第6話 怒り

僕の心は頭上を覆う真っ赤な夕焼けの赤に負けないほど、怒りの炎がたちまち真っ赤に燃えた。

その女の人は、すぐに彼氏に抱き着いた。

「こっちまで来たのは初めてだね! 待っていられなくて来ちゃったよ」

女の人の目はうるうると輝いていた。それを見て微笑む彼氏、そのまま手を繋いで歩きだした。あの手で彼女の髪を撫でていたと思うと僕の苛立ちは最高潮に達しそうだった。本当は今すぐにでも飛び出して…と思うけど、今の僕の立場じゃ何もできない。僕が今までやってきたことがバレる可能性の方がずっと高い。スマートフォンでその様子を撮影しながら、彼女のためにできることを考え証拠を集めることにした。

その後、二人ははおしゃれなレストランに入り、ご飯を食べていた。もうそろそろ彼女は自宅につく時間だ。ここからならもう駅に向かわないと彼女の帰宅時間と同じくらいの時間には家に着くことができない。彼氏は時間など全く気にしていない様子だった。

そのまま二人は近くのホテルへ入っていき、二時間以上出てこなかった。

僕は正直何が起きているのかよくわからなかった。このままここに泊まるつもりなんだろうか。まさか、彼女の家にこれから帰るなんてことはないよな?

しかしそんな僕の予想は外れて、彼氏は彼女と腕を組んだまま出てきた。

「じゃあ、明日もお互い仕事だし、また戻ったらゆっくり会おう」

彼氏はそう言って、その女の人をタクシーに乗せた。

ずっとこういうことをして彼女の事を裏切り続けているんだ。そう考えると、この人の生きている価値にすら疑問がわいた。疑問について考えているといつの間にかタクシーを見送った彼氏の背中に向かって僕は走り出していた。僕は無意識に何を考えていたんだろう、何をするつもりだったのかもわからないけど自分のスマートフォンの着信音で不意に足が止まった、スマートフォンの通知はアルバイト先からだった。

「はい、桜田です」

「あぁ、ごめんねぇ、店長だけど明後日のシフト変更してほしくて」

そのまま店長とシフトの変更の話をしながら歩くと、駅までついてしまった。

この方面の電車に乗るということは彼女の家に戻るつもりなんだなと僕は察する。

想像通り、彼女の部屋に鍵を開けて入った様子を僕はアパートの下から見ていた。

彼女が傷つかないように、僕が終わらせてあげた方がいいと思った。

彼女のことを平気で裏切るような人が生きている意味なんてない。

家にあった包丁は一本だけだった。久しぶりにシンクの下を開けると、中にはあまり物がなく、変なスペースが空いていた。あれ、ここに何か置いてたっけ?

「まぁ、母さんが来ると家事をするときここをよくいじってるからな」

僕は母さんが何かしたんだろうなと戸を閉めた。

僕が人を刺したってなったら、母さんと父さんは人殺しの親になってしまう。

でもどうにかしてあげないと、彼女は不幸になる。

一晩中考えて、僕は彼氏に直接話をすることを決意した。

次の日、僕はアルバイトだったので帰ってきた彼氏に話をしようと思っていた。

アルバイトから帰ってくると、カーテンの隙間から彼氏が見えた。

「あれ、もう帰ってきてる」

昨日よりずいぶんと早い帰宅だった。まさか自分よりも早いなんて。

話し合いは明日かなと思っていると出てきて彼女に手を振っていた。

当初来た時の荷物を持っていたので、僕は今日帰ることを察し、カバンに包丁を放り込んで部屋から飛び出し、その男の人を追った。男の人はなにやら電話をしているようだった。

「もしもし私、堂本由紀子の息子なのですが、母の携帯が繋がらなくて…すみませんが、代わっていただけますか?」

彼女と同じ苗字に僕は耳を疑った。

「あ、母さん?携帯全然繋がらないし、どうせメッセージ打ってもすぐ見てくれないと思って。 出張だったから雪菜のとこに泊まらせてもらって、問題の印鑑は借りれた。 クレジットカードとかキャッシュカードはもう止めたから大丈夫だと思う。 警察にも落とし物で届いたら連絡してもらえるようにはしたから、とりあえず出張の仕事は乗り切れたよ」

ところどころ、車のすれ違う音で聞こえにくかったがカバンを失くしてしまったんだろうか。

「あぁ、雪菜にはバカ兄って罵られたわ。ちょうどご飯のタイミングだったのか飯も食わせてもらって今帰ってる途中」

僕の憂鬱は兄という言葉で消え去り、思わずにやけてしまう口元がばれない様に、上着のチャックを上まであげた。

「あいつ、相変わらず部屋散らかしてたわ。戸棚も押し入れもトイレのドアとかも開けっ放しだったし。 高校の時とか家にあまりいなかったけど、家にいたらいたで引きこもってなんか書いてたし。 え?へー、漫画家になりたかったんだ。 それは初耳だわ。 あぁ、 ごめんごめん。 そんなわけだからとりあえず心配いらないって話でした。 じゃあね」

そう言うと、電話は切れたようでお兄さんはポケットにしまっていた。少し歩いたところで、タクシーを呼んでいたので僕は追跡をやめ、自宅に向かった。

元々漫画家になりたかったんだ。そういえば、彼女が出勤したあとに部屋を探索していて一枚日記のようなものを見つけたことがあった。

見てはいけないと思いつつ、最初の方を読むと少女漫画のように恋愛に苦しむヒロインが登場していた。今思えば、たまに彼女が机の上でノートのようなものを見返している姿も結構見てきた。単なる仕事のノートかもしれないけど、今でもその夢を追っていたりするのかな。

僕の夢は、普通の家庭を作って子供と遊んで、一生懸命仕事してって特に変わったことは思っていなかったな。ずっと、その相手に当てはまる人はいないまま大人になって、今に至る。そんな他愛もない夢さえ、今の僕の収入じゃ無理だ。就職活動、また本気で始めないとと思った僕はそのままコンビニへ寄って履歴書を手にした。

いつまでも逃げていちゃいけない。僕は新しいボールペンも一緒にレジへ持っていった。

家に戻り、包丁を元の位置に戻してから机に向かうと、やっぱりブラック企業時代のことを思い出した。

まだあの会社に同期が四人も残っているなんて精神力が桁違いだと思う。

でも、そんな環境でも自分の幸せを掴んでいる人がいることも事実だ。

もうただ眺めているだけじゃ抑えられないこの気持ちがコントロールできなくて暴走してしまうなら、眺めるのをやめてもう一度声をかけた方がいい。

そのためには自分に自信を持って少しは笑顔で話しかけられるように頑張ろう。

僕のペンは前向きな気持ちをのせて滑らかに走り出した。

毎日一喜一憂しながら過ごす僕は、双眼鏡を覗く時間も削って就職活動に励んだ。

ずっと苦手だった面接も動画をみたり、本を読んだり、イメージトレーニングもしながら臨んだ。

気になった会社はとことん調べて、自分と合いそうだなと思えたところにはとりあえず応募した。

自分の強い気持ちとは裏腹にそもそも面接に辿り着くことが困難だった。

前の会社を一年でやめてそれ以降ずっとアルバイトをして生活していた。その中で自分を磨いてきたわけでもなく、成果があるわけでもない。強いて言えば、精神状態があの会社での勤務時に比べるとかなり良くなったことくらいだ。もちろんそんなことは会社からしてみればどうでもいいことで、なんの意味もない。

男である僕は会社からしてみれば精神の脆い存在に映っているんだろうな。選考に落ちるメールが届くたびに強く実感した。

就職活動は未だにちゃんと続けてはいるものの、僕の心は僕が思っていたよりずっと弱かった。

いつまでもアルバイトの自分、アルバイトとしての仕事ですら失敗する自分、本を買いに来る家族連れやカップルを見ては劣等感が募るのを止められなかった。同じように生きているはずなのにこの違いはなんだ、なんでそんなに幸せそうなんだよ、どうせ僕みたいな人間はいない方がいいって思ってるに決まってる。

劣等感はみるみる心を蝕んで、なんとか閉ざしていた僕の心の軟らかくて脆い部分まで流れ込む。家から彼女の事を見つめる回数も右肩上がりに増えた。

彼女を見ている時だけは、ただ恋愛をしている普通の人になれた気がした。

だから普通の人のように、また声をかけて彼女との距離を縮めるべきだとも考えた。

でも、僕が最後に恋をしたのは小学校の時だ。あの恋は勇気をかき集めて、やっと声をかけた時にその女の子に泣きながら来ないでと言われて終わった。

僕は元々内気な性格で、人とコミュニケーションを取るのが得意ではない。それで気持ち悪がられていたことは後から知った。その時、あのまま声をかけずに目で追うだけで終わりだったとしてもそのままにしておけば良かったと後悔した。今回もなんとなくそんな結果が待っているような気がする。

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