第153話 勝利の確立
野球とは確率のスポーツである。
打率、出塁率、防御率などなど、確率によって成績が決められる。
監督は様々なパターンの中で、失点の確率を小さくし、得点の確率を大きくしなければいけない。
ツーアウト二塁と、ツーアウト三塁では、得点の確率は全く違う。
キャッチャーのパスボールのみならず、ピッチャーのボークでさえも得点となり、そしてサヨナラとなる甲子園の決勝。
二塁ならまだ内野安打では、ホームには帰ってこれない。
だが三塁なら、ファーストがセーフになるならゴロゴーでホームに帰ってこれるかもしれない。
あとはクリーンヒットが点になる可能性はどうなっているか。
二塁ランナーが一気にホームにまで戻ってこようとすると、外野前への強い打球だと、むしろバックホームでアウトになる可能性がある。
だが三塁ランナーであれば、絶対に外野ゴロアウトなどはない。
様々な確率から、ランナーは二塁よりも三塁にいるほうが、得点の可能性は高い。
それは当たり前のことだが、当たり前のことを達成するのに、どういう手段を使うかが監督の采配なのだ。
長谷という足のスペシャリストを使って、送りバントを使ってランナーを進めた。
その状況からなら、クリーンヒットを打てば帰れると、あちらは勝手に想像した。だがそのわずかな油断が、三塁への盗塁を成功させた。
リスクは高いが、成功したときの相手へのダメージは大きい。
これでもう蝦夷農産は、内野安打でもパスボールでも、サヨナラの状況が無数に出てきた。
そしてさらに、初球がボールになって、石黒である。
春の大会はスタメンであり、結果もそれなりに残していた石黒。
守備力も花沢とそうは変わらず、ならばバッティングで優れた石黒を使う方がいいのでは、と国立と話したこともあった。
花沢は控えのピッチャーの中でも、アンダースローという珍しい種類であったのだ。
セカンドで使うのではなく、ピッチャーとして使う。
石黒と違って花沢は、とても長打は狙える選手ではなかった。
だが、やはりこれで正解であった。
甲子園でも打点がついて、そしてこの九回の裏の状況で、代打として送り出せた。
万一延長に入ったとしても、そのままセカンドに入れれば済む。
そして10回には一人出れば悟に回る。
しかしそれはあくまでも、保険として考えているルート。
ここで決める。
石黒を代打として、スタメンから外したのは、そのメンタルの問題だ。
石黒はアメリカ育ちのスポーツ選手らしく、プレッシャーに強かったのだ。
スタメンに入っていた頃は、塩崎ではなく石黒が六番に入っていた。
いぶし銀の地味な小技を、楽しそうに使える選手。
スタメンから外したのは、こういう時に一点を取るためだ。
そしてそんな秦野の思惑は知らなくても、石黒は楽しんでいた。
この試合は乱打戦にはなっていたが、おかげで逆にこれまでの得点はあまり目立たなかった。
ここで打ってサヨナラにすれば、間違いなく今日のヒーローは自分だ。
甲子園の決勝のこの舞台で、自分が打って勝つ。
一年生の時はスタンドから見ていたが、あの最高の舞台に自分もいたいと思ったものだ。
そして二年生の時は、最後に破れるのをベンチから見ていた。
今、間違いなく主人公は自分だ。
ヒット一本打てば勝ち。
長谷が三塁まで行ったことで、外野は定位置で、内野はやや深く守る。
内野安打でも、その間に長谷が走ってきてサヨナラだ。
ボールワンのこの状況から、蝦夷農産はどう攻めてくるか。
どうせ一点取られれば終わりの状況なのだから、安易にストライクは取りに来ない。
歩かせてラストバッター勝負にしても、アウトに出来るベースが増える、ぐらいに考えるかもしれない。
(好球必打)
バッターとしては、難しい球を打つ必要はない。
スプリットとストレートはどうにか見極めて、あとのボールは完全に無視する。
狙うのはストレート。
ストレート!
高めに外れた球を振っていったが、真後ろに飛んでファール。
たとえボールでも打てると思ったが、そう上手くはいかなかった。
続いてはスプリットを使ってきて、低めに外れる。
次にはスライダー。コースも難しいところなので、見逃しておく。
コールはストライクで、これでツーツーとなった。
石黒は打席を外す。
ボール球を一個投げられるので、ゾーンから外れていく変化球なども使うだろう。
守備位置を見てから、サインを出す。
そのサインに秦野は応えて、長谷もちゃんと気付いたらしい。
単なる大振りではなく、小さく鋭く素振りを三度。
そして打席に入る。
今の素振りをどう読んだか?
コンパクトに鋭く振り抜く姿に、外野はやや前進。
内野の守備位置はやや深めのままで、強い打球でも絶対に捕るという意思が分かる。
あちらのベンチからも指示が出て、微妙にポジションを修正した。
全て読み通り。
あとは関口が何を投げてくるか。
(高めのボール球が一番嫌だな)
そう考える石黒に投げてきたのは、真ん中やや外め。
スプリットと判断して、石黒はバットを出した。
打つのではなく、当てる。
深く守っているサードの方向へ。
石黒はプッシュバントやバスターなども得意だが、この狙い済ました感じに転がすセーフティバントが、一番得意なのだ。
長谷が突っ込んでくる。こちらは大丈夫だ。
蝦夷農産はピッチャーとサードが反応してボールを捕りに向かうが、遅い。
生まれてきた中で、一番全力の疾走。
あまり意味はないと言われている、ヘッドスライディングで一塁へ。
大歓声の中でコールが聞こえない。
見上げると、一塁塁審は、手を横に広げていた。
ホームに滑り込んだ長谷は、その視線を一塁方向に向けた。
投げられたボールがファーストミットに収まるより早く、石黒は滑り込んだはずだ。
塁審がセーフのコールと共に手を広げ、そして長谷は両手を突き上げた。
セーフティバントによる内野安打。
ツーアウトからスクイズはないというので、ツーストライクまで追い詰めて、完全にその選択はないと考えたのか。
石黒はとにかく、何かを狙うのが得意だった。
ピッチャーをやらせればコントロールはよかったし、キャッチボールもしっかりと胸元に投げてくる。
そしてプッシュバントやバスターなどで、前進してきた内野の間を抜く練習もしていた。
蝦夷農産は当然知らなかっただろう。
ランナーがいる状況で、一番意味もなく凡退することが少ないバッター。
それが石黒であったのだ。
ベンチからも飛び出したメンバーたちが、長谷と石黒をバンバンと叩く。
特に宇垣と上山は、抱え込むように石黒を高く上げた。
「お~い、そろそろ整列しろ~」
小さな声で秦野は声をかけるが、とても聞こえたものではない。
白富東、三度目の夏の甲子園の制覇。
それは今までの二回とは違う、10-9という打撃戦での勝利となった。
だがおおよそは、秦野の計算通り。
殴り合って勝つということも、ユーキをクローザーとして使うのも。
最後には長谷と石黒の起用で、決勝点となった。
ただ予定通りに行き過ぎて、逆に間違っているのではないかとも思った。
采配はあくまでも結果論。
そして結果からすれば、確実にこの采配は大正解であったのだ。
馬や龍といった主力で殴り合いながら、最後は香車と桂馬を使って勝つ。
主戦力の運用は正しく、そして最後には遊兵となった戦力の投入。
まあユーキをもう一イニング早く使えば、もっと楽に勝てたのかもしれない。
しかし他にどんな仮定をしても、勝利したという現実の前には説得力がない。
整列して礼。
そして最後の校歌が流れていく。
おそらく来年、決勝で流れる校歌は違うものだろう。
秦野の白富東での最後の仕事が終わった。
歓喜にあふれるスタンドに、選手たちが向かって行く。
そしてまるで殴りあうようにお互いの背中を叩き、ベンチに戻ってくる。
(終わったな……)
泥だらけの選手たちとハイタッチして、首に手を回したり、腰を掴まれて持ち上げられたり。
キャプテン宮武が大優勝旗を持ち、選手たちにもメダルがかけられていく。
優勝校と準優勝校が、グラウンドを一周する。
泣いている者もいれば、笑っている者もいる。
だがその涙も笑顔も、どちらも素晴らしいものだ。
蝦夷農産の選手たちも、顔をぐちゃぐちゃにする者もいるが、胸を張って堂々と歩いていく。
栄冠。
それは間違いなく、グラウンドで戦った選手たちのものだ。
前の二回とは違う、自分が采配していたという手応えがあった決勝。
それでもやはり、主役は選手たちなのだ。
ベンチの前に立ち、それを見守る秦野。
隣の国立とは、しっかりと握手をかわした。
長いインタビューから解放されて、白富東の一行は宿舎に戻る。
はしゃぎすぎるなよ、と言った秦野は、国立とビールで乾杯である。
有終の美だ。
このチームで、最後の甲子園。
勝利だけを目指していたが、いざそれが果たされてしまうと、ひたすら疲労感が出てくる。
この大会だけではなく、白富東にやってきてからの全て。
それが終わったのだ。
そんな秦野を訪れた者がいる。
「お疲れ様でした。まだ引継ぎなどはあるでしょうが、これでひとまずは契約完了ですね」
金髪の小悪魔はにこにこと笑いながら、封筒を差し出した。
「優勝ボーナス1000万円、確認してください」
中には小切手が入ってあった。額面は言葉の通りである。
秦野の次の任地は決まっている。
都内のシニアチームの監督兼コーチとして、とりあえずは三年というものだ。
だがこれは麻薬だ。
高校野球の監督。
おそらくまた、高校のチームの監督をやりたくなるのだろう。
いまはとにかく、肩から降ろした荷物に、ほっと息をつくのみであるが。
「これから、このチームへの援助はどうするんだ?」
「私の実験としては、もうこれで充分かなとは思いますけどね。ユーキのいる間はそこそこ見ておくつもりですが」
「来年までか……」
その先は大変だな、と秦野は思う。
白富東の戦力は、まだ三年生が引退しても、甲子園を目指せるレベルは残っている。
だが頂点を狙うには、圧倒的にピッチャーが足りない。
秦野にしても今年は、ユーキがいなければどうだったかと思うぐらいなのだ。
それに一年生にも、県内トップクラスと言えるピッチャーはいないのだ。
「でも国立さんは、甲子園を目指すのでしょう?」
「もちろん。全力を尽くしますよ」
三里にいた頃とは違うのだ。
白富東という絶対的なチームがなくなれば、群雄割拠の千葉県になる。
この戦国千葉を勝ち抜いていくのは、一人か二人のスーパースターではなく、チームでの力をもってする。
国立の頭の中では既に、新チームの構想は出来ているのだ。
セイバーは国立に改めて名刺を渡す。
彼女は何種類かの名刺を持っているが、直通電話の番号を記した、特別製のものである。
「何かありましたらご連絡を。無償かどうかはともかく、ご相談には乗らせていただきます」
「分かりました。ありがとうございます」
国立はセイバーの、小さな体に改めて驚く。
こんな小さな女性が、この数年間の高校野球を、そして大学やプロを引っかきまわしたのか。
間違いなくこの才能も、衆に抜けたものであった。
頭を下げて去っていくセイバーに、国立は手の中の名刺に目を落とす。
「とんでもなく頼りになるが、損得勘定は厳しい女だからな。見た目にはだまされないこった」
「分かっているつもりです」
そして大切にしまう。
夏の甲子園が終わった。
まだ国体があって、すぐに秋の大会があって、引退した三年生も進路の問題などがある。
特に厄介なのはドラフトだと、もう関係のない秦野がにやにやと笑う。
「監督はいつまでこちらに?」
「夏休み中だな。それが終われば東京だ」
しばらくはシニアに携わるが、やがてまた高校野球の世界に戻ってくるだろう。
その時は国立と対決することがあるのだろうか。
だが、これでひとまずは終わったのだ。
秦野の知る限りでは、これで終わり。
白富東の、奇跡のような軌跡は、手を離れた。
やがてまたどこかで、交わることもあるのだろう。
野球をやっている限り、甲子園がある限り。
誰かにとっての軌跡は、いつまでも続いていく。
×××
これにて本編終了。余章があります。
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