220話 カイルの過去(7)

 友人であり、恩人でもある医師のルークの手引きにより屋敷から逃げ出したカイルたち。


 カイルは一頭の騎馬だけを連れ、後ろにハンナと生まれたばかりの娘を乗せて隣の領地を目指す。

  彼らは太陽が照らす眩しい日差しを避けるようにして森の中を騎馬で駆けてゆくのであった。



 まずは身の安全の確保として、絶対にヴァレンシアの手が伸びていないであろう他派閥の領主が治める別領地に逃げる必要がある。


 今のローレン領は不気味だ。

 少しずつ、ヴァレンシアの魔の手が領民たちへと伸びている。


 人を助けるという崇高な意志を持っているはずの多くの医師たちはその志を失い、ヴァレンシアに屈していた。

 さらには今までカイルが感じたことのないような不穏な魔力の出現。

 まるで、伝承に残っているような悪魔がローレン領に現れたのではないかとすら疑うような不気味さであった。


 そんなこともあり、カイルたちは急いで隣の領地を目指す。

 隠れながら動かなくてはならないため、移動距離も長くなり、道も整備されていない森林などを通らないといけなかったが背に腹は変えられない。


 カイルは後ろに乗せた二人のことを心配しながらも、急いで馬を走らせるのであった。




  ◇◇◇




 だが、そんな彼らに待ち受けていたのは、容赦のない自然の脅威だった。


 梅雨の時期が差しかかり、突然空が荒れて雨が降り出す。

 晴れたと思えば、道の整備されていない森林では地面がぬかり、思うように先には進めない。


 このため、生まれたばかりの娘を連れているカイルたちは思うように進むことができず、やむ終えず野宿をすることになってしまった。


 カイルとハンナは生まれたばかりの娘を守るよう優しく抱きしめる。


 こんな事になってしまい、すまないと思いながら彼らは愛しい我が子を見守るのであった。



 そして、夜の森林には時折り野生の魔物が出没する。

 カイルは一人で二人を護り抜くことは不可能だと感じ、近くにいた精霊を呼び出して協力してもらいながらハンナたちを護っていたのであった……。




 ◇◇◇




 数日が経ち、持ち出せた食糧や飲み物が底をつく。


 当初の予定では一日も経たずに隣の領地へと到着できるはずであったが思ったり時間がかかってしまっている。

 これにはカイルはもちろん、ハンナや娘に大きな疲労を与えてしまっているようだ。



 とりあえず、カイルが精霊術師として近くに暮らしている精霊たちを呼び出した。

 そして、彼らに導かれ泉のある場所へと案内してもらう。

 一度、ゆっくりと身体を休めようと思ったのであった。


 カイルは馬に泉の水を与えながら、ハンナたちを様子を伺う。

 正直、医学に関する知識が少ないカイルからしても、ハンナと娘の容体が良くないことはわかっていた。


 それもそのはずだ。

 ハンナは出産直後、休む間もなくカイルに連れられて馬に乗せられていた。


 娘も娘でゆっくりと休まることはなく、ハンナに抱きかかえられながら荒れた道による振動を強く受けて一日を過ごす。

 最初は泣き声をあげていたが、その元気もすぐになくなり衰弱してきているのが伺えた。



 そんな二人の姿を見てカイルの不安は募ってゆく。


 まだここはカイルたちの生まれ育ったローレン領だ。

 正体を隠すのは難しいし、なるべく自分たちの痕跡は残したくない。


 だからこそ、無茶を承知で二人に無理をさせてしまっていたのだ。



 カイルは意識を朦朧として泉を見つめるハンナに対して頭を下げて謝る。


  「ハンナ……。こんな事になってしまって本当にすまない!」


 突然のカイルの発言に、ハンナは驚いたように振り向く。

 そして、疲労し切った顔つきながらニッコリと笑うのであった。


  「まったく、本当よ……。何でこんな事になってるのかしら……」


 苦しそうな顔をしながらも笑うハンナ。

 そして、軽いため息を吐く。


  「その分、街についたら精一杯幸せにしてくださいね。約束ですよ? カイル様」


 それはハンナの心からの気持ち。

 苦しいこともあるが、それでもカイルと側にいたいと思う気持ちから出た言葉であった。



 それに対し、カイルも少しだけ頬が緩む。


  「そうだね。絶対に君たちを幸せにしてみせるよ! この子と三人で幸せな家庭をつくろう」


 こうして、一時的な休憩を取った三人は再び目的地を目指して旅を続けるのであった。




  ◇◇◇




  それからしばらくして、とある問題が発生する。

  ハンナの母乳が出にくくなってきたのであった。


  すると、ただでさえ劣悪な環境に置かれていた彼らの娘は少しずつ衰弱してゆく。

  だが、彼らはそんな娘をだだ見守ることしかできないのであった……。



  母乳が出ないことで自分を責め立てるハンナ。

  彼女は涙を流して神に祈るのであった。


  「神さま……お願いします」


  「わたしなら、どうなっても構いません。もう十分過ぎるほどの幸せを与えていただきました。だから、この子だけは何として助けてあげてください……」


  彼女は娘を抱きながら神に祈る。

  自分はどうなっても良いから、娘だけは助けてくれと。


  そして、カイルはこんな状況を生み出してしまった自分の無力さをひどく痛感するのであった……。



  さらに、事態は悪い方へと傾いてゆく。



  ガサゴソッ……



  森林の奥から彼らの耳に聞こえる、不穏な物音。


  彼らの目の前には巨大な熊の魔物が現れるのであった。

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