蛍とミキ


 砂で描かれた地平線は、昔どこかで見た海のようだった。足踏みしているだけかと疑ってしまうような変わらない景色の中で、しかし振り返ると、風でまばらにしか残っていない二対の足跡がある。彼女と同じ大きさの足跡の持ち主は、ずっと隣にいるはずなのに、砂埃にまじってよく見えなかった。血が繋がっている筈の彼女とは、顔も髪色も似ても似つかないものだったのはよく「覚えている」。それだけだ。

 もっと彼女の顔がよく見たくて、前に乗り出した体が傾いだ。

「あっ」

 ちょうど柔らかい砂の群れに足を突っ込んだようで、思わず突いた手の傍で深く潜り込んだ片足が見える。

「大丈夫? 危ないじゃない」

 ざらついた手を彼女にとられる。砂の海で立ち上がると、同じくらいの背丈の彼女の、柔らかい栗色の髪が顔をくすぐった。


 それは、その「記憶」は、蛍がよく知る「彼女」と同じ、髪の色だった。



 最後の夜の割に、よく眠れたなと蛍は起きて早々神経の太さを自負した。眠気の断片を冷水で叩き起こして、既にテーブルに用意されている朝食に手を合わせる。向かいには、先に食事を済ませた父親が新聞を読んでいる。早出の多い父にしてはとても珍しいが、平日だというのに昨日校舎で教師を一切見かけなかった蛍は何も言わなかった。

 手早く朝食のパンとサラダを流し込むと、蛍は昨日のようにリビングを飛び出した。昨日とは違って寝間着から着替える気もしなかった。父親には気をつけるんだぞ、母親には行ってらっしゃい、言葉をもらう。ただの休日のような代わり映えのない朝だった。


 坂を上った皺寄せは既に訪れていたが、蛍は悲鳴をあげる太股を叱咤してペダルを踏む足に力を込めた。

「何、っで家にも学校にもいないのよあのバカ……っ!」

 真上に雲の隙間を縫って地表をちらちらと伺う太陽を従えた蛍が今辿っているのは、つい最近、昨日往復して通ったあの海へ続く道だった。昨日と違うことと言えば、衝突すると言われるつぶてのせいか、雲に半分ほど覆われる空の色がやけに明るいことくらいだ。自転車で家を飛び出して蛍がまず向かったのはミキの家、そして二人が通う高校だった。呼び鈴には誰も出ず、くまなく探した校舎や校庭に焦燥を募らせた彼女が思いついたのは、遊んだばかりのあの砂浜だった。二人で遊びに行った場所なんて両手を指折り数えても足りないくらいには候補があるが、蛍は夢中で自転車をあの海に向けて転がしていた。


 下り坂に上乗せされた速度を殺さないままで、一日と経たない内に海辺に新しい足跡をつける制服姿を認めた蛍は、ブレーキもそこそこに自転車から飛び降りた。運転手のいなくなった二輪は、勢いを殺さないままとうとうバランスを崩して荒々しく草むらに転がり込んだ。所々破片の剥がれ落ちた階段を降りた先の人影は、派手な音にも身じろぎ一つしない。

「ミキ」

 暑さと疲弊と、えも言えぬ緊張にはやる呼吸を整えて、蛍は呼んだ。昨日は、坂の上で彼女が息を落ち着かせる前に先へと駆けだしていった友人の名だ。「……何しに来たの?」

 澄んだ水面がざわついている。夕べより荒くれる海が、尖るミキの声に同調して風を巻き込んで波を高くした。

「昨日の答えを、聞きに来た」

「うん……うん? 出しに来たんじゃなくて?」

「……出したいんだけど、その前に、ミキの話を聞きに来た」


 身構えていたのとは少し異なった蛍の言葉に、ミキは後ろで立ちっぱなしの友人を振り返り見上げた。じっと見据えるだけの彼女に、蛍の方が話し続ける。

「だって、あんなこと言ってミキは満足だったのかしれないけど、私にとっては、夢とか色々……考えさせられることばっかりだったんだからね!」

 むっとして歩を進めた蛍は、ミキに倣ってその隣にストンと腰を下ろした。表情とは反対に、声色はずっと柔らかいままだ。

「それに……私、あなたの家族の顔さえも知らないんだもん。ミキのこと、ぜんぶ教えて」



「信じてくれるか分かんないけど……私、この星の命なんだ。いつからかもう忘れちゃったけど、星自身、みたいな? 家族はいつも気付いたら消えちゃってるから、ホントにいたのかも分かんないや……あ、だからって天気を操ったりとかはできないんだよ。まだよく理解してないんだけど、星の核? に私の意識がそのまま反映されるっていうか…………人間? どうなんだろ、いつも人間に生まれてくるし普通に成長するから本当は人間だったらいいなー! ……いつも? って? えっと……昨日言ってた蛍が見た夢、って何があった? …………うん、それ全部ね、実際にあったことなの。今日とは違う隕石がぶつかったのも、海面上昇で水浸しの星になって皆溺れちゃったのも、逆にぜーんぶ砂漠になって干からびちゃったのも。この星はもう私のせいで何十回もやり直してるんだ、壊れて、同じ星の欠片でまた作って……だから、毎回少しずつ形が変わっても私と蛍が会うのまでは決まっていたの。すごいね、夢に私がいたのも分かったんだ」

「ミキが私の……彼氏だった時も、姉妹だった時もあった。正直最初は誰かなんて分からなかったけど……あれは本当に記憶だったんだ……だから! だから今日になっても親もいつも通りみたいに私を見送ったし、世界のどこかでパニックが起こったりもしないんだ。無意識に皆その記憶が残っているから」

「蛍はホントに頭が良いね」

 私最初のうちは何が何だかさっぱりだったのに、と続けるミキにまた新たな疑問が浮かんだ蛍は何の躊躇いもなく口を挟んだ。

「待って。それじゃあ、何で星が何回も滅びてるの? それってミキが……」

 そこまで言って蛍は言葉を詰まらせた。これを自分が言うのは、ミキ本人以外が口にして認識してはいけない、したくないと回り続けていた脳の回路が減速していく。

「…………それは、私が、人として生きたかった、から」

「人として生きたかった……?」

「ん、そう。多分ね──だから、ホントはいつも蛍と会わないように、仲良くならないように、って思うんだけど、いつも上手くいかないんだあ」

「……は? 私と?」

 震えるミキの声に気付く前に、反射的に言葉がついて出た。お互い海だけを見ながら話していたが、蛍が右を向くと、強張った表情のミキが自分の方を向いていた。つい昨日見た、蛍が夢の話をした時と似た顔だ。

「だって……だってさあ! 蛍といると、生きてるのが楽しくて仕方ないんだもん! 一緒におしゃべりするのも、ちょっとバカな私の勉強に付き合ってくれるのも、蛍がバテてるのを私が引っ張って遊び回るのも……! ……でも、私がそう望んだら、星も死んじゃうから、私が人として生きて死にたいって思うから! だから、蛍と最後にいれない日が来たら、ちゃんと諦めようと思ってた。でも、……でもね、蛍はいっつも、最後になると、私のこと見つけてくれるんだあ……だから蛍は「また」、今ここにいるんだよ。違わないでしょ?」

 上擦る声を張るミキは、そのまま唇を噛んで下を向く。震えの大きくなった声色はただ激発しているだけではない。いつになく感情を露わにする彼女の叫びは、ミキ自身を高ぶらせるだけに留まらなかった。

「……諦めるって、何よ。何……勝手に一人で立ち振る舞って一人で背負おうとしてんのよ!」

 砂に目を落としたミキがその声に顔を上げると、自分の正面を向くように蛍が彼女の肩を掴んだ。煮え滾る音に乗せた感情が、ほっそりとした手指から伝わる。ほたる、と空回りする舌で応えるのがミキには精一杯だった。


 直後、雲の敷かれた空が、かっと一際明るく光を見せた。二人が光源へ目を向けると、太陽とは違う、不規則に歪な色で鈍くぎらついている。「それ」が何か、三ヶ月前から何度も報道や人づてで聞いていた蛍はごぐ、と強く息を呑んだ。目を奪われている時間なんてもう何分と残されているか分からない。

「っ大体、私とミキが会うのが決まってたですって? 知り合うのも仲良くなるのも決まってた?  ──馬鹿にしないでよ。出会って友達になるのも、こうやって最後に一緒にいるのも私が決めた! 私の意志よ! 勝手に決めつけないで!」

「……蛍……ごめん、私っ」

「…………私、これで死んでも、またミキを見つけるから」

 ミキの言葉を突っぱねた蛍は、肩にやっていた手を解いて腕を組んだ。

「そんで、ミキが普通に生きていける方法を探す。私頭が良いんでしょ? 良い方法が見つかるかもしれない。もしそんな方法がなかったら……また新しい世界になる度にミキに会いに行く。それが、友達ってもんなんじゃないの?」

 言いながら、蛍は隣の肩に軽く頭を乗せる。程なくして、彼女の黒髪を幾ばくか穏やかな声が滑り落ちてきた。

「……ごめんね、蛍。私こそ、何回もやり直して蛍を生きてる人間として見ていなかったのかもしんない…………ね、信じていい?」

 何を、と聞き返すほど、蛍も野暮じゃない。鮮やかな彩色を魅せる光はもうとっくに太陽を抜きん出ている。本当にこれが、この世界のこの星の最後の言葉だ、と蛍は首肯して耳を澄ませた。

「この星がなくならない方法なんてないかもしれない。でも、それでもいいよ……お願い、


私を、見つけて」


 湿った声は、唸る小波と混ざり合って蛍の鼓膜で弾けた。

 もう一つだけ、彼女は頷いた。きっともう返事は音では伝わらない。宇宙の瓦礫が轟音を立てている。不意に、肩に預けたままの髪が音に揺れた。けどもう鼓膜は上手く機能していない。それでも、白んでいく景色と意識の中で、蛍の胸中は穏やかに波打っていた。最初に見た「記憶」の夢の既視感を、蛍は思い出していた。あの時と同じ、最後に何と言っていたのか「また」聞けなかった。ミキの今際の言葉を聞けるのは、彼女が人間としてこの穏やかな星の上で死ねる時なのだろう。そしてそれは、まだもう少し先の話なのかもしれない。



 暴れる海原が、青々と空を仰ぐ木々が消えてゆく。熾烈な閃光がどうどうと全てを炙り、揺さぶった。



 星は夜を迎える。そして再び、星のために生まれ、何十回目の朝が来る。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

星のいのちの最果てよ 有崎 @arisaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ