過去

 僕の父さんは怖い人だ。

 地元で石材屋を営んでいた父さんは、いつも強面で物静か。まさに「職人気質」を体現した人で、近くを通りかかるだけで一歩後ずさりたくなるような物々しさがある。僕はもちろん、母さんもすごく気を遣っていた。

 父さんに怒られた経験は数えるとキリがない。最悪レベルまで機嫌を損ねると物にも当たる人で、とにかくおっかなかった。あれは中学時代の頃だったかな、テストの点数が悪くてちょっと言い訳したら湯呑みが飛んできた。間一髪でかわした後に振り返ると壁に穴が空いていて、さすがに身の毛がよだった。もし当たっていたら……なんて考えちゃうよね。怒られるだけならギリギリ耐えられても、怪我まで負ったらもうたまらない。あの日から必死に勉強したっけ。成績を伸ばすというよりは、もはや自分の身を守るためだったけど。

 さらに父さんは昔気質な人だ。どういう所が?と聞かれたら、僕の進路を決めつけていたこと。父さんは僕が店を継ぐのを当たり前だと思っていて、事あるごとにその話を聞かされた。僕だって操り人形じゃないんだし、納得できるはずがない。音楽を聴くのは小さい頃から大好きで、アーティストへの憧れは昔からあった。高校、大学は軽音部でギターを担ぐ生活を送り、お気に入りのバンドのライブは足蹴なく通った。同じ曲を聴いているだけなのに、それだけで何千人もの人たちが一体化して盛り上がれるんだから音楽の力は本当にすごい。その度に音楽の道を進みたい想いがメラメラ燃え上がった。もちろん父さんとどう折り合いをつけるかは深刻な問題だった。大学進学の時は「しっかり勉強してから地元に戻る」という体で話をつけていたけど、そうなると当然卒業する頃に壁にぶち当たる。地元に戻らない言い訳を思い付けず、東京で就職したいとか電話越しにごちゃごちゃ濁していた。するとある日、父さんがいきなりアパートに乗り込んできたのだ。

 父さんは狭い一室に入るなり、仏頂面でどかっとあぐらをかいた。普段から冷蔵庫の中身は寂しいけど、幸いにも残っていた麦茶を出してあげることはできた。テーブルを挟んで座った途端、麦茶には目もくれず話を切り出される。

「店はどうするんだ」

 店というのは実家の石材屋。僕たちの間では暗黙の了解事項だ。

「……ごめん」

 か細い声とともに頭を下げる。

「店は、継げそうにない」

「ふざけるな!!」

 ドンッ、という音とともに手前のテーブルがぎりりと揺れた。顔を上げるとコップの中にある麦茶が波打っており、近くに水たまりを作っていた。真向かいでは父さんの拳が木板に突き刺さっている。

「帰って来る約束だったろうが!本当なら高校出てから始めさせるつもりだったぞ!」

「気が変わって。東京の会社で経験を積んでから、帰った方がいいかなって」

 そう言い切った瞬間、握りしめられていた父さんの拳が火花のように動いた。と思うと、顔にピチャッと冷たいものがかかる。反射で目を閉じ再び開けると、父さんは空のコップを片手に立ち上がっているようだった。

「阿呆な事をぬかすな!とっとと店を手伝え!お前が継がないならどうなる!!」

 部屋ごと揺らすような怒声。僕の問題に加え近所迷惑も考えると、胃が握り締められる思いだ。言葉を返す暇もなく、父さんはずしん、ずしんと近寄ってくる。やがて左肩を掴まれた僕は、強靭な握力に引っ張られ倒れ込んだ。

「帰るぞ」

 背中を打ちつけられ、じんわりと痛みを覚えながら起き上がる。父さんを見上げると、丁寧に編み込まれた緑のセーターが目に入った。

「嫌だ……」

「帰るぞ!」

「嫌……」

 呟くとほぼ同時にビンタが飛んできて、またも倒れ込む。火花が飛んだんじゃないかと思う痛さだ。数々のお説教を食らったけど、体罰を受けたのは初めてかも知れない。

「もう一度聞くぞ!帰る気はないのか!」

「……ない。僕にもやりたい事がある」

 もう起き上がる気力は出なかった。駄々をこねる幼児みたいに、父さんの足元で声を絞り出した。

「そこまで言うなら勘当だ!二度と帰るな!絶対にな!!」

絶叫の後、どんどんという足音。少しして、部屋のどこかでガン、と物音が響いた。足音は徐々に遠くなり、やがて玄関のドアが開けられ、勢いよく閉じられた。

 しばらくして、唸りながら起き上がる。部屋の隅でギターケースが転がっていた。僕が楽器を粗末に扱うはずがない。出ていく前のガンという物音、あの時に父さんが倒したんだな、ってしばらく経ってから理解した。

 勘当を言い渡されるともちろん実家には戻りたくない。両親とはそれ以来、疎遠になっているわけだ。

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