第39話 愚か

     ◆


 スイハさんは眠っているようだけど、もちろん、眠って宙に浮く人間はいない。

 近づこうとすると、何か、見えない力が押し寄せて、僕を遠ざけようとする。

「スイハさん! 逃げましょう!」

(屋敷へ行って、麓の領民を避難させて。もう動いているだろうけど)

「スイハさんも!」

 何かが爆ぜる音がする。溶岩が建物に到達したようだ。

「スイハさん!」

 沈黙の後、また会いましょう、と声が頭の中で聞こえた気がした。

 激しい光が瞬き、思わず目を閉じた。瞼を開いても、目の前がチカチカしている。

 それが収まると、もうそこには、スイハさんはいなかった。

 魔術か? でも、どこへ?

 ここに僕がいる理由はなくなってしまった。

 焦げ臭い匂いがして、部屋に煙が流れ込んでくる。それも勢いがすぐに強くなり、どうしようもない。

 思い切って僕は窓を突き破って、斜面の下の方へ逃れた。地面で転がり、木にぶつかってやっと止まる。

 顔を上げると、スイハさんの住まいは火を吹き上げ、そして崩れてくる。

 雪崩を打つ建物だったものの陰から逃れて、僕はまた走った。

 山の中という似たような光景しかない場所なのに、僕には自分のいる場所がわかった。

 唐突に目の前に人の通った痕跡が見え、そのまま僕は屋敷へ駆けた。

 屋敷は不思議と森閑していて、正面玄関で伯爵がトワルさんと何か話しているだけだ。エリアも、シュバルトさんの姿もないし、下男も下女もいない。

 僕に伯爵が気付いて、こちらに駆け寄ってくる。

「無事だったか、サク。何があった?」

「神獣を……」

 そこまで口にして、なんて言えばいいのか、僕は迷った。

 神獣を、僕が殺してしまったから、この状況があるのか。

 僕が黙り込むのに、伯爵が早口で状況を教えてくれた。

「馬に乗れるものを、麓の村に全部、走らせた。領民は程なく避難できるはずだ。屋敷はもう、捨てるしかないな」

 何か、答えることができるはずなのに、僕は言葉を失っていた。

「スイハはどうした?」

 そう伯爵に質問されて、消えました、と答えることができた自分が、どこか自分ではないような気がする。

 それに、答えると言っても、呟くというしかない、力のこもらない声になってしまった。

 伯爵が肩を叩き、「あいつのことは信用している」という一言で、伯爵は僕の迷いと後悔、不安を切り離そうとしてくれた。

 それでも僕はまだ、冷静ではなかった。

「朱雀様は」

 すがるような声が咄嗟に出た。

「どのようにしたのですか? あの神獣を前に、何をなしたのですか?」

「詳しくは知らない」

 伯爵の声は強張っている。

 すぐそばで何かが爆ぜる音がする。溶岩の波が迫っているのだ。

「神獣と一体になることだ、とおっしゃった。そして今、お前の持つ剣を手に取り、これは鍵でもある、とも口にされた」

「鍵?」

「よく分からない。朱雀の剣聖殿は、それは知ることができるものだけが知る、と笑っていた」

 木が倒れる音がする。トワルさんがすぐそばへ来て、避難するように言った。

「神獣は解放されたのだろう」

 伯爵が僕の腕を掴んで、歩き出す。僕は力なく、引きずられた。

「サク、気にするな、いずれは起こっただろうことだ。そして朱雀の剣聖殿が、何もしないわけがない」

「そうでしょうか」

 僕は踏ん張り、勢いで伯爵の手が僕の腕から離れた。

 伯爵が驚いた様子で振り返り、トワルさんも足を止めてこちらを見ている。そのトワルさんが伯爵の腕を掴む。伯爵がこちらに手を伸ばすけど、それより先に僕は元来た方へ走り出していた。

「サク! 何をするつもりだ!」

「わかりません!」

 それだけ言うのが精一杯だった。

 振り返らなかった。

 覚悟が、鈍りそうだったから。

 僕は走り、溶岩の波を避けるように、山を駆け上った。

 溶岩が川のようになり、行く手を阻めば、流れてくる高熱で幹が燃えて倒れた木々に飛び乗り、それを跳んで渡り、溶岩の川を渡った。

 もう周囲は灼熱地獄だ。大小の溶岩の筋は、植物を見境なしに燃え上がらせ、火炎の筋となっている。煙も酷い。

 服の袖で口元を押さえながら、僕は先へ進んだ。

 もう周囲の景色から自分のいる位置を理解するのは不可能だ。目印は全部燃えるか、押し流されている。

 それでも例の岩場にどうにか、たどり着いた。

 岩を渡って、縦穴のすぐ横に出た。

 縦穴の底はもちろん、見えない。

 もしかしたら溶岩が満ちているのかもしれない。

 ロープを残したはずが、今はない。例の枯れ木自体がなくなっている。枯れ木があった場所には溶岩が流れていて、押し流されたらしい。

 呼吸を整えた。

 行こう。

 僕は間違ったけれど、まだやり直せるはずだ。

 僕は縦穴の中に足を踏み出し、岩に足を置き、手で岩を掴み、そうしてゆっくりと降りていく。

 もし頭上から溶岩が落ちてくれば、僕の命はないだろう。

 覚悟を決めるしかない。

 僕はゆっくりと降りて行って、ついに降り積もった砂利の上に足がついた。

 地下遺跡は、溶岩に侵されていない。わずかに溶岩は流れてるものの、ささやかなものだ。それが発するほのかな光が、周囲をぼんやりと照らしているのが、切迫した状況を忘れらせるような、幻想的な光景を作っていた。

 回廊を奥へ向かう。

 壁画の上を揺らめく光が踊るために、まるで壁画そのものが動いているように感じられた。

 そうして、僕は巨大な岩の扉のところに、たどり着いた。

 その岩の扉自体が、ほのかに光を放ち、赤く染まっている。

 この向こうには、溶岩が充満し、この岩がなくなれば、僕は劫火に焼かれるのではないか。

 しかし今、何かが理解できた。

 僕がここへ戻ってきたのは、ほとんど直感だった。

 何かをやり直したかったのかもしれない。

 何かを誤魔化したかったのかもしれない。

 僕は、愚かかもしれない。

 熱い空気を胸一杯に吸い込み、吐いた。

 そして背中の鞘から、僕は剣を抜いた。




(続く)

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