推して知るべし

富升針清

第1話

 ソレは、真っ黒な姿をしていました。

 そして、真っ白な歯と、赤い舌。

 それが、全てでした。




 最初にソレを見たのは、飼っていたペットの犬が死ぬの時。

 私の産まれる前から我が家にいたペットの犬は、私が三歳の時に幕を閉ざした。

 家族の誰もが泣いている。

 そんな時だ。ソレを見たのは。

 ソレは、影だった。まだ、死ぬと言う事が理解できない私の前に突如現れた黒い影。

 大きな口をだらしなく開けて、パパより大きな手で、タローを抱きしめ食べていた。

 次に見たのは、私が六歳の時。母方の祖母が亡くなった時だ。

 祖母が入院していた頃から、その黒い影は祖母にすり寄って居た。その時、私は恐怖から泣き出し、大好きだった祖母の見舞いに行くのさえ嫌がった。

 あぁ、祖母もタローみたいにあの影に喰われて死ぬのだ。

 私は泣いた。

 会えなくなる悲しみの涙ではない。

 あの影に、大切な人が食われていく恐怖の涙だ。

 祖母の葬儀中も、黒い影は祖母をむしゃぶり喰っていた。

 これが死なのだ。あぁ、これが。

 私は、死を理解したのだ。

 ああ、これが、死なのか。

 私は涙も流さずその光景を目に焼き付けた。

 それからだ。日常的にあの黒い影が見える様になってしまったのは。

 事故で亡くなった級友、飢えで死ぬ子猫、殺された飼育小屋の鶏。死ぬ前には常にあの黒い影が寄り添って居た。そして、死んだあとはその死体を食べる姿を私は見た。

 食べると言っても、不思議と死体に損傷はない。きっと、あの影は魂を食べているんだろうな。

 子供ながらに、そう思った。

 でも、何を理解しても、私の恐怖は終わらない。

 考えてしまう。

 考えてしまうのだ。

 どうしても、次を。

 次は誰?

 家族? 恋人? 親友? そんな恐怖を抱えて私はこの人生を過ごして来たのだ。

 だから、私は人と距離をおく。

 黒い影が見えても取り乱さないために。

 だから距離を置く。

 家族の誰かに黒い影がついて居るなんて見たくないから、私は必死で家を飛び出した。

 私はこのまま一人で生きて、最後にはあの黒い影に抱かれ、喰われて死ぬのだろう。

 それでも、誰かがあの影に喰われる姿を見なくて済むなら。

 だから、恋なんてしないし、親友だって作らないんだ。

 六歳の、祖母の死から私はそう決意をしたのだ。

 しかし、27歳の春。私は愛する人と出会ってしまった。

 彼は優しくて、強く心を閉ざした私に笑いかけてくれる。まるで太陽の様な人だった。

 職場で出会った彼を、私は段々と好きになった。駄目だと思って居るのに、もっと彼と話したい。笑いあいたいと思ってしまう。

 そして、最後には彼の告白に頷いてしまうのだ。

 好きなのだ。愛しているのだ。優しい人。

 しかし、そんな幸せは長く続かなかった。付き合って三ヶ月目のある日、彼の近くには黒い影がいた。

 そして、翌日彼は死んだ。

 居眠り運転をしていたトラックに撥ねられて。即死だったそうだ。

 私が病院に駆けつけた時には、彼の体を黒い影がむさぼり食べていた。

 祖母の時の様に。


 ああ。あぁ。


 涙は出ない。

 その代わり、憎しみが生まれて来た。

 しかし、それはトラックの運転手でも、死んだ彼に対しても無い。彼の身体をむさぼるこの黒い影に対してだ。


「もぅ、やめてよ! なんなのよあんたは! 何で食べるの!? 私の大切な人たちを! あんたが、彼に近寄らなかっら彼は生きられたのに! 死ななかったのに! やめてよ! あんたたちなんて、もぅ、二度と見たく無い! 私の前から消えてよ!!」


 私は叫んだ。

 黒い影に話しかけるのはこれが始めてだ。

 黒い影は言葉が分からないのか、少し頭を不思議そうに傾けた。


「あんたのせいよ! あんたが彼を殺したんだ!」


 そして、私の人生を滅茶苦茶にしたのだ!


「なんで、私だけあんたが見えるのよ……。見えたくなかった。見たくない……。見たく無いよ……」


 私がその場で泣き出すと、黒い影は彼を喰べるのをやめて私の前に立つ。

 また不思議そうに頭を傾ける。

 私はそれを睨んだ。

 人殺し! そう、叫んだ。

 その時だ。いつもだらしなく開けていた口がへの字に閉まったのは。




 私は会社を辞めた。彼がいた場所にいるのが辛かったから。

 ずっと自宅で泣きながら、私は黒い影に罵倒を浴びせていた。

 黒い影は不思議そうに私について来て、私の言葉を聞いている。私が何か言うたびに、首を傾げる。私が泣き喚く度に、黒い影はその大きな手で自分の頭を隠した。

 まるで懺悔の様に。

 それがまた私の怒りを加速させる。

 彼が死んでから、一週間。私はふと、周りを見渡す。

 あぁ、ここに一週間前に彼はいたんだ。

 また、胸が痛くて、涙が溢れて来た。彼と撮った写真。お揃いのストラップ。彼の服。彼のマグカップ。

 あぁ、ここにも彼の姿がまだある。しかし、彼はこの黒い影に喰われたのだ。

 私はまた泣く。このまま干からびて死んでしまいたい。そう思った。

 しかし、そんな事では死ねないとわかっている。

 辛い。逃げたい。

 彼のいたこの空間から。彼を殺したこの黒い影から。

 私はトランクに服を詰め込む。

 もぅ、嫌だ。誰が死ぬなんてわかりたくも見たくもないんだ。涙が止まらない瞳そのままに、私は家を飛び出した。




 山奥にある、一軒家に私は荷物をおろした。

 ここは、彼を知らない。彼がいなかった世界だ。

 彼の写真も、何もかも私は家において来た。

 いつまでも、彼が居るきがして、それなのに私の目には彼が喰われる姿を写したままだ。そのギャップに、精神的にも肉体的にも私は悲鳴をあげていた。

 彼の死が受け入れれない。

 でも、死んだ。時間が癒してくれるなんて嘘だ。あいつが喰わなければ、寄り添っていなければ彼は生きていた。

 あいつはまだ、私の隣で首をかしげて居る。

 きっと、不思議他のだろう。今までの自分の事が見えて、尚且つ話しかけて怒鳴ったりないたり喚いたりした人間なんていなかっただろう。

 私も、私以外でこの黒い影が見える人なんて聞いた事もなかった。母も父も、姉も妹も誰も見えない。

 私だけが見える。

 そんな特別いらないのに。

 私はまだあいつを睨み続ける。彼を返せと暴れないのは、彼の気配が無い家だからだろう。

 随分と久々にここに来た気がする。

 鞄の中から携帯の着信音がこの何もない家に響く。

 ディスプレイには、母、と表示されていた。

 通話ボタンを押すと、母の声が聞こえる。


『瞳ちゃん、おばあちゃん家着いた?』

「うん」


 ここは大好きだった祖母の家。

 住む人もいない古びた家には、人のは愚か生活の気配も今はない。

 時折、母の兄である叔父が換気の為に一ヶ月に一回程度ここに訪れるだけ。

 私は、祖母が亡くなったあの日からここには訪れていなかった。


「うん。鍵は叔父さんから貰ったし、大丈夫」


 電話はいい。電話では、黒い影に寄り添われて居るかわからないから。


『一人で大丈夫?』

「うん」


 私の目の前には、私がまだ幼かった時にとった家族写真がある。

 写真もいい。黒い影が映らないから。

 私はいつも黒い影に怯えて生きて来た。

 そして、これからも。

 ずっと。

 私が死ぬまで。

 母の優しい電話は終わり、私はため息を吐く。

 横には黒い影。

 私がそれを見つめていると、不思議そうに首を傾げる。

 赤くだらしなく空いた口。

 気持ち悪いほど白い人間の様な歯。

 心底、気持ち悪い。

 私が顔を歪めると、黒い影はまたも不思議そうに頭を傾ける。

 彼の思いでを置いてきたと言うのに。

 彼を食べたこれは私の隣にい続ける。

 なんたる呪い。

 いや、なんたる地獄なのだろうか。




 私がこの家に越してきて、半年が経った。

 私はまだ、一人でここで暮らしている。

 だが、ここでの時間は驚く程穏やかに、そして静かに流れ入った。

 時間は彼の死を癒してくれる。

 それは矢張り嘘だ。

 私はまだ、何も癒やされてはいない。

 けど、叫ぶ事も、泣くと事も。日々に少なくなっていった。

 彼の死が当たり前になってしまえば、忘れてしまえば。そんな事を考えなくなる日は、そう遠くないのかもしれないが、ポカリと空いた穴を塞ぐのに時間は何の役にも立たない事は知っている。

 私はこの日も洗濯を干し終わった私は、何もする気力もなく縁側でぼんやりと空を見ていた。

 今日も、晴れている。

 それだけだ。

 空を見上げていると、足元でコロコロと音がする。

 私が顔を下げると、ソレはいた。

 黒い影が私の足元にどんぐりを落としている。


「……はぁ。また……?」


 最近、この影は私に時折どんぐりをやら花やらを持ってくるのだ。

 一体、何のために?

 慰めのつもりか?

 こんなもので埋まるものなんて何処にもないのに。

 丸々と肥えたどんぐりを拾うと、私は自分の隣に並べてやる。

 影はそれをじっと見守る。

 いつもこうだ。

 何が楽しいか。私は何も楽しくないのに。


「……お腹すいたな」


 虚しさと腹は繋がっているかもしれない。

 私は台所へと足を向けると影も付いてくる。

 何も食べないくせに。

 当てつけの様に、私は影の皿とコップを出す。

 自分でも最悪な悪趣味だと思ってる。

 簡単にパンを焼いて、昨日のサラダの残りを皿に敷き詰める。

 食べるはずもない影には少し。

 コップにはコーヒー。

 あの人の愛したコーヒーは、いつしか私が愛したコーヒーとなった。

 こんな事をしても穴は開くばかりなのに。閉じる様に、そして足掻く様に、追い縋る様に。私は逃げてきた現実を日常の何処かで摂取する。


「食べないの?」


 皿を置いて席に座るが、影は座らない。

 フォークもナイフも持たない。

 何しもない。

 たた、ここに居るだけ。

 私のこれが悪趣味だと言うのなら、コイツのコレも、最悪な悪趣味だ。


「死体は食べる癖に」


 お決まりのセリフを、自嘲の様に吐き出す。

 それでも、この影には何一つ伝わらない。

 もう、怒りも悲しみも薄れたと言うのに。

 それでも、寄り添う影を私は睨みつける。

 もう、この影を許してもいいとも思っている自分がいるのに。

 それでも、呪いの様な言葉を吐き出さずにはいられないのだ。

 でも、それ以上の言葉を飲み込む様に、私はパンを手に取った。




「すみません」


 開く筈のない玄関が開く音に台所から飛び起きれば、そこには眼鏡の男が立っていた。

 身なりは随分と汚れているが、持っている鞄だけは嫌に綺麗だ。


「はい」


 私は思わず怪訝な顔で男を見た。

 ここらで見る様な顔ではない。


「あの、申し訳ないのですが電話を、お借りできますでしょうか?」


 そう言うと、男は汚れた服からボロボロになった携帯を取り出した。


「僕の、壊れてしまいまして」


 情けなく照れ笑いをする男に、思わず気の抜けた返事を返す。


「はぁ……」


 何処の誰か何て知らないし、私は人間に会いたくなかった。

 誰にも会わずに済むこの家に越してきたのもその為だ。

 だけど、どうしてか。何かの気まぐれか。


「どうぞ、お入り下さい」


 私は男の鞄を受け取ろうと手を突き出す。


「え? あの」

「随分と汚れておられる様なので。お風呂でも如何ですか?」


 戸惑う男とは反対に、私は事務処理の様な声を出して男を風呂に促した。

 人がこいしかったのだろうか?

 この私が?

 あり得ない。

 でも、それでも。

 私は戸惑う男に家に入る様に促し、風呂場に追い込んだ。

 影はまだ、食卓で自分に出された皿を見ながら首を捻っている。

 死にに行かない人間には興味はないのだろう。


「服、洗いますので」

「そんなっ、申し訳ないですよ」

「お気になさらずに。そのままではタクシーにも乗れませんよ。それとも、お着替えをお持ちで?」


 随分と意地悪な質問だ。

 あの小さな鞄にそんなものが入っていないことぐらい私でもわかる。


「いえ、それは……」

「服もお出ししますので、どうぞごゆっくり」


 ああ。

 嫌になる。気まぐれというものは。

 人もアレも。




「あの、申し訳ないです。服までなんて……」

「父の古いものですが、入って良かったです。あの、電話は携帯でよろしいですか?」

「はい。助かります」

「どうぞ。私は部屋出ますのでごゆっくり」

「あの、本当に何から何まで申し訳ございません」

「いいえ。お気になさらずに」


 どうせ、気まぐれですから。

 私は部屋を出て台所へ向かう。

 台所では、影がまだ並べた食器に首を傾げていた。


「はぁ……」


 私は影の皿を取って流し台に全てを流す。

 こんなもの。

 こんなもの。

 何の意味はないと言うのに。

 黒い影は私を追って、それでもまた首を傾げている。

 私のしている事が分からないのだろう。

 私自身も、何がしたいのか分からない。


「……一緒だね。不本意だけど」


 歩み寄る様に影は流し台に向かう私に寄り添う。

 ああ。

 本当に。

 不本意だ。こんな事で少しだけ、穴が埋まりそうな気になるのは。

 その時、台所の入り口で何かが落ちる音がした。


「え?」


 振り返ると、そこには携帯を手から滑らせた男が立っていたのだ。


「あ、大丈夫ですか?」


 電話が終わったのだろうか。男は呆然とその場に立ち尽くしていた。

 私が声をかけると、男は慌てた様子で携帯を拾い私の手を掴む。


「あ、あっ! 申し訳ないっ! あのっ! こ、あ、そっ、えっと、あのっ! あのですねっ! 貴女、何か病気でも!?」

「え?」

「あの、え、い、いや、今から、僕は、とんでもない、事ではないんですが、信じられない事、かもしれない。かもしれない事をですねっ! 言うかもしれないんですがっ!」


 嫌に早口で言葉が回らない男の声に、私はまたも怪訝な顔をする。

 何がいいたいのだろうか。

 黒い影よりも分からない。


「貴女は今、黒い影の死神に取り憑かれているんですっ! 早く逃げた方がいいっ!」


 男は真剣な顔で私に叫ぶ。


「え?」


 え?

 黒い影の、死神……?


「貴方、まさか……」


 私は震えた声で、後ろを見る。

 そこには、私達をじっと見つめる様に立っている黒い影が。


「此れが、見えるんですか……?」


 まさか。

 そんな。

 馬鹿な事。

 繋がらない言葉が脳裏に浮かんでは消えていく。


「え……? 貴女も……?」


 ああ。嘘だろ。

 そんな馬鹿な事が。

 馬鹿な事が、あってもいいのか?




「成る程、貴女の婚約者を食べてから、それは貴女に着いてきているんですね」

「ええ。随分と離れた土地に引っ越して来たのですが、アレも着いてきて……。もう、半年になるんです」


 私は彼にお茶を差し出しながら、ポツリポツリと語り出す。

 彼もまた、あの影が見える人だった。

 私にはあまり馴染みがない話なのだが、彼は大学の助教授として黒い影を研究しているらしい。

 私達以外にも、世界的に見ればこの黒い影を見える人は少なからずいるらしかった。しかし、矢張り皆一様にこの影に怯えていると。

 それはそうだろう。

 見たくもない死を、理解したくない死を、こうも直接的に見せられる存在に恐怖しない人間なんていない。

 彼はその認識をより深めるべく、私みたいに怯える人間の力になるべくこれの事を調べているらしい。

 何とも奇特な人間だ。


「随分と珍しいですね。こう言う事例は、初めて伺います。僕には、貴女とその影が共存している様に見える」

「共存、ですか……?」

「ええ。本来、影は人間は愚か動物、物に対しても執着をする事はないんです。彼らが食べるのは一様に生き物の魂のみ。彼らの興味はその食だけなのに。貴女に寄り添う影は貴女を理解しようとしている節がある」

「私を、ですか……?」

「ええ。どんぐりを持ってくる事も、貴女の出した食事に対しても。その影は貴女のことを思い、貴女のために理解しようとして、寄り添おうとしている様に思えます」

「何故、ですか?」


 私は、どうしようもない気持ちの在りどころをぶつける様に、彼に問いかけた。


「それは……、僕にも分からないです。なにせ、前例もないもので。だけど、此れは僕の憶測ですが……、貴女の婚約者さんの魂をその影が食べたから、かもしれないですね」

「……それは?」


 一体、どう言う意味で?


「魂は、思いで出来ていると僕は考えます。思いは、記憶そのものです。その影は貴女の婚約者さんの強い思いを食べて、自我に……、いや、自我と言っていいのかすら僕にはまだわかりませんが、人を思うと言う気持ちに、目覚めたのかもしれない」

「人を……」

「いえ、貴女を、ですね。現にその影はここに僕がいると言うのに、貴女の事しか見えていない様だ」


 確かに、この影は彼には目も暮れず、今も私に寄り添っている。

 私を守る様に。


「……そんな事……」


 そんな事で、彼が死んだ事を私は許すの?

 それは、彼に取っての裏切りではないだろうか?

 そんな事で、こんな事で。

 私の人生のしこりを無かったことになんて出来るわけがないだろうに。


「これも僕の想像なのですが……、貴女は今、婚約者さんをその影が食べた事を未だに許せないのではないのですか?」

「……はい」


 涙を抑える為に震えた声が喉を通る。

 その通りだ。

 私は、矢張り許せない。


「その影が、貴女の婚約者さんを殺したと」

「……はい」


 彼の魂を食べたのは、間違いなくこの影なのだから。

 もし、この影が食べなければ、彼は助かったもしれない。死ななかったかもしれない。

 これが食べたから。

 食べたばっかりに……。


「でも、貴女の婚約者を殺したのは、間違いなく居眠りをしていたトラックですよ」


 私は、その言葉に顔を上げた。


「それは殺して、居ない筈です。ただ、魂を食べただけだ」

「でも、でもっ! これが食べなかったら、あの人は死ななかったかもしれない! 助かったかもしれないっ! これが食べたから……っ!」

「順番が、逆ではないでしょうか。貴女は何度もその影を見ている筈ですよ。僕も。何度見ても、その影は『死体』からしか魂を食べてはいないでしょう?」

「それは……」

「その影が食べるから死ぬのではない。死んだからその影は食べるんです」


 分かっている。

 分かっているのだ。

 卵が先か、鶏が先か。この話では、明らかに分かっている。けど……。


「貴女も分かっているとは思います。それでも、愛する人が消えた穴を紛らわす為には、そう思い込まなきゃいけない事も。けど、僕は」


 彼は私の手を握って、真剣な顔をする。


「その影の中に残る貴女の婚約者さんの想いを、無視して欲しくない。普通の人には、わからない事です。貴女だから分かる、この特別を。どうか、無視しないであげて欲しい」


 ずっと、ずっと。この影が見えるのは呪いだと思っていた。私だけが不幸で、私だけが苦しい呪い。

 何一つ幸せなんてなくて、怯えて泣き叫ぶ事しか出来ない呪い。

 ずっと、ずっと。そう思って生きていたのに。


「……そんな事……」


 あり得ない。

 そう叫ぼうとした時だ。

 ピタリと、私に影が寄り添う。

 まるで、泣き出す私をあやす様に、安心させるよに、熱を伝える様に。


「どうして……」


 どうして。どうして?


「ほら、聞いてみて下さい。その影の中にある婚約者さんの思いを。貴女には、聞こえている筈ですよ」


 あれだけ、憎かったのに。

 あれだげ、嫌いだったのに。

 あれだけ、拒んでいたのに。

 どうして。

 どうして、私に寄り添うの?

 どうして、私を慰めるの?

 溢れ出る涙を、影は止める様に大きな大きな怖かった手で私を抱きしめる。

 その時、聞こえない声が聞こえた様な気がした。

 あの人の声が。

 私を思う、私の愛した人の声が。


「……ごめんなさい」


 その声に、思わず懺悔の言葉が漏れる。

 本当は、分かっていたのだ。

 頭で理解していたのだ。この影が何も悪くない事も。私が一人、悪役が欲しくて暴れていた事も。分かっていて、それでも止めない影に甘えていたのだ。

 いや、違う。私が愛した彼に、彼に甘えていたのだ。死んでも尚、私は甘え続けていたのだ。


「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」


 見ないふりを続けてきた私を、考えないフリを続けていた私を、甘えていたばかりの私を、ずっと許してくれて。

 こんな私の近くにいてくれて。


「……確かに、その影と僕はは言葉は通じ合えない。僕達は影の言う言葉を理解できないし、影は僕達の言葉を理解できない。けど、僕は気持ちは通じ合う事が出来ると思っているんです。貴女と、その影の様に。恐れ遠ざける存在ではなく、思い合い共存出来る様に。それがその影を見える僕らの使命なんだと僕は考えています」


 彼はにっこりと笑うと私の肩を叩いた。


「もう、怯えないで。その影は、きっと貴女を思っていますから」

「……はいっ」


 漸く、長かった洞窟を抜けた様な気がした。

 何故、こんな呪いを持って生まれて来てしまったのか。自分で自分を呪う日々の洞窟から。

 漸く、理由を、光を見つけ様な気がした。


「貴方も……、有難う御座います」

「いえいえ。僕はただのお節介ですので。お気になさらずに」


 お気になさらずに。

 その言葉に、私達は少し笑い合った。




 その後、彼は必ずこの服を返しにくると約束して山を降りた。

 私はと言うと、漸くこの山を降りる決意が出来た。

 もう、怯えない。黒い影が、彼らが、決して悪い訳じゃないことを私はもう理解しているのだから。

 死は全てに平等に訪れる。でも、それは彼らのせいじゃない。


「帰る準備、しようか」


 私の為にどんぐりを取ってきた影に、私は話しかける。

 影はいつもの様に、首を傾げるだけ。

 それでも良い。

 言葉は理解していなくても、心は必ず通じ合っているのだから。

 私達は……。


「……え?」


 振り返り影を見ると、そこには大きく口を開けた影が私に覆い被さろうとしていた。

 大きな赤い口が私を飲み込み、首に白い歯を立てられて私は漸く、全てを理解した。

 全てを理解するには、遅すぎた。

 そうだ。

 何を都合の良い解釈をしていたのだろうか。

 心が通じてる? 魂が宿る?

 何を言っているんだ。

 そんな訳ないのに。そんなもの、ただの人間側から見た都合の良い解釈でしかないのに。

 何を理解出来た気でいたのだろう。

 化け物は、化け物。人間とは違う原理で動く化け物を、何故人間の型に入れて考え様と人はしてしまうのか。

 赤く気持ち悪い口の中で私は顔を歪ませる。


 ああ。

 コレは、真っ黒な姿をしていました。

 そして、真っ白な歯と、赤い舌。

 それが、全てでした。


 そう、全ては、それだけだったのだと。

 ああ、全ては推して知るべしだったのだ。



おわり

 

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