第10話 現金受け渡し
私は焦った。しかし、多くの客がいる五号車のラウンジカーで金の受け渡しが行われるということで、私は客に紛れて監視することができる。そしておそらく、犯人のほうから浩くんに接触してくるだろうと考えた。渡辺さん一家の猫の平蔵の命がかかっているので、失敗は許されなかった。私は急いで渡辺さん夫妻に事情を話し、息子の浩くんに現金の受け渡しをしてもらうことにした。
私は先にラウンジカーへと急いだ。すぐ後から、車掌の田辺さんが来て六号車へ移動した。さらにすぐ後に大村さんが来て、ごく自然に乗客に話しかけていた。私が何食わぬ顔で長いすに座ってスマホをさわっていると、四号車からラウンジカーへと誰かが来るのが視界に入ってきた。私は浩くんかと思った。しかし、浩くんではなかった。何と、高木文吾だったのだ。
高木は鋭い目つきでこちらを見た。そして長いすの、私から少し離れた所に座って缶コーヒーを飲み始めた。私は気づかないふりをしながらスマホを見ていたが、高木が周囲を見回して、こちらをチラッと見たことに十分気づくことができた。
四号車からは高木の他にカップルが一組入って来た。ラウンジカーから家族連れが一組、六号車へ移動して、入れ替わりに覆面バイカーのコスプレをした男と幼稚園児くらいの女の子が入って来た。同時に田辺さんも戻ってきた。人の移動はそれくらいだった。
そして、浩くんが四号車からラウンジカーに入って来た。浩くんは緊張しながら、ゆっくりと歩いていた。浩くんが高木の前を通ろうとした時、高木が浩くんに声をかけた。
「ちょっと君、どうかしたの?」
「……いえ、別に……」
浩くんはどぎまぎして答えた。高木は続けて浩くんに話しかけた。
「なんか足取りが重そうだけど、その袋、何? 爆弾でも入ってるのか?」
それを聞いて悲痛な表情の浩くんが思わず私を見た。そして私は高木を見た。高木はこちらを見ていた。私はとっさに拳銃を抜いて高木に向けた。
「警察です! 手を上げて!」
高木は微動だにせず、いたって冷静だった。浩くんは私の所へ走ってきた。周囲の乗客は騒ぎ出し、静かに高木から遠ざかっていった。高木はこちらを見たままで、ゆっくりと両手を上げた。
「おい、一体何のことだ!」
「とぼけないで、あなた、ずっと行動が怪しかった!」
「おい、おい。怪しいのは俺じゃなくて、そいつだろ」
そう言って高木は、壁に向かって手を上げている男の方に顔を向けた。私は高木に言われて、もう一人手を上げている男がいることに気づいた。
「何でお前、手を上げてる?」
高木に言われたその男は切羽詰まっているようで、無言のまま振り返りもしなかった。私服姿だったので気づくのが遅れたが、その男は井上さんだった。井上さんの態度はとても不自然だった。高木ではなくて、井上さんが犯人なのかも、という考えが頭をよぎった。確かめるには、井上さんの携帯履歴を見る必要があった。
「田辺さん、その方の携帯を取ってもらえますか?」
私がそう言うと、覆面バイカーのコスプレの男が覆面を取り、井上さんに近づいていった。
「僕が手伝いましょう。正義のヒーローですから」
「……えっ? 中林さん……」
覆面バイカーのコスプレの男は中林さんだった。中林さんは、井上さんのジャケットのポケットに手を突っ込み、スマホを取った。そしてそれを私の所へ渡しにきた。この時、井上さんは不思議そうにこちらに向き直った。
「俺の携帯じゃねえよ!」
井上さんは慌てた。私はその携帯の履歴を確認した。渡辺健司さんとのメールのやり取りの記録が残っていた。
「井上さん、このメールの記録は何ですか!」
私は拳銃を向けたまま井上さんに言った。
その時、まさに瞬間的な出来事だった。井上さんは近くにいた大村さんを羽交い絞めにし、ズボンのポケットからナイフを取り出して大村さんの首に突きつけた。
「おい! おい! お前ら、おかしなまねするなよ! この女、刺すぞ!」
「きゃああああ! たちゅけてえええ!」
大村さんはこの状況の中でも、噛んだ。不謹慎にも私は少し笑ってしまった。
「それは俺の携帯じゃねえ!」
井上が私にそう言った瞬間、高木が井上の腕に掴みかかった。高木はナイフが握られた右手首を外側に捻った。そして田辺さんが井上の左腕を掴みにかかった。ナイフも大村さんも放してしまった井上は、高木に豪快に背負い投げされて床にたたきつけられた。
「っ……痛えぇ……畜生……」
あまりに意外な展開で、私は拳銃を構えたまま動けずにいた。
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