第8話 最低な日常
彼女が出勤してから、僕は自宅に戻りしっかり布団で睡眠をとってからアルバイトに向かっている。そして、彼女より早くに勤務が終わるのでごはんを食べて諸々の準備をして彼女の家に入る暮らしを続けている。幸いにも彼女のアパートの住人とはあまり顔を合わせることがなく、特に不審がられている様子もなかった。いつものように戸棚に入り、彼女の帰りを待つ。
最近彼女は動画視聴にハマっているのか眠る前によく動画を見ていた。内容までは遠すぎて見えなかったが、特に音もしていなかった。それを見て彼女はたまに可愛いと声を漏らしたり、ふふっと優しく笑っていた。
一体なんの動画を観ているんだろう、彼女の動画の内容が気になった僕だったが何度見ても画面が暗くしっかり見えなかった。
テレビはお笑いやドラマが好きだと観ている番組から予想できた。動画も似た感じなのだろうか、僕は彼女が仕事に行っている間は自宅で動画の視聴をして最近の流行りなんかも調べていた。同じように暗い画面の物はなんとなくホラー系が多かったけど、実はホラーとかも好きなんだろうか。あの小さくて可愛らしい見た目は、幽霊を怖がりそうなイメージがあるけれど。彼女が規則正しい生活リズムのおかげで僕が毎日入り浸っていることは気づかれなかった。彼女は気が付いている素振りもなく、とてもリラックスした様子で寛いでいる。
僕もこの生活リズムに慣れてきて、罪悪感なんてものはもう跡形もない。自分のだめなところから目を背けて、現実逃避していると言った方が確実かもしれない。彼女を見ている時だけは、僕は恋をする普通の人間です、そう言える気がした。
また、彼女が出勤する背中を見送って僕の一日は始まる。昨日の夜、彼女が一生懸命作っていたカレーが鍋に残っているのを見つけた。お米も炊かれていたので、僕は器によそって彼女がいつも座る場所でカレーを食べた。
「おいしい」
少し甘めに作られてはいたものの、普段レトルトやコンビニばかり食べる自分の体にしみた。更に、好きな人が作った手料理だなんて一生食べられないと思っていた。大事に一口づつ食べて、茶碗1杯分くらいを完食した。
すぐに食器を洗って、拭いて元の場所に戻す。僕は自宅に戻り、歯磨きや洗顔をしてアルバイトへ向かった。
いつもより出勤時刻が遅くアルバイト先に15分ほど早く着いてしまった僕は雑誌を立ち読みしていた。ふと視線を前に向けると彼女と同じ上着の色の女の子が見えた。
そういえば、今日の上着はグレーだったな、あの人の着ているジャケットもすごく似てる。視線をそのまま落とすと、手元にあった美容雑誌には最近の流行りとしてジャケットが掲載されていた。周りを見渡すと使いやすい色味なのか他にも何人か似たような色のジャケットを着ている人がいる。
雑誌を元に戻し、休憩室に入ると店長が監視カメラを見ていた。
「どうしたんですか?」
僕が上着を脱ぎながら聞くと、店長はうなり声をあげている。
「うーん、なんか1時間以上前からずっと店の中をうろうろしている客がいてね」
本屋だと、立ち読みしていて長く居座ることは多いものの、店内を動き回りながら長時間いるという人は少ない。
「そうなんですか、不審者ってことですか?」
「いや、この人かなり頻繁に来るは来るんだよね。でも滅多に本とか文房具を買わないし、今日はいつもより結構長くいたから他の従業員も気味悪がってね」
「あぁ、この人ってことですか?」
僕は映し出された監視カメラの映像に映る女の人を指さした。画質が粗く、あまり鮮明には見えないがなんとなく女性ということが服装からわかる。
「そうなんだよ、パートさんの間では誰かのストーカーなんじゃないかって噂だよ。 桜田君か、荒木君か川下君か。 さすがに吉田さんはないでしょ、男だけどもう54歳だしね」
半笑いで監視カメラを見る店長は男性従業員の心配をしていた。
「基本的に川下君か桜田君がいる時に来てると思うんだよね。 でも、桜田君が出勤じゃなくなって川下君が出番になったときに結構長くいたから多分、川下君なのかなぁ」
川下君は5時間勤務の大学生の男の子で、かなりの美形だ。この女の人以外にも追っかけのような人がいて連絡先を渡されていることも多い。僕の方が働いて長いけど、そういうことは今まで一度もなかったな。
「おはようございます」
川下君が出勤時刻ギリギリに休憩室に入ってきた。
「あ、噂をすればだね。川下君、この女の人また来てるよ」
店長が指さすと、川下君は溜息をついた。
「ほんとよく来ますよね。 俺、働いててその人とめっちゃ目が合うんですよ。なんか目が合ってるんだけど焦点が合ってないっていうか。マジ異常者って感じでいつも鳥肌立つんですよね」
「ああ、あんまりひどいようだと出禁とかも考えた方がいいかなぁ。 帰り道とかは大丈夫なの?」
「あー、なんか帰り道はたぶん大丈夫ですね。 俺が帰る頃、まだ店でうろうろしてること多くて、その隙を見て帰ってるんで」
僕は二人の会話を背中で聞きながら制服に着替えていた。
「川下君もイケメンだと大変だね。どこでこんなの捕まえてきたの」
店長は嘲笑とも言える表情で川下君に問いかけた。
「知らないですよ、話した覚えもないですし。こういうのほんと勘違いから始まって、勝手に盛り上がって思い詰めて常軌を逸してくるからマジで怖いですよね」
「でも、少しはなんか覚えてたりしないの?なんか、あの、ちょっとでも優しくしたとか」
突然喋りだした僕に驚いたのか休憩室は一瞬静かになった。
「いやぁ、全く関わった覚えがないですし、仮に優しくしたとしてもそれで勘違いされると困るっていうか」
川下君は少し迷惑そうに声を低くした。きっと、今まで多くの人から愛情を注がれて生きてきてるんだろうなと容易に想像がつく。僕は監視カメラに映る女性に自分を重ねていた。正論を言えば川下君や店長の見解が普通だってことは頭でわかってる。
でも、ただ顔を見るだけでもって思って気が付いたら時間が経ってるのも僕にはわかる。
あの女の人は、こうやって気持ち悪がられていることに気が付いてるのかな。
気が付いていてやめられないのか、気が付かないでやめられないのか。
どうやったら、救われるんだろう。その答えがわかればきっと僕もこのアリジゴクのような迷いから抜け出せるんだろうな。
最初は本棚のメンテナンスが入っていった僕は倉庫から店内へ踏み出した。
「桜田さん!」
僕の名前を呼びながら、川下君と同い年の百瀬さんが僕の腕にしがみついてきた。
「ボタン、段違いじゃないですか?」
そういいながら僕の腕を引き、倉庫へ連れ戻した。慌てて確認するとたしかに段違いでずれたまま制服を着ていた。
「ありがとう、恥ずかしい格好のまま働くところだったよ」
ボタンを直しながらそう言うと、百瀬さんはニッと笑った。
「やっと帰りましたよ、ストーカー女」
よほどあの女性の話で職場は持ち切りなのだろう、どこに行ってもその話だ。
「川下君も大変だよね」
「うーん、私は桜田先輩のストーカーなんじゃないかって思いますよ?」
僕があまりの衝撃に言葉を失っていると、なぜか百瀬さんは恥ずかしそうにしていた。
「だ、だって桜田先輩の方が……かっこいいじゃないですか」
一瞬訳がわからず、そのまま沈黙を続けていると百瀬さんは店内へ勢いよく出て行ってしまった。
「いやいや、お世辞でしょ?落ち着け自分」
僕は冷静になろうと、倉庫で自分にそう言い聞かせた。
八歳も下の女の子にからかわれて、情けない。大きく深呼吸をして、倉庫から出ようとすると背後から声がした。
「おいおい、学生さんたぶらかすのはやめてよ?」
「店長、いつからそこにいたんですか。からかわれただけですよ。ボタンも段違いで出てくるような大人ですから」
「いや、ほんとに桜田君って鈍感だよね! もうみんな知ってたよ百瀬さんの気持ち」
僕は手のひらに変な汗をかきながら、お店の人で僕を陥れようとしているんじゃないかなんて考えていた。
「百瀬さんは川下君とも仲良しだからね、どっちに転ぶのかって飲み会も結構そういう話出てたのに。桜田君いつも一次会で帰るからさぁ」
すみませんと軽く謝る僕の首に腕を回し、店長は小声で続けた。
「百瀬さんは今年成人したから、犯罪にはならないぞ」
楽しそうに笑いながら店長も倉庫から出て行った。僕はもう一度深呼吸をして後を追うように倉庫から出た。
それからというもの、百瀬さんは僕と出勤が被ると休憩室でよく話しかけてくれるようになった。最初は恥ずかしそうだったものの、最近お気に入りのアニメがあるとかで僕らはその話で盛り上がっていた。なんだか久しぶりにこんなに女の人と話しているかもしれない。
まだ、毎日彼女を探す視線の動きはやめられなくてこの場所に彼女がいればなぁと思う自分もやめられない。それでも、毎日のように入り浸っていた彼女の家に行く頻度は少し減り、双眼鏡から覗くだけの日も増えた。
僕はアルバイトを終え、今日は久しぶりに彼女の家に行こうかなと思っていた。
「桜田さん!」
元気よく呼ぶ声は、私服の百瀬さんからだった。
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