第32話 恨まれる辛さ
◆
伯爵が私室で僕に差し出したのは、一振りの剣だった。
「古い剣だが、朱雀の剣聖殿から預かっているものだ」
「朱雀様から?」
「人を斬る剣ではない、とおっしゃっていた」
剣を受け取り、僕はそっと鞘から抜いてみた。
ひどいものだ。刃こぼれがひどく、ちょっとした力で折れそうだった。
「これで神獣を切れとおっしゃるのですか?」
「普通の剣で、切れはしないようだ。それは実体験だとお話しされていたよ」
まあ、あの火炎の巨鳥を普通の剣で切るのは無理がある。
でもそれだけだろうか。
僕は剣を部屋の明かりにかざし、何度か確認し、鞘に戻した。
伯爵には言わないけど、結論としては、あまりアテにならないな、ということだ。
確かに古い剣で、使い込まれてもいる。
でもそれだけだ。
無碍にするつもりもないけれど、あの剣が折れれば終わり、という条件があるとすれば、僕からは、最後の最後まであの剣を使わない、とするよりない。
それがきっと、安全なはずだ。
「他に何か、お話はありましたか? 朱雀様から」
確認すると、時が来ればあとは天に任せると仰せだった、と伯爵が言った。
今、椅子に沈み込むように座っている伯爵が、急にしぼんだように見えた。
その顔が持ち上がり、上目遣いに直立している僕を見る。
「私を恨むか、サク」
「そんなことはありません」
「なぜだ? こんな危険など、背負いたくもなかっただろう」
答えるべきだけど、慎重に言葉を選ぶ必要があった。
僕は少しも、後悔していないし、不満もないのだ。
「武挙を受ける時、大勢の人が言いました、子どもが合格なんてできる試験じゃないと。でも僕はそれに受かった。次は、剣聖候補生になんてなれないぞ、そんな風に言われました。世の中、そんなにうまくいかないとも。でも僕は、火迎えを受け、剣聖候補生になった」
「しかし次は違っただろう。上級将校になれなかった」
「そうですけど、まだ諦めてはいません。僕のこれまでは、できないということをやり遂げる、そればかりでした。自分が天才でも英雄でもないのは、何度も自分に言い聞かせましたし、朱雀様にもそのことを、教えていただけました」
うん、と伯爵が頷き、僕の足元を見るように顔を伏せる。
「ですから、僕は今回のことを、それほど重くは捉えていません。楽観もしていませんが、不可能ではないだろう、と思います」
「相手は人間や、人間の制度ではない。それでもかい?」
「やってみたい、ぶつかりたい、その思いだけがあります」
伯爵は無言で小さく、何度か頭を上下させ、それきり黙ってしまった。
僕は受け取った剣を片手に下げて、部屋を出るべきか、真剣に考えた。まだ話がある気配はあるけれど、伯爵は苦しげだった。
「エリアがさっき、ここへ来た」
ぽつりと伯爵が言う。
「サクを助けてやってくれと言っていた。珍しく、泣きそうな顔をしてね。死んでしまうから、逃がしてやってくれと言った。私の権力なら、どこか遠くで静かに、剣術を極めるだけで生きていけるはずだ、そうしてくれ、そう言うんだ」
「なんと、答えられたのですか?」
「サクが決めることだ。私はそれだけを告げた。聡い子だ、その一言で多くを察したようだった。勢いよくドアを閉めて、飛び出していった」
そう言ってから、伯爵は天井を見上げた。
「私は恨まれるのに慣れている。それでも、辛いときは辛い」
察します、とは簡単に言えない、深い後悔と懺悔がその言葉にはこもっていた。
沈黙の後、「いつ、行くつもりだい?」と伯爵がやっとまっすぐに僕を見て、言った。
「少し、古文書を確認しようと思います。それでも、五日ほどの間に」
自分で言っておきながら、五日で決めなくてはいけないのは、いかにも短いだろう。
ただ、僕の何かが、この五日で終わるとも思えないのだ。
部屋を出て、僕は古文書のある地下室へ向かう前に、一度、エリアの部屋に行った。
もう寝ているだろうか、と思いながら、そっとドアをノックした。
「誰? こんな時間に」
声の後、足音が続き、目の前でドアが開く。
寝間着姿のエリアが目を丸くして、僕を見上げる。
「まさか」
彼女が睨み付けてくる。
「自分の人生が終わる前に、乾坤一擲で夜這い、とか?」
「そんなことしない」
思わず即答したら、逆に怪しまれた。
「そんなことはどうでもいいんだよ。明日、昼過ぎから道場で、決着をつけよう」
またエリアの瞳がまん丸になった。
「腕のケガはいいわけ?」
「まあ、気にならないな。姉上に何か、不都合があるの?」
じっと少女はこちらを見上げて、良いでしょう、と強気な笑みを見せた。
「明日の午後ね。逃げないように。良いわね?」
頷くと、彼女の拳が僕の胸を打って、「おやすみ」と彼女は楽しそうにドアを閉めた。
まだ道場で向かい合ってすらもいないのになぁ。
僕は一人でゆっくりと廊下を進み、階段を下り、地下へ降りた。
地下の書庫で、壁際にそっと古い剣を立てかけ、僕は古書を棚から取り出した。
読んでいるけれど、頭の中では剣が繰り返し、繰り返し、翻っている。
勝つも負けるもない。
生きるか死ぬかしかない。
その上で殺さずに済めばいい。
エリアの剣はもう、数え切れないほど見ている。
それでもやはり、見知らぬ筋、今までの筋と違う筋が無数に、無限に新しく生まれるものだ。
自分が切られる場面もある。
僕が逆に、エリアを斬り殺してしまう場面もある。
考え続けて、その先にある無を目指した。
如何様にも剣を振れる境地が、検討の先にはある。
あるいはこれは、諦めだろうか。
それとも、本当に全てを飲み干した後の、空白か。
地下の書庫の明かりが、かすかに揺れた。
(続く)
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