるような環境作りを心掛けて。そして、何かあってもすぐ降りられるように、ドアの前に立ってたの。でも、通勤ラッシュと被ってる訳だから、昨日とは比べ物にならないくらい、どんどん混んでいったのよ。次第に友達ともはぐれていって、最終的には一人になってしまったわ。
まぁ同じ電車には乗ってるはずだから、特に問題はないんだけど。それでもやっぱり、一人なのは不安で。怖いのも相まって、ドアにへばりついてることしか、その時の私にはできなかったわ。
でもあと一駅だったから、『もう少し、もう少しの辛抱だ』って自分に言い聞かせて、次の駅に着くのを待ってたの、窓の外の景色を眺めながら。
ところで、話は逸れるんだけど、T駅って少し大きめの駅でね、複数の路線が集まってるのよ。それで、私の乗ってた路線も他の路線と隣接してて、T駅の少し手前で、二つの線路が近付いていって、電車同士が並走する形になるの。だから、ドアに向かって立ってるとね、近付いてくる電車と、その中に乗ってる人たちの姿が見えてしまうのよ。
でも別に、そうなっても問題ないはずでしょう。だって、私の乗ってる電車の中と、同じような風景があるだけのはずなんだから。
だけどね、私が見たのは、そんなものじゃなかった。それは、黒い、黒い、影だったの。訳が分からないって?それは私も一緒よ。人型をしたその影は、こっちを見つめて、にんまりと笑ってるの。表情のない、ただの影なのに、笑ってるのが分かるの。
私、怖くて、動けなくなってしまったわ。だって、ドアを挟んで、得体の知れないものが、こっちを見つめてきてるのよ?隣の電車なんだから、安全なのは分かってる。でも、でももしも、もしもその影が、ドアをすり抜けることができたら?誰にもバレずに、首を絞めることができたら?私は、逃げることもできずに、殺されてしまうのよ?そう思ったら私、泣きそうになって。それでも、その影は、ただただこっちを見つめてくるだけだったの。
そんな状態がどれだけ続いたか分からないけど、いつの間にかT駅に着いてたみたいで。動けなくなってた所を、友達が引っ張り降ろしてくれて、ようやく電車から解放されたの。
その後はもう、旅行どころじゃなくて。
———って言いたいんだけど、さすがにお金かかってるし、友達に迷惑かけるのも嫌だしね、普通に観光を楽しんだわ。ある程度、こういう状況にも慣れてるし。ほら、私、霊感強いらしいって言ったでしょう。
だけど、そんなことがあった上に、朝早くから動いてた訳だから、ちょっと疲れちゃってね。早めに宿に帰ることにしたの。宿舎の周りには何もないし、帰ってもやることなんてないから、できれば宿に着いたら『お夕飯を頂いて、お風呂に入って、そのまま寝る』っていう感じにしたかったんだけど。
三回目、電車に乗るのはあと二回。確か十七時くらいだったかな。私、知らなかったんだけど、この時間でも結構、混雑するのね。そんなこと頭になかったから、扉付近で発車を待ってたの。そしたら駆け込み乗車の集団に押しのけられちゃって。入り口付近にいた私たちが悪いんだけど、かなり焦ったわ。だって、ドアから引き離されてしまったんだもの。しかも友達ともはぐれちゃったし。あまりに急なことで、危うくパニックになるところだったわ。
でも、もう少しで叫び声を上げそうって時にちょうど、反対側のドアに押し付けられたの。こっちのドアじゃ、すぐには降りられないんだけど、それでも少し安心できたわ。向こうのドアにはもう戻れないから、『次の駅ではこっちが開くし、大丈夫』って言い聞かせて、そこで耐えることにしたの。
でも、私がそのとき張り付いてたドアって、今朝、影を見た方と同じ側だったのよ。だから、電車が走り出して、駅を抜けるとね、今朝と同じように、向こうの電車が、目の前に現れるの。でも、そんなこと頭になかったから、突如として目に入ったそれに、思わず硬直してしまったわ。
そう、今朝見た、あの影に。
なんで、なんで、なんで!?私はパニックになったわ。だけど、不思議と悲鳴は出せなくて、ただただ対峙し続けることしかできなかったの。向こうも、ただただ、ニタニタと笑みを浮かべたまま、見つめてくるだけ。何もしてこないのが逆に不気味で、背中を冷や汗が伝うのが分かったわ。
怖くて目をつぶっても、そのニヤついた顔がまぶたの裏に焼き付いたみたいに、脳裏に浮かんでしまうの。
『逃げられない』、そう悟った私は、何事もなくこの時が過ぎるのを祈ることしかできなかったわ。
本当は数十秒くらいのはずなのに、五分にも十分にも感じるくらい長かったように記憶してる。電車が離れていって、不気味な笑顔の影も徐々に見えなくなっていって。でも、それでも私は、一ミリたりとも動けなくて。次の駅に着いて、私側のドアが開くまでずっと、影のことで頭がいっぱいだったわ。
降りる人に押し出されて、外の空気に触れたら、少しは落ち着きを取り戻せたんだけど、その代わりに力が抜けちゃってね。私、そこでうずくまってしまったの。周りからの視線は痛かったけど、それどころじゃなかったから。
いつの間にか友達も降りてきてくれて、背中をさすったりしてくれたんだけど、どうしても立ち上がれなくてね。あぁ、このまま私たちは、一生ここで過ごすのかな、なんて訳の分からないことを考えてた。
でも、人間って案外、理性的なのね。発車のベルが鳴り始めた時に、友達が『タクシーで帰ろうか』って言ったのを聞いて、すぐさま立ち上がったわ。『もう大丈夫だから、早く乗ろう』って応えて、そのまま宿まで帰ったの。
だって、タクシーなんかに乗ったら、お代も馬鹿にならないでしょ。そしたら安い宿に泊まった意味もないじゃない。そう考えたら、身体が勝手に動いてたわ。
それに、ある程度こういう状況には慣れてるしね。
まぁでも、二回連続で遭遇してる訳だし、怖い思いをして疲れちゃってたっていうのもあるから、次の日は電車に乗る時間をずらそうって話になったの。
次は四回目、これで最後。だから、次さえ無事に乗り越えられれば、もう影に合わなくて済むんだもの。
だけど、『あと一回だ』っていうことを意識したら、少し緊張しちゃったみたいでね。次の日の朝も、少し早い時間に目が覚めちゃったのよ。それにつられて、友達も起きちゃって。
仕方がないからトランプでもやろうってことになったんだけど、そんな状況じゃ純粋に楽しむ、なんてできないでしょう。次第に、手持ち無沙汰の感が否めなくなってきちゃって。
だからもう、T駅に向かおうってことになったのよ。昨日と一時間くらいしか変わらなかったけど、時間をずらしたら遭遇しなくなる、なんて確信もなかった訳だしね。
ということで、最後の一回。いつもは手首にしか付けてない香水も、今回ばかりは全身に振りかけて。何も起きないことを願いながら、T駅へと向かう電車に乗ったの。通勤ラッシュからは一時間ほどしか外れていなかったから、まだ少し混んでいたんだけど。それでも今回は、友達とはぐれたりせずにずっとドアの前に居続けることができたわ。しかも、昨日とは乗っている時間帯も違うし、今日は大丈夫かもしれない、そう、心の片隅で考えちゃってたのよ。
だけど、それは間違ってた。T駅の手前で、向こうの電車が近付いてきて、見えてしまったのよ、あの影が。昨日よりも一回りくらい大きくなってて、しかも全く笑ってなくって。怒りを秘めた無表情を携えたまま、こっちをじっと見ているの。それまでの余裕は一瞬で消え去ってしまったわ。
電車が寄っていくのに合わせて、影もどんどん近付いてきて。恐怖で顔が引きつってしまっていたんだと思う、友達が『大丈夫?』って聞いてきてくれたの。ちら、と友達の方を見たんだけど、何事もないような様子でね、『あぁ、私にしか見えてないんだ』って思った瞬間、絶望したのを覚えてるわ。
影は怒っているみたいだったから、なるべく刺激しないように、じっとしてるしかなかった。だけど、何かが癪に障ったみたいで、その影が向こうの電車のドアを、『バン、バン、バン』って叩き始めたの。思わず『ヒッ』って叫んでしまったわ。殺される、そう思ってね。T駅に着くと同時に、外に駆け出したの。友達のことも考えずに、走って走って走って。どうすれば良いのか分からなかったんだけど、とにかく逃げなくちゃって思ってたの。
でもね、改札を出たところに、その影が居たのよ。しかもこっちを睨みながら、向かってくるの。怖くてその場にへたり込んでしまって、私は人生の終わりを悟ったわ。
あと三メートルほど。
あぁ、何がいけなかったんだろう。
あと二メートルくらい。
痛くないと良いな。
あと一メートル。
目をつぶって、早く終ることを祈ったわ。
でもね、その影は隣を通り過ぎていったの。その直後、周りから悲鳴があがって、私は後を振り返ったわ。
そしたらね、すぐ目の前で、女性が刺されてたの。腹部を真っ赤に染めて、ばったりと倒れるのが、スロー再生をしたように、目に写ったわ。影が、その人の上に、馬乗りになって、包丁を、何度も、何度も、何度も、刺し続けて。私、ただ見てることしか出来なかった。
どれくらい経ったのか分からないけど、暫くして警察が駆けつけて、その影を取り押さえてたわ。その時、気付いたの、あれは影なんかじゃなくて、人間だったんだって。
私、霊感が強いらしいって言ったでしょう?その影響なのか、『人の悪意』が見えるみたいなの。普通は『オーラ』みたいな感じで、人の周りに漂ってるのが見えるだけなんだけど、その影の人の場合は、あまりにも悪意が大きすぎたみたい。全身が包まれちゃってて、影にしか見えなかったんでしょうね。
その後、さすがに観光を続ける気分にもなれなかったから、外の風に当たりながら時間を潰して、高速バスで帰ったんだけど。途中のインターチェンジで見ちゃったのよ、あの事件のニュースを。
そこでは、女性が亡くなってしまったこと、犯人の素性が割れたこと、そして、その男性の動機のこと、それらが報道されてて。不謹慎かもしれないけど、私、それを聞いて変に納得してしまったわ。
なんでも影の男はストーカーで、毎日毎日、T駅手前の、電車が並走する区間を利用して、女性の表情を確認してたんですって。でも事件の前日、女性が他の男性と一緒に、ホテルに入っていくのを見かけてしまったみたいなの。しかもその翌日、女性は一時間、遅刻した。それで、影の男性は、許せなくなって、包丁で滅多刺し、っていうことだそうよ。
つまり、影が見つめてたのは、私じゃなくて、その女性だったってこと。そして偶然、彼女が遅刻して乗った電車に、私たちも乗っていたって訳。現実は小説より奇なり、ってところかしら。
これで私の話は終わり。どうだったかしら」
火に吹きかけられた息は弱々しかったが、それでも
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