第十二話 隊員さん御用達?
「あー……うー……くっそー……自衛隊体操めぇ……」
こういう時は、ジッとしているより、できるだけ体を動かすべき。そう考えた私はモップを手に、お店の中の床拭きを開始した。モップが杖がわりになっているので、できないことはない。ただ、油断するとモップがスルッと前に滑っていくので、注意が必要だ。
「
カウンターの向こう側で、コーヒーマシン用のプラカップを出していた
「いえいえ、仰木さんには、品出しをしてもらってるんです。バイト代をもらうんですから、このぐらいはしないと……ヴッ」
モップが前にすべり、体が前のめりになった。存在すら知らなかった背中の筋肉が、激しく痛んで変な声が出る。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛! くそう、自衛隊体操め!!」
「すみません。うちの自衛隊体操が、とんでもないことになっているようで……」
後ろで
「いいえー……別に山南さんが悪いわけじゃないので……いたたたたっ、いらっしゃいませー……」
モップで支えながら、ゆっくりと体の向きを変える。山南さんは、少し離れた場所に立ち、こっちを見ていた。
「本当に大丈夫ですか? 今の時間なら、医務室に医官がいますが」
「別に、どこか骨折したわけじゃありませんからね……お腹が痛いわけでもないし……」
ただし、全身を思いっきり、固い壁にぶつけたような気分ではあったけれど。
「それより、自分の運動不足さかげんに、がっかりしてるんですよ。あの程度の体操で、ここまでひどい筋肉痛になるなんて」
「あの程度って、あの体操はかなりきついって、斎藤も言ってたでしょ」
「それでもですよ」
たしかにあの体操は超ハードだ。だけどあくまでも体操であって、スポーツではない。それで筋肉痛なんて、自分的には、やはり納得がいない。
「体操で筋肉痛って、あまりにもあんまりじゃないですか」
「あれ、普通の人にとっては、体操レベルじゃないと思いますけどねえ……」
「あ、今日はプリン、ないですよ。司令さんが十分ほど前に、買っていかれましたから」
ここへの来店は、きっと師団長さんのお使いだろうと思い、先回りして知らせる。
「そうなんですか? じゃあ師団長には、なにか別のものを買いますよ。それもなんですが、いま自分がここに来たのは、御厨さんに渡すものがあるからなんです」
「私にですか?」
「ええ。これ、効くと思うので持ってきました」
なにかが入っているレジ袋が差し出された。
「なんでしょう、これ」
「湿布と塗り薬ですよ。訓練中に打ち身やねんざをした時に、自分達が使うものなんですが、市販されているものとは違うので、よく効くんですよ」
「自衛隊
「自衛隊というか、隊員からの評価が高いって感じですね。痛み止めの飲み薬もあるんですが、あれがほしいなら、医官の診察を受けてもらわなくては、いけないので」
差し出された袋を受け取る。
「いただいて良いんですか?」
「ええ。塗り薬は未使用なので、安心してください。仰木さん、お客さんが来ない時にでも、御厨さんに湿布を貼ってあげてください」
「わかったわ。懐かしいわね、それ。うちの人も、よくお世話になってた。でも結構くさいのよね。女の子にはちょっと気の毒かしら?」
仰木さんが困ったように笑った。
「今のは、そこまでにおわないですよ」
そうは言ったものの、自信がなさげだ。
「そうなの? 前のはちょっと貼っただけでも、お布団がすごいにおいになるから困ってたのよね」
「におうんですか?」
「そりゃ湿布だから、それなりに。でも、ここの人間は大して気にしませんよ。普段からかぎ慣れてますからね」
バイトが終わっても誰かに会うこともないし、せっかく届けてくれたのだ、ありがたく使わせてもらうことにしよう。
「ありがとうございます。これで痛くなくなったら、準備運動からチャレンジしてみます」
「懲りてませんね」
山南さんは面白がっているようだ。
「やられっぱなしじゃ、悔しいですからね。少なくとも、筋肉痛にならない程度にはなりたいです」
「御厨さん、本当に入隊希望じゃないんですか? その負けん気、意外と向いている気がしますが」
「ないです」
きっぱり宣言をする。そこは間違いない。自信がないとか好き嫌いとか、そういう問題ではなく、自分にはどう考えても、向いていないと思うからだ。
「ま、先は長いですからね。もしその気になったら教えてください、お待ちしていますから」
「待たれても困りますよ」
「まあまあ、お気になさらず」
山南さんはニコニコしながらおつかいをすますと、そのまま立ち去った。
「入隊する気がないのは、本気なんだけどなあ」
「今はそんなこと言ってるけど、人生、なにがあるかわからないわよ」
「仰木さんまで~~」
「さあ、お客さんが来ないうちに、それ、貼っちゃいましょうか」
「……お願いします」
バックヤードに引っ込むと、仰木さんに湿布を貼ってもらう。
「旦那さんもよく使ってたんですか?」
「ええ。訓練中の打撲やねんざなんて珍しくなかったわよ。幸いなことに、大きな怪我はすることはなかったけどね」
ペタリと貼られた湿布が冷たくて、飛び上がった。
「冷たっ」
「あとからジワジワと熱くなってくるわよ。ヒリヒリするようなら剥がしてね。けっこうきつい薬だから」
「塗り薬までもらっちゃって、良かったのかな……」
液体の入ったプラスチックの容器を目の前でふる。
「もらっておきなさい。まだまだ必要でしょ?」
「それって、準備運動もきついってことですか?」
「そうとは言わないけど、御厨さんのことだから、体操、最後までやり遂げるつもりなんでしょ?」
「もちろんですよ、ひっ」
さらにペタリと湿布が貼られた。
「だったら必要だと思います。自衛隊の体操は、あれだけじゃないから」
「ええええ……」
ということは、あの体操の他にも、まだ難関がいくつかあるということだ。これは心してかからないと。
「あ、そうだ、仰木さんの御主人て、自衛隊ではどんなことされてたんですか? 湿布を使ってたってことは、山南さんと同じ、普通科ってところだったんですか?」
「最初は普通科にいたんだけどね、途中からあれこれ資格をとって、最終的には空挺部隊にいったの」
「クウテイ……」
聞き慣れない言葉に首をかしげる。
「パラシュートで降下する部隊ってやつ? ここじゃなくて、
「ああ、なるほど、それならわかります。なんだかすごそうですね」
「そうでもないわよ。もちろん訓練はきついらしいけど、面白い人達ばかりだったわ。話を聞く限り、多分、今もそうだと思うわね」
仰木さんは楽しそうに笑った。
+++
湿布のおかげか、しばらくすると痛みはかなりマシになった。もちろん痛くないわけじゃなく、そこそこ普通に活動できる程度だ。
―― マシになったのはありがたいけど、すっごく、におう…… ――
そして、痛みが減ったことで気になりだしたのは、やはり湿布のにおい。貼ってもらっている時は、そこまで意識していなかったけれど、やはり結構なにおいが漂っている。だけど来店した人達に限って言うと、特に気にしている様子はなかった。もしかして嗅ぎ慣れているわけではなく、周囲ににおいが漂っていないとか?
―― それなら良いけど、服、すっごいことになってそうだけどな……あ、制服もだ…… ――
ロッカーに入れておいたら、バックヤードがすごいことになるかもしれない。これは、持ち帰って洗濯したほうが良いかも。
「こんにちは」
「あ、いらっしゃいませ! プリンですか?」
今日、二度目の来店となった司令さんが、珍しく年配の隊員さんと、連れ立ってやってきた。
「いやいや。今日は二人で、抹茶ラテというものを飲んでみようと思ってね」
「そうなんですか。サイズはどうしますか?」
「僕はSサイズで。そっちはどうしますか」
司令さんが、もう一人の隊員さんに声をかける。
「二人ともMサイズで良いだろ。俺のおごりなんだし」
「ごちになります。じゃあMサイズを二つで」
「はーい」
司令さんが敬語を使うってことは、司令さんより偉い人ってことだ。ってことは、またどこかからやって来た、お客さんなんだろうか?
「あ、御厨さん、
「大野、陸将……。ああ! 司令さんのプリンライバルで、山南さんにおつかいを命令してる師団長さん!」
「そんなふうに覚えられてるのか……」
もう一人の隊員さん、大野師団長さんが、微妙な顔つきになった。
「ですが、その情報は間違ってないでしょ」
「まあなあ……」
「あの、質問しても良いですか?」
砂糖を増量すべきか話し合っている二人に声をかける。
「なんだい?」
「司令さんはここで一番偉いんですよね? なのに師団長さんには敬語ですよね? それはどういうことでしょうか?」
自衛隊は、上下関係にとても厳しいと、ここにやってくる隊員さん達から、何度か聞いたことがある。それを考えると、二人の会話は実に不思議な現象だ。
「ああ、そのこと。僕より大野さんのほうが階級が一つ上なんだよ。それと、僕は司令だけど、副師団長も兼任していてね。僕は駐屯地の司令であると同時に、こちらの大野師団長の副官でもあるんだ。わかった?」
「……まったくわかりません」
私の答えに、二人は「だよねー」と笑った。
「ま、自衛隊の組織上では私のほうが上だが、駐屯地での発言権は、
「意外と複雑なんですね」
「いろんな部隊があるからね。その部隊の配置によって、こういう不思議な現象が起きるってわけさ」
「なるほどー……って、やっぱり、よくわかりません」
私がもう一度言うと、二人も同じように「だよねー」と笑う。
「ちなみにプリンの件では、上も下もないからね。早い者勝ちってことで」
「俺のほうが勝率は上だろ?」
「どうですかねえ。僕は自分で買いに来てるんですがね、そちらは何人か隊員を走らせてるでしょ? フェアじゃないと思いますけど」
師団長さんの言葉に、司令さんがすました顔でそう言い返した。
「だから、こうやっておごってるんじゃないか」
「ああ、自分でもフェアじゃないってわかってるわけですか。なるほど。じゃあ、勝負は五分五分ってことで」
「わかったわかった、五分五分な」
「ええ、五分五分です」
そこになんのこだわりがあるのか、私にはさっぱりだ。だけど、この二人がとても仲良しだということはわかった。
「ん? なにかな?」
司令さんがニコニコしながら私を見た。
「え? あー、お二人とも仲良しだなって」
「まあ、防大時代の先輩後輩だからね、僕達」
「そうだったんですね」
大学時代からのお知り合いなら納得だ。
「じゃあ、僕達はこれで」
「ありがとうございました。プリンはまた明日、入荷すると思います」
「了解した。ああ、そうだ。御厨さん、筋肉痛お大事にね」
しばらくして、最後の司令さんの言葉の意味を理解して、あわてて自分のまわりのにおいを確認する。
「やっぱバレてる!!」
明日からは、もうちょっと考えて貼るなり塗るなりしよう!!
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