第10話 主観

 見た目通りのふわふわの髪がさらさらと枕を滑り落ちる。

それでも起きる様子のない彼女の横顔を数分眺めていると突然寝返りをしてこちらを向いた。僕は無意識に息を止め、その場に立ちすくむ。こちらの緊張とは裏腹に寝息をたてたままの彼女はしっかり眠りについているようだった。

これ以上触るのはさすがに危険と判断した僕はさっきと同じように音を立てないよう細心の注意を払いながら戸棚に戻る。

髪の毛の感触はしっかり指先に残っていた。自分の髪とは全然違う、柔らかくてさらさらな髪。僕は手のひらにうっすらと残る彼女の指先の感触も思い返しながら愛しさを噛みしめ、眠りについた。

 朝になると彼女のドタバタとした足音で目が覚めた。

「なんでアラーム鳴らないの~!」

彼女は寝坊したようで、部屋の中を走り回っていた。

今何時だろう?僕は戸棚に入る薄明りの中自分の周りを手で探りながらスマートフォンを探す。…ない、ない?…ない!!ポケットも自分の周りにもそれらしきものがない。

どこにやったかを必死に思い出そうとした僕は昨日、サイドテーブルにスマートフォンを置き去りにしたことを思い出した。どうしよう!!走り回る彼女を見ると今はまだ僕のスマートフォンの存在に気が付いてなさそうだ。このままどうか気づかれずに済みますように…!!

僕は戸棚の中で必死に祈っていた。彼女は食事を始めたのか、食器がぶつかる音が響く。

いつもならご飯を食べた後は歯を磨いて、着替えて、お化粧をして家を出る。

問題は、着替えで洋服を取りに寝室へ戻る時だ。サイドテーブルのすぐ近くに衣装ケースがあり、ベッドに座って靴下を履いたりスカートに着替えることがある。

現実的に考えて、バレてしまう可能性の方がよっぽど高いと僕は思っていた。

彼女は急いでいるのか、ご飯をすぐに食べ終わり、いつもより早いテンポで歯磨きを始めた。着替えを取りに行くことがわかっている僕はその時間が近づくと緊迫感で押しつぶされそうになっていた。彼女が異変に気が付いたことがわかったら、戸棚から飛び出して逃げてしまった方がいいんだろか。でも、スマートフォンがあったらどのみち特定されてしまう。僕には小さな可能性にかけて祈る以外できなかった。しかし歯磨きしながら洗面所を飛び出す彼女の手にはズボンやブラウスがひらひらと舞っていた。

拍子抜けする僕をよそに、歯ブラシをくわえたままソファに座って着替えを始めた。

そういえば、彼女は昨日洗濯をしていた。脱衣所で干されていた服をそのまま持ってきたのだろう。僕は安堵のあまり、壁に背中をぶつけた。その音にすら彼女はテレビの音でまったく気が付いていないようだった。

運が良すぎる、僕の人生の大部分の良い運勢をこういうところで使っているんじゃないだろうか。この後の行動で寝室に行くということはあまり考えられない。すなわち、このまま気づかれずに出勤する可能性が高いのだ。

予想通り、彼女は居間で化粧品を広げ一通り終えるとコートを着て慌ただしく玄関から飛び出していった。鍵がしっかり閉まる音を聞いて、また戻ってくることがないか15分ほど待機した後に戸棚を出る。

急いでサイドテーブルの方へ向かい、スマートフォンを回収した。

「はぁ~、 本当に良かった」

もう長らくこういった暮らしを続けていると、気を付けてはいるもののボロが出る。

時刻は彼女がいつもゆったり部屋を出る時間を15分ほど過ぎていた。サイドテーブルに同じく置かれている目覚まし時計を手に取ると、普通に動いてはいたが背中のスイッチがオフになっていた。昨日かけ忘れて眠ってしまったんだなと目覚まし時計に心の中でありがとうを伝えて僕もアルバイトへ向かうため外に出た。


 僕が休憩室に入ると、川下君が先に来て椅子に座っていた。

「おはよう、今日は早かったんだね」

川下君は浮かない顔で僕に挨拶を返した。

その表情の理由がわからなかった僕は、改めてホワイトボードに貼られているシフト表を見ると川下君の出勤日ではなかった。

向き直ってどうしたのか聞こうとすると店長も休憩室に入ってきて、椅子に座る。

「あ、桜田君おはよう。実はね、百瀬さんやめることになったんだ」

店長は残念そうにそう話した。川下君の表情は更に曇り、そのまま俯いてしまった。

「どうしてですか?」

僕がそう尋ねると、店長は川下君に目配せし、川下君は小さな声で話し始めた。

「俺がいけないんです。こないだ、俺のストーカーが大学に来たんです。そのあたりから百瀬の後をつけるようになったみたいで、また来たのを見かけたときに声をかけたんです」

さすが若いだけあって勇気があるなと感心していると川下君は持っていたカバンを抱きしめた。

「そしたらその女、『おせーんだよ』って」

「え?遅い? 声をかけるのがってこと?」

「わかりません、それだけ言ってすぐいなくなったので」

店長は持っていたボールペンでテーブルをパタパタと鳴らしている。

「あの女、大学ではあまり見かけなくなったと思ってたんですけど百瀬のとこに行ってたみたいで。百瀬からアルバイトやめるって連絡が来たんです」

「っていう話みたいなんだよね。百瀬さんからはもうアルバイト先に行けないのでって電話は来たけど本人が来ることはなくてね。今、書類を川下君に持って行ってもらおうとしてたところなんだ」

「俺がまた百瀬に接するとあの女何してくるかわからないから、また大学で別の友人を介する予定です。何かされたのかって聞いても、『言えない』って電話越しに泣いてるのがわかって……俺も警察に言った方がいいんじゃないかって言ったんですけど『それは絶対にやめて』って言われて」

話を聞いている限り、あの女の人が百瀬さんに何かしたのは間違いないだろう。

きっと見ているだけじゃ満足できなくなって周りにいる異性を排除しているんだろうな。

見ているだけじゃ満足できなくなってきている自分もいつかそうなるんじゃないかと不安が募った。

僕の行動も、いつか好きな人の幸せを壊すようになっていくのかな。なんて、今していることも公になれば、簡単に不幸のどん底に落ちてしまうのか。その女の人も、僕のように葛藤しながらやめられないでいるのかな。

「絶対あの女がなんかしたんだ。俺が話かけた時、正常な思考の人間の顔つきには見えなかった。平気で人殺しそうな、気持ち悪い顔してたし。俺が何したっていうんだよ」

川下君はとてもイライラしているようだった。好きな人が自分のせいでつらい目に合うのが許せないのは普通のことだと思うし、その理由がはっきりしないのは釈然としないことだろう。

店長は書類をファイルに入れて、川下君に渡した。川下君は鞄に入れて、すぐに休憩室から出ていく。

「いやぁ、 大学まで行くのは相当だよね。モテるってのもいいことばかりじゃないんだねぇ」

店長は椅子によりかかりながら、監視カメラの映像を見つめていた。

「桜田君はさ、仕事とかでも結構一点集中型だから好きになったら一直線っぽいよね」

僕は内心ドキッとした。

「でも桜田君は優しくて、周りに合わせるのも上手いから人の迷惑になるようなことはやらなさそう。そろそろ桜田君の恋バナ聞きたいなぁ」

パイプイスが大きく軋むほどのけぞり、伸びをしている店長は少し笑っていた。

どうですかねと濁しながら休憩室を先に出た僕は、周りの人って意外と自分のことを見ていてわかっているものなんだなと思った。

迷惑になるようなことはしなさそうか……よくニュースでそんなことする人には見えなかったとか言われているけど、僕もそういう風に囁かれることになるんだろうな。

失望と希望の繰り返しで、気分の浮き沈みが激しいこの状況を抜け出さないと正常な判断に戻れないのかもしれない。今はもう、そんな風に昔は思っていたなとかその程度で焦りを感じない自分がいる。こうやっていつか悩んでいたことも忘れて自分の中の普通が作り変わっていくんだろう。どれだけあがけばそれを止められるのか、そもそも止めることができるのかも定かじゃないのに頑張り続けることなどできない。

僕は自分の弱さに負けてるどころか立ち向かってすらいない。誰が聞いても、情状酌量の余地がないと判断することだろう。

考え込んでいると、就業時間にさしかかっていることに気が付いた。

あの女の人が新しい人を見つけたり、自分の異常さから解放される日がくるといいなと漠然と思いながら倉庫を出た。

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