第12話 父親の顔

     ◆


 おやおや、と夕食の席で伯爵が食堂に入った僕を見て言った。

「盛大にやられたね、サク」

 そう言う伯爵の横で、トワルさんですら顔をしかめていた。

 シュバルトさんと稽古をした後なんだけど、僕が気を抜いたせいで、シュバルトさんの蹴りが頬のあたりを直撃し、久しぶりに気を失いかけた。

 これにはシュバルトさんも驚いたようで「大丈夫?」と訊いてくれた。エリアなんかは大笑いしていたけど、僕としてはただ恥ずかしい。

 屋敷にいる医者に見せると「あざができただけだ」とあっさり放り出された。あるいはエリアをあざだらけにした仕返しで、医者はそっけないのかもしれなかったけど。

 放っておけば治る、と言われたけど、医者は何かの軟膏のようなものを形だけ塗ってはくれたのだけど、今はただ痛い。

 鏡を見れば右頬が紫色になっているのだけど、経験からすれば、あとは残らないだろう。

「申し訳ありません、伯爵様」

 やっぱり珍しいことに、シュバルトさんが伯爵に謝罪した。

 伯爵はニコニコと笑いながら、そういうサクもいい、などと言っている。トワルさんは正気を疑うような目で伯爵の様子を見て、首を振っていた。

 その日の夕食の後、僕は伯爵の書斎に招かれ、自然とトワルさんは席を外した。

「あの子のことを、あまり話していなかったね」

 椅子に座って、やっぱり葡萄酒のグラスを揺らしながら、向かいの席の僕に伯爵が話し始める。嬉しそうで、でもどこか、寂しそうな口調だった。

「シュバルトは、幼い時に、私が拾った。特に何かの才能があるとか、素質があるとか、そういうこととは無縁にね。私は中央を追われて、半分は自棄になっていた。こういう社会に埋もれるだけの子どもを養子にして、イーストエンド王国を汚してやろう、とさえ思ったかもしれない」

 言葉の内容の割に、伯爵は穏やかである。

「最初は、雑用をやらせた。しかしその中で、当時、屋敷に逗留していた武芸者のことを気にしている場面を、私は何度か見た。そこで、まだ十歳にもなりはしないシュバルトに、体術の訓練をさせた。正確には、七歳くらいだね。きみの経歴に似ているね、サク」

 年齢という面では、確かにそうだったし、境遇も似ているかもしれない。

「武芸者が使う技は、名前もなくて、ただ、アーツ、そう呼ばれていた」

「アーツ……?」

「体術を総合的に取り入れて、形にしたというんだよ。私は門外漢で知らないがね。シュバルトは毎日のように稽古に打ち込み、私はそれに対抗する気になって、書見もさせた。シュバルトは、よく耐えた。数年の間に、一流の人間に成長したと思う」

 一流の武芸者、ではなく、人間、と表現するところが、この人がシュバルトさんを認めていることを、実感させた。

「武芸者は去り、シュバルトは一人で訓練を続け、しかし、いつからか、稽古らしい稽古をしなくなった。私は質問したよ。なぜ、稽古をしないのか、とね。すると、なんて答えたと思う?」

「いえ、わかりません」

「あの子は、日常の中に訓練があります、と答えたよ。詳しく聞こうとしたけれど、あの通り無口な子だから、あまり要領をえない。そのあたりは、ちょっと他とは違うけど、まぁ、私は気にしなかった」

 ニコニコしてそうしゃべる伯爵は、本当のシュバルトさんの父親のようだ。

 息子の成長を喜ぶ、父親の顔。

 僕にはその顔を見ることができない。実の父の顔をだ。シュバルトさんにはその可能性がある、それだけのことが、変に羨ましかった。

「シュバルトを手放す気はなくなり、他の養子はいろいろなところへ送り出したけど、あの子だけはこの屋敷に留め置いた。広い世界を教えるべきと思って旅をさせたこともある。あの子は戻ってきて、また元の日常に復帰しただけだった。それを見て、初めて私は、その、悲しくなったかな」

「悲しい、ですか?」

「あの子の世界は、この屋敷でほとんど完結している。外の世界なんて、必要としないんだ。それが元からの気質なのか、私が歪めてしまったのかは知りようもないけど、ただ、あれだけの才能が、ここで終わるのは、悲しいじゃないか」

 葡萄酒に視線を落とす伯爵に、僕は何も言えなかった。

 誰の目にも触れない技があっても、おかしくはない。

 技は技として、終わりはないのだから。

 ただ、親としては、どこかでそれが役立つことを、望むんだろう。

「とりあえずはサク、君がいるから、シュバルトもやる気を出すだろう。二人で高め合うといい。エリアを置き去りにしないようにね」

「ええ、それは。兄上とは、週に一度しか稽古をしていないので」

 シュバルトさんのことは、自然と兄上と呼べる。

 王都にいる時にはそういう感覚はなかった。

 朱雀様の元に引き取られた時も、先に薫陶を受けている剣聖候補生位は何人もいた。ただ、そんな人たちはみんな敵のようなもので、倒す相手だった。

 高め合うとはとても思えなかった。

 高みに立つことが全てで、そのために倒す以外、あの人たちの存在意義は、僕にはなかった。

 腕試しの相手、僕の技量を明確にするための相手、そういう範囲を抜け出す人は、いなかった。

 朱雀様にそのことを指摘されたこともあったっけ。

 でも僕にはよく理解できないままで、結局、他の候補生を何人も蹴落としていた。打ち据え、投げ捨て、文字通り、薙ぎ倒したのだ。

 伯爵は僕に朱雀様から手紙が届いているかを確認してきた。手紙はトワルさんが管理しているはずで、僕に聞くのも違う気がしたけど、あるいは、朱雀様がこっそりと僕に手紙を届けるのだろうか。

 不思議そうにしている僕に笑みを見せ、伯爵は「もう寝なさい」と言った。

 そう言われても、僕は寝る前に剣の稽古をすることにしている。

 シュバルトさんの存在は、僕の中で、何かを燃え上がらせていた。



(続く)

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