第18話 風邪気味

 僕は自分の弱さにまた負けた。いや、もう勝とうとする気力も思考もなくなっていた。

きっと、どんな事でも負ける理由として受け止めいつかここに戻ってくるんだろう。

熊のキーホルダーを手に取って、ドアを開く。戸棚を開けて、持ってきたクッションを下に敷き座った。

スマートフォンがサイレントマナーモードになっているのを確認して、彼女の帰りを待つ。

数社面接までたどり着いたものの全部落ちてからはまたこの生活を続けて既に一か月経っていた。

彼女を見つめている時にだけあるこの言い知れぬ安心感には中毒性があった。

僕が存在している意味がここにあるような気がして、僕の存在意義はここで繋ぎ止められていた。

毎日同じような生活を繰り返す彼女を見ているだけで心が満たされた。

でも、いつかと同じように見ているだけじゃ我慢ができなくなる日もあって、そんな日は彼女の出勤した後にベッドに横になってみたり、眠っている彼女の髪を撫でることもあった。

僕はもう、バレてしまった方がいいんじゃないかと思っていた。

自分の気持ちだけではどうせどうにもできない。法的措置を受けて、いっそ引き離された方が僕自身この依存から抜け出せるのかもしれない。

そうは思っても、この笑顔が見れなくなるのはなんて思うと自分から警察に行ったり驚かしに行ったりするような行動に出ることはできなかった。

バレてしまえばいい、気づいてしまえばいい、僕のようなやつに目をつけられて今後一生のトラウマなんかになっても僕にはその責任を負うことなどできない。

一人暮らしでずっと鍵をポストに放置しているのも考え物だ。

ずっともしも勘づかれた時のために合鍵は作っていなかった。どうやって鍵を持っていけばいいのかもよくわからなかったし、どこの鍵ですかなんて聞かれたらしどろもどろになってしまうだろう。早く、鍵の存在を思い出して家の中にしまってくれたらいいのに。

彼女はティッシュがなくなったのか押し入れを開けて、替えのティッシュを取り出した。

勢いよく鼻をかむ。

「うー、風邪ひいちゃったかも」

彼女は少し鼻声でそう呟いていた。

まだ火曜日の今日、三連勤が残っているけど大丈夫かな。僕は戸棚の中から彼女の回復を祈るしかなかった。

彼女のことを考えながらコンビニで買い物をしていると、いつのまにかヨーグルトやゼリー、バナナなど風邪の時に自分が食べるものを買っていた。

「ああ、散財だよなぁこれって」

もう買ってしまった後だったから、僕はそのまま袋を受け取り店を出た。

彼女の帰宅時間まではまだ時間があるはずなのに、彼女が横断歩道のところで信号待ちをしているのが見えた。僕はそこに追いつき、話しかけるでもなく隣に立った。

彼女は風邪で辛いのか、ぼーっとしている。

横目で彼女の様子を確認していると、次第に斜めになり僕にぶつかった。

「あ、すみません…」

「大丈夫ですか?」

僕は本当に心配になり、顔を覗き込むと結構赤いことに気が付いた。

大丈夫ですと力なく答える彼女はフラフラと歩きだす。

「あ、まだ赤ですよ!」

僕は彼女の腕を強くつかんだ。それと同時に倒れ込むように僕の方へ傾く彼女。

背中を受け止め、肩を支えて立つように促すと彼女は力ないながらも少しずつ姿勢を保った。信号が青になり、そのまま肩を支えて横断歩道を渡って彼女の家まで送った。

階段を上がれるか心配だったので、僕は部屋の前まで支えてついてきたのだが彼女はさっきより意識が薄くこのままで大丈夫なのかとても心配になった。

「鍵、ありますか?」

僕のその問いかけに彼女は小さく頷くだけだった。さすがにカバンを勝手に漁るのはどうかと僕は彼女がカギを出すのを待つ。

しかし彼女はフラフラと揺れるだけでカバンに手を入れるものの鍵を出せていなかった。

これだけ意識が薄ければ、わからないだろうと僕は彼女の体を支えながらポストに手を伸ばし、鍵を開けた。そのままいつも通り、ポストに鍵を戻して一緒に部屋へ入る。

自分の部屋だということに気が付いたのか、彼女は急に足の力が抜けその場に倒れ込んだ。

僕は倒れてしまったのかと気が気でなかったが、多少の意識はあるようだった。

小さくて軽いとはいえ、力のない人間を動かすのは結構な重労働だ。

僕は、なんとか背中と膝の裏に腕を通し、持ち上げる。彼女が苦しそうな中でもうっすら笑っているように見えてこんな状況でも可愛いと思っている自分がいた。

とりあえずベッドに横にして、どうにか上着だけでも脱がせてあげないとと思った。

「いや、さすがに見ず知らずの男が上着脱がすのはまずいよな」

僕は冷静だった、というより全くそんな経験がないので正直どうしたらいいのかわからなかった。でも、寝づらい服のまま放置というわけにもいかないだろうし……僕はスマートフォンを取り出す。

「寝ている人の上着の脱がせ方……」

検索機能に頼ることにして、僕はベッドの横に座った。

出てきたのは僕が求めている方向ではない検索結果だった。

「検索の仕方が悪かった、やめよう」

僕はすぐに検索画面を閉じ、自分で考えることにした。

とりあえず、片腕を上着から抜く必要があるなと思い、僕は仰向けに眠る彼女の右腕を掴んだ。上着にもう少し伸縮性があれば簡単だっただろうけど、意外とひじを曲げる角度によっては全然抜くことができず、僕は汗をかき始めていた。

なんとか右腕を抜くことに成功した僕は彼女を一度抱き起こし、そのまま上着を取ろうとした。

抱き起こした彼女からはふんわりと昨日の夜にも嗅いだシャンプーの香りがした。

僕はそのまま彼女を抱きしめていた。すやすやと寝息をたてる彼女はもちろん何の抵抗をするわけもなく、力なく両腕をぶら下げ僕の腕の中にいる。

腕や胸に伝わってくる温もりと、顔にあたるふわふわの髪が僕に伝わってくる。

早く寝かせてあげないといけないと思いながらあと少しだけ、を繰り返していた。

ずっと触れても髪や指先だけだったのに全身に感じる彼女の存在は僕の体の細胞が一斉に生まれ変わっているんじゃないかと思うほど衝撃的だった。

もう二度とこんな機会はこない、そう思うとなかなか離すことができなかった。

それでも少し苦しそうに息をする彼女の呼吸を間近に感じると僕はまた彼女を仰向けに寝かせた。

体や顔はあまり熱くないから熱はないのかな。自分の買ってきたヨーグルトやゼリー、バナナをサイドテーブルに置き、ソファに座らせてもらった。

いつになったら目を覚ますだろう、すごく辛そうだったし起きるまで待っていようかな。

でも、起きて知らない男の人が部屋にいたらどう思うんだろう、僕は悩んでいた。

鍵をかけずに部屋を出ていくのはどうかと思うし、いろいろ考えた結果結局部屋で彼女の目が覚めるのを待って状況を説明した方がいいということに落ち着いた。

この結論は僕が彼女と少しでも話したいという気持ちが決断しているところもある。

眠りを阻害しないように、テレビなどを付けることはせずに時間が過ぎるのを待った。

トイレを借りて、廊下へ出ると玄関の招き猫がこちらを見ている。

そういえば来た時からずっとあるけど、一人暮らしの家に招き猫があるのってやっぱり珍しいな。

僕は居間のソファに座り直し、スマートフォンを見たり、彼女の寝顔を見たりしていた。

二時間ほど経ったところで寝返りが多くなったのでそろそろ起きるのかなと思っていると彼女はむくりと起き上がった。

そのまま、ぼーっと壁を見つめ、少しすると僕の方を向いた。とても驚いた表情をして叫びだす寸前なんじゃないかと僕は慌てる。

「いや!変質者とかでは決してなく!!」

僕は彼女が起きるまで冷静に状況を説明できるようにシナリオを頭に思い描いていたはずが、叫ばれると思うとそのすべてが吹き飛んでいた。

そして、実際の状況とは真逆な言葉を咄嗟に口にしている自分に笑える。

彼女は枕を抱きしめ、何が起きているのかわからないという顔をしている。

「落ち着いて聞いてください。さっき、道端で倒れかけていたので家まで支えて送ったんですけど、結構辛そうだったので帰るに帰れず今に至るという感じです」

僕はとてつもなく久しぶりに彼女と会話していると思い、声が震えた。

彼女の方はというと、特に何も話さないままなにやらさっきまでのことを思い出している様子だった。状況が段々と理解できるようになったのか、少しずつ申し訳なさそうな表情に変化していった。

「すみません、ありがとうございました」

彼女の具合は様子をみるからによくなっているようだった。仕事の疲れが溜まっていたんだろうか。僕は買ってきたヨーグルトなどを良かったら食べてくださいと伝え、すぐに帰る準備をした。

「あ、あの……よくコンビニで会いますよね。私の事、覚えてますか?」

彼女は自信なさそうにそう訊いてきた。覚えているも何も僕はあなたの事を仕事中以外ずっと見ていますよと心が返事した。

「あ、はい。僕はリンゴジュースをもらった覚えがあります」

そう返すと、そのことは覚えていなかったのか不思議そうな顔をしていた。

「でもあの時、堂本さんは酔っぱらってたから……」

「なんで私の名前を知ってるんですか?」

彼女の鋭い質問に僕は心臓が刺されるような危機感を感じた。

「いや、あ、すみません。さっき、封書の名前を見て……」

咄嗟にポストに封筒が入っていたのを思い出し、そう言った。

「あ~、そうなんですね……あの、お名前は?」

「僕は桜田です」

僕の名前を彼女に覚えてもらえるなんて喜びで口角が上がりそうになるのを必死に抑えた。

「桜田さん…、ありがとうざごさいました」

彼女のお礼はお別れの合図だと悟り、すぐに荷物を手に取って靴を履いた。

「あ、大丈夫です、勝手に帰るので見送りは! もう少し休んでいた方がいいと思いますし」

ベッドから立ち上がろうとする彼女にそう伝え、僕はドアを閉めた。

手やら額やら背中やらに変な汗をたくさんかいていた。

自宅に戻ってからは、彼女とたくさん会話できたこと、彼女を抱きしめたことを思い出しては声をあげて喜んでしまった。

これって次からはもしかしてコンビニとかで見かけたら声かけても大丈夫だったりするんじゃないだろうか。会釈とかできるんじゃないだろうか?

こんなにも簡単なことで僕の心は有頂天だった。

そして再び思い出したかのように双眼鏡を覗いた。彼女は僕のあげたヨーグルトをおいしそうに食べている。なんて可愛いんだ、可愛すぎる。

こんな機会を恵んでくれた神様に心から感謝しながらヨーグルトを食べ終わるのを見届けた。

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