第16話 老婆

     ◆


 夜中に目が覚めて、僕は喉が渇いているのを自覚した。

 部屋の薄明かりの中で廊下へ出て、水場へ行った。部屋にある水の入った瓶が空だったからだ。

 月明かりが差し込むだけの廊下をぼんやりと進み、一階へ降り、ふと視線がそちらに向いた。

 屋敷は複雑な構造をしていて、中庭が三つあるのだけど、今、目についた扉は外へ通じている。しかしいつも閉まっていたし、エリアもそちらへは案内しようとしない。

 今、扉は少し開いていた。

 無用心でもないだろうけど、僕はそれを閉じる気になった。

 扉に近づくと、変に外が明るい。そっと首だけ、出してみた。

 光は何のことはない、扉のすぐ外にある、屋敷に併設の温室のガラスがキラキラと月光を反射しているのだ。

 っていうか、こんなところに温室があったのか。

 二ヶ月以上を過ごしているのに、誰も教えてくれないんだから。

 扉を閉じることにした。

 でも首を引っ込める前に、人の姿が見えた。

 温室の中だから、はっきりとは見えなかった。でも、人だった。

 ほとんど扉を閉じかけていた手を止めて、しっかりと扉を開け、温室に目をこらす。

 緑が生い茂るその向こうに、椅子に座っている誰かがいる。エリアでも伯爵でもない。シュバルトさんでもない。

 誰だ? 見間違え、ではないけど……。

 好奇心に負けて、僕は寝間着のままで温室に入っていった。温室の入り口も錠が下されていない。

 温室の中は夜でも蒸し暑かった。

 様々な植物を横目に奥へ行くと、椅子に座ってこちらに背中を向けている女性がいる。

 髪の毛が光って見えるのは、白髪だからだ。

 知らない人だ。

「あの」

 声をかけても、反応がない。

 まさか幻を見ているのかと思ったけど、そうではない。ちゃんと目の前にいる。

「あの、もし」

 やっぱり反応がない。

 恐る恐る、前に回ってみると老婆だった。年齢は七十ほどだろう。しわが刻まれた顔はどことなくチャーミングで、逆に、今は目が閉じられているのがやや不穏に感じる。安らかな死に顔、といった風情である。

 眠っているのかな。

 でも、こんなところで、椅子に座って?

 さりげなく手を伸ばそうとすると、ゆっくりと瞼が開いた。

 瞳は、真っ青だ。

 それを見たとき、僕は急に頭の中でいくつかの知識が組み合わされる音を聞いた。

「魔術人形……?」

 思わず声に漏れていた。

 王都で何度か見たことのある、魔術師が作った魔術と科学の合いの子である、人間のまがい物。

 それは、魔術人形と呼ばれていた。

 老婆はじっとこちらを見て、それから唇が弧を描く。自然で、違和感が欠片もない表情の変化だ。

「朱雀の剣聖の弟子だとか」

 しわがれた声は、確かに目の前の老婆が発している。声さえも、まるで不自然ではない。

 かなりの高位の魔術師の作品だろうか。

 ともすると、本物の人間のように思えてしまうけど、何かがそうじゃないと訴えてくる。

「そうです」

 どうにかそう答えることはできた。いやに喉が粘っこく、そういえば水が欲しくて起き出したんだった。まだ一口も水を飲んでいない。

「すでに役目は聞いているかい?」

「役目……?」

 問い返すと、老婆がわずかに身を乗り出す。

 やっぱり瞳の青が、底の見えない光り方をする。

「いずれ、私に会いにおいで。歓迎しますから」

 私、という言葉が、目の前の老婆ではないことは、わかり過ぎるほどよくわかった。

「あなたは、誰ですか?」

 老婆が椅子にもたれかかる、そして目を閉じる寸前に、ささやくように言った。

「スイハ」

 スイハ?

 老婆はついに目を閉じ、それきり動かなくなった。

 声をかけたり、揺さ振ったりしてはいけない、そんな思いがどこからかやってきて、目の前の華奢な体は動かし難いように感じられた。

 名前はわかったのだから、また、エリアに訊いてみればいいか。

 何か、目の前の老人の眠りを邪魔するのが悪いことだと思えて、僕は足を忍ばせて、その動きを止めた老婆から離れた。

 無意識に足音を消して温室を出て、戸を閉める。元来た方へ戻り、屋敷に入り、そこの扉も閉めた。

 そう、水を飲まなくちゃな。

 水場へ行って、水道から冷たい水を手ですくって飲んだ。

 意識がちょっとだけクリアになり、スイハ、という響きを何度か頭の中で反芻した。

 どことなくあの老婆には似合わない響きかもな。

 じゃあ、どんな人物にピッタリかといえば、わからないのだけど。

 まだ頭がどうにも寝ぼけているらしい。

 水場からやはり元の廊下を戻る。その時、温室の方に通じる扉が見えた。

 もちろん、僕が閉めたから、扉はピッタリと閉じている。

 まだあの老婆はあそこにいるのだろうか。スイハが、と思わないところが、自分でも不思議だ。

 人間じゃないなら、椅子で一晩過ごしても、問題ないだろう。

 じゃあ、スイハはどこにいるんだ、という疑問もあるわけだけど、やっぱりそちらはさほど気にならない。

 変な感じだなぁ。自分の気持ちを切り替えるために、髪の毛をかき回し、僕は階段を上がった。

 部屋に戻り、ベッドに横になるとすぐに眠りがやってきた。

 かすかな光に目が覚め、時計を見る。明け方になっている。

 走らなくちゃ。

 身支度を整え、顔を洗い、稽古着で外へ出た。珍しいことに、シュバルトさんが正面玄関で待っていた。

「おはようございます」

 こくり、とシュバルトさんが頷く。

「どうして今日は待っていてくれたんですか?」

 普段だったら、僕が寝坊してもシュバルトさんは待っていることがない。先に走っているのに、僕が追いつくのが寝坊した時のこれまでのパターンだ。

「魔女の気配がした」

 いきなりそう言われたので、面食らった。

「魔女って、なんですか?」

「不愉快な女」

 ボソッとそう言って、シュバルトさんは駆け出した。そう、走るためにここにいるんだ。

 僕は先を行く背中を追いながら、魔女、という響きが、なぜかスイハという響きに繋がる気がして、落ち着かなかった。



(続く)

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