隣の部屋に住んでる女子高生が毎晩死ぬ死ぬ詐欺をしてきて眠れないんだけど!

マクセ

短編


「ああ……もう駄目……死にたい」


 明日の仕事の準備を終え、もう寝ようかと思っていた午後11時。安アパートの薄い壁を突き抜けて聞こえてきたのは、明らかに若い女の呟きだった。


「こんな、こんなのもう耐えられない……死んだ方がマシ……そう、死んだ方が……」


 隣の部屋に若い女なんか住んでいたか? と逡巡するものの、すぐに答えに行き着く。そう言えば最近女子高生が越してきたらしいのだ。通勤通学のタイミングが会わず、廊下ですれ違ったことすらなかったが、まさか隣の部屋だったとは。


「どうして私はいつもこうなの……? ずっと後悔ばかりの人生なんかもう嫌……」


 そしてまさか、こんなネガティブなヤバい女だったとは。俺は聞こえないフリをして布団に潜り込み、電気を消す。ここは格安のアパートだから住民の質も知れたものだ。こういう事態には慣れている。耳栓でもあれば耳にねじ込んでいたところだが、無いので仕方なく目だけを閉じる。


「死ぬしかない……今すぐ死のう……管理人さんには申し訳ないけど、どうやらここは事故物件になりそうです……」


 はいはい、勝手にしろ。

 どうせ死ぬ気なんかないんだろう。

 声高に自殺を叫ぶ人間ほど、その実死から最も遠いものだ。


「それにしても、どうやって自殺すればいいんだろう……痛いのは嫌です……苦しいのもイヤ……何かいい方法はないものでしょうか」


 ……やたら喋るな。


「こういう時はヤフー知恵袋で質問しましょう……最適な自殺の方法をオーダーしておきました……何が来るかな〜……」


 おい、なんかノリノリじゃないかこいつ。


「さっそく回答が来ました……『首吊りでおk』」


 適当すぎるだろ。


「了解です……ロープを探しましょう」


 しかもそれで納得するんかい。なんなんだこいつ、死ぬ気あんのか。


「幸いにも、私はながーいイヤホンを常用しています……これをロープの代わりすれば今すぐにでも……ふふふ、はかない人生だったなあ」


 おお、シリアスな流れが戻ってきたぞ。


「あれ、これどうやって結ぶの……? あの首を通す輪っかの部分はどうやって作るの……? 誰か助けてください」


 知らねーよ。それくらいググれば出てくるだろ。


「ヤフー知恵袋で質問してきました……これで安心です」


 だからググれば出てくるって。なんでそんなにヤフー知恵袋を信奉してんだよ。


「緊急事態発生……!」


 今度はなんだ。


「お腹減ってきた……!」


 ふざけんな。


「カップ麺ならあるけど……でもこんな時間にジャンクフードは美容の大敵だし……」


 死のうと思ってる人間が美容に気を使うな。つーか首吊り自殺が一番お肌に悪いぞ。


「あーあ、死ぬ気なくなってきた……いや死んでもいいんですけどね……なんていうのかな、モチベ? が消えたっていうか? 人間お腹減ってるときに死ねますかって話でしょう」


 こいつさっきから誰に話しかけてんだ。なんだ、実況でもしてんのか。自殺の実況動画でも撮ってんのかお前は。


「お腹減ったお腹減ったお腹減ったお腹減ったお腹減ったお腹減ったお腹減ったお腹減ったお腹減った」


 死にたいってのはどこ行ったんだよ。むしろ生への執着が凄まじいよ。迫真の呟き方なだけにこっちのが怖いよ。


 その後も「お腹減った」の呪詛は止まることがない。単純にうるせえ……こっちは明日も朝早いってのに。


「お腹減っ……」


 ん?


 止まった。


 それ自体はありがたいことなのだが、こうも唐突だと何か嫌な感じがする。


 ……もしかして本当に死んだんじゃ?


 ありえないとは思っていても、嫌なイメージが勝手に脳内に映し出される。


 暗い部屋の中で、軋んだ音を立てながらゆらゆら揺れる彼女の胴体。


 んなわけ、んなわけない。





 ……くそっ!


 俺は布団から飛び起き、そのままの服装で部屋を出た。


「あの! 隣のもんだけど! 生きてるか!」


 そう言って隣の部屋の扉を叩く。しかしながら、彼女が返事をすることはない。嫌な予感はいっそう真実味を帯びてくる。


 ドアノブを回すと、どうやらカギはかかっていない。開いたドアの隙間からは、物音一つ聞こえない。俺は躊躇なく部屋に突入した。


 部屋の中には電気が点いていない。俺の部屋と同じ構造だからスイッチの位置は分かる。手探りで壁を伝い、それを押した。


「おい! 大丈夫か!」


 するとそこには、






 目を丸くしてこちらを見つめながら、カップラーメンをすする少女が座っていたのだった。


 夜食をすする罪悪感を隠すようにベッド上に小さく座る彼女は、まるで小動物のような趣があった。


「こ、こんばんは……?」


「……おお、こんばんは」


「え、わたしに何か用ですか?」


「とりあえず……戸締りはちゃんとしろ」



◆◇◆

 


「それで、わたしが本当に自殺したと思ってわざわざ駆けつけに来てくれたんですね」


 女子高生は微笑を浮かべながら言った。まるで他人事のような言い方だ。誰のせいでこんなことになったと思ってるんだ。


「あのなあ、なんでお前返事してくれなかったんだよ。おかげで不法侵入しちゃったじゃねーか」


「それは……こんな夜中にガンガン扉を叩いてくるなんてヤバい人かなあと思ったので」


「ヤバい人とかお前にだけは言われたくねーよ。あと、なんで真っ暗な中でカップ麺食ってんだよ」


「少しでも夜食の罪悪感を消したくて、えへへ」


「えへへじゃねーわ」


 長く伸びきった黒髪に、不健康そうな白い肌。目の下にはクマがあり、声のトーンは低く平坦……彼女は見るからに“自殺しそう”な人間に見える。


 だが、このふざけた言動からすると、どうやらこいつは単なる構ってちゃんらしい。少なくとも自殺なんかとは縁のない人間だろう。


「でも嬉しいです……私なんかのために扉バーンで登場してくれるなんて、心優しい方……」


 彼女はそう言って自分の体を抱きしめた。いちいち仕草が大袈裟で、劇か何かを見ている気分になってくる。


 俺はわざとらしく眉にしわを寄せ、語気を荒げて言った。


「誰が優しいって? 俺は迷惑な隣人を注意しにきただけだ。いいか、二度と俺の眠りを妨げるんじゃねーぞ」


 そう叱り付けると、彼女は表情を曇らせた。


「っ……だって……本当に死にたくなってしまったんですもん」


「は、はあ?」


 な、なんだよ……もしかして何か本当に辛いことや嫌なことがあって、死を考えていたって言うのか?


 彼女は俯いた状態のまま、部屋の角に設置された小さなテレビを指差した。


「テレビ? テレビがどうかしたのか?」


「昨日の深夜ドラマ、録画失敗しちゃった……っ」


「あ、本格的にふざけたヤツなんだこいつ」


 なんだ深夜ドラマの録画失敗で死ぬって。この世で最もくだらない死因だろうが。もし実行したらダーウィン賞取れるわ。


「すごい楽しみにしてたんですよ……ネタバレ喰らわないようにツイッターも我慢したし……なのに、なのにこんな仕打ちあんまりですよぉ」


 魂が抜けたようにばたんと倒れ込む女子高生。おあつらえ向きに白目まで剥いてやがる。なんかムカつくな。


「……じゃ、俺は帰って寝るからな」


「えっ……傷心の私を置いていくんですか……? せっかくだからもう少しお話ししていきましょうよ……」


「いちいちうざったいやつだな……こっちはサラリーマンなんだよ。明日も朝早いんだ」


 そもそも、25のおっさんが女子高生の部屋に長居できるかってんだ。泣き真似をする彼女を尻目に、俺は自分の部屋へと戻った。



◆◇◆



 次の日。


 いつもより早く仕事から帰ってきた俺は、シャワーを浴びると夕食の準備を始めた。小さめのIHコンロのスイッチを入れ、鍋にパスタを放り入れる。今日は昼飯を食べる時間がなく、腹が減っていたので3人前茹でることにした。


 時計を確認すると9時40分だ。だからまあ、だいたい48分くらいまで茹でればOKだろう。


 ミートソースにするかカルボナーラにするか……そんなことを考えていると、


「うう、死にたい……誰か私を死なせて……」


 あの声が聞こえてきた。しかもすすり泣くような声も含めて演技力が上がっている。ふざけんなよ……近所迷惑だからやめろって言っただろ。


「私は……取り返しのつかないことを……うっ……して……ぐすっ」


 なんなのこいつ? 毎日ドラマの録画失敗してんの? 買い換えた方がいいんじゃないそのテレビ。


「今回はっ……ドラマの録画失敗ではありません……っ」


 当たり前のことのように隣室の住民の心を読むな。つーか完全に俺に対して言ってんじゃねーか。


「このまま生き恥を晒して生きていくよりも、いっそここで死んだ方がいいんじゃないでしょうか……あなたはどう思いますか?」


 知らねーよ、普通に話しかけてくんなって。なんなんだ、ここの壁はベニヤ板でできてんのか。


「いや、だって私たちもうお友達じゃないですか」


 昨日の今日で図々しすぎるだろ。ルフィかお前は。


「返事……してくれないんですね……ならもう死にます」


 おーおー勝手にしろ。お前みたいに厄介な構ってちゃんには反応しないのが一番だ。


「ああ、最後に……ペヤ◯グソース焼きそばが……食べたかっ……た……」


 そうジャンクな遺言を残して彼女の声は途絶えた。ようやく寝たか、はた迷惑なやつめ。こっちは今から遅めの夕食なんだよ。


 しかし、ほどなくすると妙な物音が聞こえてきた。


 ギィ……ギィ……という何かが軋むような音だ。それも断続的に一定のリズムに従って鳴っている。



 そう、まるでロープが何かを宙釣りにしてゆらゆら動いているような、そんな音だった。



 ……マジかよ。


 俺が返事しなかったから、本当に首吊ったってのか?


 じょ、冗談じゃない!



「おい! 大丈夫か!」



 そう言って隣室に突撃した俺を待ち構えていたのは、


「11……っ、12……っ、13……っ」


 ベッドの上で腹筋をしている彼女の姿だった。ピンク色のベッドは、彼女が上体を起こす度にギシギシと軋んでいた。


「あっ、こんばんは。何か用ですか?」


「……だから、戸締りはちゃんとしろって言っただろ」



◆◇◆



「なるほど、ベッドが軋む音を首吊りと勘違いして飛んできたんですか……心優しい方ですね」


「なんで毎回毎回他人事なんだお前は。事の発端だろうが」


 女子高生は額の汗をタオルで拭い、儚げな微笑を見せた。不健康そのものみたいな見た目して意外とトレーニングとかするんだなこいつ。


「お前な、独り言ならまだしも普通に話しかけてくるってどういうことだよ。完全に問題だぞ」


「むしろどうして返事をしてくれないんですか……無視されたショックで私が死んだらどうするつもりなんですか」


「死んでねーじゃねーか」


「そうでした……てへっ」


「うわあムカつく」


 淡々とした低いトーンの声でふざけたことばかり言ってくる女子高生。俺は今までこんな女には出会ったことがなかった。なにしろ、エセ自殺志願者の構ってちゃんなのだ。


「で、今日はなんで死にたくなったかというとですね」


「訊いてない」


「実は……推しのアニメキャラの画像を母親に誤送してしまったのです」


「訊いてないって」


 彼女は恥ずかしそうにスマホの画面を見せてきた。《お母さん》との義務的なやりとりの中に唐突にアニメの画像が挿入されてしまっている。


「しかもよりもよってちょっとエッチな感じのやつだし……死にたいです……」


「まあ……同情しないこともないが」


 すると、ポコンという効果音とともに母親からメッセージが返ってきた。《これで5回目ですね》って何回失敗してんだよ。そんだけ誤送してたらもう恥ずかしくないだろ。


「とにかく、俺は帰るからな。今パスタ茹でてるんだ」


 パスタ、という単語に反応して、彼女は飛び起きた。


「パスタ……食べたい……」


「……やらんぞ」


「死ぬ……前に……」


「死んでもやらんぞ」


「ちょっと……うまいこと…言っちゃった感……出てます……」


「やかましい」


 見ると、またも白目を剥いて倒れている。ピクリとも動かないから普通に怖い。ピクリとも動かないのに、きゅるるると腹の音だけは鳴っている。


 ……ずいぶん食い意地の張った死体だな。


 俺は何も言わずに部屋を出て行った。


 そして何も言わずに部屋に戻ってきた。


 未だにベッドの上で白目を剥いている女子高生を軽く蹴った。


「おい、起きろ」


「うう……」


「ミートソースとカルボナーラ、どっちがいい?」


 テーブルの上に置いた2つの皿を指差し、俺はそう質問した。彼女は黒目を大きくして喜んだ。



◆◇◆



「うっ……うう、おいしいです……」


「いちいち大袈裟なんだよ、もう少し声を抑えろ」


 幸い、こいつの部屋は角部屋だ。上階の部屋は倉庫になっているようだし、ここで話す分にはそこまで迷惑にならないだろう。だからわざわざパスタを持ってきてやったのだ。


「こんなに優しい人は見たことがありません……私が麺類を好きなこと知ってて茹でてくれてたんですよね……感無量です」


「そう言いつつ俺の皿からミートソースをパクっていくな」


「女子高生と間接キスできるなら安いものでしょう」


「生々しいことを……」


 俺は懐から一枚のブルーレイディスクを取り出した。


「なんですかそれ」


「俺も深夜ドラマを自動で録画してるんだ。お前が録り逃したドラマもその中に入ってるかもしれない」


「ほ、本当ですか?」


 彼女はディスクをテレビの中に挿入し、リモコンを使って録画記録を確認し出した。


「あ、ありました……『姑息のグルメ』これが見たかったんですよ」


 なんだそのふざけたタイトルのドラマは。てかまたメシ系かよ。こいつは食いもんにしか興味ないのか。


「今から見てもいいですか?」


「いいけど……音量は小さくしろよ」


「心配には及びません」


 彼女はしたり顔でながーいイヤホンを取り出した。あ、これは首吊りに使うとか言ってたやつじゃないか。


「夜中にテレビを見ていたら他の住人に迷惑がかかりますからね……私はいつもこれを付けて見ています」


 どうしてその配慮を独り言には活かせないのだろう。俺はしらけた顔で「偉いなあ」と言った。


 女子高生はイヤホンを片耳分差し出してくる。


「いや、俺は」


「一緒に見ましょうよ……見てくれなきゃ死にますよ」


「……ウザ〜」


 それを言われたら従うしかない。

 どうやら俺は完全にこの女の子のペースに乗せられてしまったようだった。


 小さな部屋で女子高生と2人、よく分からない料理ドラマを見ながらパスタを食べる。


『今日は時間制大食いメニューに挑戦だ。もちろんタッパーを持ってきた。時間内に食べ切れなかった分は店員の目を盗んでテイクアウトするぞ』


 それは基本的に主人公のモノローグだけで話が進んでいくという、シュール系の料理ドラマだった。そしてタイトルに恥じない姑息っぷりだった。普通に犯罪じゃねーか。


「それにしても意外です……あなたもこのドラマを見ているだなんて」


「いや、見てないが」


「え? じゃあなんで録画してるんですか」


「せっかく自動録画って機能があるから使ってるだけだ。結局ひとつも見てない」


「えー、見た方がいいですよ……死ぬほど面白いですよ」


「なんでだろうな、見る気が起きないんだよ」


「……忙しいんですか? いつも帰り遅いですよね」


「サラリーマンなんてそんなもんだ」


「社会怖い……将来への不安で死にたくなってきました……」


「お前さあ、学校ちゃんと行ってんの?」


「実は……週に5回しか行っていません……」


「必要十分じゃねーか」


「クラスで話せる友達も……7人くらいしかいませんっ……」


「必要十分じゃねーかって」


「毎日毎日……楽しいことばかりですっ……」


「もはや自虐風自慢の体裁すら保ててないぞ」


 ま、問題なく学校生活を営めているならそれに越したことはないだろう。

 楽しいならそれでいい。

 人生は楽しくなきゃ生きる価値などないんだ。


「あーあ、俺も高校時代に戻りてーな」


「戻ったら何がしたいです?」


「まあ、勉強だな。もっと勉強しとけばよかった」


「それ、大人の人がよく言うセリフです」


「きっとみんな今がつまらねーんだよ」


「え?」


「あの時ちゃんと勉強しとけば、もっと充実した人生を送れてたのにってな具合だ。俺もそう思う」


「あなたの人生もつまんねーんですか?」


「つまんねーよ。でもそれが普通なんだよ、多分」


「このドラマは面白いですよ」


「いきなりなんの話だ」


「だから一緒に見ましょうよ」


 面白いのか、このドラマ。

 最近何を見ても面白いと思えなくなってきた。

 子どもの頃はその逆で、何を見ても面白かった気がする。


「じゃあそろそろ俺は帰るぞ」


「え? まだドラマは終わってませんよ? あ、今までの回も見ますか? これシーズン2なので」


「悪いけど明日も朝早いんだよ」


「サラリーマンなんてそんなもんですか」


「サラリーマンなんてそんなもんだ」



◆◇◆


 

 この奇妙な関係はその後も続いた。


 俺がアパートに帰ってくると、「タンスの角に小指をぶつけた……死にたい」だの「数学の課題が終わらない……誰か殺して」だの壁の向こう側から馬鹿なセリフが聞こえてくるのだ。


 そして、毎晩それを叱りに行って、その後一緒にパスタを食べて、よく分からないドラマを見るのが習慣と化していた。最初は全然面白いと思えなかったドラマも、だんだんと面白く感じてきた。


 それはもう、ついつい夜更かしして寝不足になってしまうくらいには面白かったのだ。


 俺が今、風邪を引いて寝込んでいることとは何の関係もない話なのだが。


「ごめんなさい、毎晩ドラマに誘っちゃって……私のせいですよね……?」


「別に……んなこたねーよ……」


「大丈夫ですか……? 死んだりしないですよね……?」


「ゴホッ……縁起でもないこと言うな」


 頼んでもいないのに律儀に看病をしに来た女子高生。いつもカップ麺ばかり食べているくせに、お粥は普通に作れるらしい。


「タオル、取り替えますね」


「……どーも」


「ポカリ飲みますか?」


「飲む」


「飲みやすいようにストロー入れますね……あっ……短すぎて中に落ちちゃった」


「うん」


「ツッコム気力もなさそうですね」


 熱でぼやけた頭の中には、会社のことばかり浮かんでくる。あー、ドジしたな。また怒られるんだろうなあ。体調管理は社会人の基本らしいしなあ。


「やっぱ……行きゃよかったかも」


「そんなフラフラ状態で出勤したら迷惑がかかるんじゃないですか?」


「風邪で休んだらイヤな顔されるんだよ、サラリーマンは」


「そんな会社おかしいでしょう」


「いや、普通だ、それが普通なんだ」


 毎朝5時に起きて夜の10時に帰ってくる。

 寝て、仕事をして、また寝る。

 それを繰り返すだけ。

 

 それが俺の普通だ。


 だって、毎日7時間は寝られるってことだろ。

 悪くない。全然休める。

 ちょっと女子高生と仲良くなれたからって、夜更かしして体調を崩した俺が悪いのだ。


「……普通じゃないですよ、そんなの」


「まあ……その、なんだ。お前はちゃんと勉強しろよ。大学もいいとこ入って、真面目に楽しく過ごせよ」


 じゃないと、俺みたいになっちまうからな。


 あー、頭がおかしくなってきた。

 何を言ってるんだ俺は。

 急に感傷的になる男ほどサムいものはないというのに。


「お前、もう帰っていいぞ。学校行く準備しろよ」


「今日は私も休みます」


「ちゃんと勉強しろって言ったばっかだろ」


「心配なんです」


「なんだよ急に」


「死んでしまわないか心配です」


「風邪で死ぬわけないだろ」


「でも、とても苦しそうです」


「風邪は苦しいが、死にはしないぞ」


「だから早く治さなきゃなんです」


 そう言って、彼女は俺の手をギュッと握ってくる。

 なんなんだこいつは。

 俺のことが好きなのか?

 もしそうだったら非常に趣味が悪いとしか言いようがないな。


「……お前さ、もしかしておっさんフェチか?」


「え? おっさん?」


「俺、25歳のおっさんだぞ」


「何言ってるんですか……25歳がおっさんなわけないでしょう」


「お前から見たらおっさんだろ」


「私から見ても若者ですよ。むしろ若造ですよ」


「若造はイヤだ」


「だから、その、人生まだまだこれからですよ」


 どっかの保険会社みたいなセリフを大真面目な顔で言う女子高生。

 なんだったっけ、あのCM……アクサダイレクトじゃなくて、えーっと。


 ……眠くなってきた。


 まさか女子高生におてて握られたまま眠ることになるとは……社会人として、死にたいくらい恥ずかしいよ。



◆◇◆



 あれからだいたい2週間ほどが経った。


「死にたいです……ああ死にたいです……死にたいです」


 壁の向こう側から、死の575が聞こえてくる。

 最近静かになったと思ったらまたこれか。


「地獄への……穴があったら……入りたい……あっ、中々うまいですよこれは」


 仕方ない、久しぶりに相手をしてやろう。


 コンコンと扉を叩くとすぐにカギが開いた。

 小さく開いた扉の隙間からニュッと顔を出す彼女。


「よっ、待ってました」


「うるさいから静かにしろ、じゃーな」


 そう言って振り返ろうとする俺の袖を必死で掴んでくる。


「ちょっと待ってくださいよ……快気祝いの句まで送ったのにぃ」


「別にうまくはなかったぞ」


「がびーん」


「女子高生ががびーんとか言うな」


 相変わらず楽しそうなやつだ。


「最近静かだったのに、なんでまた死にたいとか言い出したんだ」


 彼女は恥ずかしそうに目線を逸らしながら言う。


「それはあの……やっぱり迷惑じゃないですか、こういうことするのって」


「おお、成長してる」


「仕事も忙しいでしょうし、控えようとは思ったんですが……寂しくて死にそうになってしまいました」


「ウサギか何かかお前は」


「おっしゃる通り、ウサギ年です。ちなみに血液型はB型です」


「……久しぶりに話すと疲れるな」


 開いた扉の先から、何やら美味しそうな香りがする。これはビーフシチューか?


「今日は私、気合を入れてご飯を作ったのです。食べて行ってください」


「カップ麺じゃないだろうな」


「作ったって言ってるでしょ」


 彼女が作った気合の入ったビーフシチューを食べる。意外とちゃんと料理できんだな。意外性だけでできてんのかこいつは。

 

「今日は見ないのか、あのドラマ」


「だって迷惑がかかるじゃないですか。明日も朝早いんでしょう」


 時刻は既に夜10時を回っている。

 前までであればもう寝る時間だ。


「別にいい。仕事は辞めた」


「……え?」


 ビーフシチューをスプーンで掬い、口に運ぶ。ほんとに美味いな。毎日食べても飽きなさそうだ。


「ほ、本当に辞めたんですか?」


「おう」


「あっさりしすぎでは?」


「こってりしてた方がいいのかよ」


 そう、俺は仕事を辞めた。


 まさか自分が辞表を叩きつけるなんてドラマじみた行いをすることになるとは夢にも思わなかったが、あれは案外爽快なものだな。


「じゃあ、今は無職ってことですか?」


「人聞きの悪いことを言うな。転職活動中と言え」


「なんでまたそんな思い切ったことを」


「お前が言ったんじゃないか」


「え?」


「アメリカンホームダイレクトだよ」


「言ってる意味が分からないんですけど……」


「つまり、人生まだまだこれからだ、と思ったんだ」

 

 俺は勝手にテレビをいじると、ブルーレイ・ディスクから件のドラマの続きを再生した。


「だから見ようぜ。楽しみにしてたんだよこのドラマ」


 そう言って彼女にイヤホンを渡す。


 彼女は俺の顔を覗き込むようにして見ると、その端正な顔立ちをへららっと崩して笑った。


「風邪、ちゃんと治ってよかったですね」

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隣の部屋に住んでる女子高生が毎晩死ぬ死ぬ詐欺をしてきて眠れないんだけど! マクセ @maku-se

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