第11話 強敵
◆
シルバイグル伯爵の屋敷に来てから、二ヶ月が過ぎた。
僕は早朝、まだ日も昇っていない時間に、屋敷の正面玄関に立っていた。服装は稽古着で、靴は走りやすいものだ。
そろそろ来るはずだけど。
そう思っていると、玄関が静かに開き、一人の青年が出てきた。
彼は僕を見て会釈をする。シュバルトさんはやっぱり無口だ。
「おはようございます。今日も一緒に走っていいですか?」
うん、というように頷いた時には、シュバルトさんはもう屋敷の正門のほうへ小走りに向かっている。僕はそれに少し遅れる形で、駆け出した。
正面玄関から正門を抜け、さらに傾斜のある道を抜けてから、今度は鉄柵の間の門を抜けたところで、その鉄柵に沿って走っていく。
エリアと走るようになってから知ったけど、自然とこの鉄柵の外周に沿うように、人が走れる空間があるのだ。
それはエリアが、というより、シュバルトさんが作ったらしい。
このコースは起伏に富んでいて、体力を作るにはもってこいだ。そこをシュバルトさんはいつも二時間は走っている。エリアはほんの一時間で、僕はここ二週間、シュバルトさんに従うようにしていた。時間も、ペースもだ。
シュバルトさんのことが気になり始めたのは、まさに二週間前のことで、その時、珍しく彼は道場にやってきた。時間はエリアへの稽古が終わった頃で、僕は最初、夕食の時間を告げに来たのかと思った。
でもシュバルトさんは稽古着を着ていて、それは初めてだった。そして音もなく道場へ入ってくると「手合わせを」と言ったのだ。彼が声を発するのは本当に珍しい。
僕は彼が棒も持っていないので、倒れこんでいるエリアが放り出していた棒を拾い上げようとした。
「組打ちから」
ひっそりとした声で、シュバルトさんはそう言った。
剣術とは別に、僕も組打ちには真剣に取り組んだ時期がある。武挙に受かる前から、イスタル師に指導を受けていた。
剣士が剣を失ってしまったら何もできない、というのは、言い訳として最低だとは僕も思っている。
朱雀様にも組打ち、体術については、だいぶ叩き込まれたものだ。
僕はシュバルトさんの意図を図りきれないまま、棒を置いて、彼と向かい合ってみた。
まだお互い、組んでもいない。
でも僕は、並々ならぬ事態が出来したと、悟っていた。
組み付けない。
シュバルトさんはわずかに両手を持ち上げ、足は左足をやはり小さく引いている。
こちらは本気の構えを取るしかない。
何か、組んだ瞬間に投げられるような予感がした。
それを織り込み済みでも、やはり投げられるのでは、ということだ。
こんな相手はそうそうお目にかかれない。
僕は意識を切り替え、本当にシュバルトさんを組み伏せる気になった。
正しくは、なろうとした。
気持ちが中途半端なタイミングで、シュバルトさんが踏み込み、僕の稽古着の袖を掴んだ。
反射的にそれを巻き取って腕を極めようとしたが、それより先に懐にシュバルトさんが滑り込んだ。
足を払われる。
分かっていても払われた。
ただ、際どいところで床を蹴ることができた。
両脚を薙ぎ払われ、腕も引きずられる。
体は空中。
しかしシュバルトさんがこちらの稽古着を掴んでいるという一点で、支点ができた。
無理くりに空中で姿勢を取り戻す。その動きでシュバルトさんの手が離れる。
片膝を突く形で着地したところに、シュバルトさんの蹴りが来た。
回し蹴りを両腕で受け、そのまま横に転がり、勢いを殺す。
二度ほど転がり、姿勢を取り直した時には、もうシュバルトさんは自然な構えで、こちらを見ている。
僕はどっと汗が噴き出すのを感じながら、間合いを歩み寄る形で消していく。
こんな使い手が、すぐそばにいるのに気付かなかったのが、迂闊だった。
僕も教えるばかりではなく、教えてもらえるかもしれない。
今度は二人がぐっと組み合った。柔術に近い形だ。
お互いに自分の体と相手の体を揺さぶるようにして、瞬間を測る。
投げが来ると、寸前にわかる。
僕は逆にシュバルトさんの勢いを味方にして、彼を投げた。僕の右足がシュバルトさんの右足を外から刈る形。
しかし彼の稽古着の襟元を掴んでいた僕の右手が狙われ、逆にさらに内側に入られた次には背負われそうになる。
また僕の方から床を蹴り、今度はシュバルトさんに飛びつく余地ができた。
こちらの右腕を抱えようとするシュバルトさんの右腕を絡め取り、寝技を目指す。
シュバルトさんが投げを中断し、こちらの意図を阻止して、僕を放り出すようにして立ったまま間合いを取った。
この時はただ、投げが成立するのと寝技に持ち込めるのと、どちらが先かわからない、際どい駆け引きだった。
シュバルトさんが構えを取り直し、僕も構える。今度は打撃系の格闘技の構えだ。
しかしどちらも動かない。
膠着。
僕は本気の気を発している。それに負けないだけの気が、シュバルトさんから向かってくる。
この時、僕はきっと怖い顔をしていただろうけど、シュバルトさんは普段と何も変わらなかった。
すっと、彼の方から構えを解いた。
「週に一度、お願いできますか」
彼がそういったのは、週に一回、稽古をしようということだ。
「こちらこそ、お願いします」
僕は久しぶりに汗びっしょりの自分を感じながら、そう答えていた。
それからまだ二回しか稽古はしていない。
エリアなんかは僕が投げ飛ばされたり打ち据えられるのが面白いらしく、じっと見物しているけど、僕としても面白かった。
こういう、抜きん出た腕前の武芸者は、僕の永遠の憧れだし、常にそういう相手を探してもいるのだ。
走ることもだから、シュバルトさんを理解したい、という一心からくる。
走るとき、彼は振り返らない。
僕はその背中を、ずっと追っている。
(続く)
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