第4話 守る義務

バスを降りて辺りを見渡すと店らしい店もなく、ほとんどが農家だった。

スマートフォンのマップで現在地を確認すると、目的地まで歩いて10分足らずだった。


スマートフォンに現れる自分の方向軸を何度も確認しながら歩き進めて行くと、犬の鳴き声がだんだん聞こえてくるようになった。しかも、単体ではなく複数の鳴き声であることが確認できる。

その鳴き声は目的地に近づくほどに大きくなっていき、辿り着いたその先は鳴き声の音現地だった。


山が削れた広大な土地に、錆びれたフェンスで1畳ほどの仕切られたスペースがいくつも連なって何十頭もの犬達が飼育されていた。決して清潔とは呼べない環境下の中、手入れも疎かな様々な犬種が吠えたくっている。1頭が鳴けば、もう1頭が鳴き、止まらない連鎖に身がたじろいだ。


「メラン…ここは」


「ここはメランが生まれた場所だ」


メランはあっさりと言ったが、俺は言葉が浮かばなかった。

メランの出身地?こんな汚いところが?


「正確に言うとあの奥のプレハブ小屋だ。あそこで生まれたばかりの我々を育ててるんだ」


世の中の見たくない、汚い部分を目の当たりにした気がして俺は目のやり場に困った。

たまにニュースで見るブリーダー崩壊、飼育放棄で、極悪な環境下で生きていた犬達を見た事があるが、目の前の現状はまさにそれだった。


「それで、あのプレハブ小屋の中の奥にオオカミがいるから、そいつを檻から出せ」


メランが何を言ってるのか理解出来なくて一瞬固まる。


オオカミガイルカラ、オリカラダセ。


「ちょ、ちょ…ちょっと待って!」


メランが行った事を何度も頭の中でリピートさせ、ようやく理解して出した俺の声は大いに裏返っていた。


「脱走させろってこと?しかも狼って絶滅したんじゃ…」


「脱走させるんじゃない。逃すんだ。絶滅なんかしてない。多くはないが、まだ生きている。だが、ここにいるオオカミは間もなくここのブリーダーに殺される。そうなっては世界がヤバい」


もう十分に意味が分からなかった。突如喋り出したと思ったら、こんな見知らぬ土地まで連れてこられて、俺に脱走の手引きをしろと。それに加え、「殺される」「世界がヤバい」のワードは俺の恐怖心を煽るには十二分だった。


「そんなことできる訳ないよっ」


俺は叫んではっきりと言い切った。

メランが何を考えているのか到底理解できなかった。

しかも馴染みある家庭用のペットではなく、狼を野に放てなんて。それがメランの言うように世界の命運がかかっているなんて、自分には責任が重すぎる。


「む、無理だよ。狼なんて…世界って…」


狼が本当に居たとしても、それによって世界が救われようとも、そんなこと、俺には出来ない。


メランはしばらく何も喋らなかったが


「わかった、メランが行く」


そう言って、入っているキャリーケースの入口を前足でガリガリと掻き始めた。


「メランをここから出せ」


俺は慌てふためき、持っていたキャリーケースを置いて膝を着き、ロックを外そうとした。

その瞬間、初めてメランと出会った時の記憶がフラッシュバックした。

全く同じだったのだ。このキャリーケースの中から今よりももっと小さな足で入口をカリカリしていた。俺が入口をそっと開けるとヨチヨチ足でメランは姿を現し、瞬時に俺は心を奪われたのだ。


俺はロックにかけた手を止めた。


「早く出せ、コシヌケ」


メランは相も変わらず罵声を浴びせたが、俺は気にもしなかった。


「…出さない、帰る」


俺は言って立ち上がり、そのままキャリーケースを持ち上げて元来た道を引き返した。


「何してるんだ。おい、ガイジ、クズ、マヌケ」


メランは他にも放送禁止用語を連発し、キャリーケースの中でぴょんぴょん跳ねている。

正直メランがこんなにも口が悪いなんて、想像しなかったしとてもショックに思う。だがそれ以上に大切な事を思い出したのだ。


「駄目だ、あそこは危険な場所かもしれない。狼だってどんなやつかも信用出来ない。そんな場所にメランと俺は行ってはいけないんだ。俺達に何かあったら…父さんと母さんは泣いて悲しむ。メランは俺のことどう思ってるかは分からないけど、やっぱりメランは俺にとって、大事なお姫様なんだ。俺にはメランを守る義務がある。守り方は自由だ」


そうだ、メランは俺達にとって大切な家族の1員だ。俺にとって、唯一無ニの掛け替えの無いお姫様のような存在なんだ。例え尊敬されてなくても、憎まれ口を叩かれても、メランに変わりはない。

初めて出会ったあの日から、この小さい生き物を守ると決めたんだ。世界がヤバい?俺は世界よりメランの方が大事だ。


俺は、足早に帰路を急いだ。

そんな俺に、メランは冷静に一喝する。


「分かったから、ちょっと止まれ!このスットコドッコイ」


俺はびっくりして、思わず足が固まった。


俺が静止したことを確認するとメランは続けた。


「メランを置け」


俺は恐る恐る、言われるがままに従った。


「メランを出して抱き上げろ」


俺が躊躇すると、メランは付け足した。


逃げないから。


俺は黙ってロックを外し、メランを自身の腕に抱き留めた。喉に噛み付かれるか、猫パンチならぬ犬パンチでも食らわされるかとぎゅっと目を閉じたが、不意に顔にくすぐったさを感じて俺は目を見開いた。


メランは俺の顔をぺろぺろと舐めていたのだ。俺を起こす時にいつもしてくれる、あの可愛らしい仕草だった。俺は拍子抜けした。


「…メランッ。もういいって…」


いつまでも止まないぺろぺろの嵐に俺が勘弁すると、ようやくメランは止めた。


そして。


「いいか、よく聞け」


メランは俺をじっと見つめて言った。


「メランはあそこで4兄弟の1匹として産まれた。でもメランだけ毛色が違っていたんだ。異端児として扱われたメランは廃棄の対象になった。ブリーダーにとっては、恥ずかしくてペットオークションに出せないんだ。変な病気を持ってるんじゃないかって、値が付かないらしい。そんな廃棄寸前のところをオオカミはメランを守ってくれたんだ。オオカミはこの繁殖場の番犬だったからな。守られてメランは成長し、オークションでおまけとして出品された。そして運よく落札されたんだ」


値は張らなかったけどな。とメランは悪態をついた。


ペットショップで売られているペット達に、そんなバックグラウンドがあるなんて俺は知らなかった。当然落札されずに、繁殖場に戻るワンコ達もいる。そんな事もメランは付け加えるが、俺はその後その仔達がどんな運命を辿るのかなんて考える余地もなかった。


「メランは他に『欠点』はなかったからな。本当に運がよかったんだ。頭に凹みがあってその大きさで売値が下がるヤツもいれば、デベソが大きかったりも大きく反映する。メランの犬種だと後ろ足が外れやすいと大きな『欠点』になるんだ」


そう言ってメランは自慢げに語るが、決して笑える事情ではない。動物保護のボランティアや愛護団体の名は誰でも知れたものだが、その積極性が身に染みて感じた。俺達人間がこの小さな命達をいかに食い物にし、粗末に扱っているか残念で仕方なかった。


「そうしてメランはペットショップで販売され、ママに見つけてもらい、パパとお前にも出会った。飯も食えて、おやつももらい、暖かい場所で寝られる。ドッグランで友達だってできた。メランが今、こうして幸せなのは、あのオオカミのお陰なんだ」


だから、オオカミは恐いヤツじゃない。メランの命の恩人だ。その恩人が今、命の危険に晒されている。助けに行きたい。


メランが言い終えると、俺は自分の身勝手さを恥ずかしく思い俯くしかなかった。


そんな俺にメランは、俺の鼻にガブリと噛み付く。


「!いっってぇっ!!」


俺は鼻を押さえて、悶絶した。


「分かったら、早く戻れ。このチンチクリン」


世界がどうなるかは、頭の隅に置いておくことにした。きっと俺がわかる次元ではないし、今はメランの命の恩人を助ける事を念頭に置いて、俺は繁殖場に向かって走り出した。

メランの話を聞いて、俺は狼の事を助けなくてはならない義務がある。

俺がメランと出会えたのは、その狼のお陰なのだから。

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