ご、と吐き出した空気の塊が、揉まれながら水中で歪む視界を昇っていく。咄嗟に掴もうとした腕と藻掻いた脚の動きが鈍く、重い。頭上から爪先まで捕まえる塩水がひどく目に染みて、そのあぶくを最後に瞼で眼前の青を遮った。

 肺を埋め尽くす息苦しさや、体温を四方に散らす冷たさは、感じなかった。だのにその五感を呼び起こす何かが、そこにある。鼻に巻き込まれていく水の痛くない痛みも、ぼやけた鼓膜に流れ抜けていくクリアな海の足音も、蛍は知らない。知らないのに、知っている。

 瞼を押し上げると、痛みは既になくなっていた。彼女を包む冷たい色は、海の底から天辺の光の粒をなみなみと注がれて表情を変えていく。蛍はその海の姿に、視覚以外の情報を削ぎ落としてしまうほどには見惚れていた。足元が覚束ない深いところまで来たことのない彼女は、こんな青色を見たことがなかったのだ。瞬きも忘れてしまう数瞬の間に、蛍は冷えていた頭で一つの可能性に辿り着く。


 これは、記憶だ。蛍の知らない蛍の記憶だ。


 白む頭上に目を向けると、雲と波を描くキャンバスの合間に彼女は人影を見た。そこに誰が待つのか「覚えている」蛍は、不自由なままの腕を伸ばす。彼女と同じように手を伸ばす姿は、海より先の天井から降る茜色を浴びてよく見えなかった。



 初夏の背中が見え始めた六月の図書室は、蝉の合唱を背景に紙を捲る音と上履きが木目に擦れる音しかなかった。室内の奏者である蛍以外には、生徒も司書もいない。空調の効いていない図書室は、本の壁で日が当たらないとはいえ服を投げ捨ててしまいたい衝動が湧いてくる。高みから見下ろす隕石にも蛍にも無関心な太陽が悠々と下ってくさまも忌々しい。茹だってきた頭を冷やそうと、蛍は背後の棚に背を預け、髪をぱさぱさと振り乱した。


 彼女のいる図書室はおろか、この高校の敷地内にすら誰もいないだろうというのは蛍の考えだ。ほうき星の残酷な夢を見てから六日、海に包まれ溺れる夢から朝を迎えたのがつい数時間前のことだ。昨夜の夢で頭にできたしこりをほぐそうと、乱雑に規定のシャツに袖を通し朝一番に自転車で家を飛び出してきたのだ。蛍自身、どの文献が正しい模範解答を示してくれるのかは微塵も分からない。深層心理に関するものから、果ては前世や幽霊といったオカルティズムな内容の書物まで読み漁っていた。

 途中売り切ればかりの自販機で買った水を八割方飲み干す頃には、彼女の足元で六棟目の本の塔の建設が始まっていたが、蛍にとっては些末なことだった。

 蛍は昔から何かと知りたがりな子供だった。心が引っかかりを覚えれば、紆余曲折を経てでもその「解答」を掴もうとしていた。それは子供とも大人とも呼べない齢になった今も同じで、だからこそ見つからない答えに今日も知的好奇心の手綱をすっかり手放してしまっていた。


 頭から被った埃も忘れて目と頁を滑らせる蛍だったが、探究心に引っ張られるまま図書室に足を運んだ訳ではない。

「ななせさーん! 七瀬蛍さんいらっしゃいますかー?」

 一人と十数匹だけの世界だった図書室に、足音と声が一人分差し込んだ。ちょうど手の一冊を読み終えた蛍は、聞こえてきた声に応えようと本の壁の間から抜け出る。建立数時間の山が、跨いだ拍子にばさばさと崩れ去った。

「ミキ、こっち」

「あっいたいた。遅くなってごめんね!」

「ううん、私が朝に集合場所駅からこっちにしようって言ったんだし。まだ集合時間前じゃん」

 汗みずくで謝り倒すミキの合わさった両手を、蛍はやんわりと解く。元はといえば、今日の「約束」の集合場所を変更したいと今朝突然電話で伝えたのは蛍の方なのだ。

「それじゃ行こっか」

 言うなり蛍はテーブルに放っていた鞄とペットボトルを小脇に抱える。来る途中風に遊ばれ乱れた髪を結び直す背を彼女に押され、ミキは思わず踏み止まった。

「えっ、もう行くの? 何か本探してたんじゃないの?」

「いいのいいの。ミキが来たらもう終わるつもりだったから」

「でも本が」

 言われて蛍は、自分の通ってきた床に目を向ける。倒壊後の塔の残骸が寝転がり、時には開きっぱなしで仰向けやうつ伏せで散乱していた。

「……いいよ。片付けても意味ないし」

 どうせ明日には全部終わっちゃうんだから。

 蛍はそう続けた言葉とは裏腹に軽い足取りでミキの背中を更に強く押し図書室を後にする。カウンターで二人を見ていた小さな置き時計は、きっかり十五時を指していた。

 本棚から吐き出された蔵書の白い頁が、熱を孕む風に呼ばれて浮き沈みしている。蝉の輪唱は、終わらない。



「思ったんだけどお、こんな時まで何で制服なのー! 真面目かっ!」

「いいでしょ別、に! 服考える方がめんっどくさいの私は!」

 厳しい日差しが斜陽の兆しを見せ始める中、蛍とミキは自転車でこれまた厳しい勾配の坂に逆らってペダルを漕いでいた。幾分か体力に余裕のあるミキと違って、彼女の後方で悲鳴を上げる蛍は、声を張り上げないと通らない会話にも手一杯だ。とっくに飲み干した水も汗で全て蒸発してしまってようやく、蛍は坂の頂上でペダルから足を降ろした。彼女を待っていたミキの風通しのよさそうなワンピースを見て、自分もせめてTシャツくらい着ておけば、と蛍は心の中でだけ思いを留めた。

「自転車で来るのなんて初めてじゃない? ほら、もう見えてきてる!」

 蛍の息が整うや否や、がしゃんと荒々しい音を立ててスタンドを上げたミキは続く坂を下っていく。体力が回復した訳ではない蛍が止められるはずもなく、小さくなる姿を追って再びサドルに跨がった。

 自転車を一時間ほど、小休止も含めて二人が来たのは、二つ隣にある蛍の生まれた町だった。進学のタイミングで蛍が引っ越してきてから何度か二人で訪れていたが、郷愁の思いに駆られただとか、そういった情に厚い理由ではない。

 坂を下りきって続く車道を道なりに進んでいくと、緑の生い茂っていた左側の視界が真っ青に開けていく。水平線の緩い弧を描く空よりも深く青い海、これが、二人の「約束」の目的地だった。


 このことを見越してか、二人とも履き物だけはサンダルと共通していた。砂浜に入る階段に近い木陰に自転車を停めた。

「ミキのことだから水着でも着てくるかと思った」

「ちょっと考えたけど、帰りべたべたするのは嫌だからね!」

 サンダルの隙間に潜り込む砂の不快さも忘れて、蛍たちはざくざくと歩を進めていく。幅が狭く海沿いの道が長い砂道は、数分歩かないうちに水音が足元までやってくる。灼けた砂に覆い被さる波の冷たさに、二人は声を上げた。ペダルを漕いでいた際の過ぎた日光浴で火照ったつまさきが、海をかき分けていく。並んで砂に沈んでいく足を水越しに見ていたミキが、たまらず走り出した。深い方を歩いていた蛍の前で、泡立った白波が激しく跳ねる。十五までこの町に住んでいた蛍とは違い、海から離れた地で育ったミキは海に触れる機会がなかった。蛍の案内で初めてここへ訪れた時、二度目の海水浴だと彼女は言っていた。蛍の方を時折振り向く瞳が瞬いて見えるのは、水平の彼方に呑まれ、海を燃やす光の鮮やかさが注がれているだけではないのだろう。


 砂の凹凸で歪む影の輪郭がうすぼんやりとしてきてから、足首まで海に漬かったミキが砂に腰を下ろした蛍へ顔を向けた。

「そういえばさ、図書室で何調べてたの?」

 手を濡らしてはしゃぐミキを横目に膝を抱えて潮風に身を任せていた蛍は、それに答える前にのろのろと立ち上がる。汗ばんだ足にへばりつく粒がちょうどほんの少しだけ鬱陶しくなったからだ。一秒も待てないと淡い金色を強く踏み切ってミキの下へ跳ねる。

「えっ、ちょ、待っ……!」

 走る蛍に慌てふためいたミキが彼女にはとてもおかしく見え、最後は一際大きく跳んで、海に飛び込んだ。水面が大きな音と共に粒になって中空を散る。蛍は勿論のこと、穴の開いた水面のすぐ隣にいたミキも海の粒を頭に被った。

「ぷぁ、もう蛍!」

「ごめんごめん。何か楽しくなっちゃって……で、さっきの話だけど」

 塩辛さを味わったのか口を雑に拭うミキに蛍はくつくつと笑って、彼女の問いの答えを出した。六日前の夢のこと、昨晩の夢のこと、生々しい記憶のような違和感。手持ち無沙汰にざぷざぷと浅い波をかき分けて歩きながら話すと、ふうん、とだけ返ってくる言葉が蛍の耳に入った。途中、図書室で読んだ本の内容を思い出せるだけ綯い交ぜにして話していたが、ミキの興味のストライクゾーンから大きく外れたらしい。さっさと切り上げてしまおうと蛍は口を開く。

「ミキはこんな話興味ないか! もうこの話はやめやめ──」

 蛍はそこでようやくミキを見て、開けた口を閉じることができなかった。夕陽の端っこを背にしたミキの顔は、微かな逆光に薄暗く見える中で、大きな目を更に開いている。喫驚とも悲痛ともとれる顔に、蛍には見えた。ストライクどころか考えてもみなかった死球に双方の時間が止まる。久しく二つの声ばかりが聞こえていた浅瀬に、水音と、濡れて重くなったスカートがはためく音だけが残った。


「──蛍」

 先に時が動き出したのは、ミキの方だ。つられて何、と返した蛍の喉は、俄に枯れている。風に掬われたワンピースの裏地が、空と海の色におぼろに染まる。

 冷たさの厳しくなってきた小波が、聞いてはだめだと縋りついてくる。戻れなくなるぞ、と波音が訴えてきている、気がした。


「この星がなくなるの……私のせいだって言ったら、どうする?」

 その問いの答えは、水の中に解けた砂粒も、丸天井に駆けつけた星を貼りつける空も教えてくれなかった。


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