第9話 高まる欲求

「百瀬さん、今日出勤だっけ?」

僕が終わるのは夕方、百瀬さんはたまに遅番にも入るが今日はシフトじゃなかったような。

「いえ、たまたま通りかかって。もしごはんとかまだだったら……」

最後の方はごにょごにょとよく聞こえなかった。

「ごはん?」

「あ、ご飯に!!……行きたいです!」

ひと際大きな声で百瀬さんが叫んだので、通りすがる大人が苦笑いしている。

「う、うん。とりあえず行こうか」

僕はその視線に耐えられず、思わず承諾してしまった。少し歩いた先にあるレストランに入ってメニュー表を百瀬さんの前に出した。

「桜田さんは好きな食べ物なんですか?」

「うーん、基本的にあまり好き嫌いはしないけどカレーは結構好きかな」

僕はこないだ食べた彼女のカレーを思い出していた。

「へぇ、子供みたいですね」

いたずらに笑う百瀬さんはメニュー表で顔を半分隠していた。

「偏見だと思うなぁ。それより何にするか決まったの?」

「はい!グラタンにします!」

「負けないくらい子供っぽい気がするけどな」

僕がそう返すと、口を尖らせ不満げな顔をしてこちらを見つめている。

「桜田さんって、面倒見いいですよね。急にご飯誘ったのに、こうやって連れてきてくれるし。彼女とか、いるんですか?」

最近は嵐のように人とご飯を食べる機会に恵まれて、似たような質問をされることが多いなぁ。

「いないよ」

溜息混じりにそう答えると、百瀬さんは少し笑った。

「あ、馬鹿にしたでしょ。若い子は怖いなぁ」

僕自身、好きだとか意識していなければ親戚の子みたいな感じで意外とスムーズに話せた。あの不審な行動の最大の理由は、どうしようもない好意に由来している。

あの行動を抑えるためには自分の気持ちも同じくらい抑える必要があるってことだ。

「桜田さんは何にするんですか?」

「あ、オムライスにする」

了解ですと言いながら百瀬さんはベルを鳴らし注文をした。

「彼女、なんで作らないんですか?」

なるほど、今時の子からすると彼女がいないっていうのはあえて作っていないという風に捉えられるのか。

「いや、作らないっていうかできないっていうか」

僕は素直にありのままの返事をした。

「彼女はほしいってことですか?」

「どうしたの急に」

詰問に耐えられない僕は質問を切り返した。彼女は前のめりの姿勢から少し椅子にもたれる形になった。

「最近、川下君に告白されました」

静かにそう告げる彼女とは真逆に僕は慌てて水をこぼしかけた。

「桜田さんは、私が川下君と付き合ったらどう……思いますか」

キラキラとした瞳は一瞬僕を捉えて、少しずつ俯いた。

「ど、どうって……川下君はかっこいいし、自慢の彼氏になるんじゃない?」

「そうじゃなくて、私に彼氏ができても、桜田さんはなんとも思わないですか?」

僕は内心とても焦っていた。いくら鈍感と周りに言われていてもさすがにここまで言われれば言葉の意図がわかる。どうにか傷つけずに話を終わらせることはできないかと頭をフル回転させるがうるうるとしている瞳を見ると思うように言葉は出なかった。

「僕は川下くんみたいなかっこいい人とお似合いだと思うし、百瀬さんには幸せでいてほしいと思うかな」

「私の幸せを願ってくれるんですか?」

「そりゃあね」

「じゃあ、私が桜田さんの彼女になるのが幸せだって言ったら?」

あまりの熱意に言葉を返せないでいると、注文した料理がタイミング良く運ばれてきた。

二人とも少しの間、無言で運ばれてきた料理を口にした。

「あの、さっきの答え。今すぐじゃなくていいんで」

また先に口を開いたのは百瀬さんだった。最近の女の子は積極的だとテレビでやっていたけどここまでとは思わなかった。うんと頷くだけでオムライスの味もよくわからないままご飯を食べきるとまだ話をしていたいのか百瀬さんは水をおかわりした。

「そうだ、川下君のストーカーいるじゃないですか。今日、うちの店の前で見ましたよ」

「あぁ、今日はゼミがあるとかで川下君は休んだんだよね」

「こないだ大学でも見かけたんです」

僕はさすがに驚いた。百瀬さんも怖いのか表情が暗かった。

「私、最近あとをつけられているような気がするんです。歩くと私の足音に重なるように足音がするのに止まると少し遅れて止まるんです」

確かに川下君のことが好きでストーカーしているなら川下君と一緒にアルバイト先に来たり、川下君が好意を寄せていることに気が付いたら百瀬さんのことを恨めしく思うかもしれない。

自分も好きな人に好きな人がいたら、その恋を心から応援できるだろうか。

たぶん、その女性は応援できなかったんだろうと僕はなんとなくそう思った。

「危ないかもね、あまり気になるようだったら警察とかに相談した方が少しは安心できるかな」

百瀬さんを心配する気持ちは確かにある中で、僕のやっていることはこのレベルをこえて更に人を恐怖に陥れる行為であることは間違いない。後をつけられたり、自分のテリトリーに少し踏み込まれただけでこんなに怖がっている。改めて自分の行動がどれだけ異常かを思い知らされた。

「とりあえず、今日はいつもの帰り道とは違う道で帰ってみます」

お会計をして、僕らは解散した。

もうなんの躊躇いも罪悪感も残っていなかった状態でも、実際に怖がっている女の子を見ると気が引ける。僕は仕事の疲れもあり、今日は双眼鏡を覗くこともやめて早々と寝床についた。

一か月ほどこの生活を再び繰り返して、ついに彼女の誕生日前日となった。今まで通り、特に彼氏らしき人物が来ることもなく、それどころか友達や家族が来ることもなくなった。

僕の最大の懸念すべき点は彼女の友人や家族が来て、異変に気が付くことだった。

そのリスクがなくなった僕はもはやこの家の住人と言っていいほど戸棚の中でゆっくり過ごしている。今日、日付が変わったその瞬間一番近くにいるのは僕だ。その事実がどんなことより価値のあるものに感じられた。

そんな僕をよそに彼女は早々と寝る準備を済ませて、ベッドに寝っ転がった。また動画を観始めたようでしばらくその体勢から動かなかった。もうそろそろ日付が変わる、僕は彼女に視線を向けたりスマホの時間を確認したりしていた。あと1分、スマホから目を離すとさっきまで寝ころんでいた彼女がいない。すると、僕の視界は真っ暗になった。部屋の電気が消えたのかと思ったが、戸棚の前に彼女がよしかかっているようだった。僕は息を殺し、扉が開いてしまうのではないかという恐怖に目を閉じる。

「ふふ、可愛い」

彼女は相変わらず動画を観ているようだった。そのまま、戸棚から離れていき、また布団に寝ころんだ。彼女は枕を抱くようにし、暫くすると寝息を立て始めた。

ドア一枚を挟んで部屋の中では一番近い距離にいた。手を伸ばせばすぐに触ることのできる距離だ。

……触れたい、僕はいつの間にかそんな恐ろしいことを考えるようになっていた。

いつバレてしまうかもわからないこの状況で、最後になってもいいからとまで思えた。

深夜2時過ぎ、僕はゆっくり戸棚を開いた。誕生日という特別な日、僕は彼女に近づきたいという気持ちが抑えきれなかった。足音を立てないようにゆっくり歩き、ベッドに近づく。

寝息をたてている彼女は起きる様子もない。暗闇の中、徐々に慣れてきた僕の視界にはふわふわの髪や手がうっすら見える。一歩ずつ近づいて、汗で滑り落ちそうな自分のスマートフォンをサイドテーブルに静かに置いてからゆっくり枕に流れている髪の毛に触れた。

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