第168話 夕焼け
最後の回の攻撃を思う前に、まず九回の表の守備が問題である。
ここでもう一点取られたら、打撃力を積み重ねて点を取るのは難しい打順だけに、勝負は決まると言ってもいいだろう。
援護がなくて厳しいが、マウンドのユーキはくじけない。
人生にはもっと、本当にどうしようもないことが色々とある。
アフリカでそれを見てきたユーキのメンタルは、単に強いというよりは、異色である。
三人できっちりと終わらせた。
最後の攻撃に、全てを賭けてもらう。
なんといっても七番からの打順であると、ユーキにも絶対に回ってくるのだ。
ピッチングに専念するユーキであるが、実際にはバッティングの方も才能がある。
ただどうしてもこれまでは、ピッチングを優先してきた。
それでここまでの試合が出来ているのだから、それはそれで間違いではない。
国立はこの最終局面で、精神論を持ち出したりはしない。
だが相手の心理は考える。
「一点差で最終回、こちらは下位打線。ある程度球数を投げさせられている、相手のチームはどうする?」
おそらくはピッチャーが、我慢できないのではないか。
下位打線なのだから、さっさと片付けようとする誘惑に。
初球から安易に、ストライクを取りに来る可能性は高い。
そしてそのボールは、おそらくアウトローを中心にまとめてくるだろう。
変化球で入ってくるのは、おそらくピッチャーとしては避けたいのではないか。
確信とまではいかないが、それがピッチャー心理だろう。
ピッチャーが首を振ったら、その球は振らずに行方を見送り、判断の材料とする。
首を振らずに頷いたら、おそらくはアウトロー。
打席に立つのは七番の麻宮。
七番打者でやや成績は落ちるが、時々一発が打てるパワーがある。
打線の中では組み立てにくいが、一人で点をたたき出すことが出来る。
冬の間の課題はそれになるであろう。
まずこの場面では、指示にだけ従っていてほしい。
初球、頷いた鹿島は、アウトローにストレートを投げてきた。
予想通りの球すぎて、麻宮は肩に力が入る。
当たったボールは幸いにも、ぼてぼてのゴロでファールとなった。
フェアグラウンドに飛んでいたら、完全に内野ゴロアウトである。
参った。
国立は正しく相手の心理を理解していたのに、せっかくのチャンスを活かせなかった。
ここからは相手のバッテリーも、切り替えて考えてくるだろう。
具体的に何を打つか。
麻宮は割と、悪食でなんでも打ってしまう。
計算して打てないバッターなので、それが微妙な打率の低さと、決定力の低さにつながる。
だが意外性で打つこともあるのだ。
二球目はどうなるか。
さすがにここで、考えないわけにはいかない。
鹿島の球種はさほど多くもないのだが、緩急をつけられるだけでも、麻宮には打つのは難しい。
(決めた。ストレートだけを打つぞ)
下手に考えるよりも、その方がいいだろう。
ただしカットボールに近いようなボールが投げられたら、区別がつかずに打ってしまう。
それが麻宮のレベルである。
外を打ってきたのだから、次は当然内角か。
そう判断していたら、その通りに内角に来た。
だが遅い。チェンジアップだ。
低めに沈んでいったので、ボールである。
打つ気があれば打てたな、とは麻宮も考える。
アウトローが三球目に来た。
これは打つと判断して振りにいったが、外に逃げていく。
スライダーの区別がついておらず、空振りでツーストライク。
いよいよ追い詰められた。
ストレートを打つ。
それ以外ならカット。
しかし投げられたのはストレートであったが、外に外れていた。
振りに行って内野ゴロとなる。
ワンナウト。
敗北が迫ってきている。
次の打者には、おそらく初球のアウトローはないと思う。
国立はそれを伝達させた。
八番の宮下も、麻宮とは似たようなタイプである。
バッティング技術自体が悪いわけではないのだが、球を絞って打ったり、相手の配球を読むことが苦手だ。
だから初球までは、ベンチから予測してやる。
外角に投げられたら、おそらくそれはボール球。
内角をえぐってくる球が来たら、それを狙い打った方がいい。
それにしてもこの展開なら当たり前だが、トーチバもエースを替えない。
白富東もそうであるが、エースと二番手との差は、まだしもトーチバの方が少ないともいえる。
それでも明確な実力差はあるので、決勝は捨ててでも全力で勝ちにきている。
鹿島もまたユーキと同じように、球威は落ちていない。
このまま最後まで投げるのは間違いないだろう。
ここで宮下がなんとか出てくれないと、あとはもうラストバッターのユーキになる。
ユーキに代打を送っても、期待値は変わらないだろうし、同点どまりなら10回の表は誰が投げるのか。
ここはエースに託すしかない。
ピッチングだけではなく、バッティングに関してもだ。
泰然とした姿は崩さないが、国立の内面は焦りでいっぱいである。
打撃が壊滅しているというわけではないが、下位打線。
一点差とはいっても、既にワンナウト。
ネクストバッターサークルに入ったユーキは、完全に打つ気満々である。
そのユーキに対しても、国立は配球を読んで伝える。
宮下に対しても、国立の予想通りの球が来た。
内角の球を強く引っ張ったが、これがサードライナー。
打球の強さは、充分にヒットになるレベルであったのに。
運もあまり良くない。
この最後の一人に、ピッチャーのユーキが回ってしまうことが。
ただ、国立もここは予想がしやすい。
ユーキは当初、かなり入れ込んでいた。
だが国立の助言を聞いて、肩の力は抜けている。
最後の最後でエース対決。
エース対決とは、そういう意味ではないのだが。
初球は、そこそこの外に外す。
ピッチャーはピッチャーの内角には投げにくいのだ。
そのボールを、ユーキは見逃した。
完全に見切ったような、見送り方であった。
出塁狙いか、とバッテリーは判断する。
ピッチャーが強引に打ちにきても、そうそう打てるものではない。
だが当然甘く見るわけにもいかず、しっかりと力の入ったボールで、正面からねじ伏せよう。
多少のコントロールの甘さは、球威で押し通す。
初球の見送り方で、相手がそう判断するのも、おかしなことではなかった。
ピッチャーにバッティングまで求めるのは、酷なことだと言っていい。
たとえ素質の一番優れた選手がピッチャーになるのだとしても、まずピッチャーは投げることが仕事である。
だからラストバッターになっているのだ。
低めにストレートを。内角か外角かは考えない。
パワーで勝負しに来るだろうことは、やはり国立は読んでいた。
そして念のために長打警戒で、低めを要求することも分かっていた。
あとはそれがちゃんと投げられるかということと、ユーキがそれを打てるかということ。
ホームランを打つパワーだけは、ユーキにはあるのだ。
ピッチャーの心理を読む。
あと一人だ。そして明日は決勝戦。
早く終わらせて、さっさと寝たい。
いやその前にシャワーを浴びるか。
そんなことを考えていたりしたら、一発浴びればそこで崩れるかもしれない。
打てるのか。
ユーキが出たら、次は九堂。
打率と出塁率は高いが、長打はあまり打てていない。
現実的には二番の塩野まで回らないと、点は入らないであろう。
ユーキがホームランでも打たない限りは。
そして低めに、ストレートが投げられた。
ユーキはこれを待っていた。
全力でもって、これを叩く。
バッティング練習だって、ちゃんとしているユーキであるのだ。
打球はレフト方向に飛んだ。
距離は足りるか、ユーキには分からない。
だが間違いなくこれまでで、一番の感触であった。
空気の中を弧を描いて飛んだボールは、そのままスタンドの中に入った。
九回ツーアウトから同点ホームラン。
最後の最後で、試合は振り出しに戻った。
九堂は内野ゴロに倒れて、スリーアウト。
試合は延長戦にもつれこむ。
国立としてはこの九回の裏で、一気に勝負を決めたかった。
だがそれは求めすぎだ。
まだ試合が終わらないということだけで、感謝すべきなのだろう。
両チーム、エースは延長になっても続投。
そして両チームの監督は、特にトーチバの場合は、継投のタイミングを考えていかないといけない。
白富東はエースとそれ以外の差が大きいので、もうユーキに託すしかない。
だが念のために、耕作には肩を作らせ始める。
この先延長が、どこまで続くのか分からない。
そして短いイニングであれば、耕作の珍しいピッチングフォームも活かせるだろう。
名門私立に、王者が追いついた。
試合の盛り上がりは最高潮に達していた。
ただ、ドラマは思ったようには進まない。
10回の表、トーチバの攻撃。
その初球から、ユーキのコントロールが乱れていた。
外目にミットを構えていると、外に大きく外れてしまう。
コントロールのいいユーキには珍しい。
ただ国立には悪い予感がした。
先頭打者にストレートのフォアボール。
この異常事態に、すぐさま国立は伝令を出す。
まさかとは思うが、予想は悪い方向に当たるものだ。
ホームランを打った時の手の痺れが、右手から取れない。
投げることに特化していたユーキの右腕に、スイングでの負荷がかかったわけだ。
打ったのもスピードのあるストレート。
ユーキは冷静に、己の状態を分析する。
ひどい怪我ではない。それは分かっている。
だが掌の毛細血管が、ある程度断裂しているのではないか。
指先の腹あたりは大丈夫なのだが、それ以外の全体が痺れている。
それは純粋に、コントロールの低下という事象で現れている。
ピッチャーは交代するしかない。
国立はマウンドに、耕作を送り出す。
ランナーがいる状態で、継投の選手にマウンドを譲ってしまう。
ユーキはそういったことにあまりこだわりはないが、勝率が格別に下がったのが確かである。
ピッチャー交代がアナウンスされ、そして耕作がマウンドに向かう。
ユーキはボールを耕作に渡し、心からの言葉をかけた。
「ランナーがいる状態で投げるんだから、点を取られても僕の責任だ」
手の痺れはあったのだ。
だから投球練習は軽くした。
ちゃんとその時点で確かめておけば、まだしもマシな状況で、耕作にチェンジすることも出来ただろうに。
この試合が後攻めで良かった、とベンチの国立は考える。
たとえ点を取られても、裏に逆転する機会があるからだ。
その分ピッチャーは、わずかだが気楽に投げられる。
まだ試合は終わっていないのだ。
だが苦しいのは確かだ。
俊足の一番が一塁ランナーである。
打席には二番がいて、そこからクリーンナップにつながる。
ノーアウトだ。
耕作の普段のピッチング内容からすると、ぎりぎり一点を取られずに終わることが出来るだろうか。
三番と四番とは勝負をしたくない。
どうにかしてまず、二番をアウトにしたい。
そしたら三番と四番を敬遠するか。
ただそうやってもワンナウト満塁となる。
五番には代打が出て、そこからまた守備の選手に交代している。
トーチバの戦力の、底が見えない。
国立の指示としても、三番と四番はゾーンで勝負せず、歩かせてもいいというもの。
この二番でダブルプレイを取れれば、かなり大きいのだが。
しかしここで、送りバントをしてくるのがトーチバである。
最初からバントの構えに、塩谷は迷う。
耕作のスピードと変化球では、バントを失敗させることは難しい。
なのでランナーを進めないためには、ボールを外す必要がある。
ベンチの指示としては、バントをさせて構わない。
ただしこれが偽装で、バスターなどをしてくる可能性もある。
しっかりと送らせて、しっかりとアウトをもらう。
次の三番と四番からが勝負だ。
絶対的なピンチの場面。
だが白富東も、この裏は上位打線から。
そこでどうにかして打って、試合を決めるしかない。
そのためにもここでは、一点までに失点を抑えたい。
延長10回。
おそらくこの攻防で、勝敗は決まる。
決まらなければ、おそらく白富東が負ける。
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