第33話 約束の時

     ◆


 道場へ行く前に、水場で顔を冷たい水で洗った。

 鏡があるので、そこを見て、自分の表情を確認した。

 特に気負ったところのない、いつも通りの表情。

 行くか。

 剣を片手に下げて、道場へ向かった。中に入ると珍しく、エリアが正座をして目を閉じている。呼吸も整っているし、雰囲気も落ち着いている。

 いつの間にかこんなことができるようになったのだ。

 この数ヶ月が、彼女に有意義だったことの証明だった。

 僕はゆっくりと進み出る。エリアは気づいている。それでもまだ、精神を一つに集中させている。

 僕は足を止め、腰の剣を引き寄せ、柄に手を置いた。

 合図も何もない。

 唐突に、戦いは始まる。

 弾けるようにエリアの手が剣をつかみ、鞘から引き抜く。

 桜花流の居合の技、散華。

 僕の剣がそれを受け流し、切り返すのを、さっとエリアが半身になって避ける。

 鼻先を切先が掠めただろう。

 こちらにも切っ先が突き出され、耳元を走った。

 姿勢は乱れていない。

 二人が同時に連続攻撃、花嵐を繰り出し、わずかに僕の方が精度で勝る。

 それでもエリアは器用に間合いを支配し、稽古着をわずかに切るしか許さない。

 これは、花嵐から即座に流花につなげているのか。

 怒涛のエリアの連続攻撃を僕は払っていく。後退したり横へ逃げようとしても、エリアが付いてくることはわかる。それこそが流花という技なのだ。

 それでも一歩、二歩と後退し、一呼吸もない余裕を作った。

 わざと隙を見せる。

 さすがにエリアもたたみ込めると思ったか、そこを狙ってくる。

 剣を剣で払い、半身になり、エリアの攻撃を捌く。

 また隙を作り、エリアがそこを狙い、僕が防ぐ。

 僕が使っているのは風花という桜花流の技で、この防御は、うまく嵌れば鉄壁となる。

 エリアが僕の周りを回り始める。横の動きで崩そうとする意図だ。

 攻めたことにより、攻め切れるという錯覚が、彼女の中で大きくなるのがわかった。

 しかし、流花に横の動きを付け加えると、そもそもの流花が不完全になるものだが、工夫の色が見える。エリアの姿勢は乱れないし、攻撃は全く隙がない。

 反撃に転ずる必要は、僕にはない。

 エリアがこのまま動き続けて、自滅すれば、それでも僕の勝ちだ。

 今は防御と攻撃、どちらが有利かという形になっていた。

 思ったよりも早く、破綻はきた。

 わずかにエリアが大きく息を吸う。その分、攻めが遅れた。

 僕の剣がすっと差し込まれ、エリアの目元は伸びる。彼女が下がらなければ、顔を切っただろう。

 攻守が逆転し、僕は一撃ずつ、必殺の振りを繰り出す。

 間合いは変わることがない。

 桜花流の中でも高等技術、桜花と呼ばれる僕の技を、エリアはよく凌いでいる。

 踏み込んでいるのかいないのか、いるとしてどれほどか、それを悟らせずに斬りつけるのが桜花の真骨頂だ。

 桜花のことは、エリアも知っている。

 だからこそ凌げるが、対抗策はない。

 パッと血が散り、エリアが息を飲む。しかし二人とも、動きは止めない。エリアも持ち直す。

 時折、血飛沫が飛び、その度にエリアの動きは機敏さを取り戻していった。

 ここまでやるのは、予想外だ。

 彼女は追い詰められ、強すぎる負荷をかけられ、それに反発する形で、特別な状況に踏み込んでいる。

 これこそ、神境である。

 僕もその状態に踏み込まなければ、仕留めきれないか。

 エリアの動きはますます加速する。

 もう僕の剣が掠めることはない。

 二人の動きは拮抗し、それぞれに激しく間合いを広げては縮め、また広げ、縮め、その二人の間の空間に無数の切っ先の閃きを織り込んでいく。

 どれだけが過ぎたか、ぐっとエリアの剣が重くなった。

 僕の剣が絡め取られる。

 これは。

 気づいた時には遅い。

 柄に極端な力がかかり、反射的に握りしめた時、エリアの剣にこもった力が一点に集中し、甲高い音を立てて僕の剣の刃が半ばから折れた。

 エリアの表情は無表情。

 完全なる無意識で、僕を圧倒しつつある。

 やるじゃないか。

 切っ先を天に向けたエリアの瞳に、感情はない。

 僕はまっすぐに飛び込んだ。

 折れた剣で、エリアの剣を受け止める。しかし勢いで、手から折れた剣はもぎ取られ、どこかへすっ飛んで行った。

 剣は失ったが、間合いは消せた。

 突き出された切っ先を脇へ流し、エリアの頭を掴み、足は両足を払い、僕は思い切ってその頭を床に叩きつけた。

 低い声を上げてエリアの体がつっぱり、次には意識を失い、ぐったりする。

 僕はそっとエリアの頭を放し、息を吐いた。

 死んだりするような、重症を引き起こす叩きつけ方はしていないけど、医者には見せる必要があるだろう。

 神境に入って、エリアは我を忘れていた。

 僕はもう一度、呼吸をして、脇腹が痛むのに気づいた。見ると、稽古着が裂け、血が滲んでいる。見る間に赤い部分が大きくなり、床に雫が落ちる。

 どうも、ほとんど相打ちだったな、これは。

 剣を強く握りしめて離そうとしないエリアの指を一本ずつ伸ばして、どうにか剣を床に放り出させ、彼女を背負った。

 ゆっくりとした歩調で、僕は屋敷にいる医者の元まで彼女を運んだ。

 医者は僕を見て慌てたようだが、僕は僕自身より先にエリアの様子を見てやってくれ、と伝えた。バカ言うな、と医者が食ってかかってくるのに、床に頭を叩きつけたというと、今度は、バカなことをするな、と怒鳴られた。

 結局、僕の脇腹が丁寧に縫われて、包帯がグルグルに巻かれ、そして医者のくどくどと続く小言を聞いているうちに、エリアが目を覚ました。

 ベッドの上にいるのが不思議なようで、記憶がないようだが、それは神境に飲まれていたからで、頭を打ったからではないだろう。

 そのはずだけど、医者は暴力のせいだと言って、僕をもう一回、説教して、反省の弁を述べるよりなかった。

 エリアはすぐに起き上がったけれど、体が痛むなどと言っていて、医者はエリアの診察をすると僕を部屋から追い出した。

 どうにも今日の僕は、悪役になる定めらしい。

 廊下に突っ立っていることにして、しかし脇腹に大怪我をしているものを廊下に立たせるものかなぁ、と思わなくもない。

 通りかかった下男が不思議そうに僕を見て、そしてそっと椅子を運んできてくれた。



(続く)

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