第4話 禁断の選択

小銭を拾ってもらった時に触れた手は夢にまで出てきた。一日何度も脳内再生される手の動きや一瞬の温もり、柔らかさ全てが僕の脳内を埋め尽くした。

しかしあれ以降、彼女はいつもの時間帯にコンビニへ来なくなった。今まで規律のように同じ時間帯に来ていたのに、来なくなった。

考えられる原因は自分しかない。やっぱり、笑顔でお菓子を受け取ってくれたけど本当は怖かったのかな。気持ち悪いと思ったけどあの時間帯に男の人に話しかけられたら嫌な顔ができなかったんだろう。僕は自分の行いを激しく後悔した。慣れないことをしたばっかりに、一番距離を置いてほしくない人に距離を置かれてしまった。

彼女はコンビニには来なくなったが、家に帰ってくる時間は今まで通りだった。

恐らくコンビニを避けるように帰っている、僕の心は当然のように傷ついた。

避けられてると思うと胸が痛んでどうしてこうなったのかとか、どうにかできないかとか色んな考えが頭の中をぐちゃぐちゃにした。あの手の温もりを思い出すと、もう二度と触れられないんじゃないかって思えて眠れなかった。鳥のさえずりのような小さな音でも目が覚めるほど、僕の眠りは浅く、疲れもなかなか抜けない日が続いた。

「うわ……くまがすごい」

洗顔するのに鏡を見ると、自分の顔は明らかに体調不良を物語っていた。

鏡の自分を見つめて、自分の情けなさに涙が出てきた。あれから声をかけた日の自分を呪わなかった日はない。一週間経つのに、コンビニで彼女の姿を見かけることはなかった。

家から見える彼女は、相変わらず友人や家族を呼んで楽しそうに過ごしていた。その笑顔を見ると、なんで僕にその笑顔を向けてくれないんだろうとひどく悲しくなる。

一袋すべてが、リンゴジュースのペットボトルの空でいっぱいになった。

毎日同じ時間にコンビニに行って会えなかった時のやり場のないこの気持ち。無性にイライラすることも増えてきた。テーブルの上に散乱したペットボトルの空を一気に払い飛ばしたり、食器を割ってしまうこともある。僕の気持ちは僕のコントロール下から外れかけていた。

そんな日が続く今日もいつものようにアルバイトへ行こうと外へ出た。

少し歩くとスマートフォンが鳴り、歩きながら確認するとそれはアルバイト先からだった。

「シフト間違いで今日は来なくていいって…もう外に出たのに」

アルバイトへの待遇なんてこんなものなのかと内心いらつきながら、来た道を戻る。

自宅に入ろうと思った時に、ふと彼女のアパートに目が向いた。

彼女は仕事中であと2時間くらいは帰ってないだろうな。

僕は周りを入念に見渡した後、横断歩道を渡った。心臓は忙しなく、引き返した方がいいと頭に強く何度もよぎった。

どうせ鍵が開いていないのはわかっている。彼女の部屋の前に着き、ドアを見つめた。

彼女がいつも見ている風景だと思うと、何の魅力もないただのドアも美術品のように思えた。

そのままドアノブに手をかけて、ゆっくりとドアを引くと当然ながら鍵がかかっていた。

当たり前だよな、何しているんだろう、見つかる前に早く帰らないと。

その時、ポストの蓋越しに熊の小さなぬいぐるみのようなものが薄く見えた。

ポストを開けてみるとそれは予想通り、鍵と繋がっていた。

彼女は家族も家によく呼んでいる様子だったから、その時のための鍵なんだろう。

僕はその鍵を鍵穴に差し込み、ドアを開ける。ここまでくると、もう止められなかった。

心臓の音は耳まで響き渡り、罪悪感や焦燥感までもかき消した。

ポストに鍵は戻し、玄関に足を踏み入れると中から鍵を閉める。

自分の部屋とは違う、甘くて優しい香りが僕を包んだ。しばらく静かに息をするだけで時間が過ぎていった。

玄関のすぐ横に戸棚を発見し、僕は戸を開いた。あまり物はなく、かなり広いスペースが空いている。飾り物を置く小さなスペースには招き猫と観葉植物が飾られていた。

靴を脱いで、手に持ったまま、部屋の奥へ進む。

廊下を進み、トイレ、脱衣所、居間、寝室と内見するように部屋を歩いた。

自分の家から見える景色とはまた違うこの部屋は家具などに統一感はないものの、全体的に女の子らしい雰囲気の部屋だった。

一通り見終わると、ドアスコープ越しに誰もいないことを確認して、部屋を出た。

音を立てないように、でもできるだけ早く階段を駆け下りて自宅へ着くと初めて緊張感から解放された。僕はそのままベッドへ直行し、布団を被った。

 15分ほど眠っていただろうか、興奮もそこそこに落ち着いてとんでもない罪悪感と戦っていた。僕のやったことは犯罪だ、到底許されるようなことじゃない。

ここまで落ちぶれているとは思わなかった。自分への失望は大きく、改善傾向にあった鬱症状がまた色濃く感じ始めたのも束の間、レースカーテン越しに帰宅する彼女の姿が見えた。

「今日は帰るのが早かったんだ…」

鉢合わせしていたらと想像するだけでおぞましい。悲鳴を上げられてあっけなく通報からの逮捕という一連の流れは避けられないだろう。

また声をかける勇気がなくて、魔がさして家に入り込むなんて僕はどこまで無価値な人間なんだ。何も痕跡が残らないように素人ながらに考えたつもりだけど、大丈夫だろうか。

いろんな感情と思考で僕は底なし沼のような恐ろしい場所に居る気持ちになった。

1時間ほど経過しても警察が来る様子はなく、僕は気づかれなかったことに安堵した。

昨日久しぶりに出向いたスーパーで買った値引き済みのカツ丼を温め、テレビをつける。

子供向け番組からチャンネルを移すと、ニュースでは空き巣被害が取り上げられていた。

前はこういうのを見て自分の中の正義感が働き、怒りまで湧いてきていた。

今はこの人も魔が差したのかな、何かやらなきゃならない理由でもあったのかな、なんて犯人に同調しかけている。

なんて情けないんだろう。僕はカツ丼の味がわからなくなるくらい泣いた。自分の体なのに自分の思い通りにならない。社会人としての役割も果たせず、最低限の人としての心も失いかけている。どこまで落ちていくのだろう。今回バレなかったのは運が良かった、もう二度とこんなことはやめよう、そう誓った。

前のように時間を固定せずにいつも通りコンビニを利用するようになっていた。

本の前で立ち読みするフリをすることもなくなり、コンビニの滞在時間もかなり短くなった。リンゴジュースは買わなくなり、お茶や水を買う元の食生活に戻りつつある。

そんな中で僕はまた、なんとなく肉まんを頼んだ。

家に持って帰ろうと思ったけど、冷めてしまうかもと入り口付近で袋を開けた。

彼女に会った日のように入り口に背を向けず、あの日もこんな天気だったなと自然と思い返していた。最後の一口の大きさを確認して、口に運ぶとふわふわと風に揺れる髪が僕の前を通った。

彼女は僕に気が付く様子もなく、コンビニへ入っていく。奇跡、いや運命だと思った。

僕はこの運命にもうずっと翻弄されていて、嫌気がさしているのに簡単に舞い上がった。

彼女がこのコンビニを利用するのをやめていたわけではないという事実がこの上なく嬉しかった。僕の目の前を何も気にせず通って行ったことも、怖いと思っていたらできないはずだと思うと今まで悩んでいたことがすべて一瞬にして吹き飛んでしまった。

またきっとリンゴジュースを買って、彼女はコンビニを出てくるんだろう。僕は、肉まんを食べ終わった後はお茶を飲んで過ごした。すぐに彼女はコンビニから出てきて、予想通りリンゴジュースをぶら下げた袋の中に入れていた。

久しぶりにコンビニで彼女を見ることができ、しばらくはその安堵に身をゆだねていた。

見ているだけで充分、その気持ちは結局僕の心から完全には消えなかった。

彼女が家に入っていったのを見送って、僕は自宅へ戻りいつものようにカーテンを少し開き、双眼鏡を覗いた。

しばらくすると、とある男性が彼女の部屋のインターホンを鳴らす姿が見えた。

僕は双眼鏡を更に覗き込み、様子を窺った。

彼女は簡単にドアを開き、その男の人を招き入れた。僕が彼女の事を見つめ始めてから初めてのことだった。ドアが開かれた後は、すぐに男性がカーテンを閉めてしまい、中の様子はわからなくなった。絶対に彼氏だ、彼氏がいたんだ。顔も全然似てなかった。

全く今までそんな様子もなかったのに。僕はさっき彼女とコンビニで会えた喜び以上に深い悲しみのどん底にいた。勝手にいないんじゃないかと都合よく解釈して、見て見ぬふりしていただけだったのかもしれない。絶望という言葉が今の僕には相応しかった。

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