荒れ狂う水の神 竜神

 ところどころ枝にひっかかってすりむきながらも翔太は道なき道を下っていく。……と言ってもけもの道みたいなのがずっと続いていたから、枝がジャマなこと以外にはとくに苦労しなかったのだけど。

『うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ』

 やっぱりあの声はさっき消えちゃった滝があった方から聞こえてくるみたい。

(早く行ってあげなきゃ……)

 翔太は使命感に駆られて、足をもつれさせながら斜面を一気に駆け下った。

「わぁ……きれい……」

 斜面を下りきるとパッと視界が開けて、大小さまざまな石が一面に敷きつめられていた。そしてその向こうにさっきまで滝が流れていた崖が見える。展望所で見たのよりもずっと近くて、ずっと大きい。

 そして例の声はそこから目と鼻の先から聞こえていた。翔太は岩がごろごろして足場の悪い中をさらに進む。

「あっ」

 河川敷の小高く積みあがった石の山に登ったときだった。もともと滝壺だったはずのあたりに誰かがいるのが見えた。それはどうやら腰をまげたご老人のようだけど……?

「うおぉぉぉぉぉぉぉ……」

 間違いなく声を上げているのはそのおじいさんだった。どうしてこんなところにおじいさんが……? 心なしか苦しんでいるようにも聞こえる。このままじっと見ているわけにもいかないから、翔太はとりあえず声をかけてみることにした。

「あのー……」

 おそるおそる話しかけるとおじいさんは声を止めてゆっくりと翔太の方を振りかえる。その鋭い眼光にドキッとしたけれど、翔太は続けて質問した。

「どうしてさっきから大きな声を出してるの?」

 おじいさんはそれに答えようとはしない。その代わりヒゲの生えた口元をにやりとさせてこう呟いた。

「やっとがきたか」

(いけにえ……?)

 翔太が何のことだか理解していないうちに、おじいさんの体が青く光り始めた! そうかと思うとみるみるうちに大きくなっていって……そのまま滝と同じくらいの大きさになっってしまった! さらにさらに! おじいさんだと思っていたそいつはどんどん細長くなり、ウロコがつき、先端にはぱっくりと割れた巨大な口があらわれた。……それは誰がどう見てもゲームなどに出てくるドラゴンそのもの!!

「グギャァァァァ!!!」

 ドラゴンは金切り声を上げたかと思うと、そのまま翔太の方へと突撃してくる! 本当に突然のことだったから翔太は足がすくんで動けない。

(どうしよう……どうしよう!!)

 大きな口が開いて黒い体内が見えたところで翔太は思わず目を瞑った……。


 がしゃあぁん!!


 ドラゴンが地面に激突する音。でも目を開いてもドラゴンの体の中ではなかった。しかも翔太の手は誰かに引っ張られている。

「何ぼーっとしてるの!! 逃げるわよ早く!!」

 翔太を引っ張っていたのは他でもないカノンだった。間一髪で助けてくれたんだね……!

 翔太もいくら気になるとはいえ、襲われて怖い思いをしたばかりだったから素直にカノンの言うことを聞いて一目散に走って逃げた。

「言わんこっちゃないじゃない!! あのまま帰ってればこんなめんどうごとに巻き込まれずにすんだのに!!」

「で、でもどうしても気になっちゃって……」

「それでまんまと食べられそうになってるのはどこの誰!? 私だって妖怪ってだけで強くもなんともないんだから! 助からなくても知らないわよ!!」

『いけにえよ!! どこへ行く!!』

 二人で言い争いをしてるのもおかまいなしでドラゴンは轟音を立てながら二人を追いかけてくる。あんな巨大な体で迫ってこられたら誰だって怖い!

「坂を登ったら木の枝がジャマで追いつかれるわね……。川に沿って走るわよ!」

 カノンの言う通り、さっき下ってきた道は走って戻れそうもない。足場は悪いけど川沿いを進んだ方が早く逃げられそう。

 河原を川下へ向かって必死に走っている途中で、翔太はもう一つの異変に気がついた。

「川の水もなくなってるよ!」

 川が流れていたであろう真ん中のくぼみは完全に干上がって、ところどころで魚がびちびちと跳ねている。さっき橋から見えたもう一つの方の滝もなくなっていて、この川にはもう一滴も水がなくなっていた。

「どれもこれも全部あいつのせいなんでしょうね……でも今はそんなことに構ってるヒマないわよ!!」

「グギャァアアアアア!!」

 走っても走ってもずりずりとドラゴンがはってくる音が追いかけてくる。とっくに吊り橋の下をくぐり抜けて人工物が一つも見えない山あいに入りこんでいた。上の道に戻ることは簡単ではなさそうだ……。

「はぁ、はぁ……少し遠ざかったかしら……」

 相変わらずずりずりという音は聞こえてはいるものの、本格的に追いかけられるのはひと段落したようだ。とはいえまったく安心はできないけど。

「まったく……なんでこんなところまできて全力疾走しなきゃいけないのよ……それもこれも全部あんたのせいだからね!!」

「ご、ごめんなさい……」

 今回は明らかに翔太が忠告を聞かなかったのが悪い。カノンのことも危険な目にあわせちゃったし、ここはちゃんと謝らないといけないね。

「様子を見てどこかで上の道にあがれるところを探しましょ。人間がいっぱいいるところにはあいつもさすがにこないでしょうし……」

「あっ……カノン!」

「今度は何!?」

 翔太の目に飛びこんできたのは、二人と同じように河原を歩いている人影だった。その人は川が流れていたはずのくぼみのところを川下から川上に向かって歩いていた。

「もう……次から次へと……」

 カノンがまた怖い顔をしたから、どうやらあの人も妖怪みたいだ。翔太も今度はうかつに近付いたりはせず、カノンの後ろに隠れるように下がった。

 川上にはさっきのドラゴンがいるし川の両側は崖。もしあの人がドラゴンの仲間だったら絶体絶命大ピンチ……!!

 その人は歩いている途中で二人に気づいたようで、静かに顔を上げた。カノンの首すじに冷たい汗が流れる。

「もし、お二方は妖怪列車に乗っていた方ではございませんか?」

 女の人はかぶっていた市女笠いちめがさ(昔の女の人が使っていた、薄い布が垂れ下がったかぶるタイプのかさのこと)を外すと、そう話しかけてきた。妖怪列車のことを知っているってことはこの人も列車でここまできたのかな。

「そ、そうだけど……」

「やっぱり! それでいきなりなんですけれどもおたずねしたいことがありまして……」

 女の人は物腰柔らかそうだけど、カノンは相変わらず翔太の手を強く握りしめている。

「先ほどからこの川の水がぴたりとなくなってしまいまして……何かご存知ではありませんか? たとえば……このあたりでりゅうを見かけた、とか」

 彼女は申しわけなさそうにまゆげをハの字にしてそう訊ねてきた。まるであのドラゴンのことを知っているかのような口ぶりだ。

「見たわよ。向こうの滝のところで。その竜に襲われてこっちは大変よ……あんたもその仲間じゃないでしょうね」

「やはりそうでしたか……」

 カノンの説明を聞いて女の人は眉間にしわを寄せた。かと思うと、静かに二人に対して腰を折って礼をした。

「父が大変ご迷惑をおかけしました。申しわけございません」

「え? ちょ、ちょっとやめてよ……急に謝られても困るんだけど……」

 今まで彼女のことを敵じゃないかと疑っていた手前、謝られたことにカノンは困惑している。しかもあの人、あのドラゴンのことを「父」って言ったような……。

「お二方にはご迷惑をかけてしまいましたし、一つ昔話をさせていただけますか」

 カノンは乗り気ではないようだったけど、断る理由もなかったから首をゆっくりたてに振って話の先を促した。

「この九重ここのえに伝わる昔話です。お二方も見たでありましょう、震動の滝には古くから竜神が住んでいました。竜神は九重の水を守りたたえる神様でした。ですが竜神はだんだん年老いて力が弱くなりました。そこで力を取りもどすために竜神はふもとの集落から人間をさらってきて食べてしまいました」

「人間を!?」

 神様なのに人間を食べるなんて……。翔太はさっき自分を食べようとしたあのドラゴンのことを思い出して鳥肌が立った。

「竜神にとっては人間が長生きするための薬だったのです。集落の人間も最初のうちはいけにえとして人間を捧げていましたが、あまりにも回数が多いのでとうとう竜神に人間を渡さなくなりました。すると竜神は怒って村中の水という水を涸れさせてしまったのです」

「まさに今の状況ってわけね」

 カノンが相づちをうつと女の人は黙って頷く。

「人間たちは困り果てて、考えに考えた結果、人間の代わりにおもちを不老長寿の薬として竜神にさしだしました」

「人間の命とおもちが同じあつかいなのね……」

「竜神はそれで満足し、それからというもの人間たちは毎年おもちを竜神にそなえるようになったのでした……というお話です」

 女の人はそこまで語っていったん息を整える。

「そして、その竜神というのが私の父のことなのです」

「なんとなく分かってはいたけど……破天荒な親父さんね」

 カノンがつっこむと女の人はバツが悪そうに苦笑いをした。

「父は昔から頑固なところがあって、なにか気に入らないことがあるとすぐに水を涸らそうとするんです。でも本当に水を涸らしたのは昔話にもなっているそのとき以来二回目です……。だから今はよほど怒る何かがあったのだと思います」

「水をつかさどる神なのにそう簡単に水を涸らそうとしていいのかしらね……」

 カノンがあまりにもズケズケと言うから翔太は空気が悪くならないか気が気じゃなかったけど、女の人は大して気にしていない様子だった。それどころか終始申し訳なさそうにしている。

「それで、申し訳ないついでにお二方にお願いがあるのですが……」

「断る」

「えっ、カノン!?」

「だって面倒ごとを押しつけられる気がするもの」

「聞く前から決めつけるなんて可哀想だよ!」

 さっきのドラゴンは忠告を聞かないで危ない目に遭ったけど、この人は悪い人ではなさそうだし。話だけでも聞いてあげないと!

 ……そう翔太が説得すると、カノンは大きなため息をついて黙った。これがカノンなりの「OK」なのは翔太も分かっている。女の人も察したのか、要件を一言で告げた。

「お二方に父の説得を手伝っていただけないでしょうか……」

「ほら言った、面倒ごとだって。そもそもさっき食べられかけてるのにどうして説得する義理があるのよ」

「そのせつは本当に申しわけありません……ですが父はきっと私一人の言葉では聞き入れてはくれません。どうか、どうか頼まれてはいただけないでしょうか。もし危険がお二方にせまったらば私がお守りしますから、どうか……!」

 彼女はそう言ってさっきよりも深く、九十度以上腰をまげて頭を下げた。カノンはそれをなんとも言えない表情でにらみつけている。

「カノン……」

「ダメよ」

「守ってくれるって言ってるし……」

「ダメったらダメ。あんたのそのお人よしがこの状況を招いてるんだからね!」

 カノンの言葉に耳が痛いけど、それでも女の人がこれだけ頼んでいるのを無視するっていうのはどうしても翔太にはできなかった。翔太も口を真一文字にむすんでカノンの方を見つめ続ける。カノンは頭を下げている女の人と翔太の顔を交互に何度も何度も見て、最後にさっきの何倍も大きくて深いため息をついた。

「あーもう分かったわよ!! 行けばいいんでしょ行けば!! でも少しでも危ないと思えばすぐにでも帰るからね!! 絶対!!」

「あぁ……! ありがとうございます……」

 女の人はその一言で顔をぱぁっと明るくすると、何度も「ありがとうございます」と頭を下げた。どうやら少し涙ぐんでいるようでもあった。よっぽど切実なお願いだったんだろう。こればかりは翔太の優しさが助けになったね!

「それでは、滝の方に移動しましょう」

 女の人が先へ進んで案内してくれるから、二人はその後ろからついていく。もちろん竜神から女の人が守ってくれるということだからその影に隠れる意味合いもあった。

「申し遅れましたが、私は震動の滝の竜神の娘の姉川と申します」

「姉川?」

「我々水の神や水の精には特定の名前がございませんから、呼ばれるときは住みついている川の名前で呼ばれるのです。私はこの鳴子川で生まれおち、妹の草野川とともに近江おうみ(現在の滋賀県)へと渡りましてこの名前を授かりました。以来、妹と二人で近江の方に暮らしておりました」

「それがどうしてこのタイミングで帰ってきたのよ」

 まあ親父さんがちょうど暴走してタイミングよかったけどね、とカノン。

「先ほどの昔話にも出てきましたが、父はもうだいぶ年なのです。修行という形で近江に向かわされましたが、私も妹も今では水の神としての役割を果たせるようになりました。ですから近江の方は妹にまかせて、父を手伝うべく私が一人こうして帰って参ったのです」

 姉川さんはそう言って涸れた川をじっと見つめる。なんだかんだ言ってもお父さんドラゴンのことが心配なんだろう。

 確かにさっき滝壺のところで見かけたドラゴンの変身前の姿はかなりよぼよぼの、いつ倒れても不思議じゃないようなおじいさんだった。もしかして暴れていた原因もそれと関係があるのかな……?

「あ、いたよ!」

 姉川さんと話しながらしばらく歩いて、最初にドラゴンと出会った場所に戻ってきた。ドラゴンのすがたはなく、その代わりにさっきとまったく同じ滝つぼのあたりにさっきと同じようにおじいさんが佇んでいた。

「父上!」

 姉川さんが小走りで近付きながらおじいさんを呼ぶ。おじいさんはさっき翔太に話しかけられたときと同じようにゆっくりと振り向いた。

「お前は……なぜここに……」

「父上が心配で帰ってきたのです。……それよりもなぜ川が干上がっているのですか! 事情をご説明ください!」

 姉川さんが語気を強めて言うと、おじいさんは突如怒りをあらわにしてギリギリと歯をならした。周りの山がごうごうと唸り始める。

「すべては人間が悪いのじゃ! 水を恵んでやるかわりにもちを供えると約束したものをもう何年も持ってきておらん! わしとて鬼ではない。一年や二年なら待ってやろうとそう思うたわ。しかしそう思い続けて何年たった!! 今年という今年は許さん!! 村中の女子どもをむさぼり食ってやるわ!!」

「父上!!」

 ヒートアップするおじいさんを姉川さんが制する。

「たしかに人間は約束を破ってしまったかもしれません。もしかしたら今の人間たちは父上の存在すら知らないかもしれない。……でもそれは仕方のないことなのです。時間はどんどん進んでいきます。私たちには計り知れないほど人間の時間は早く進んでいくのです。もういけにえだとかそういう時代ではないのですよ」

「そんなことはわしには関係ない!! 寿命を延ばさなくてはならんのじゃ!! もちを供える気がないなら人間を食うしかなかろうが!!」

 そうやってしばらく親子で言い合いをしていたのだけど……不意におじいさんが姉川さんの後ろにいた翔太たちのことを見つけてニタァと笑った。

「はっはっは……そこにいるではないか、先ほど逃げたいけにえが」

「いいえ、父上。あの方は……」

「問答無用!! 寿命のためじゃ覚悟せぃ!!」

 おじいさんはおたけびを上げて再びさっきの竜へとすがたを変えた。その目線は完全に翔太の方を向いている。カノンもそれにすぐ反応して翔太の腕を掴んだ。

「……分からずやっ!!」

 そうかと思えば今度は姉川さんの体も青く光って巨大化し、竜の姿へと変身する。親子なんだから同じ能力を持っているのは当たり前かもしれないけど、さっきまで普通に話していた姉川さんが竜になるのはやっぱり変な感覚だった。

『なぜジャマをする』

『さっきも言ったでしょう。もうそんな時代じゃないのよ!』

 おじいさんドラゴンに対して姉川ドラゴンが口を大きく開けて威嚇をする。でもおじいさんドラゴンはそれに怯みもせず姉川ドラゴンにたいあたりをした。

『ああっ!!』

 姉川ドラゴンははずみで河原に横たわって砂ぼこりを上げる。おじいさんドラゴンはその隙に翔太たちに向かって一直線に向かってきた……!!

 間に合わないと思ったのかカノンはとっさに翔太を抱きよせてドラゴンをにらみつける……。

 しかし、今度はそのおじいさんドラゴンの横っ腹に姉川ドラゴンが頭突きをお見舞いした。おじいさんドラゴンは派手に横に飛ばされて河原に倒れこむ。親子だから力もほとんど同じなのかもしれない。

『……父上、これが最後です。どうしてもあの人間を食べるというのですか』

『ぐ……当たり前だろう。わしはもっと長生きせにゃあならんのじゃ……ここで死ぬわけにはいかんのじゃ!!』

 おじいさんドラゴンは意地でも譲る気がないらしく、姉川ドラゴンにかみつくいきおいで突進した。それに対して姉川ドラゴンは避けようとも攻撃しようともしない。何かを迷っている……? このままじゃあ姉川ドラゴンが負けちゃう!

「姉川さん!!」

 思わず翔太は大きい声を上げた。その声にビクッと姉川ドラゴンが反応したかと思うと、目にも止まらない早さでおじいさんドラゴンの首元に回り込んでガブリとかみついた。

『ごめんなさい……

「グギャァァォオオオオオッッ!!」

 おじいさんドラゴンは耳をつんざくような悲鳴をあげて力なく河原に横たわる。そしてそのすがたはみるみる小さくなっていき、やがてさっきのおじいさんのすがたになった。おじいさんは河原にたおれこんだまま起き上がらず、ヒュー……ヒュー……とか細い息を立てている。

 姉川さんも人間のすがたに戻り、おじいさんの近くにかけよった。翔太たちも顔を見合わせて二人のもとへと向かう。

「父上……」

 姉川さんはおじいさんのもとへ辿りつくとまっさきにその頬をなでた。おじいさんの首からは人間でいう血みたいなものだろうか、紫色の煙がゆらゆらと立ち上っていた。姉川さんの目から滴った涙がおじいさんの顔や首に点を作る。

「父上……なぜ父上が長生きをしようとしたのか、覚えていらっしゃいますか。父上がなぜそうまでして寿命をのばしたかったのか、覚えていらっしゃいますか」

 涙ながらに語りかける姉川さんに、おじいさんはゆっくり口を開く。

「わしゃ……わしゃぁ竜神じゃ……。水の守り神じゃ……。わしが死ねばこの土地は、山は、里はダメになってしまう……。わしがここを……九重を守らなければいけんのじゃ……」

 しわがれた力のない声。さっきまで翔太たちを襲ってきたドラゴンと同一人物とはとても思えない。

「そうでしょう。父上は九重を守ろうとしていたのでしょう。それなのに人間を襲おうとして……それが九重を守ることになるのですか……!」

「じゃが……じゃがわししかおらんのじゃ……お前たちも出て行ってしまって、ここを守れるのはもうわししかおらんのじゃ……」

 おじいさんは涙ながらにそう訴えた。この土地を守りたいから人間を食べる、でも人間を食べると土地が守れていることにはならない……。翔太はもし自分がそんな状況に置かれたらどうするか……考えても考えても結論は出そうになかった。

「だから私が戻ってきたのです。父上を手伝うため……いえ、父上のあとを継ぐために九重へ戻ってまいったのです!」

 姉川さんはおじいさんの手を強く握りしめてそう伝えた。そのときの姉川さんの顔は自信に満ち溢れ、頼もしく見えた。

「おぉ……おぉぉ……」

 おじいさんは静かに涙を流した。それが自分がやってきたことへの罪悪感からなのか、それとも姉川さんが帰ってきたことへのうれし涙なのかは分からない。でもその涙は決して悪い涙じゃないということだけは翔太とカノンにも理解できた。

「姉川よ……お前にならこれを託せる……。どうか、この九重をよろしく頼む……」

 そう言っておじいさんは首にかかっていたネックレスのようなものを姉川さんに渡した。そこには五センチほどもあるキラキラと光り輝く青い宝石がついている。まるで見た人の心を洗うような、清流のような宝石……。

 それを姉川さんが首に提げると、おじいさんは満足そうに頷いて、霧のようになって森の中へと吸いこまれていった。残された姉川さんはおじいさんが消えてしまった場所を見つめ、また一筋の涙を流した。その涙は首にかかった宝石のように清く美しかった。


※ ※ ※


「本当にありがとうございました……」

「いや、私たちは何もしてないし……というかこれなら二人で話していても変わらなかったんじゃない?」

 カノンは相変わらずの口調で言う。まったく素直じゃないんだから!

「そう思われるかもしれませんが、私が言っただけでは隠れて里へ下りるかもしれませんでしたから……。私の目の前で暴れてもらった方がよかったんです」

「つまりおとりってわけね」

「へっ……!? いや、そ、そういうつもりでは……」

 姉川さんがあたふたしているのを見てカノンはクスッと笑った。

「いいのよ。約束通りちゃんと守ってくれたわけだし。……お父さんの言いつけ、ちゃんと守ってあげなさいよ」

「はい!」

 元気に返事をした姉川さんの表情は本当に明るかった。この川は、姉川さんはこれからもきっと大丈夫だ。

「それではまずはこの川の水を元通りにしましょう」

 姉川さんは宝石を胸の前で握りしめると宝石はまばゆい光を放ちはじめ、その光が滝や川があった場所に降りそそいだ。降りそそいだ光の粒は川底の石にぶつかるとぴちょん、と音を立てて水になり、その水が集まって水たまりに、そして川になった。あっという間にゴー……っという水がイキイキと流れる音が山の中に響き始める。森や川がお礼を言っているようにも聞こえた。

「……それじゃあ翔太、行くわよ」

 気がつくとカノンは最初に下ってきた斜面の方に先に帰ろうとしている。翔太もあわててその後を追いかけようとした。……と、その前に一瞬だけ姉川さんの方を振り返って元気いっぱいに手を振った。

「元気でね! 姉川さん!」

 姉川さんはにっこり笑ったけど、ゆっくり首を横に振った。

「ううん、私はもう姉川じゃないわ。私の名前は……」

 鳴子川。そう言った声は川の音にかき消されて翔太には届かなかった。

「早くしないと本当に置いてくわよー」

「えっ、ま、まってよー」

 翔太は急いで斜面を駆け上がる。ひんやりと吹き付ける川の風が翔太の背中を押した。


※ ※ ※


 バスはまた曲がりくねりながら峠道を下っていた。車窓にはずっとさっきの鳴子川が見えている。もちろん川の水は元気にたくさん流れていた。


 ゴツンッ!


「いっっったい!!?」

「さっき言うこと聞かなかった罰。本当に危ないところだったんだから!」

 翔太はグーで殴られて頭のてっぺんから煙が出そう……。もちろん自分が悪いことは分かってるから文句は言わないけど。それでも痛いものは痛い!

「結果オーライとは言っても行き当たりばったりじゃ本当に死んじゃうんだからね!?」

「ご、ごめんなさい……」

「だから今度から何かするんなら少なくとも私を連れていくこと。いい?」

「……え?」

 カノンは「フン」と腕組みをする。

「あんたがお人よしなのは昨日今日でもう分かったから。絶対に妖怪に関わるなとは言わないわよ。でもね、私が本当にダメだって言ってるときはダメ。これだけは守って。分かった?」

 カノンは人差し指を翔太の顔の前につきつけて念押しする。

「うん! ありがとう!」

「もう、調子がいいんだから」

 翔太が笑顔で言うとカノンはつられて笑って、すぐに赤くなってそっぽを向いた。そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。カノンが素直になってくれる日はくるのかな。

 バスは夕焼けの中を走っていく。いつの間にか翔太はカノンに寄りかかって眠ってしまっていたのだった。

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