目と本とサッカーと


 最初が肝心かんじんとは言うものの、初手しょてはだいぶかしこまり窮屈きゅうくつだ。

 書き始めた当初は全てにいて、まだなにも分からない。

 もしかしたら数年経った後も間違っていることは多いと思う。

 過去の記録を目の前でかざすように眺めれば、自分の胸の奥の切羽せっぱ詰まった様子が感じられるのだ。

 今でもその感情は記憶に新しい。

 ここからの一歩というのは、いつでも不安が付きもの。

 そのために守りを固める事は不思議ではない。

 だから私はたぶん、自然と無意識に保守的なやり方をとっていたのだろう。

 積み上げてきた足跡を頼りに、もっと自分らしく自然体で、目の前の覆いを取り払った姿でありたい。素でいたい。

 努力は惜しまず堅実に行こう。


 私が集中してたくさんの本を読むようになったのは、二〇二三年の事である。

 ほんの些細ささいな理由で眠りに支障をきたし、きっと携帯ばかりいじるのはよくないんだと信じて読書に身を投じた。

 そして今日こんにちに至って、内的な問題が生じた。

 目の疲れである。

 これまでにもたびたび感じてはいた事だった。

 携帯を見る時間を減らしても、読書だって目が疲れる行為であるのは知っていた。

 けれども私の中では納得がいかない思いが渦巻いた。

 そんなある日、洗った洗濯物をかごに移していた時の事である。

 頭を動かしながら、あっちを見てこっちを見てという動きをしていたらハッと気づいた。

 本を読む時に、一行一行を上から下まで眼球が行き来するから疲れるのではないかと。

 ではそれならば目ではなく頭を動かせば疲れの軽減を期待できるのではないだろうか……?

 私はその後すぐに部屋に戻り、今までの読書の仕方と気づきを得た仕方とで比べてみた。

 それはほんの少しの違いだったけれど、たしかに目の動きが異なるのだった。

 ここでまた携帯という媒体ばいたいを持ち出すが、携帯と本の面積はかなり違う。

 思えば携帯は画面が小さいから頭を動かさずに、それと同時に目をる範囲はそれほど広くないように思う。

 するとどうだろう?

 携帯を使った場合に目が疲れる理由は、本体が放つ光によるものがおもだと考えられる。

 集中して凝視ぎょうしする形は瞬きを忘れる。

 それは本も携帯も同じ事であるから、この要因は省く。近くで物を見るという行いも。

 次の日から私は、新しいやり方を意識しつつ読書にのめり込んでいった。

 最初の方はまだあまり要領を得ず。

 目の力を抜いてぼんやりと全体を眺めるようにするなど工夫してみた。

 多少は楽な気はしていた。

 でも結局は、目を休める時間を増やす事に落ち着いた。

 これがもってシンプルでかんたん。

 減る時間があるという事実には目を瞑るが。

 一連の流れは問題と対策を様々さまざま派生はせいさせていく。

 このやり方がダメならじゃぁこうしてみよう……いやもしかしたらそもそも目の付け所が違うのかもしれないから、全く別の方法もあるかも……考えられそうな手は無数にあるのだろう。

 それは大きく一生をても、決して交わる事など避けられない普遍ふへんの教育者のような思考なのかもしれない。


 日頃から『目』をよく使う人たちはどのような者だろうと考えた時に、真っ先に頭に浮かんだのはスポーツ選手だった。

 試合中はずっとと言っていいほど周りに気を配り、常に自分や仲間の事を把握しておく。

 視野で物をとらえ、頭を前後左右に振る事によってそれはかなりの疲労となって返ってくるのだろう。

 私たちが想像もできないほどに。


 少し前から好きで読んでいる某サッカー漫画がある。

 悩みのタネにシンクロしてきて、なぜか楽しい。

 現実世界のサッカー選手たちでもこのぐらいの身のすり減らしかたをさせて、毎試合を戦っているのだろうか。

 両方の時間軸に思いを馳せてしまう。

 毎日のトレーニングは、九十分を戦い抜く力を強固にさせているのだと分かる。

 どれほど大変なものか、これも私たちには想像もできない。

 けれど選手たちの熱い躍動を目にすれば、練習は嘘をつかないって、それだけは分かる。

 


 

 


 

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日々の思いを形に 莉子 @riko1018

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