二章 魔導書

 目を閉じた後の記憶はなくなったようで、目を開けるともう朝だった。

 とても熟睡だったのが素晴らしい。

 枕元に置いてあるスマホを見ると時間は、九時半。

 その下には、愛喜からの届いたメッセージのログがたまっていた。とりあえずあとで返信しておこう。

「あれ、マナは?」

 俺は、マナのことを思い出しベッドの方をみる。

 でも、ベッドの上にはマナはいなかった。もう起きているのだろう。

 俺は、布団から出てリビンに向かった。

 マナはリビングでテレビを見ていた。

 平日の十時近くになると、ニュースしかやってない。

 テレビからはスッキリとした音が聞こえている。

 マナはそのニュースを見て、クスクスと笑っていた。何が面白いのだろうか。

 最近のニュースはバラエティー番組みたいなところが多いよな。

「マナ、おはよう」

「蝶夜、おはよう」

 さん付けされないのは、まだ慣れない。こそばゆい。

「蝶夜、今日はなにをするのですか」

「うーん、今日はなにもすることがないかもな」

「そうですか」

 マナは少ししょんぼりした。

 そんな、マナを元気づけようと、話題を振る。

「朝ごはんは食べた?」

「食べてないです」

 あからさまに声色が上がっている。食べ物のことになるとすぐ喜ぶことがわかった。

「なにがいい?」

「うーん、朝なら目玉焼きですかね」

「目玉焼きか、よし作ろう」

「ありがとうございます」

 卵を二つフライパンの上に落とす。綺麗な目玉焼きが二つ出来上がった。それを皿に乗せて食卓に並べた。

「そうだ。醤油とソースどっちをかける」

「私は、塩派です」

「新たな勢力が出たな」

 マナは、首を傾げた。

「俺が醤油派で、愛喜と英季がソース派なんだよ」

「そうなんですね」

「そこにマナの塩派勢が今日爆誕したっていうわけ」

「私は新しい勢力なんですね。みんなを塩派に引きずり込んでやりますよ」

「それは、楽しみだ。今日は俺も塩をかけることにするかな」

「なら、私は醤油にしますね」

 お互いに好きな調味料を目玉焼きにかける。

「「いただきます」」

 これは、うまい。塩もなかなか目玉焼きにあうじゃないか。俺は、目玉焼きの黄身よりも白身の方が好きだ。そんな白身と塩はよく合う。

 あれだ。ゆで卵に塩理論と一緒だ。卵の白身と塩は出会う運命にあったのだ。

 白身はよかった。問題の黄身はどうだ?

 黄身をご飯の上に乗せ、黄身を箸で割るとトロンと中が溶けて流れる。そこに塩を一振りかけてみる。目玉焼きの黄身かけご飯だ。

 半信半疑で、一口食べてみる。うまい。これは、最高だ。俺も塩派になろう。

実は俺、どちらかというともさもさとした黄身の方が好きだ。生憎時間もないからトロトロの黄身になってしまう。

 その黄身を単体で食べるのが嫌なので卵かけご飯風にしている。

 マナはその様子を見た後、俺の真似をして黄身をご飯の上に乗せた。そして、一口。

「これはおいしいですね。目玉焼きをこんな食べ方をしたのは初めてですが、これは絶品ですね。次からこうやって食べます。私、実は黄身が苦手なんですよ」

「同じだね。俺も黄身はそんなに好きじゃないんだ」

「蝶夜と一緒ですね」

 マナは、目玉焼きの黄身かけご飯を掻き込んで、口を膨らませた。

「俺さ。これから塩派になるわ」

「ほんとですか」

 マナは口に含んでいたご飯を、飲みこんでから喜んだ。

「蝶夜も私の軍に加入ですね」

「軍ってそんな大規模かよ」

 二人はクスクスと笑った。



「「ごちそうさまでした」」

 食事を終えて、食べ終えた食器をシンクに片付ける。

 愛喜からのメッセージのことを忘れていた。急いでスマホを開いてメッセージを確認する。

『この後、マナとどうするの?』

『今日、どうしようか』

『今から英季と一緒に蝶夜の家に行くね。待っててね』

 三件のメッセージが送られていた。

 え、どういうことだ。今から来るって。なにも準備してないよ。

 最後のメッセージが送られた時間は、十時ちょっと過ぎ。今は、十一時か。

 そろそろ来るじゃん。

 そう思った瞬間。ぴんぽーんっとベルが鳴った。

「また、ピザが来たんですか?」

「違うよ。たぶん愛喜と英季だよ」

 俺は、二人を部屋に上がらせた。

「お前ら、暇人かよ」

 俺は二人を馬鹿にする。

「夏休みよ。遊ばないと損じゃないの」

「そうだそうだ」

 二人とも、わーわーとうるさい。静かだった空間が賑やかになった。

「二人ともいらっしゃい」

「マナちゃん、昨日の夜なんもなかった?」

「ピザ食べました」

「いや、そういうことじゃなくて」

 愛喜があたふたしている。初めて見たかもしれない。

 俺は真剣な表情で二人に話しかける。

「二人に協力して欲しいことがあるんだ」

「なんだ?」

「なによ?」

 二人は、息ぴったりで俺のほうに向く。

「マナのことなんだけどさ」

「マナさんのことならなんでもいいぞ」

「そうよ」

「そう答えると思ってたよ」

「みんな、ありがとうございます」

 マナは胸に手を当て、深く礼をした。長い髪が床についてしまっている。

「そんなそんな、もうマナさんは友達だ。友達のためならなんでもするぜ」

「なにその、きざなセリフ。英季にはあわないわよ」

「俺にもかっこつけさせろよ」

 英季は、がっくしと肩を落としている。完全に心を折られてしまったな。そんな、英樹のことはほっといて俺は、本題に入る。

「マナの時代に戦争を起こした元凶の魔導書がいま、マナの手元にある」

「Apothekifishi」

マナの手のひらに魔法陣が生まれ、魔法陣から分厚い本が現れた。原理はどうなっているのかさっぱりわからない。まるで、四次元のあのポケットのようだ。

「これが、問題の魔導書です。まだ、中身は見ていません」

「なんでなかを見ていないんだ?」

「それが……」

 マナは、一度呼吸を置く。

「わからないんです。防衛魔法がかかっているかもしれません。」

「防衛魔術ってなんだ?」

「それは、この本を読もうとした人や、盗もうとした人を排除する魔法です。この魔法の中には。開いただけで抵抗力のない人を死なせるなんてものもあります」

 部屋に緊張が走る。

「私が開きます。皆さんは後ろに下がっていてください」

 三人は魔導書から距離をとる。

 もしかしたら、死の呪文が発動するかも。何が起こるか分からないという恐怖が四人を襲う。

「Prostatpte」

 魔法陣が俺たち目の前に現れた。きっと盾みたいな魔法だろう。

「いきますよ」

「うん」

 マナの手によって本が開かれた。

 すると、本が暗黒の光を放った。黒い光なんて見たことがない。まず、存在しないと思っていた。魔法っていうのは、科学すら超えているのか。

「みなさん、気を付けてください」

 マナの叫び声が聞こえる。

 暗黒の光が消えた。目の前に謎の生き物がバサバサと浮いていた。

「え」

 普通に生きていたら見ることがないはずの生物が目の前にいた。

 そいつは、言葉で表すと悪魔というのが正しいだろう。

 ボディの色はすべてが灰色。額にはうねる日本の角が生えている。手足が異様に長く、指は三本。鋭い爪が長く伸びている。あの手で攻撃されたらひとたまりもないだろう。そして、一番の悪魔と決定付けたものが、背中から生えた大きなコウモリの羽だ。

 部室で読んだUMAの本に出てきた悪魔にそっくりだ。

 怖い。

 体に力が入らない。やばい。

 俺は、腰を抜かして床にへたり込んでしまう。

「蝶夜、危ない」

「え」

 マナの声で、現実に戻された。これは夢じゃない。逃げないと死ぬ。でも、逃げるってどこに?

 そんな考えはすべて無駄だった。

 気付いた時には、悪魔は目の前にいた。

 これは絶対死んだ。

 悪魔は、長い腕を振り下ろした。鋭い爪がよく見えた。悪魔の姿がすべて遅くみえる。

 パッキーン。

ガラスが割れるような高い音が響いた。

マナが魔法の盾で守ってくれていることを、俺は思い出した。

「ありがとう。マナ」

「まだ、来ますよ。避けてください」

 悪魔がもう反対の腕を振り下ろそうとしている。体を動かさなければ、死ぬ。避けろ。

 足に力を入れて、床を蹴飛ばす。腰を床につけながら滑るように移動する。

 鋭い爪が、顔のすれすれを通る。

「Floga」

 マナの手元から、火球が現れる。その火球は、悪魔に飛んでいき、悪魔を燃やす。悪魔は、空中で体をうねらせて悶え苦しんでいる。

 悪魔は、その火の中で、消し炭になって消えた。

 俺たち、三人はポカンと口を開けたまま時間が過ぎていった。

「今のは……」

「あれは、マドンという中級の悪魔です。まだ油断しちゃいけません。この本にはまだ悪魔がいるかもしれません。気を抜かないでください」

 一ページ開かれた本を、四人は黙って見ている。

 本は微動だにしない。いたずらに時が進んでいく。

「このままだと拉致がいきませんか。私がもう一枚開いてみます。皆さんは離れてください」

「マナちゃん、お願い……」

 マナは一歩踏み出して、本に手を伸ばした。

 俺は唾をのんだ。再び同じようなことが起こったら次は死ぬかもしれない。恐怖がまた襲う。全身に力が入る。

 マナが一枚ページをめくった。

 次は、真っ白い光が網膜を刺激した。思わず目を閉じてしまう。

「みなさん、安心してください。もう大丈夫ですよ」

「ほんとに?」

「はい」

 ゆっくりと目を開ける。

 目の前にあった本は、空中に浮いていた。激しい光から目を慣らすためと、目の前の状況を確かめるために目を擦った。

 目の前の光景は変わらない。

「この本をどうすればいいんだ?」

「手に取れば読めるはずです」

 そう言って、マナは本を手に取ってめくっていく。マナは何度もうなづいたり、険しい顔をしたりした。

「なんて書いてあるんだ」

「変なことに本の内容はすべてが日本語で書かれているのですよ」

「それはおかしいことなのか?」

「いつも、私が演唱しているのは日本語ではないしょう?」

「確かに」

「日本語の魔法は、もう時代遅れだと教えられたんですが、まだ存続するなんて」

 マナは首をかしげている。

 俺とマナの話を、英季と愛喜は目をぱちくりさせて聞いていた。

「そして、この本は私たち日本国軍しか読めないはず。そして、書けるのも同じく私たちのみ……」

「ということは、もともとは、マナたちの国の物だということか」

「そういうことになります。戦争の原因は私たち……」

 マナは暗く俯いた。

「内容次第では、悪者じゃないかもしれないよ」

「そうですね。じっくり読んでみます。少しお時間をください」

 マナは本を持って、寝室に入っていった。

 数分間の沈黙が続く。俺は、さっきの出来事を飲み込めずにいた。他の二人も飲み込めていない様子だ。

 俺たちは、そのまま床へへたり込んだ。疲れが色濃く顔に出ている。とりあえず、話しをしなければ。

「愛喜と英季はこれからどうするんだ?」

「俺は、そろそろ帰るよ」

「なら、私も一緒に帰るわ」

「そっか」

時計を見ると午後三時を過ぎていた。二人が帰るにしては早かった。でも、この数時間で起こった出来事があまりにも大きすぎていたため、仕方なかった。二人とはもう少し話していたいと思った。だが、このもやもやとした気持ちを胸の中にしまった。

「じゃあ、蝶夜またね」

「またな」

「うん、じゃあな」

 玄関の扉が閉まる。孤独になった。

 ここ三日間は、家の中でも騒々しく休めないと思っていたのに、急に静かになると寂しさが襲ってくる。

 俺は、ソファに座りテレビを付ける。バラエティー番組が流れた。テレビからは、複数人の笑い声が聞こえ、部屋の静寂を打ち消した。

 しかし、それは寂しさを紛らわすことしかできなかった。心の奥に眠るモヤモヤの解決にはならない。

 お湯を沸かしてインスタントコーヒーを飲む。今日三杯目だ。

 俺は、コーヒーの水面に視線を落とした。

 ゆらゆらとコーヒーが波を生み出していた。

 それを見ていると、さっきの様子が鮮明に思い浮かんだ。

 今まで、魔法について誰よりも積極的に向き合ってきたと思っていた。しかし、実際目の前にすると何もできないじゃないか。

 今まで魔法なんて見た時ないから仕方ないと言えばそうなのだが。俺は、マナに助けてもらってばかりじゃないか。

 私利私欲のために、マナの力になるなんて言ってしまったがために招いた事故だ。

 私が我慢すれば、オカルト愛好会のみんなを危険に晒さなくて済んだのに。しかも、いざとなったときに一番のお荷物になっていたのは俺だ。

 テレビを見ていたら、時間はもう九時になっていた。なにもない時間だった。

 もやもやした気持ちを解決しないまま、俺は布団に潜った。

 今日はなにも食べる気になれなかった。

 マナはまだ魔導書を読んでいる。

「蝶夜、もう眠るんですか?」

「そうする」

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 目を瞑って眠る努力をする。意識をすればするほど眠れなくなっていく。意識しないと意識するというジレンマに陥っている。

 寝れずに何度も寝返りを何度もうつ。

「蝶夜、眠れないのですか?」

「まぁな」

「悩み事ですか?」

「そんな感じだよ」

「悩み事は一人で抱え込まないでくださいね」

「ありがとう」

 マナの言葉は脳の片端にも残らなかった。俺は、胸のもやもやが頭のなかをグルグル回っていた。

 すると、布団になにかが入ってきた。背中に暖かい感触が俺をドギマギさせた。さっきまでの恐怖が全て吹き飛ばす心臓の音。

「蝶夜、ちょっといいですか?」

「うん」

 柔らかな腕が俺の胸を優しく触れる。何をされるん俺は。思春期の俺には刺激が強すぎるよマナさん。

「母親は私が、悲しんでいたり不安がっているときにこうしてくれました」

「そうなんだ」

 マナの腕は俺の体に巻き付いてくる。背中には、柔らかく温かな感触が俺の思考を奪っていく。

 マナの体は段々と密着していき、背面は全てマナの感触に侵されてしまった。

「先ほどから蝶夜の様子がおかしくありませんか? 休憩がてらリビングを行ったら蝶夜は暗い顔をしてコーヒーをじっと見ていましたし。今も暗いですし、いつもの蝶夜じゃないですよ。どうかししたんですか?」

「まぁね」

 体をねじりマナの方に振り向こうとする。

「恥ずかしいので、こっちは見ないでください」

「あ、うん」

 ねじっている体を、マナの腕によって止められた。仕方なく体をもとの姿勢に戻す。

「話してください」

 マナの吐息と声が耳に触れる。甘くとろけてしまいそうだ。

 マナの体はどんどん密着していく。俺の体は優しく包み込まれた。陽の光を浴びているように、聖母にでも守れているような、そんな感覚。

 温かさに、俺の言葉は奪われなにも話せなくなる。話す内容も考えていない。話したくないわけではない。話せない。

「自分の話になってごめんなさい。でも話させてください」

「私は蝶夜に助けられました。こっちに来てからずっとです。あの時、途方に暮れていて明日すら生きることのできなかった私を、蝶夜は助けてくれました。この世界には魔法がないのに私のことを信じてくれました。その後も私が生活できるように環境を整えてくれました。感謝することばかりです。今回も私のために命を危険を侵してまで協力してくれて感謝してもしきれません」

「俺は、私利私欲のためにマナを利用していただけなんだ。マナのために環境を用意したのも自分が魔法をみたいからなんだよ。魔法だったらマナじゃなくてもよかったんだよ」

 思わず、声を荒げてしまった。ピクリとマナが体を震わせたのを背中越しに理解した。また、自分は我儘を言ってしまった。胸の奥がズキズキと痛む。

「私はそんな蝶夜でも感謝します。どんな理由でも私を助けてくれたことに変わりありませんから。私は蝶夜のことが好きです」

「え」

 マナが俺のことを許してくれることは予想ができた。彼女はとても優しい人だからだ。しかし、最後の一言、それには納得ができない。脳が追い付いていない。

 俺は、つぎこそ体を捻ってマナの方を振り向く。

 マナは驚いた表情を見せていた。

 乱れた金色の髪、白い肌、ピンクの柔らかい唇。数センチ先にマナの顔がある。マナの吐息が唇にふれる。

「あんまり顔は見ないでください」

「あ、ごめん」

 マナは俺の胸に顔を隠した。

「ありがとう、マナ。おかげで自信をもらえたよ」

「よかったです。いつも蝶夜に戻ってもらえたら私は嬉しいです」

「明日はなにをしようか」

「そうですね。また料理教室とかしたいです」

「いいね」

 その夜は、同じ布団に入りながら寝た。心臓の鼓動は落ち着きを取り戻していき、一人で寝るよりも心地よく眠れた。



 次の日、俺は英樹と愛喜の二人を、電話で家に呼び出した。電話口での二人の反応は思っていたよりも明るかった。昨日のあの事件があったのでマイナスな反応をされても仕方がないと思っていたのだ。二人は揃って『マナを最後まで手伝い』と言っていた。

 二人はいつもと変わらない様子で部屋に上がる。

「戦争を止める策はあるの?」

 愛喜は来てすぐに口を開く。俺たちは悩む。

 俺はダメ元でアイデアをだす。

「そうだ。写せばいいんだよ」

「え」

 二人は拍子抜けっていう感じの顔をした。

「そんな簡単なことでいいのか?」

 英樹が、そんなバカなという顔で質問を投げかける。

「たくさん複製すれば今度たくさんの国に配れるだろ? それを翻訳すればどの国でも読めるって寸法さ」

「そういうことね」

「すごいですよね。早速やってみます。Diplasmos」

 魔法陣が厚い本の上に現れた。その魔法陣は突然回りだし、その回転は次第に早くなっていき魔法陣が激しく光り始めた。

「やばいです。伏せてください」

 俺は完全に油断してしまった。

 俺の体はなにか硬いものに飛ばされた。体が宙に浮いているとき、視界の端で英季と愛喜がしゃがんでいるのが見えた。

俺は予想できないところからの衝撃に俺は受け身を取ることができずに背中から床に倒れ頭を強打した。

 俺を飛ばしたのがマナだと理解するのに時間がかかってしまう。

「いたた」

 俺は、ぶつけた後頭部を手で押さえる。

「大丈夫ですか?」

「ああ、うん。なんとか」

 マナは俺の体を覆うように倒れている。マナの体重が重く体にのしかかっている。しかし、胸部に暖かくて柔らかいものがあったっていることが俺の思考をばかにした。

 マナは上目遣いで俺の顔を覗き込んでいる。顔の奥には谷間が見える。触覚と視覚をマナに奪われ、理性がどっかに飛んでいきそうだ。

「いつまで、そうしてるのよ」

 愛喜の声で我に帰る。ハッとして俺は急いで体を起こした。

「魔導書はどうなったんだ?」

「それが……」

 俺の質問にマナは、答えることなく黙り込んでしまった。マナの反応を見るに、失敗したことはすぐにわかった。

 俺は、魔導書を確認するために魔導書をめくる。魔導書の中身は変わった様子がない。しかし、魔導書の複製品がどこにも見当たらない。きっとコピーを失敗してしまったのだろう。

「コピーに失敗しちゃったのか。できるまで何回も挑戦しようぜ」

 英季が明るくマナを励ます。しかし、マナはずっと下を向いたままだ。

「コピーに失敗したわけじゃないんです。呪文も完璧でした。しかし……」

「マナちゃん、なにがあったの?」

 マナの顔はどんどん暗くなっていく。

「それが、この魔導書には魔法を拒否する魔法がかかっているんです」

 三人は首を傾げた。

「マナちゃん、もっとわかりやすく教えてもらってもいい?」

「はい。この本には魔法の効果がなに一つ効きません。さっきみたいにコピーの魔法や、炎の魔法で燃やしても無駄です。水の魔法でも濡れることはないでしょう。この魔導書には魔法を打ち消す力があるんです」

「ということは、コピーができないってこと?」

「そういうことです」

 俺たちは沈黙した。これでは、戦争を止めるすべがなくなってしまう。何も手を打てずに時間だけが過ぎていく。

「魔法ってさ。絶対、魔導書がないと覚えれないのか? ほら、口頭で教えたりとかないのかなってさ」

 英季が、沈黙を破った。英季の発言の意味が俺にはわからなかった。それを知ってなにになるのか。

「いや、魔法を使うために、魔導書が必要なわけではありません。魔法の原理は言葉の力ですからね。私だって今覚えてる大半の魔法は学校で先生に教えられました。魔導書は教科書です。あれば覚えやすいっていうだけです」

「そうなんだ。てことわよー。俺らもマナに教えてもらえば魔法が使えるんじゃね?」

「そうですね。時間はかかると思いますが、使えるようにはなると思いますよ」

「やったぜ。魔法が使えるなんて夢みたいだ。なぁ、蝶夜。お前の夢が叶うな」

「あぁ、そうだな」

「おい、お前の夢だっただろ。もっと食いついてもいいんじゃないか? お前が魔法使いになれるんだぜ?」

「英季、ちょっとうるさいわよ。あんたもちゃんと考えなさい」

 愛喜の言葉で、再び沈黙に戻る。さっきよりも空気が重たい。

 俺は、さっきの会話を思い出す。今はそれどころじゃないけども、魔法を使うことができるのはとても興味深い話だ。気にしないでいることはできなかった。

『魔導書は教科書。口頭でもいい。魔法の原理は言葉の力』

 マナの言葉がグルグルと頭の中を回る。俺は、首を振って思考をリセットしようとする。今考えるべきはマナの時代の戦争を止める策だ。個人的な欲求は後回しにするんだ。

 しかし、何度リセットをしても、さっきの話が頭のなかをじわじわと侵食する。

 魔法の原理は言葉の力。

 はっ。

 思いついたぞ。

「手書きをすればいいんだ」

 思わず、頭の中にあった考えが口から出てきてしまった。

 突然の音に、三人は驚いている。

「あ、ごめん。いい案が思い付いたんだよ」

「びっくりしたわよ」

「ほんとだぞ。なんか言ってから話してくれよ」

 二人がブーブーと俺に文句を言ってくる。今はそれに触れている場合じゃない。

「ごめんって言ったじゃん。それよりも、いい案が思い付いたから聞いてくれよ」

「なんですか?」

「魔導書を俺たちが書き写せばいいんだ!」

 三人は、なにも言わない。表情一つ変えない。なんだこの変な空気は。さっきとは違う沈黙だ。十五秒くらい四人はお見合いをしていた。

「なんか言ってくれよ」

「いや、だってよ。お前の言ってること滅茶苦茶だぜ」

「そうよ。蝶夜にしては珍しくバカな意見を言ったわね。今日は考えるのやめる?」

「いやいや、俺は至って真剣だよ。だってさ、魔導書は教科書なんだぜ? 俺たちだって、教科書の内容をノートに写す時あるだろ。それと一緒だよ」

「そう言われればそうだな」

「一理あるわね。でも、勉強とは違うのよ? 魔法よ。こんな簡単な方法でいいはずがないわ」

「やってみなければわからないだろ」

「確かにそうだけども……」

 愛喜はいつまでも賛成してくれない。頑固なやつだな。

「愛喜いつまで渋ってるんだよ。やってみなきゃわからないだろ」

「英季、あんたさっきまで反対してたじゃない」

「このまま黙ってたってなにも始まらないじゃないか」

「それはそうだけども……」

 英季も説得しようとするが、なかなか意見を変えようとしないな。

「そうですね。やる価値はあります。大変だと思いますが、これしか策はないです」

「魔法的には大丈夫だよな?」

「全然大丈夫ですよ。昔の時代だと手書きで写されたものもあるって聞きますし。きっと成功します」

 マナは分厚い魔導書の最後のページを開いた。

「この魔導書全部で百二十七ページもあります」

 マナ以外の三人は、肩に力が入る。これは大変な重労働になる。これからやらなければいけないことを考えると倒れてしまいそうだ。

「やるしかないか……」

 英季は、ため息をついた。誰もペンを持とうとしなかった。

 そんなとき、パンッと高い音がなった。音の出たほうを見る。

 愛喜が、自ら自分の頬を挟むようにして叩いた音だった。愛喜の両頬は赤くなっている。

「貸しなさい。私も手伝うわ」

「愛喜さん、ありがとうございます」

「いいのよ。私たち、もう友達だもの。友達が困ったときに助けるのは当たり前よ」

 愛喜はペンを持ち、魔導書の一ページ目を写し始めた。その表情からはやる気が満ち溢れていた。

 俺たちも、その様子に動かされた。

 写す作業は、三十分交代で行われた。みんな次の番が回ってくるのをはやく回ってくるのをソワソワしながら待った。

 待っている間に、マナが使える魔法について教えてもらう。そうして俺たちは、毎日魔導書を写す作業をコツコツと進めた。



 俺の家に来て、朝からずっと魔導書を写し続けてから二週間くらい経った。

 やっと、魔導書の写しに成功した。

 全百二十七ページ。今までやってきたことの中で一番頑張ったことだろう。

「みなさん、ありがとうございます。ほんとにありがとうございます」

 マナの目には涙が浮かんでいた。

「友達だから当たり前だ」

「そうだよ。マナちゃんは私たちの友達なんだから。泣くのは戦争が止まってからにしなさい」

 愛喜はマナの涙を指で拭う。しかし、マナの目からさらに涙が溢れでてくる。愛喜の瞳までうるうるとなっていく。愛喜はその涙がこぼれないように必死に唇をかんで我慢していた

「いつでもこっちに来ていいからね。いつでも戻ってくるのよ」

「はい。みなさん。ほんとにありがとうございます」

 愛喜とマナ抱き合った。我慢していた愛喜の瞳からも涙がこぼれ落ちていた。

 その様子を見ていたら俺も自然と涙がこぼれてしまった。

 魔導書の完成は、マナとのお別れを意味するからだ。

「マナ、俺に魔法教えるために戻ってきてよ」

 俺は、無理矢理に頬を上にあげて笑顔を作る。きっと一番ぎこちない笑顔になっただろう。いや、笑顔と呼べるかすら怪しい。でも、笑ってお別れをしたい。俺はそう思っている。

「はい。また、戻ってきます。みなさんに魔法を教えると約束します」

「あっちが落ち着いてからでもいいからな。いつまでも俺たちは待ってるよ」

 マナは俺のところに歩み寄ってきた。小指を立てて待っている。俺も小指を立てて小指同士を絡めて約束をする。

「こんな感動的なときに申し訳ないけど、俺トイレに行くわ」

「英季ってば、ムードを考えなさいよ」

「ほんとにごめんよ。俺なしで進めてくれ」

 英季は、慌てるようにリビングを飛び出ていった。

「もう、あいつったら」

「英季さんらしいですね」

「そうだな。あいつらしい泣き方だ」

 三人とも気付いていた。英季の目が赤くなっていることに。きっと、みんなの前で泣くことが嫌なんだろう。あいつ、結構男前なところがあるからな。きっと、男は人前で泣いちゃいけないとか思ってるんだろうな。そんなことはないんだけどさ。

 でも、そういうところはとてもカッコイイと思う。

「英季さんが戻ってきたら私は、帰りますね」

 俺たちは、英季が泣き止むのを待った。その間、インスタントコーヒーを飲んでゆっくりとした。

「待たせて悪かったな。話は終わったか?」

「長いトイレだったな。安心しろ話は終わったよ」

「よかったよかった」

 英季の目尻真っ赤に腫れていた。鼻の先も赤くなっている。なにも隠せていないが、ばれていることは黙っておこう。

「どうなったんだ?」

「マナ、これから帰るって」

「そうだよな。しばらくお別れだな」

 英季は鼻をすすった。

 マナは椅子から立ち上がり、リビングの中心に移動した。それにつられるように愛喜と俺も食卓の椅子から立ち上がる。

 夏休みの半分以上をマナと一緒に過ごした。誰もこんな体験をすることはないだろう。一生忘れない夏休みになった。今まで夏休みの思い出を振り返ると不思議なことでいっぱいだ。魔法のこともそうだが、マナとの生活は刺激的で楽しくて仕方がなかった。これから、マナがいなくなると考えると、目尻が暑くなる。

「またな。いつでもこっち来ていいからな」

「蝶夜、ありがとうございます。また、きっと、戻ってきます」

 マナの目から涙がこぼれる。

「マナちゃん、あっちの時代でも元気でいるんだよ?」

「はい。愛喜さんこそ元気でいてください」

「マナさん。俺たちはいつ戻ってきても大歓迎だからな」

「英季さん。マナさんじゃなくて、マナで大丈夫ですよ。もう友達ですから」

「おう。マナは俺たちの友達だ」

 英季は親指を立てる。隠していただろう英季の涙もここでは堪えられずに流れる。

「Stigimiaima kinsi」

マナの、足元には大きな魔法陣が現れる。その魔法陣はキラキラと黄色に光り輝いてマナを下から照らしている。マナの涙がキラキラしながら、頬滑り落ちていく。

「それでは、さよなら」

「「「さよなら」」」

 魔法陣は激しく光り、部屋全体を黄色に染め上げた。その眩しさに目を隠してしまう。

 黄色の光が消え、目を開くとマナの姿はそこから消えていた。

 部屋には静寂が訪れる。

「行っちゃったわね」

「そうだな」

「戦争が止められたらいいけどね」

「マナならきっと大丈夫だよ」

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