第5話 サーカスのチケット

 それからどれくらいの時間が経ったのかわからなかった。

 心臓がずっとバクバクと音を立て続けている。

 演者の子たちが去って行った後も、僕はぼんやりと舞台を眺めていた。

「楽しめたかな?」

 クラウンに声をかけられ、ハッとする。

「すごくきれいでした」

 僕より先に真琴が答える。

「ふふ。それはよかった。君は?」

「僕も、すごくきれいだと思いました。なんだか温かくて……」

 いまだ興奮が収まらない。

 そう思っていると、クラウンが僕たちの目の前でスティックを振りあげた。

 宙に描かれた円の中から、紙切れが落ちてくる。


 気づくと、僕たちは通学路に立っていた。

 僕と真琴の手には、チケットが握られている。

「これ……僕たちまたサーカスに行けるんだ」

「そうみたいだな」

 さっきまで、目の前で起きた不思議な現象に、僕はありえないほど感情が高ぶっていたけれど、いまはなんだか少し違う。

 興奮は、すでに過去のもののよう。

「ねぇ、真琴。僕、すごくドキドキしてたはずなんだけど……」

「俺もだ。さっきまではありえないほど心臓がバクバクしていた」

「でも、いまは違うよね? なんていうか……」

 うまく言葉が見つからなくて、真琴の顔色をうかがう。

「興奮した記憶は残っている。でも興奮は続いていない、ということか」

「うん、夢でも見たみたいな感じかな」

たとえば悪夢を見たはずなのに、起きたら心は落ち着いている……そんな感じだ。

でも、サーカスにいたあの時間、ものすごく楽しかったのはたしかだ。

「もう一度、行きたいな。チケットもあるし」

「俺も同じことを考えていた。でも……兄さんは、何度も行っておかしくなったんだ」

 彰くんのことがなかったら、僕たちはなにも迷うことなくもう一度、サーカスに行っただろう。

「本当にサーカスが原因なのかな。すごいものを見せられただけで、なにも変なことはなかったよ?」

「ああ……。俺の思い違いか……」

 それを確認するためにも、僕たちはもう一度、サーカスに行った方がいいんじゃないかと思った。

「じゃあ、明日は彰くんも一緒に行くってのは?」

「そうだな、それがいい」


 家に着いた僕は、自分の部屋に入ると、カバンからチケットを取り出した。

 金色のチケットは、すごく特別なもののように感じる。

 いったいどこへ招待してくれるのか。

 そういったワクワク感が詰まっている。

 入り口ですぐ飴玉みたいになってしまうけど。

「あれって、飴なのかな……」

 僕の飴は温かそうな色だったけど、真琴のは違った。

 そういえばクラウンは真琴の飴を珍しい色だと言っていた。

 なにか意味はあるんだろうか。


 翌日――

「おはよう、真琴」

「おはよう、悠一。待ってたんだ。兄さんのことだけど……」

 真琴の表情から不安がにじみ出ていた。

 思わず息をのむ。

「昨日もサーカスに行ったらしい。俺たちが気づかなかっただけで、同じ場所にいたのかもしれないな」

「それで彰くんは? やっぱりおかしいままなの?」

「ああ。あいかわらずぼんやりしている。サーカスは楽しいって言っていたけど、それを話す兄さんは楽しそうじゃなかった」

 楽しいことを話しているのに、楽しそうじゃないなんて。なんだか変な感じがするけれど、少しわかる気がした。

「ねぇ、真琴。僕もサーカスはすごく楽しかったけど……不思議な感じで楽しいことが思い出せないんだ」

「俺も同じことを思っていた。なにが起こっていたのか、なんとなく覚えているけど……。不思議な光の玉が浮いていて、そこに男の子が入っていて」

「うん、目の前でキラキラした舞台を見せられた! でも……やっぱりそういう夢を見たって感覚に近いかも」

「ありえないことが起こりすぎているせいか?」

「それなら見ている最中だって、あんな楽しく思えたりしないんじゃない?」

「一気に冷めたというか……楽しいって感情が消えたみたいだ」

 楽しい感情が消える。

 真琴のその音葉に、僕は大きくうなずいた。

「それだ。それだと思う! 普通、楽しいって気持ちはだんだん落ち着いてくるはずだけど……」

「なぜだか急に冷めたような気にさせられたな。突然、誰かに怒られたり、邪魔が入ったりしたなら、そういうこともありえるけど」

「なにかきっかけでもあったのかな」

「突然、通学路に戻された……それがきっかけか?」

 現実に戻された。

 それがきっかけなのかな。

「うーん。それくらいのことであの興奮は冷めないと思うんだけどなぁ」

 なぜ僕たちの感情は冷めてしまったのだろう。

「まあいいや。またチケットももらえたし……」

「チケット……」

 真琴がピクリと眉を動かす。

「あの男、変なこと言ってなかったか?」

「変なこと?」

「もともと俺はチケットを持っていなかっただろう? テントの前でチケットを作ってくれた」

「うん。どうやって作ってるのかよくわかんないけど、作ってくれたね」

「作る少し前、いろんな感情が渦巻いているって、俺に言ったんだ」

「うん、そんなようなこと言ってた」

「いろんな感情が渦巻いていることと、チケットになにか関係でもあるみたいな話しぶりじゃないか?」

 クラウンは真琴の感情を、読み取っているみたいに見えた。

 それからチケットを作り出した。

 真琴が言うように、チケットと感情はなにか関係があるんだろうか。

「あのとき、たしかに俺は緊張していた。兄さんをおかしくしたかもしれないサーカスを目の前にして、不安だったり恐怖を感じていたはずなんだ。それなのに……」

「もしかして、その気持ちもなにかをきっかけに冷めたの?」

「いざチケットを手にしたら、なぜか心が落ち着いたんだ。このままテントに入ってもいい、そんな気がして」

「それじゃあきっかけはチケットだ! チケットを手にすると、僕たちの気持ちは落ち着くんだ」

 答えに近づいたような気がして、心臓がトクトクと早鐘を打つ。

 はやる気持ちを抑え、カバンからチケットを取り出してみた。

「……いま触ってみても、よくわからないな」

「チケットを手にしたから落ち着いているのか、予想が外れて落ち着いているのか、区別のしようがないからな」

 自分の感情がわからなくなってしまう。

 ふと、真琴が取り出したチケットを見て、あることに気づく。

「真琴のチケット、今回のは金色なんだな。昨日は銀色だったのに」

「……当日券とかそういうことか?」

「うーん……たしかに、前日もらったチケットは金色で、当日のは銀色だね」

 色の違いは、それくらいの意味しかないのだろうか。


 授業中も、僕の頭はサーカスでいっぱいだった。

 彰くんは何度もサーカスに行っている。

 ということは、チケットも何度だって手にしている。

 何度も高ぶった感情を、冷まされたんだろうか。

 楽しいと思うたびに冷まされて。

 それを繰り返すうちに、ぼんやりしてしまったのだろうか。

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