第34話 夢の後で

     ◆


 少しすると、医者が扉を開けて出てきて、「好きにしろ」と素っ気なく中庭へ行ってしまった。

 部屋を出た時点でタバコを取り出していたから、それを吸いに行ったんだろうと思う。

 そっと部屋に入ると、ベッドでエリアが横になっていて、天井の方を見ていた。僕が入ったのに気付き、こちらを見る。

「変な夢を見ていたみたい」

 彼女がそう言って、一度、瞼を閉じる。その間に僕は椅子に腰掛けた。

「体が重くなって、息ができなくて、苦しくて、でも、やめなかった」

 ぽつぽつとエリアは言うけど、まだ目は閉じている。

「それは、サクが本気だと思ったからだけど、違う?」

 違わないよ、と僕は答えた。

「あの腕試しで、僕はすぐに手加減をやめた。姉上が、本気だとわかったからだよ。だからあれは、お互いに相手を倒すつもりでの、応酬だった」

 ああ……。

 そんな風にエリアが声を漏らし、やっと瞼を開いた。

「あんなことが、私にできたの?」

「思い出した?」

「もう倒れると思ったけど、体が動き始めて、あとはもう、本当に、夢」

 神境に踏み込んだことを、彼女は夢と表現しているのか。

 確かに神境が始まると、現実味が薄れていく。

 ただ相手と、それを倒すことが、全てになる。

「神境を越えたんだと思う」

 僕がそう言うと、やっとエリアが首をひねってこちらを見た。

「神境?」

「武術家が、極端な集中が限界を超えて高まった時というか、静かな興奮状態というか、ざっくりと言えば、我を忘れる、そういう時が来て、そこを越えると体が自然と動くんだ。神境というのは、そういう、神がかった状態のこと」

「私がそこにたどり着いたってこと?」

 そうなるね、と頷いて見せると、驚いた、と彼女は小さな声で言って、また天井の方を見た。

「でもさ、サク、私はあなたを、その、殺そうとしたと思う」

「神境はそういうものだよ。初めての時は、みんな意識が曖昧になる。ただ敵を倒す、そういう一念がないと、踏み込めない領域だよ」

「殺人機械になる、ってこと?」

「そうでもないと思うよ。繰り返すうちに、自在に使えるようになるし」

 ふーんというエリアの声にはそれほど興味がなさそうだ。

 というか、どこか不機嫌そうだ。

「サクは自在に使えるわけ?」

「一応ね。でもまさか、剣を折られるとは思わなかったよ」

 ハッとしたように、エリアがこちらに勢いよく首を捻る。

「そうよ、あなたの剣を、私、折っちゃった」

「あれは鮮やかな技だった。惚れ惚れするくらいだったな。紅桜があんなに綺麗に決まるのは、そうあることじゃないし」

 桜花流の技の中でも異色な、相手の剣を自分と相手の力を巧みに操って折る技が、紅桜と呼ばれる。

 僕も桜花流の使い手だから、練習もしたし、同門の人に仕掛けられたこともある。

 僕はイスタル師から教えられたけど、今日のエリアの冴え渡った技は、イスタル師のそれを超えているような気さえする。

 教えた僕が言うのも変なものだけど、エリアの学習力は並じゃないし、こうして神境まで身につけてしまうと、手に負えないのではないか。

 今になって、ちょっと怖くもある。

 例えば、僕が神境に入った歳はエリアより幼いけど、僕にはエリアの吸収力がない。なんだも死んだようになって僕が身につけたことも、エリアはあっさりと使いこなすんじゃないか。

 少し、釘を刺そうか、という気になった。

「姉上の技量は誇っていいと思うけど、ただ、剣術は殺人術だということを覚えておいてよ、姉上」

「もちろん」

 この辺りで、謝っておかなくちゃな。

「姉上を思い切り床に叩きつけたことを、謝っておくよ。ごめん」

 そのことね、とエリアがムッとした顔になる。

「ああでもしないと、私は止まらなかっただろうから、別にいい。でも、別のやり方があったんじゃない?」

「まぁ、そのことは、僕の方から紅桜を仕掛けても良かったわけだけど」

「そうじゃなくて、あなたが怪我をしないでも済んだやり方があったんじゃないか、と言いたいわけ」

 ……それはちょっと、難しいのでは。

 そもそもエリアがまったくの、容赦なしの本気だったわけだし。

「あの時の君は手に負えなかったし、少しくらいは危険を冒さないと、無理だったと思うなぁ」

「私って本当に、そんなに強くなったの?」

「僕に打ち倒される程度にはね」

 冗談で紛らわそうとしたけど、本気で腹を立てているエリアがいる。

「とにかく、無事でよかった。先生は何て言っていたの?」

「今日はここで寝て、明日の朝、具合が悪くなければ元の生活で良いって」

「頭は痛む?」

「それはもう、割れそうなほど痛む。あなた、もしかして割るつもりだった?」

 割るつもりなら割れている、と危うく言いそうになって、苦笑いで誤魔化した僕だった。

 エリアの体の他のところは、切り傷などの僕がつけた傷以外は、激しい運動、限界を超えた体の酷使のせいだと僕にはわかる。

 医者にはそんなことはわからないかもしれないけど、あるいは、伯爵が屋敷に置いている医者だから、わかるのだろうか。

 僕の脇腹を縫った手際は見事だった。

 信用できる、かな。

 僕はエリアにもう一回謝罪してから、椅子から立った。

「あの鳥を、どうするつもり?」

 鳥というのは、火の鳥のことだ。

「分からないな。でも、やれることをやるしかない」

 大事な時に、邪魔してごめん。

 消え入るような声で、エリアがそう言ったので、思わず僕は吹き出した。

「これでもう僕は、心残りはないよ」

「ちょっと! 不吉なことを言わないで」

「別にそういうつもりでもないけどね。武挙のことは僕は伯爵には説明していないし、特に何か、援護できるとも思えないから、姉上が自分で伝えてね」

 はいはい、とエリアが頷く。

 どこかスッキリしたような顔をしている。

 僕は「お大事に」と言って部屋を出た。

 あと三日で、さて、思い切って飛び込めるだろうか。

 夕方にはまだ早いけど西日が差し込む廊下を進んで、地下の書庫へ向かいながら考えたのは、武器をどうするか、だった。



(続く)

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