第5話 雌伏の時

     ◆


 椅子に座るように示され、僕は伯爵の向かいの席に着いた。

 朱雀様が僕をシルバイグル伯爵に形の上で預けたのは、王国中枢における権力闘争の一側面によるんだけど、それは貴族、王国軍、財閥、政治家、官僚などが関わる、複雑怪奇なものとなっている。

 僕が朱雀様から伝えるように言われたことは、短い文言である。

「朱雀様は、今は雌伏、とおっしゃられました」

「それ以外は」

「ありません」

 ふぅむ、と伯爵が肉が弛んでいる顎を撫で、黙り込んだ。

 雌伏、ということが何を示すのかは、僕も一度、朱雀様に確認してみた。

 でも、そういえば伝わる、と本当のことを教えてはもらえなかった。

 シルバイグル伯爵は、何十年も前に王国の大蔵省で高級官僚だったと聞いたけど、今はとてもそこまでの権限はない。ただし、宦官ということがあり、王族に近づく条件の一つは満たしている。

 それに大蔵省はそのまま、王国軍の軍費を左右する権限を持つし、各貴族と国家の金銭のやりとりにも接することがある。場合によっては不正な贈収賄で貴族を摘発するきっかけにもなる。

 僕自身には政治力も財力も権力もなくて、どうしてこうなったかはよくわかっていない。想像できるのは、軍部と、その軍部と癒着する貴族か財閥が、動いたんだろうという程度。

 ただ、こうして地方へ来てみると、どことなく羽を伸ばせそうな気もする。

 よく考えれば、権力だの何だのとは無縁の、剣を極めるにはいい環境じゃないか。

「いいだろう、サク。エリアを任せるよ」

 それが伯爵がやっと発した言葉で、僕は直立して礼をした。

「そんな作法はここでは必要ないよ。ここは軍隊でもないし、学校でもない。ど田舎の伯爵の、古びた屋敷だからね」

 僕はもう一度、礼をして、そのまま部屋を出て、ゆっくりと廊下を進んだ。

 朱雀様のことを恨むのはもうやめよう。そう思った。心のどこかで、朱雀様へのそんな思いがあったのだ。

 ここにはここで、やるべきこと、できることがある。

 部屋に戻ってまた稽古着に着替える。道場へ行く途中に花壇のところに差し掛かったけど、あの青年はいなかった。また紹介してもらえるだろう。食事の間も、彼は無言で、一言も口にしなかった。自己紹介もないのだ。

 道場に入ると、エリアが一人で棒を素振りしている。うっすらと汗をかいているようだ。

 こちらに気づいて、動きを止めそうになるので、「続けて」と声をかけた。

 エリアはまっすぐ前を見て、素振りを続ける。

 僕も壁に掛けられている棒を手に取り、何度か素振りをして、構えた。

 じっと動きを止める。

 ここ数年、剣術を確認する時、不思議と一つ一つの型を念入りに確かめることは減った。

 構えているだけで、型のことが如実に見えてくることがある。

 動かない体だからこそ、どういう力の移動でどう体が動くか、わかってくる。

 ぴたりと止めていた棒の先を走らせる。

 桜花流という剣術で、僕が最初に身につけた技になる。養父のイスタル師が教えてくれたのだ。

 四つの動きを連続してから、また元の姿勢に戻る。

 息が乱れることはない。細く細く、微かに息をする。

 気が充溢してくる。

 棒にそれを宿らせる。

 一歩を踏み出し、棒を振った。

 型でもない、ただのまっすぐの打ち込み。

 ぴたりと棒を止め、肩の力を抜く。

「何か」

 急に声がして、びっくりした。

 そうか、エリアがいるんだった。

 そちらを見ると彼女が額の汗を手の甲で拭っている。

「とんでもない技に見えたけど、どういう動き?」

「桜花流という剣術の、基礎の型の連続かな。実戦的ではないよ」

「十分に相手を倒せそうだけど」

「まぁ、この棒でも実際に打ったら倒せることは倒せる」

 すごいなぁ、とやっとエリアは気を取り直したようだ。

「それでサク、私は何をすればいいわけ?」

「基礎運動はしている?」

「基礎運動? 例えば?」

「素振りはしているみたいけど、それ以外だと走ること、かな」

 それはやっている、とちょっとだけエリアが胸を反らす。

「兄様と一緒に二日に一度ね」

「兄様? あの食堂にいた人?」

「そう、シュバルト兄様」

 シュバルトさんというのか。不思議とあの人には何か、敬うような気持ちを呼び起こす雰囲気がある。

「これからは毎日、走ろう。朝ごはんの前に、一時間くらい」

「えぇー」

 エリアが悲鳴をあげるけど、僕は妥協するつもりはなかった。

 走ることに関しては、武挙に受かって朱雀様に拾われた後、ほとんど休みなくやっている。素振りもだ。型の確認もこれに加わり、僕の生活のほとんどが基礎に費やされる。

 その基礎を重視するやり口は、朱雀様の方針で、彼の弟子として指導を受けた全員がそうしている。

 噂では他の剣聖よりもそこだけは念入りらしい。

 ただ、誰も異を唱えない。重要な方針であることは、そこにも見える。

「とにかく、毎日、走ろう、姉上。もちろん、僕も走るから」

「雨が降ったらどうするの?」

「雨具を着て走る」

「雪が降ったら?」

「雪を踏み分けて走る」

 愕然としているエリアの、その感情を表に出す様子が可笑しく、僕は声に出して笑っていた。

「とにかく、僕は姉上を鍛えることにするけど、一日目を迎えずにやめる?」

 挑発的な言葉だけど、エリアがそれに乗ってこないことはないと、もう僕は気づいていた。

 実際、エリアは堂々とした様子で、

「絶対、やる」

 と、答えていた。

 こうして、僕は辺境に領地を持つ伯爵の元で、少女に剣を教えることになった。



(続く)

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