第24話 溜息

「はぁ」

僕はため息で呼吸しているんじゃないかと思うほどため息ばかり繰り返していた。

「また溜息ついてるね、恋煩いか?」

話かけてきたのは54歳のベテラン社員だった。普通なら年代的にもう本部でお偉いさんになっていてもおかしくない年齢だが、昔の店長時代に精神を病んだようでずっと平社員をしているらしい。

「恋煩いって今も使われている言葉なんですか?」

「なぬ、もう死語というやつでござるか」

吉田さんは強面なのであまり人と話さないが、ユーモアのある面白い人で僕が新人の時から手取り足取り教えてくれている人だ。

多分、こんなふざけた性格をしていると知っているのは僕と店長くらいだと思う。

「ござるはもっと古いかもですね」

「なんだよ、いつもはワクテカとかって乗ってきてくれるのに。何に悩んでるんだ、話してみなさい、おじさんに」

「おじさんというか、お父さんと同じ年齢ですけどね。いや、まぁ所謂?恋煩い?で、間違ってないです」

やっぱりとしきりにニヤニヤしだすと、僕に更に寄り添うように近づいた。

「春が来たね。夏だけど春が来てるねぇ」

お客さんが近くにいるのに笑わせようとしてくるからやっかいだ。

社員がそんなんでいいんだろうか。仕事はベテランらしく完璧にかつ迅速にこなすからこの話を他の人にしても吉田さんの裏の顔は信じてもらえないだろうな。

「川下君は冬に突入したのに、こっちは陽気な春かぁ。四季折々だねぇ」

「やっぱり川下君が百瀬さんの事を好きなのみんな知ってるんですね」

「気づいたのは俺が一番早かったと思うよ?」

どうしてここでマウントを取ってきているんだろう。そこで一番を競うのがまた吉田さんらしかった。

「川下君の場合は冬じゃなくて真冬か。北海道みたいに積雪してるんじゃないかな」

「そこまで言います?」

「だってさ、百瀬さん大学やめるみたいだよ?」

「え!?」

僕の声は一瞬店内に響き、吉田さんは慌てて人差し指を顔の前に立てた。

「す、すみません……でも、どうしてですか?」

「さあね、川下君の話によると百瀬さん、今結構精神的に病んでるみたいよ?」

僕と最後に会った時は、あんまり話はできなかったけど今までの百瀬さんとあまり変わりないように見えたのに。一緒にご飯を食べたのが遠い昔のように思えた。

「まぁ、ストーカー?の件もあったしね。いくら百瀬さんとは言え女の子だからやっぱり怖かったんじゃないかなぁ」

紙を渡してくれた時、どれだけの勇気を振り絞ってきてくれたんだろう。

一緒にご飯を食べた時もとても積極的に想いを伝えてくれていた。そんな百瀬さんでも精神を病んでしまうのだから僕のやっていることがどれほど人の心に影響するかがわかる。

「あ、また溜息。幸せが逃げていくぞー」

そう言いながら吉田さんは倉庫の方へ行ってしまった。

僕のやっていることはやる度にいけないことだと振り返ってはきていた。結局やめられないで今の今まで来ているけど、百瀬さんの渡した紙切れが真実なら、その分堂本さんが目をつけられる可能性は高い。何かされないように見張っておかないといけない、これが今までの僕の行いを肯定する理由にはならないけど、僕は再び彼女の部屋を行き来することに決めた。

彼女が僕にとって最高の癒しであることは変わりない、このままこの時間がずっと続けばいいな。

ふと、また熊のキーホルダーを手に持ったところで僕はあたりを見回した。一瞬、百瀬さんからの紙切れを思い出したからだ。

僕がつけられていたとしたら、この光景をこれだけ繰り返していて見られていない訳がないのだ。アパート周辺には人影すらなかった。僕は少し安心して、素早く部屋の中に入る。

川下君とはあれ以来ほとんどシフトがかぶらなくなって、話をしていない。

そしてあの女の人も店にはきていない。やっぱり川下君のストーカーで間違いないんじゃないだろうか。僕は自分の中でそんな風に思う割合が日に日に増えてきたので、今更ながら川下君が心配になりメッセージを送った。

「講義中とかかな」

川下君は自分のシフトの話だと返信が早いけど、他の話になるとあまり返信をしてくれない。百瀬さんの大学の件もちょっと気になるし、今度はいつシフトが被るんだったっけな。僕は戸棚に入ると、スマートフォンでシフトを確認した。

「ああ、四日後か」

それまでにはさすがに返信がくるだろうことを期待して、彼女の帰りを待った。

僕がいつの間にか眠っている間に彼女はいつもの帰宅時間に遅れることなく帰宅した。

「ただいまー。 はぁ、残業しちゃったよ~。明日も早いのに」

彼女の疲労が伝わってくる声色に僕は小さく、おかえりと呟いた。

昨日もきっと疲れていただろうに、コンビニで会ったときは元気そうな様子だった。

しっかり家と外で態度を改めていて本当にいい子だなぁ。

いつバレるかもわからない状態だけど、それでも彼女とは一緒にいたい。

どうせバレて捕まるならそれまではずっと一緒にいたい。声も表情も、匂いも彼女の事は一つも忘れたくない。そして、僕には彼女をストーカーによる危害から守るという使命もある。

僕は毎日自分の脳裏に刻みつけるように戸の隙間から彼女を見つめ続けていた。

両親や田口君の顔は今でも一日に何度も思い出すけど、彼女の顔を見ると何もかもが一瞬で消えてしまった。僕の心は近くで支えられないと簡単に折れてしまい、支えられていたこともわからなくなっていった。

「もう23時かぁ、 ニュースしかやってないじゃん」

なんて可愛らしい声なんだろう。ずっと聴いていたい。

彼女はお風呂の準備をして、すぐにシャワーを浴びた。

僕はその隙にさっき彼女が着替えを出した押し入れへ移る。ここは脱衣所が見えて、彼女がドアを閉め忘れている時、バスタオルを巻いて出てくる姿や無防備な背中を見れることがある。

後から届くシャンプーの香りも僕の癒しの一つだった。

ふわふわのルームウェアを着た彼女が脱衣所から出てきた。濡れた髪、ボディクリームを足や腕に塗る姿は何度見ても見飽きることはない。

彼女は一通りの寝る準備を済ませると、スマートフォンを見ながら電気をつけたままで眠ってしまった。

またつけっぱなし……消してあげたいなと思いながら僕も隙間から射す光の中で目を閉じた。


 彼女がいつも通りの時間に出勤して行ったのを見計らって僕は押し入れから出る。

同じ体勢で何時間もいるのは慣れてはきたものの辛いものがある。

大きく伸び、ストレッチを少ししたところで川下君からメッセージが来た。

意外と早めの返信に珍しいと思いつつ開くと、そこにはこう書かれていた。

「あのストーカー女の目当て、俺じゃなくて桜田さんです! 百瀬、最近もずっと無言電話がかかってきて携帯も変えるみたいです。桜田さんはアルバイト先には行かないで、自宅で様子見た方がいいです!」

川下君まで百瀬さんと同じようなことを言っている。百瀬さんが話をしたのかな、だとしたらもう出勤している堂本さんも危険かもしれない。

そう思いながら彼女を追いかけようと居間へ移動するとテーブルの上に置かれているアルバムが目に入った。それはとても見覚えのあるもので、実家でも同じものを見ていた僕は思わず手に取る。

「え…? 僕と同じ高校のアルバム?」

そこには僕の卒業した高校の名前が書かれていた。ケースから出して開いてみると、卒業生写真には知らない人ばかりが載っている。

でも、先生は見覚えのある人ばかりだったので改めて表紙を見ると、僕が卒業した翌年の卒業アルバムだった。僕はもう一度開き、彼女の名前を探し、見つけたと同時に言葉を失った。写真を見た瞬間、つま先から全身へ強烈に鳥肌が立つのを感じた。

名前が書かれた上にある写真はこの間、田口君が見せてくれた女の子だった。

どうして……?今と全然顔が違うのに。目の大きさも鼻の高さも……もしかして、整形してるのか?

『桜田だって被害者だったろ。確か、この話しらないときに桜田がそいつに優しくしたとかなんだとかでさ。結構在学中、桜田の周囲をウロウロしてたぞ』

田口君との会話が僕の頭を走馬灯のように駆け巡った。

これが偶然……?そんなはずがない。

僕は自分の罪悪感や焦燥感に苛まれて、ずっと心にあった違和感を後回しにしていた。

トイレットペーパーがいつも綺麗に三角折りされていること。

最近、あんなに来ていた友達や家族が全く遊びにこなくなったこと。

家族がこなくなったのにずっと不用心に置かれたままの部屋鍵のこと。

僕の向かいのアパートに住み、部屋の窓同士が対面していること。

なぜか僕が忘れようと時間をずらして行動しても、必ず彼女が僕の前に現れたこと。

田口君とご飯を食べている時、実家に帰る電車の中や、バス停、地元のゲームセンターの前、僕のアルバイト先、いるはずのない場所によく似た人を何度も見かけたこと。

本屋に来ていたストーカーの髪型は違うけど目元が彼女にそっくり似ていたこと。

そして、僕がいる戸は、『絶対』に開けないこと。

この部屋は戸棚と押し入れに同じ生活用品が分散しておかれている。

僕が押し入れに移った時、彼女は戸棚を開け、戸棚にいるときは押し入れから物を出していた。最初は移動するタイミングが良かったと楽観的に考えていたが、そもそもティッシュやトイレットペーパーなどを違う棚に分散して置く必要がどこにあるのだろう。

答えは一つしか考えられなかった。

すぐにアルバムを元の状態に戻し、自分の私物を手に持った。

心はいろんな感情で埋め尽くされている。背後を冷水が伝うような感覚がした。

僕には突然置かれていたアルバムの意味がなんとなくわかっていた。

『ずっと見てたよ』

そう言われている気がした。

居間のドアをあけると廊下には出勤したはずの彼女がいて、ただまっすぐ、こちらを見ていた。

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