悲劇の存在 名無し

 再び路面電車に揺られて降り立ったのは、とある公園の前。長い屋外エスカレーターを上がっていくと、いくつかの石碑と噴水とが静かにそびえていた。

「ここは?」

「ここは平和記念公園。何十年も前、原子爆弾が落とされた場所」

 カノンはさっきまでのテンションと打って変わって、静かな声で教えてくれた。まだ平和学習を済ませていない翔太は、その一言ではまだ理解できていない。

「簡単に言えば、戦争でたくさんの人が亡くなった場所、ね。それも一瞬で」

 戦争、という言葉で翔太もなんとなくはこの場所の持つ意味を理解した。それを知った途端に、平和そうな町の風景も見え方が変わってくるみたい。

「このあと原爆資料館を見に行くけれど……翔太の歳だとかなり怖い思いをすると思うわ。過去を知るという意味で見た方がいいのは間違いないけど、無理にとは言わない。どうする?」

 カノンは気を遣ってそう聞いてくれた。「かなり怖い」と言われて若干怖気付いたけど、翔太の答えは既に決まっていた。

「せっかくここまで来たんだし、行く。カノンも『大事な場所』って言ってたし」

 翔太の答えにカノンは優しく微笑みかけた。今回は腕を引っ張って走り出しはしなかった。


※ ※ ※


 平和記念公園から少し階段を上ったところに原爆資料館が建っている。「芸術都市」というノボリも立っている通り、建物自体も彫刻のような綺麗な建物になっていた。

 展示室は地下にあり、薄暗くライトアップされた中に遺物や写真が並べられている。

 熱で溶けてしまったガラスのビン、焼け焦げて穴だらけになった服、痛々しい火傷を負った人の写真……。

 翔太はまだ小学校で原爆の授業を受けたことがなかった。だから余計に、惨たらしい品の数々によるショックは大きかった。

「これ……本当に人間なの?」

「そうよ。それも何百年前とか遠い昔じゃない。翔太のおじいさんやひいおじいさんが生きていた頃の話」

 傷を負った同い年くらいの子供の、まっすぐカメラのレンズを見つめるまなざし。何も自分が悪いことをしたわけではないのに、翔太は思わず目を反らした。

「……あまり長居する場所ではないわよね。とにかく、長崎ではこういうことがあったってこと、みんがが忘れちゃいけないことなのよ」

 カノンは諭すようにそう言って、優しく翔太の頭を撫でた。得体のしれない悲しさを抱えながら、翔太はとぼとぼと資料館を後にした。


※ ※ ※


 外に出ると長崎の町はさっきと同じように賑わっていて、高校生なんかが大きな声でおしゃべりしていたりする。こうして見ると、さっきのものたちがまるで異世界の出来事かのように感じられちゃうね。

「さて、一通り回れたし、そろそろ列車に戻りましょっか」

 気付けばもう太陽が傾いて少しだけ空が赤みがかっている。もうそんな時間なんだね。観光をしていると一日が経つのが早い!

「あれ?」

 その時、急にあたりが薄暗くなった。自分の目が変になったのかと思って、翔太は目をしばしばさせる。でもやっぱり暗い。

 そして最後に空を見上げてみると、さっきあれだけ青かった空に真っ黒な雲広がっていた。もう町をすっぽりと覆い隠してしまっている。

「雨降りそうだし、早く帰った方がいいかもね」

「ちょっとまって」

 翔太が小走りしようとすると、カノンはなぜか引き留めた。カノンはしばらく空を見上げ続けている。

「よく見て。あれ、雲じゃない」

 カノンに言われてもう一度顔を上に向ける。暗くてよく見えないけれど……じーっと目を凝らしてみると、どうやら雲みたいなそれはだいぶ近いところにあるみたいだった。よく見れば周りに建っている小さなビルの先端が隠れている。

 そしてその浮いている何かからは、細長い物体が突き出ているように見える。あれは……。

「人の腕!?」

 細長いものの先が五本に枝分かれしているそれは、どう見ても手だった! それも一つではなく雲みたいなものの表面にびっしり! 腕だけではなく足、髪の毛、洋服……人間のパーツがぐちゃぐちゃに散りばめられていた。

「な、何あれ!」

 助けを求めようとカノンを見ると、カノンはなぜか悲しそうな顔をしていた。

「あれはタマシイの集合体よ」

「タマシイ?」

 改めて周りを見てみると、町の人たちは反応していないどころか車のライトも点けていない。どうやらこのぐちゃぐちゃな塊は翔太たちにしか見えていないらしい。

「人間には心があるでしょ? その心が体から切り離されてしまったのが、タマシイなの」

 体から切り離されてしまった心。それってつまり……。

「幽霊ってこと?」

「まあそんなところね。でも……あの人たちはそのタマシイがくっついてしまっている」

 確かに、幽霊にしても不格好すぎる。まるで何か強い力で一緒にされちゃったみたいな……。少なくともいいものには思えなかった。

「あ……もしかしてさっきの……」

「多分、ね。原爆で体を溶かされ、タマシイも溶かされ、滅茶苦茶にくっついてしまったんじゃないかしら。……翔太には分からないかもしれないけど、あの中には妖怪のタマシイも混じっているわ」

「妖怪にもタマシイがあるの?」

「当たり前よ。生きている以上、全員にタマシイがあるのよ」

 そう言ってまたカノンは悲しそうな顔をしてタマシイの塊を見た。

「タマシイはね、本来新しい命に生まれ変わるはずなのよ」

「新しい命?」

「体を失ったらまた一から新たな体に生まれる……そういうものなのよ。でも、彼らはその輪の中から弾き出されてしまった」

 タマシイの塊からは微かに人の声のようなものが聞こえてくる。何を言っているのかはくぐもっていて聞き取ることができない。

「もう何にもなれないのよ。人間でもない。妖怪でもない。幽霊でもない。名前すらない彼らはただ、ここにいることしかできないのよ」

 タマシイの塊から聞こえてくる声は、どうやら歌らしかった。不思議なメロディは力なく町の喧騒に消え入った。


※ ※ ※


 444番ホームに戻ると、車掌さんがホームに出て何かしているのが見えた。

「お客さぁん、はっきり言ってもらわなきゃ困りますって」

「車掌さんどうかしたんですか?」

「あ、人間のお客さん。実はこのお客さんのきっぷが長崎までなんですがぁね。このお客さん自力で歩いてくれないんですわ。どこかへ連れて行こうにも喋ってすらくれませんし……はあ」

 そう言ってため息をつく車掌さんの前には、どろどろのものがふわふわと宙に浮いていた。そこからは何本もの手足が生えていて、ところどころに目や口がついていた。

 あれ……これってどこかで……?

「カノン!」

「……ええ」

 カノンの目を見ると、カノンも同じことを考えているようだった。翔太は車掌さんの前に滑り込む。

「車掌さん、この人、僕たちが仲間のところに連れて行ってもいいかな」

「え? いやまあ、そうしてくれると助かるんですがぁね」

「場所は分かってるから、ちょっとの間発車を持っておいてもらえませんか」

「そのくらいならもちろん。このままではもっと遅れが酷くなってしまいやすからね」

 車掌さんの承諾も得たことだし、翔太はさっそく小さなタマシイの塊を後ろから押した。本当に風船のようにふわふわと移動する。

「じゃあ行ってきます!」

 翔太とカノンは小さなタマシイの塊を連れて駆け足であの場所へと向かった。


※ ※ ※


「よかった! ちゃんといたよ!」

 原爆資料館の上空にはまだあの大きなタマシイの塊が浮かんでいた。連れてきた小さいタマシイの塊と比べても見た目がとても似ている。やっぱり似ている境遇の人たちなんじゃないかな。

「あの!! もしよかったらこの人たちも仲間に入れてあげてもらえませんか!!」

 めいっぱいの声で空に向かって叫ぶ。周りの人が振り向くけど、そんなことは気にしていられない。今はこの人たちを仲間のもとに渡してあげなきゃ!

 ……するとどうだろう、空に浮かぶ塊の一部がボコッと膨らんで、そこから無数の手が折り重なるように伸びてきた。無数の手は束になって絡み合いながら小さいタマシイの塊まで伸びてくる。

 そして……抱きしめるように抱え込むと、そのままゆっくりと天に向かって上っていった。

「よかった、仲間のもとに連れてこれて」

 あの小さな塊の中に何人がいるのかは分からないけれど、どうせならみんなで一緒にいた方が絶対に楽しいもの。

 翔太がほっとしていると、頭の上からまた歌が聞こえてきた。今度はさっきよりもはっきりと。力強いその歌は空気を揺らし、心臓に響いてくる。

「この歌……!」

「カノン、この歌知ってるの?」

 カノンの顔を見ると、どういうわけかさっきと打って変わって口元を緩めていた。その目はうるんでいるようにさえ見える。

「私、大きな勘違いをしてたみたいだわ」

 魂たちの歌声は何重にも折り重なって長崎の町を包んでいく。

「彼らは『ここにいるしかない』んじゃなくて『ここにいるのを選んだ』のね」

「ここにいるのを選んだ?」

「この歌は讃美歌……祈りを込めた歌。あの人たちはね、見守っているのよ。二度と悲しいことが起こらないように、ただただ祈っているのよ。この町のために」

 歌声はいつの間にか奇麗な合唱になって聞こえていた。町の人の何人かが、ふと何かに気付いたように青い夏の空を見上げていた。

 この日の空はどこまでも遠くまで澄んでいた。

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